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山崎哲
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茶房ドラマを書く
作品紹介
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01物干し竿 岩波三樹緒

茶房ドラマを書く/作品紹介
<石喰ひ日記>  御影へ  小泉八重子

(2007年山崎賞最優秀賞)

この作品はあくまでもフィクションであることをお断りしておきます。                           

 阪急御影は、三宮梅田間では最も開発が遅れた駅であった。それはここに棲む豪族たちの霊と無関係ではない。昔近辺は、最果ての寒村に降り立ったような風情だった。改札の西側に平べったいあばら家のようなすし屋があった。道の下に半ば埋った状態で、その前を通る人々を睨みながら佇んでいた。後の店は殆ど記憶にない。古めかしい洋菓子屋があったような気はする。山の手は豪邸の森であった。
 駅前開発がすすんだとわかったのは、痴呆の父を病院に連れていったときだから、およそ十年前になろうか。ビルの一角にある皮膚科の待合室で、気に入りの看護婦の名を幾度もよぶ彼をそのままにしておき、周囲に恥をかいた。ビルが立つ土地は長姉正子の同級生のものである。還暦過ぎで両親を抱えてる男だ。
 改札を出たと同時に脳幹をやられそうな生霊はなりをひそめた。
 今回の寄港で、御影にばかり足が向うのは、私が離婚によって家をなくしたからだ。ようやく家ばかり目立つこの街を楽しめるようになった。なぜか豪邸が空き家にみえる。実際にも時代はそのように動いているのだろう。以前の昏さが薄まった。
 鉄路にそって東へと抜ける広い通りがある。南は藪笹の生い茂る荒廃した雑木林である。果して人が住んでいるのか明らかではない。塀沿いに回ると香雪美術館であるとわかる。朝日新聞社主村山家である。中に入ると紅葉の奥に青磁色の屋根をもつ洋館と、雨戸を閉め切ったままの日本家屋がみえる。今は親戚の人が住んでいるという。
 そこを出て更に東へと行く。南に見飽きた瓦屋根の花崗岩の丸い石垣がある。昔は東西に抜ける沿線の広い通りはなく、南から北へ細々と抜ける道があった。江南小学校から倉本佐代子の家まで続く道だ。狭い踏み切りに来て、すぐに目に付くのが赤い前垂れをつけた地蔵である。西側にある墓場の手前で、倉本家の目印のように今も立っている。
 同学年の倉本佐代子は母方の遠い親戚である。木曾御嵩にある本陣、中川家を祖にもつ。中川は万延期には和宮妃御留めをしたこともあり、商いは店先に商品を並べるような形態ではなく、大名等の旅籠を初めとした物流の総元締めという形であったのではないかと思われる。
 私の母雪子はその本家筋の流れをくむ。佐代子の母春子は分家筋の出だ。分家は明治十年の創業である。どのような経緯をへて分家したのかは明らかではない。
 佐代子と私は四代前が家を同じくした。三代前の私の曽祖父中川俊三が本陣主のとき、本家は分家の五倍はあろうかという規模であった。俊三は衆議院議員を務めるほどの活動家であったが、その嫡男が御嵩の芸者にいれあげ、ライバルと張り合う騒動となった。結果敗北し、銃弾を腹にぶち込み、自殺をはかったが未遂に終り、白痴になって生き延びた。
 俊三は息子のために本陣の前に大きな家を拵え、妻まであてがった。敬虔なクリスチャンであった妻の横で、息子は夏にはうちわを扇ぎながらへらへらと笑い、「たかあ、たかあ」と配偶者の名をよんだという。雪子はその声が無気味で忘れられなかったという。これが本陣本家没落のもとである。雪子にとってこの男は、母親恒子の兄、即ち伯父という関係にあたる。
 一方分家に迎えた、白痴の本陣息子とほぼ同期の養子は秀才で、目端が利いた。金融業を初めとして、繭、木材、綿布などを取り扱い、後年ハーレー等アメリカ車の輸入販売、名古屋への借家街の経営で一躍名をなした。総合商社の先駆けとなったのだ。名を静という。佐代子の祖父である。
