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山崎哲
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茶房ドラマを書く
作品紹介
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01物干し竿 岩波三樹緒

茶房ドラマを書く/作品紹介
<石喰ひ日記>  一夜  小泉八重子

(2007年山崎賞最優秀賞)

この作品はあくまでもフィクションであることをお断りしておきます。
                         
 電車の通るたび、疾風にさらわれそうになる駅だった。黄色いラインの間は人ひとりがすれ違うにも命がけの狭さで、それでも皆涼しい顔で急いでいる。簡素な金属パイプの腰掛が一つ。プラスティックの椅子はさすがに二列は並ばない。吹きっさらしから屋根とガラス窓の覆いに逃げ込むとようやく人心地を取り戻す有様である。この危ない駅も、妙子の緩みを防ぐ役目を果せはしない。階段を下りると、高架下のソフトクリームの看板が目にとまり、足がとまった。九月二十日というのに地熱がむっと込み上げる。
「逢うわけじゃないんだから」
 そこに幼さを残したような男の顔が見え隠れする。高架下によくもこれだけあてどない看板がちまちまと出揃ったものだ。一駅先の繁華街はこの場末に後光の一筋さえくれようとしないのか。アーチ型に明るくくりぬかれた南口商店街の閑散は最果ての病院までまっしぐらに続いている。屯し続けるタクシーから胡散臭げに妙子を見上げるのはいつもながらの顔面のひきつれた男。広い幹線道路は赤信号でも悠々と渡れた。
 春日野道商店街の手前にあるコンビニで、大きいボトル一本と、のみやすいサイズ三本を求める。離婚して一年目の秋を迎えた。妙子はしばらくは凌げる金を手にしたが、途端にしわくなった。還暦目前で、年金の額はぐっと減る。仕事先のあてがあるわけではない。財布は薄くなり、あれだけぎっしりと詰っていた小銭は跡形もない。
「六百五十八円? えーと、待ってよ」
 十円玉を素早く数え、足りないと辺り構わず舌打ちし、奥の奥まで一円玉を掻き出し、千円札は高価株券のように扱う。
「札を出すか……。ああ! ちょっと待って。百円足すから、五百円玉頂戴」
 妙子のこれまでの来歴を鑑みるとレジで手間取るだけでも充分の転落である。しらけた若い女店員から擦れた音のやかましいポリ袋を受取り、自動扉を開けて店を出る。商店街は八百屋に毛の生えたようなスーパーが潰れてから、昼間もなにやら物騒な歯欠け道となった。右の店に灯りがともっていると決って左の店にシャッターがおりている。空き地となった広場は透明ビニールの囲いに覆われ、子供の絵が貼られている。前の椅子に腰掛けた老婆は通行人をじっと見続けていた。
 歯欠け道の天井から大きな垂れ幕がぶらさがっている。
 紫に夢という字を染め抜いたもの。
 紅に匠という字。
藍に鮮、緑に菜。
黄色に楽、とき色に愛。
見上げながら残暑の道を歩く。
どの店も盛り沢山に安っぽく、妙子の生活を脅かすものではない。
「ひもとボタン・まからんや」「運動靴、スニーカー・ありがたや」「カジュアル&ポシェット・サンタ」「アンダーギー・おばあ」「和洋酒、酒、米・さかなやさん」。
 みすぼらしさに見惚れてる内に、大三のマンション、ポロニアン春日野道に来ていた。二階の窓は暗い。薄ぼんやりと見える白いジャケットは知り合って一ト月目の今年の五月、五百五十円で買った。簾ジーンズはそれよりも高くて千百円。最後に寝たのは八月二十六日だった。息子のような年の大三に
「もう、あんたとのセックスにお金払うのはやめるわ」
 といい、
「それでも五千円でしてほしいことがあるんよ」
 と重ねると、暗い部屋で頷く。
「私、あんたのお尻に指入れたいんわ」
