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山崎哲
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茶房ドラマを書く
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01物干し竿 岩波三樹緒

茶房ドラマを書く/作品紹介
<戯曲>  美しい星(7)  野口忠男

3幕1場


時 1962年5月25日 夕暮れ
所 東京大病院の病棟の個室


舞台は、三方(上手、下手、奥)を白い壁で仕切られた部屋で、冷たく、森閑としている。
患者用のベッドが一脚、中央に置かれていて、大杉重一郎が寝かされている。
ベッドの奥のところに小物入れの低い戸棚があり、その上に、見舞いにもらった草花を生けた花瓶等が見られる。
寝ている重一郎の両脇には一雄と暁子が折り畳みの椅子に腰をおろして重一郎の様子を見守っている。
ベッドは、患者が楽に起き上がって座る姿勢が取れるような仕掛になっている。
下手の白壁には夕陽を彩る窓枠がくっきりと影を落として、時刻が夕暮れであることを示している。
この部屋の出入りは上手の手前の袖口だけである。
見舞い客も宇宙友朋会の会員たちもみな引き上げたあと、重一郎は客との話疲れでうつらうつらしていたが、急に痙攣的に身を起こして叫ぶ。

重一郎  また来たな!

彼の目は、目の前に恐ろしいものを認めたかのように宙を睨む。
一雄と暁子は今にも立ち上がろうとする重一郎をあわててベッドに押さえつける。

一雄  お父さん、しっかりして下さい。誰も来てはいませんよ。僕と暁子だけですよ。
暁子  もう御見舞いの方も会員の方もみんな引き取られましたわ。
重一郎  (安堵のため息をついて)そうか。
あの仙台の三人が又やってきたような気がしたが、そうか。お前たちだけか。(安心して再び眠りに落ちる)
暁子  おとう様はあの人たちのことをとても気になさっているのね。
一雄  僕が悪かったんだ。あんな連中に家へ行く道の地図を描いて渡したりしたんだから……。
重一郎  (ふと目を覚ます)おや、一雄、お前来ていたのか。黒木先生のところ忙しいのだろう。
一雄  先生は新党結成で忙しいんだが、僕にはもう手伝う仕事はないんだ。
はっきり言って、僕は先生から見捨てられたんだ。
重一郎  ……。
一雄  お父さんに、こんなこと話さなくていいのかも知れないけど、仙台の羽黒助教授ね、あの人が黒木先生が作る新党の顧問になるらしいよ。新聞に出ていたよ。
重一郎  それでお前はこれからどうするつもりだね。
一雄  僕はまだ学生だから、自分の持ち場に戻るさ。
せいぜい大学の図書館で退屈な国際法の勉強でもするよ。
重一郎  そうか。いいだろう。
一雄  じゃあ、また来るからね。お大事に。
重一郎  (去ろうとする一雄に)いいかね、一雄、何時も言っていることだが凡人らしく振る舞うんだよ。いやが上にも凡庸らしく。
それが人に優れた人間の義務でもあり、またわれわれの唯一の自衛の手段なのだから。
一雄  (激してくる感情を押さえて)分かっているよ。もうその言葉は聞きあきたよ。

一雄は父の目から逃れるようにして、ベッドを離れ入り口の近く(上手手前)に来て、声をあげずに激しく泣く。
彼はいつの間にか背後に来ている妹の影に気づかない。
驚いて振り向いた彼は、涙の顔をまともに妹に見せてしまう。
暁子は兄の涙をしっかり拒む顔つきで立っている。

暁子  泣いているのね……。分かった。やっぱり癌だったんだわ。
おとう様の手術のあとで、お兄さん、お医者様と二人だけで何かお話していたわね。あの時言われたのでしょう。おとう様の病気は胃潰瘍ではなくて癌なのだと。
一雄  ちがうよ……。(目のやり場に困りながら、やがて)先生は、本人はもちろん、お母さんにも暁子にも黙っているようにって言ったんだ。
お父さんは胃癌で、手術でお腹を開いた時、手の施しようのない状態なので、そのまま閉じてしまったんだそうだ。だから、もう手遅れで、永い事はないんだ。
暁子  そりゃあおかあ様には言うべきじゃないわ。混乱して、一等悪い解決を考え出すに決まってる。
一雄  君がそれだけ分かっていればいい。本人には勿論だよ。知らせたら大変な事になる。分かっているね。