 本家は白痴となった主。分家は名のとおり静かなる実力者の主。
 この明暗の差は大きい。没落本家と成り上り分家。私が幼少当時、佐代子の母春子は、雪子に対して尊大だった。私は佐代子と比較されることが多かった。
 溝をあけられたという実感はそのときも今もある。雪子と春子の嫁ぎ先の家の格も違った。雪子は私を遊ばせるときには、佐代子の家なら安心と送り出すのであった。だが、最後まで気安い感情は持てなかった。召抱えられているという感は否めなかった。
 踏み切りを渡る。
 墓はこんなに広かったのか。村のようにひなびた感じがいい。脇道には酒屋があり、側溝を流れる水は澄み渡り、紅葉と羊歯にいろどられる。水車が回る。この辺りは貧しい人々の集落があった。ベニヤでうちつけられただけの掘っ立て小屋が並び、豪邸よりなぜか風景に溶け込んでいた。
 佐代子の家によばれるとき、決ってついてくるのが叶相子だった。浅黒い膚の大きな瞳をもつ、どこか怯えたような風情の相子は佐代子とはお神酒徳利でそばを離れたことがない。叶家は宮内庁御用達の清酒会社の一族である。
 この二人といると気詰まりだった。大人しすぎるので重い。一般の人々からみれば、江南小学校は令嬢令息の通う名門だっただろう。だがその中にも厳しい階級があった。この学校では自宅に帰る生徒を一人では帰さない。帰る方向によって組み分けした。西宮組、芦屋組、六甲組というように。それぞれ豊かな家に帰る。六甲組は比較的豊かではない。女子の間では社宅に住む私がトップだったくらいだろう。社宅といっても社長だから敷地五百坪はある。山の手にはやはりそのくらいの私有土地があり、山頂には別荘があった。そんな私からみても佐代子はまだ雲の上の存在だった。
 いつとはなく話は決っている。今日は佐代子の家に行くのだと。それはおそらく母親同士の話がついているということだ。だから私の気は重い。御影組の男の子、元ちゃん、公ちゃん、西さんも一緒に細いけもの道を歩く。踏み切りを渡れば、もう戻れない気がした。私は一人遊びの好きな変った子で、誰の家にも殊更よんでほしくないのだった。
 御影山手にある佐代子の家はいかめしい門を入って石段をのぼった上の瀟洒な洋館だった。中は応接間と居間で、六角に張り出した窓からバルコニーと枯芝生がみえた。庭の上に椅子を置き、著名な鉄鋼マンである佐代子の祖父がパイプをくゆらせていた。佐代子の父はその跡継ぎで、温和な性格のカメラが好きな男だった。
 今、道なりに山へと向うのだが、佐代子の家が見当らない。最早売りに出たのか。それらしき門構えも記憶とは異なり判断に迷う。エリートと結婚した佐代子は現在東京の尾山台におり、息子と娘がいる。夫をなくした春子は近くに住んで一人暮しという。
 佐代子の家には大きな防空壕があった。門前にガレージのような形で残っていたように記憶する。玄関は洋風で暗かった。入ると廊下の奥で寝たきりになった佐代子の祖母の頭が垣間みられた。厳しい姑が長生きで苦労したと春子はいっていた。看護婦が常駐しており、女中の数も我が家より多かった。
 佐代子とどのような遊びをしたのか殆ど記憶にないのだが、ソファで三人でテレビをみていた。音を消す。それは私のアイディアだった。西洋のドラマ番組だった。音を消したので内容はわからない。勝手な台詞を、表情に照らし合わせ、日本語でいう。居間に一人の女がいるというドラマの映像だった。彼女が耳を塞いで、突然叫び始める。
「きゃあ! 大変! 火事だわ」
 と私がいう。どこにも火の手はあがっていない。やがて放心したような表情で女がうっとりと窓をみつめる。
「それにしても遅いわね、消防車」
 私がいう。画面とのギャップに二人は笑う。ギャップが大きいほど受ける。それにも飽きて、私が他にうつろうとすると、佐代子はもっととせがむ。私はそれを断れないのだった。