「そんなら、もう五千円」
 ふっかけてきた。
「そういうの売春いうんと違うん?」
 畳みかけて口封じする。
「売春とちゃうわ、合意や」
「売春や、売春! 売春! 売春!」
 勝ち誇ったように妙子は言い募る。大三はふてくされる。在日韓国人で身障者二級。三十七歳で、路上ラッパーをやりながら生活保護を受けている男。不能の夫から離れて、若さと見てくれのよさにまいったのは一分とかからないことだった。事情を聞いてなお離れられなくなっている。
 つぼみのような肛門に紅差指をゆるく差し入れながら、陰茎をしゃぶると、妙子の肩に置かれた大三のかかとに力がこもる。いとしい。せがまれると突き放し、それでも絶え間なく濡らし、そそると、いきなり起き上がって腹が痛いといった。扉をあけたままの姿を覗くと、臭いからあっち行ってと追っ払われた。戻って気を取り直した大三は自らを励ますように声をかける。
「さあ、ちゃっちゃとやるで……、ちゃっちゃっちゃーとすまそ」
 妙子は網タイツをやぶり、迎える。高くかかげられた脚の間は濡れそぼり、命中の舳先を勿体ぶった様子でひねられながら、かすれた声をあげる。向きを変えるたびに大三は
「ええか? こうか? ん? どうや? こうか?」
 と大衆演劇顔負けの華やぎを醸し出す。しばらく酔う内に激しい腰使いになってからが長く、あらわに腰にバスタオルを当て、十分は助かったと胸をなでおろす。
 金を受け取ると、布団を抱えて大三はそっけなく、脚が痛いと動かなくなった。大腿部骨頭壊死と上腕部骨頭壊死を抱え、おまけに頭蓋骨陥没骨折で、左眼がみえないまま、黒
目があがりっぱなしとなっている。斜視とみえるが、治療法はない模様だ。
「帰ってや、もう。もう、来んといてや」
 すげなく追い返された。あれからまだ半月とたっていない。実家の大事な用にかこつけて、神戸にやって来て、羽より軽い心でここまで飛んできた。いとしい男の棲む窓を見上げている自分に耐えられず妙子は割塚温泉の角を曲った。
「らっしゃい」
 午後五時に暖簾をあげたお好み焼き屋のマスターこうちゃんが迎えた。油くさい店内は十人ほど入るカウンターで、知り合ってすぐに二人で来た。灰色のパーカーをはおった大三はその頃の妙子には高校生みたいに初々しくうつったものだ。
 鉄板はほの暖かく、妙子はこうちゃんの顔を正面からみられない。
「横浜でしたっけ、お住い?」
「いいえ、藤沢です」
 はるばる来た言い訳のように
「母の調子が悪くてね」
 言うと、
「はあ……」
 と気の抜けた返事に反って恥をかく。
「サーモンサラダ」
 腹がすいてるわけではない。一人っきりの間の悪さにしきりに客が待たれた。このカウンターで見せつけるようにしなだれかかっていたのがうんと昔に思える。年配の男が入ってきた。ん? と妙子の顔を覗くと、
「そうや、この人は、芸能人と一緒にいはった人や」
 という。妙子は身の縮む思いであった。路上ラッパーの大三を大袈裟に持ち上げながら、「事件の陰に女ありや」
 と冷かした客だった。
「最近は来てへんで、あの人」
 お節介と思いながら胸をなでおろす。若い女たちに取り囲まれると豪語するのを嘘やと鼻先であしらうものの穏やかではなかった。婆さんが若い女に妬いてもしゃあないやろと毒づかれるのも骨身にこたえていた。
「大将、ビールと牛刺し」
 客は注文しながら勝手知ったようにテレビをつける。サーモンサラダは玉葱スライスとグリーンの細枝の旨味がきいて、あっという間に平らげた。さすがに神鋼病院の台所を立ち上げただけの腕前はあると妙子は感心する。こうちゃんの白髪交りの青黒い顔を、自分と同じ年頃と間違え、憤然とされたことがあった。大三といくつも違わない年という。「僕かて波乱万丈でっせ」と、大三の身の上を承知で比べてるかのように笑った。
「男と女が別れられへんとき……」
 いきなりテレビの声が入ってきた。笑福亭仁鶴がしょぼついた顔で画面にあらわれる。