暁子は、涙を流さず、室内のこの世の気配を伺うかのような表情を浮かべて、

暁子  去年の十一月羅漢山の夜明けに、おかあ様が何と言ったか覚えていて、「私たちは人間じゃないんだからね。
それを片時も忘れないようにしなくては」って。
一雄  しかし、お父さんの体は人間の体だぞ。
お父さんの病気は人間の病気だぞ。お父さんの痛みは人間の痛みだぞ。
それをどうして……。
暁子  (澄んだ声で)でもおとう様の死は、人間の死じゃありません。
私たちはそれを考えなくてはいけないわ。
おかあ様には黙っているわ。いいこと、お兄さんも話さないで。
一雄  (うなずく)じゃあ、お父さん頼むよ。
俺うちへ帰って、明日はお母さんをよこすからな。(退場)

暁子は眠っている父の許に戻る。
暫くすると重一郎は暁子の名を呼び「小便、小便」と尿意を訴える。
暁子は小戸棚の中から尿瓶を出して重一郎に与える。
用が終わると暁子はその尿瓶を持って外へ出る。そして洗い終わって綺麗になった瓶をもって戻ってくる。

重一郎  すまないね。そんな体で働いてくれて。
あまり疲れすぎてはいけないよ……。お父さんが治ったら、何でも欲しいものを買ってあげよう……。いつ治るかなあ……。
今のは手術の後の苦しみで、おいおい薄らいでゆくと思うと凌ぎやすい……。
今まではあんまり忙しくすごしたから、ひとつ治ったら、みんなで旅行に出たり芝居を見たりして暫く遊ぼうよ……。

短い独白のうちに三度も言われた「治る」という言葉が暁子を怒らせる。

暁子  このお花もう新しいのと代えた方がいいわね。

小戸棚の上の草花を花瓶から手荒く抜き取り、ゴミ入れに投げ入れる。
夕陽が落ちて、あたり一帯が暗くなる。
暁子が壁際のスイッチを 入れると、重一郎のベッドを中心とした照明が入る。

重一郎  (卑屈なほどの声で)すまないが、背中をさすっておくれ。

暁子は、怒ったような顔で、べっどを起こして、父を座らせ、背中をゆっくりとさすってやる。
そして父の目が前を向いていて、自分の方に向けられていないのを幸いに、かねて聞こうと思っていたことを口に出してみる。

暁子  おとう様、病院に入院する一週間ほど前にご旅行なさったでしょう。
あれ金沢じゃなかったの。(鋭く)竹宮さんに会いに行ったんでしょう。
重一郎  (深いため息を一つして)そう、金沢へ竹宮に会いに行ったんだ。
暁子  それで会えたの。
重一郎  (首を振る)いいや、会えなかった。
暁子  ……。              
重一郎  (断定するように)竹宮はやっぱり金星人で、お前を置いて金星へ還ってしまったんだ。
暁子  (父の目をのぞきこむ)おとう様、本当のことを仰言って。
重一郎  (娘の視線を避けて)本当だよ。お父さんは嘘は言わない。
暁子  本当に?
重一郎  そうさ。本当だよ。
暁子  本当のことを仰言って。(更に鋭く)いたわりはやめてね、おとう様。
私は勿論本当だと思おうとしたわ。そしてもしそれが本当なら、すべては夢になり、どんな背理も許され、私の妊娠は処女懐胎になるんだわ。
誰がそれを否定することができるでしょう。
だから私は自分の夢の筋道に従って、自分で決め、自分で宣言したわ、この子は処女懐胎の子供だって。それがお腹の子に現実性を与える唯一の道だったんだわ。
おとう様は、暗黙のうちに、私の決心をお悟りになり、わざわざ金沢までいらしって、私の証言の裏付けをして下さった。
でもそれが、おとう様が私の夢を一緒に生き、私の論理と一体になるためでなくて、ただのいたわりから出た事だとしたら、許せないことですわ。
それは本当に恐ろしい裏切りで、真実を言うよりももっと悪い事なのだわ。
是が非でも、私はお腹の子供を、現実の子供にしなければならなかったんです。
そのためには、もし金星人同士のロマンスが本当なら、すべては夢で一貫して、お腹の子は純粋に夢と観念で紡がれた織物になり、そこからその子の、父からも母からも負い目を負わない、純潔そのものの現実性が滑り出す筈だったんですわ。
それこそは金星人の成り立ちで、金星の純潔とは、そういう創造を意味する筈だったんだわ。
でもおとう様の言葉にからまるいたわりは、私の心には反対の暗い仮定が生まれて、昼も夜も疼く悩みのたねになるのだわ。
もしあれが嘘なら、すべては低い現実の事件になり、お腹の子だけが私の哀れな卑しい夢になり、生まれる子供は、現実性を失って、一生捨てられた母親の夢の蛹になり、地球人の宿命を背負うことになるんですわ。
地球人の宿命とは宇宙の私生児の宿命で、つまり一場の悪い汚れた夢に過ぎないのですものね。
私の心は、悪い仮定と良い仮定のあいだをさまよい、そのうちに子供の胎動が感じられ、やがて生まれる日も近づくのを思うと、日増しに耐える力も弱ってくるでしょう。
ですからご病気のおとう様に、こんなことを申し上げる気にもなったんです。もし嘘だったら、嘘だと仰言って。そうしたら私には別の強さが生まれるかもしれないの。