 前髪をプラスティックの飾り留めであげた額の美しい佐代子は、普段は虫も殺さぬような風情である。ほっそりとした中背で、黒白の細かい千鳥格子のプリーツスカートに灰色のブレザーという制服がよく似合った。然し、内実はひどく神経質で負けん気だった。どこか私を見下している気配があるのは春子の影響であろう。
 テレビ遊びに飽きて外に出る。庭は広いので、駆け回っていると息が切れた。すると佐代子は私に向き直り、厳しい表情でいった。
「何よ、たあ坊、このくらいのことではあはあ言って」
 気おされた。癪に障った。言い返す言葉が見当たらない。
 佐代子は小学校の同学年対抗相撲試合女子の部で横綱を張った。中背でほっそりした佐代子が……と驚いた雪子は、その日欠席していた私に伝えた。
 十八人の女子だが、世間に名の通った金持ちの子女がいる。いずれも剣のあるボスたちだ。仕返しを怖れてわざと負ける者がいてもおかしくはない。その中の横綱ということは佐代子の誇りと芯の強さを物語っていた。
 庭の垣根越しに隣の家の貧しい娘が顔を出した。ざんばら髪の背の低い少女だ。私たちは近づく。しばらく話をしてる間に、娘は家になる金柑の実をふくらんだポケットに一つまた二つと入れ足した。娘の家は平屋で、佐代子の家とは比較にもならない。
「私も遊びに入れてほしいわ」
 娘はいった。媚のない真っ直ぐな目。平べったい顔。そのとき佐代子は般若のような顔で私を振り返った。まるでその言葉を発したのが私であるかのように。
 何かとうまい弁解で乗り切ると佐代子は垣根を去った。そっと後ろを振り向くと、娘が手をつっこんだままのポケットから金柑の汁が滲み出ている。はっとした。
 般若顔は、常に私の頭からはなれなかった。
 穏やかそうにみえても、目は常にまぶしく外界をにらんでいる。口元をやや受け口にする顔は油断ならぬ威容だった。私の学年の女子は手に負えないという評判だった。ボス同士の争いは周りの苛めをひきおこし、全くまとまりがなかった。途中入学する転校生は優等生であればあるだけ被害をこうむった。その中でいじめられなかったというだけで既に一つのステータスだった。
 そのわけはわからない。
 離れ猿であった私には窺い知ることのできないことだ。
 いじめから外れることのできた人々。具体的にその名を連ねるとおぼろげながら佐代子の本質に迫れるかもしれない。
 吉本良子。背が低い。かわいいし、勉強はよくできたが、検便の便を高学年になるまで持って来なかったという武勇伝を残す。井原由美。同じく背が低くかわいい。小悪魔。勉強はからっきしだが、先生の膝の上に乗るなど天性の媚で怒りから免れる。谷松子。背はふつう。ふんわりとした妖精の雰囲気。手先が器用で手早い。何事もノンシャランにかわすが、性格は意外にも頑固である。
 こう並べてもなおわからない。
 唯、僥倖としか思えない。長谷村工務店の娘、市子。野上証券の娘、美子。Tデパートの娘、ひな子。この三巨頭をおさえる財が佐代子の家にあったことは確かだった。そして大きな力にさからわないことも幸いしたと思う。だがもっともいじめから逃れさせたのはあの般若面だったと思う。
 やがて佐代子の家から帰るときがくる。いつも暗くなる前の時刻であった。
 中学入学後、佐代子と私はますますその立場の落差が大きくなった。
 小学校時代家庭教師のテコ入れのおかげで保っていた成績が下落し、母の怒りをかった。また初めての成績表を、醜い慣わしに従って、小学校の担任にみせにいくと、担任は校長室のソファに腰掛けて渋面を作りながら、
「佐代ちゃんでももう少しいい成績なのに」
 といった。私の父が理事をしていた関係上、同様のことが父の耳にも入った。雪子の悪い油に火を注ぐ結果になり、中学時代の私はススだらけの煙突から出た、欠食児童であった。咳き込むたびに周囲の嗤いをかう日々。虐待に継ぐ虐待。雪子の怒りが私の人生を台無しにした。