「どっちかがひいてるんです。糸をね……」
 水をのむ。来るつもりのない場所に来た。一刻も早くここを抜けたい。抜けてどこへ。
「御馳走様、おいくら?」
「有難う、六百四円です!」
 出ようとすると、
「もう、お帰りですか? あちらに」
 すかさず聞いてくる。
「はい」
「ちょっと寄ったって下さいよ」
 あいまいな笑みを漏らしてこうちゃんはいう。二人が来たのは二度しかない。
「何かいうてました、彼?」
 少しでも色ある返事がほしい。
「いいえ、何も……」
 妙子もあいまいな笑みで返すしかない。時刻は午後六時。再び、二駅先の実家に戻る気はない。今回の帰郷で死にかけの母親の財産を巡って姉と争った。離婚した妙子にとって家も資産も年金もある姉は大金持ちだ。始末屋で、計数に明るい姉がこれまで母親の資産を明らかにしなかったことに妙子は怒った。おとつい目の前に株券と通帳と宝石を見せられ、頭がくらくらするような説明を受けた。実家のマンションはいずれ貸すと相談もなく決めていく。更に資産管理に弁護士が入り、姉とともに書類に印鑑を捺したところで、疲労の極に達し三宮の駅で別れた。今日は帰らないからと啖呵をきってここまで来た。
 宿のあてがあるわけではない。
 もう一度、もし灯りがついてるならと踵をかえす。
 商店街の向うから大三が歩いて来はしないかと肝を冷しながらようやく辿りつく。見上げた部屋に灯る薄青いテレビの光。ほっと胸をなでおろす。
「いるんやあ……」
 吸い込まれるように階段を上がる。見かけは瀟洒なタイル張りだが、一日中日のささないワンルーム。ガスメーターの奥に消火器。インターホーンを押す。返事はない。ノックする。しんとした気配だけを伝える扉。開く。鍵を閉めない習いの男の部屋。
「誰?」
 ようやく声がした。
「妙子」
「……入り」
 蛍光灯をつけたのは妙子だった。窓際に寄せたベッドパッドの上で短くした髪をオールバックにした大三が、眩しそうな顔で迎えた。黒い下着で寝ているのは相変らずだった。
「びっくりしたあ、電気のおばちゃんか思うた」
「来てん……」
 追い返されるとばかり思いつめていた妙子は膝の力が抜け、その場にへたり込んだ。
「ああ、よう寝たわあ。テレビつけっ放しでよう眠れたわあ:
 頭をふってから、妙子をみつめた。
「このくっそばばあが……」
 早速馴染みの罵倒が始まったと思い、ショルダーを下ろす。
「ばばあ、もう、ええ加減うっとうしいわあ……、ほんま、もうあきらめてほしいわあ」
 帰郷してみれば、最早ふるさとはここにしかないと妙子は胸を突かれる。
「まあ、ちょっと休ませてよ。今日はもう実家に泊れへんねん。限界やねん、もう」
 半月ぶりの部屋の真ん中には小便タンクと書かれた大きなペットボトルが空で放り投げられている。スイミンヤクとマジックで書かれた茶色の瓶を拾い、妙子は大三を見上げた。
「あほなことしたらあかんよ、あんた」
「ちゃうねん、それビオフェルミンや。路上パフォーマンス用」
 確かにどこかで見たことのある瓶ではあった。念のため粒を試しに噛み締める。
「♪ 何かが落ちてきたあ〜、何かが、上から落ちてきたあ〜」
 髪を整えながらいきなり唄い出す大三に
「なにが?」
 と極めて非情な声が出た。お互い莫迦にしあいながら、こうしていられることが幸せにも思える。
「これ今はやってるねん、知らん? プロの唄やで」
 ディップをつけ、髪の先を細らせて、きめたつもりになって妙子に聞く。
「なあ、めっちゃええ男やろ、俺? 芸能人にみえる?」
「うん、みえるよ」
「な、おばあも俺のことあきらめきれんのやろ」
「そやね。何や知らんけど終らへんね、あたしら」
「♪ 終りのないパズル、探した夜〜」
 果てしなく気が抜ける。
「御飯たべる?」
「うん」
 そのときだけもっちりと甘い声で粘りつく。この夏買い与えた背中に鯉の跳ね上がる綿シャツを着て、大三はついてきた。
「何たべたい?」
「魚やな」