感動した父親は、体を娘の方へ向けて、娘の手を求めて、それを握る。

重一郎  わかったよ。さぞ苦しいことだろうね。私が悪かった。許しておくれ。
暁子  じゃあ、嘘だったのね。
竹宮さんはただの地球人で、知らない間に私の体は汚されたのね。

父親は背や胸を走る鈍痛に耐えて、永いこと答をためらっている。

重一郎  暁子、じゃあ率直に言おう。
実のところ私にも、嘘とも本当ともわからないのだ。
金沢へ行った……。探しても探しても居なかった。それだけのことだ……。
確かにあの男は嘘つきだった。しかし地球人とも金星人とも、まだメドはつきかねるのだ……。
暁子  まだそんないたわりを!(鞭打つ様な声になる)
そんな物事をあいまいにしてしまう地球人みたいな仰言り方はいや!
二重に巧まれた虚偽が天から私にふりかかって、その複雑なからくりを見極めようと、何ヵ月も私が苦しんだ末に、おとう様は地球人の父親のように「娘や、我慢おし、これも宿命だ」と仰言るだけなんだわ。
虚偽の矢が、自分の誰よりも愛した恋人から放たれ、又その上に、自分のたった一人のおとう様から放たれては、私はどうやって身を守ったらいいのか分かりません。
おとう様はあの人の虚偽を救ったかも知れませんけれど、そんなことで私の夢は救われはしません。おとう様はあの人の虚偽を別の虚偽で覆おうとなさるべきではないし、おとう様のお考えで私の夢におもねろうとなさるべきでもありません。
おとう様は真実だけを仰言るべきです。そうしたら、私に選択の権利が与えられ、私は真実に刃向かって夢を信じることもできれば、又それを擲つこともできる筈です。
宇宙人は真実に仮面をかぶさなければ真実の顔を恐ろしくて見られないほど弱い生き物ではありません。
私たちは人間と違って、真実を餌にして夢を見ることも出来るんだわ。
そうではなくて? いたわりの嘘の中に一瞬間でも生きることは、自分の夢を蝕むことになるんだわ。それが怖しい結果を引き起こす、怖しい結果を。
つまり、私たちは人間になってしまうのです。
重一郎  よくわかる。よくわかるよ、暁子。
私だって可愛い金星の娘を、人間に堕そうなどという気持ちはないのだよ。
しかし落ち着いて考えてごらん。
真実から目を覆われていることの幸福は、いかにも人間特有の憐れっぽい幸福だが、今われわれが問題にしている虚偽や真実は、もっと微妙な性質のものなんだよ。
たとえばわれわれが世間に向かって、宇宙人であることを隠しているのは、真実がこちら側にあって、人間どもには虚偽の仮面を見せておかなければならぬからだ。
人間同士はそうではない。あいつらはえてして虚偽を隠すために真実の仮面を被るのだ。
だから、いいかね、暁子。われわれの側には真実だけしかないのだ。
竹宮がどんなに嘘つきであろうと、暁子の側には、丁度漉されて残った砂金のように、真実だけが残る仕組みになっている。
私はその仕組みを信じている。そしてその仕組みにうまく漉されるように、あまりにも粗い虚偽よりも、私が半ば消化した、多少きめの細かくなった虚偽を差しだしたのだよ。
それがいたわりと言えば言いなさい。私がお前に伝えたものは虚偽の形のままで十分だと思ったのだ。
だってお前は、それを巧みに濾過して、真実に変えてしまうにきまっているから。
暁子  そうでしょうか。いくら宇宙人でも、その仕組みに故障が起こる事はないの?