 暗記を間違えると雑巾が顔にぶつけられた。「悔しかったら覚えなさい」。そういう雪子はくたびれ果てた顔を手で覆い、脚をひろげてソファに座っていた。だが外面はよかった。頬が盛り上がった笑顔が私には別人に思えた。笑顔は春子にも向けられた。一方の春子はいつも笑顔のない暗い顔で、眉に皺を寄せ、人を値踏みするように上目使いにみる癖があった。そのまま、唇を突き出し、雪子の肩に掌を近づけ、
「ゆっこさん、ああたねえ……」
 と諭すような口調でよびかける。気が細かいだけに物事の核心をつくところがあった。雪子は春子を俗っぽいと評した。笑顔の裏では負けん気だったのだ。また雪子は私に自らの人の好さを語っていた。あれは何だったのだろう。祖母は悪人で、雪子は善人。だが実際に私の顔に雑巾をぶつけるのは善人である。おかしなことに私も彼女をただ人の好いお母さんとばかり思い続けていた。
 ヒステリーがやまったのは私が高校に入ってからだった。おそらくあきらめたのだろう。
 一方佐代子とて安泰な中高時代を送っていたわけではない。厳しい採点に泣いて、皺だらけの答案用紙を友達と涙ながらにみつめていた。春子も家庭では厳しかったことが想像できる。佐代子は幼時よりずっと表面は穏和になり、話し方もゆったりとささやくように優しくなった。それだけ抑圧は強かったのだろう。同居していた私の祖母は噂した。
「さあちゃんは」
 佐代子のことを皆はそうよんだ。このそよ風が吹きぬけるような呼び名が、表面上の佐代子にはふさわしかった。
「きついことを優しい言葉で言うねんてねえ」
 家でも学校でも、奴隷のような位置にいる私にとってはその噂は不快でしかなかった。それでも佐代子も奴隷かもしれない、そんな思いがかすめた。
 年頃になると見合い話が舞い込んでくるようになった私たちにもはっきりと個性が出てきた。同じ大学で、佐代子は英文科、私は国文科にすすんだ。私は既に世の中に対して捨て鉢なあきらめがあった。いきたくない大学に通わせられているというのが実感で、友達も少ない。まわりは華やかすぎた。そこでは悩んだり怒ったりするより、お洒落することが尊ばれた。活気のない学生たちには何の魅力もなかった。私の周りには暗い雲気が立ちこめていただろう。その中で佐代子ははるか遠くで生きやすそうにみえた。
 ある日私は国文科の学生と梅田の町を歩いていた。その友達は背の低いかわいい女で、よくもてた。雲雀ヶ丘の豊かな家のひとり娘だった。しばらく地下街を歩いていると、華やかな佐代子の一団と巡り会った。佐代子は友達とは懇意らしく、私の方を見ず、ずっとしゃべり続ける。不自然なまでに無視する態度は怪訝でもあり、くやしくもあった。そんな中で、中高時代の思い出がよみがえった。
「さあちゃんと私は遠い親戚なんよ」
 みんなの前で私がいうと、佐代子は明らかに不快な表情を示したのだ。そのとき私は劣等生だったので、それ以上の説明ははばかられた。佐代子にとって私はそこにいてはならない者なのだろうと思った。
 二十五歳でも嫁き遅れといわれた時代だった。家族でタクシーに乗って三宮に向っていたとき、丁度青谷あたりの歩道で、佐代子が白いワンピースを着て花を抱えているのが目にとまった。眉根に皺を寄せた不機嫌そうな顔である。泣きそうとも、叫びそうともみえた。長姉の正子がいった。
「さあちゃんもああやってお稽古してるんやから」
 私にもせよというのだろうと思った。稽古事は結婚前に幾つかした。身に入らず、長続きしたのは華道だけだった。やがて佐代子は結婚し、二年後に私も二十七歳で結婚することになった。そのとき、佐代子のウェディングドレスが丁度私の寸法とあうので雪子と二人で御影の家に借りにいったことがある。
 佐代子は産後で、男の子を生んだばかりだった。写真でみる夫はがっしりした体格の好感のもてる男で、頼りがいがありそうにみえた。佐代子の顔から般若は薄まった。
 私は礼にともってきた手作りのクッキーを佐代子に手渡した。透明の丸い容器に入れ、セロテープをぐるぐる巻きにしたそれに手間取りながら佐代子は
「たあ坊、これはどうやって開けたらいいのでせうか?」
 と旧式の言葉遣いでおどけた。
 手伝いの人が佐代子の息子啓介を抱いて入ってきた。佐代子は抱きとめ、頬ずりしながら唇を寄せ、