 こうちゃんを通り過ぎ、幹線道路を赤信号で渡る内にも、脚が痛い、タクシー乗ろうというのをやっと駅までひっぱってくる。やがて疾風の電車が二人をさらい、御影まで運んだ。
 御影駅を出る。阪急の高架下を過ぎた所で早くも大三が不平を漏らす。
「ほんまにその店あるん? その上何もない、真っ暗やで」
 バス停から手招きして、ようやくガーデン御影の二階まで連れていく。西村屋の支店、花御影の店内は閑散としていた。五千円のコースとビールを頼む。仲居が前菜を持って来ると、大三は柾目の通った割り箸で辛抱たまらず
「あー、かいいわっ、かいっ!」
 と背中と頭を掻く。不作法には慣れているつもりでも、世間を狭くしていくこの男とはもう金輪際という気になる。注意も届かぬと諦めつつ、出てくるのは労りの言葉。
「皮膚が弱いからねえ、あんた」
 妙子は鱧、大三は秋刀魚の前菜。追加の酒を持ってきた仲居に、
「これ、缶詰とちゃうの? このサンマ」
「缶詰とは……」
「まずいわ! な!」
 とあくまでも言いたい放題を通すつもりらしい。松阪肉の鉄板焼きで〆たときには、妙子の記憶にある花御影は遠く霞んでいた。デザートを持ってきた仲居が、
「ようお越し頂いてましたね、お母様お元気ですか?」
 というのも現実と思えず、お世辞やろとクスクス嗤う大三だけが生きている。勘定一万
八千百円。御影までスニーカーの踵を潰した音をひきずる大三を従え、券売機まで来た。三十頃の女が手間取っている。ふんぞり返った大三の目が尖ってくる。眉間が苛々と波打ち、妙子は一つしかない機械を恨んだ。
「早う、もう、タクシーでいこや!」
「どこよ?」
「ええて、もう行くで」
 阪急タクシーの運転手に辛うじて近距離の
「六甲!」
 と叫ぶ。カラオケ屋のあてがあったが、大三は婆の店は婆ばっかりやろとにべもなく、自分が馴染みのJR六甲道高架下へと走らせる。七年間親子四人、この六甲道で三千万円のマンションに住んでいたと問わず語りにいう大三に、妙子は自分が生れてから中学までを駅前で過したことをいえずにいる。この町の浜で今でも細々続いている父の会社の面目を潰すなと幼い頃から躾けられた。
 三年前に離婚した大三にはリリカという娘と、太郎という息子がいる。
 ロータリーに止まると、若いラッパー達が踊っていた。よう! 大声をかけられると、笑いながら大三に手をふる。プーケットという店の扉をおずおずと開ける大三はこれまでとは別人のようである。懇意だというマスターは妙子と同年配の前が禿げ上がった男で、カウンターに座っていた。薄い紺の背広にごつい銀の時計だけが目立ち、若い客を仕切っている。若い女が二人にお絞りを渡した。しばらくぶりの挨拶を交わし、ひとしきり大三と話したマスターが
「ハタチも年下の、よろしいな、お姉さま。入れますか?」
 と妙子にカラオケを促す。大三はケツメイシなどの若い唄をやかましくうたう。妙子は目の前の女に引け目を感じ、音程が狂った。
「♪ あのひ〜とが好きやねんっ」
 情けなく裏返った声が出て、唄は途切れた。腹が立ち、やるせない。若い女を手招きし、耳元で囁いた。
「私、隣に座ってるこの子養ってるねん」
 若い女はわけのわかった笑みを浮かべ、妙子の手をとり、上下にゆすった。同年配のような親しみがわき、「そして神戸」をのびのびとうたえた。そのリズムにあわせ、大三は上半身をグラインドして運動がわりにしている。
 暗くなった店内で大三がうたった。
「♪ シェリー 俺は転がり続けてこんなとこに辿り着いた
   シェリー 俺ははぐれ者だからおまえみたいにうまく笑えやしない
   シェリー いつになれば俺は這い上がれるのだろう
   シェリー どこに行けば俺は辿り着けるのだろう
   シェリー 俺はうたう 愛すべきものすべてに」
 意地悪な妙子もしんみりした。
「ナイスですぅ」
 と若い女にほめられ、恥じらう大三。
「若ぶってる、俺?」
 と照れるのが忌々しい。
「お勘定、九千六百円ですぅ」
 妙子は度肝を抜かれた。たかが一時間ちょっといただけではないかと言いたくなるのへ、大三が
「この六百円て気に入らへんわ。この端数何とかならへん?」
 いうと、はいーと女は気安く引き下がった。むしゃくしゃした。外に出てタクシーを拾う。
「ねえ、こないだ、いったあそこ、何ていうたっけ。あそこでないと払えないわ。ねえ、何ていったっけ」
 妙子はホテルに五千円しか払うつもりがない。老運転手に面当てのようにいう。
「ねえ、運転手さん、一泊五千円のホテル知りません? ラブホなんですけど」
 白髪のひからびた運転手は目をピクピクしただけで無言で前をみる。あてもなく走るのに大三がたまらず
「恥ずかしいやろ、そんなこというて! 三宮!」
 と喚く。春日野道の先に止まる。妙子の頭には勘定が渦巻き、疲労困憊していた。とりあえず眠りたい。大三の後ろについていく。
「あった! ここやろ」
 という声に安堵する。安洋菓子屋のような趣のホテルには犬がいっぱい描かれていた。小さな扉をくぐると、顔を隠したレジで、女が差し出す皿に、六千円を払う。冷蔵庫からトマトジュースとフルーツジュースを取り出して二階へ上る。廊下を歩きながら、
「安いとこは何か臭いな」
 大三はいう。二〇三号室には畳敷があり、ほっとする。卓袱台に一万円を取り出し、渡す。その上に大三のトマトジュースの缶。妙子にとっては何のための一万円か自分でも見当がつかない。早速はだかになった大三はジャクジーに直行し、頭を洗い、さっぱりと出てくる。その躰がガラスのように透けてみえた。触るなという光がまばゆい。妙子は熱い湯をたした。小さなテレビ画面に、AVがうつる。嬉しそうな顔で女の尻を叩きながら、後ろからつるむ小男。二人はよく似た顔だ。夫婦だろうかと湯の中でぼんやり思って目を閉じる。
 風呂からあがると、大三がベッドから
「な、もう千円」
 早速ねだる。
「なんで?」
「朝飯、コンビニで食べたいねん」
「一万でいくでしょう」
「いけへんて、なあ、千円」
 二人は初めからこうしたみみちい小競り合いに明け暮れた。知り合って一ト月目には市民病院の帰りにホテルのヴァイキングを奢った。神戸に滞在中の五日後、腹減った小遣いと電話でせびる大三に
「こないだのヴァイキングでがっぽり取った砂糖と、バターとチーズもあるでしょうが。だからいうてんのに、あのとき見栄張らんともっととっとかな。しょうがない、砂糖水でもすすってなさい」
 と突き放した。離婚して天涯孤独の道をいく五十九歳の妙子。壊れに壊れ、国の厄介になって生きる三十七歳の大三。性と金が二人の接点だ。だが妙子にはもう大三の躰に払う金はない。ならばこれが最後の一夜となるのか。千円をせしめた大三は妙子のそばで安らかな寝息をたて横たわる。
 うつらうつらする内、大三の起き上がる気配に目をさます。午前二時。
「俺、帰るわ」
「そう」
 寝巻きを放り投げ、着替えた大三を見送る。ふすまの手前で
「ほなな」
 と差し出された唇。乾いたスポンジのような唇。四月後半から二十日間の同棲中に、大三はキスを拒み始めた。おどけたように口を引き結んでみせた。根性を決めて「売ろう」というのか。光を放つ裸体より厳しい。
 六百円。カラオケまけてくれて有難う。
 千円。朝飯かっぱらったね。
 四百円。差し引きチャラにするつもりのキスか?
 甘いな。思いっきり咬みつこうとして妙子はやはり乾いたキスを二回返すしかなかった。大三は消えた。ほっと眠りにつく。
 翌朝九時。追加料金もなくレジをくぐり抜けるとき、女に聞く。
「こっから近い駅てどこでしょうかね」
「新神戸です」
「へえ!」
「出られて左に曲って下さい。すぐの十字路を山に向って真っ直ぐ」
「はい、有難う」
 昼のようにぎらつく日差しの中、妙子は歩き始める。ホテルTOYO。透き通った黄色いライターをしっかりと握りしめた。 


平成19年10月18日