「けいたん、あぁるるるるるるるるるるぅ」
 とあやす。それは男との閨での声音をあけすけに感じさせた。この人には敵わないと思った。佐代子の幸せははたの者まで伝わり、ウェディングドレスは借り手が多いと聞いた。それが佐代子の家を訪れた最後となった。
 あれから三十年。
 佐代子の息子は三十歳になった。細々と映画監督の道を目指していると聞いた。娘は幼い内に私立有名校に入り、羨望の的だった。
「うちは私だけが本読まないの。後は凄い本読みばっかりよ。旦那も娘も息子も。わけわからない本ばっかり読んでるわ」
 クラス会で嬉しそうに語っていた佐代子の姿を思い出す。
 いくら探しても佐代子の御影の家はない。坂道を下る。蘇州園を抜け、暗みを増した深田池を通る。私の中の家霊が崩れると、御影は光をたたえる美しい住宅街となる。駅前に出た。ウィンドウを眺める。ツイードのスーツが目に入った。こういう服装とは縁遠い暮しになっているなあと思う。下町のワゴンにのったバーゲン品ばかり漁っているこの頃だ。
「たあ坊じゃないの?」
 幼い頃の仇名に振り向くと叶相子がいた。白いダスターコートを上品に着こなしている。幼い頃のおびえた感じがなくなり、きりっとした顔がきれいだ。
「やっぱりそうね。いやあ、こっちに帰ってたの?」
 嬉しそうに微笑んでる。戸惑った。
「うんうん、まあね」
「時間あるの? その隣でお茶でもどう?」
「そうね」
 喫茶店に入る。相子がいった。
「さあちゃんの息子、死んだのよ」
 その瞬間笑いが込み上げたのは惑乱だった。
「たあ坊のとこにも葉書いってると思うわ。喪中につきっていうのが」
「……あれがそうだったの? 何かしらと思った」
 雪子のマンションのテーブルに置かれた葉書を思い出した。それは春子からのもので、喪中の理由がわからずにいた。春子の夫が亡くなったのはとおの昔であるのにと怪訝に思ったのだ。少しずつ衝撃がひろがる。
「……なんで死んだの?」
「知らない。わからないけど、十一月だったんだって。昨日電話あった。何か事故とかっていってた」
 私の中で、中川家の男たちがあらわれる。雪子の兄は二十七歳で川に投身自殺した。慶應大学に通っていたが学業が身に入らず、田舎の畑を耕して、何か事業を始めようとしていたらしい。雪子の伯父は先にも書いた芸者に入れあげて自殺未遂をひきおこした男だ。これはすべて中川家本家の男だ。今、分家筋の男が若くして死んだ。私には彼らの死が決して無縁なものに感じられなかった。彼らを死に追いやるものは私にも接近していたものであった。そしてこれからも。
「啓君のことは母から聞いていた」
 私はいった。雪子によると、佐代子の息子啓介は中学のときアメリカ留学を志望し、書類審査にうかったが、父親の反対で断念した。また高校を卒業してからは作家を志望してフランスを目指したが、それも断念した。大学卒業後は就職を果し、働きながら映画監督の道を歩んでいた。週末がその活動にあてられた。
 啓介の茨の道が想像された。ひそかに頑張ってほしいと願っていたのだが。
「うん、私もさあちゃんから聞いていた」
 相子がいった。
「啓君、よく新宿で映画撮ってたんだって」
 初めて聞く話だった。
「そう……」
「『新宿悶絶旅行』とかね、『障害者ロッカー』っていう映画撮ってたって。インディーズの自主制作みたいなんらしいけど」
「胸が痛いね」
 私はうそのようなことを言った。どこにも悲しさはない。今の感情をとりたてていえば、丁度父が逝ったときに感じた昏い祭の高揚があるだけだ。若かったが、啓介は逝くべくして逝ったといえなくもない。日のあたらない川が流れる。佐代子に似た大きな目の、なで肩の男の子だったと聞く。
 雨が降っていた。私は途中で落したマフラーが気になった。席を立てないでいる。薄紅色のマフラーはもう使えなくなっているだろうか。そのことばかりが頭を占めていた。佐代子の家の近くにある小さな神社に、おそらくは置き忘れたのだろうが。


平成19年3月22日