暁子の目は、再び父の温和な論法に対する怒りに燃えてくる。

重一郎  そうだ故障が起こることはない。
暁子  では虚偽でなくて、いきなり真実を投げ込んだら、その仕組みはどう狂うの?
重一郎  狂いはしない。束の間は多少ふるえるだろう。それだけだ。
暁子  私がほんの少しふるえるのが怖かったのね。
重一郎  その通りだ。
暁子  では私の仕組みを試してごらんなさい。真実を投げ入れてごらんなさい。
さあ、おとう様、勇気を出して。

父親は躊躇している。
しかし娘の燃える目に射すくめられて、とうとう悲しげに言う。

重一郎  暁子、負けたよ。真実はこうだ。
あの男は地球人の女たらしだった。
そしておまえの陶酔に乗じて、お前に子供を授けて、逃げだしたのだ。

暁子は、一瞬、めり込むほどにきつく目を閉じる。
しかし目を開いた暁子の口辺りには、夜明けの光の様な微笑があって、彼女がはや、一瞬のうちに、何物かを乗り越えたのが感じられる。

暁子  不思議な感じがしたわ。少し揺れたわ。でももう大丈夫。
妙なことに、今、私は最初からそれを知っていたような気がしているの。
きっと私はそれを知っていたんだわ。あの人はただ、私のために触媒のような作用をするために招かれたんだわ。地球にいて金星の子を生むためには、あの睡い蜜蜂の唸りのうちに花園の上をさまよう嘘つきの微風のような、地球人の助力が要ったのだわ。
それだけでいいの……。もう私は二度とあの人のことを考えないですむでしょう。
重一郎  それはよかった。
暁子  でも面白い遊技だったわ。今度は私がおとう様の仕組みを試す番ね。
その仕組みがちゃんと働いていて、どんな虚偽も噛み砕いて、それを、こちら側の真実に変えているか……、どう? おとう様は自信があって?
重一郎  自信があるよ。
暁子  本当ですね。
重一郎  本当だとも。

重一郎はしばらく痛みを忘れ、思いがけない娘の快活さにほっとして、楽しい遊戯に加わる気持ちになった。
娘はすばらしい速度で、空中に光るメスの一閃のように、言ってのける。

暁子  胃潰瘍というのは嘘です。
おとう様は胃癌で、それももう手の施しようがないんです。

重一郎の顔は恐怖にひきつり、顔色から血の気が引き、口は何か呟こうとして言葉にならず、見開かれた目は、突然奪い去られたものへ必死に追い縋ろうとして、視線を射放ったまま虚ろになっている。
暁子は、こんな父の姿を見て、今まで襲われなかった涙に急に襲われ、父の枕の傍らに顔を伏せて、啜り泣きながら叫ぶ。

暁子  ごめんなさい。ごめんなさいね、おとう様。私はどうしても、おとう様が人間になってしまうのが厭だったの。

重一郎は答えない。その目は見開かれたままで、突然の恐怖の落とした影を宿し続ける。


暗転。 

3幕2場


時 1962年5月26日 夕暮れ


一場より丁度丸一日を経過した頃。舞台は殆ど変わっていない。
下手の白壁には夕陽の色が映っている。
ただ重一郎の傍らには妻の伊余子が付き添っている。
二人の間には何か気まずい沈黙が支配している。
その沈黙を妻の方から破る。

伊余子  どうなさったの、あなた。何があったのですか。
あんなに、私が、もうお休みになって、と頼んでも、言うことを聞かずにお見舞いのお客様とお話をするのをやめなかったあなたが、急に、もう誰とも会いたくないと言って、お手伝いに来た会員の人たちまで帰してしまうなんて、そのわけを聞かせて下さい。

重一郎は伊余子の座っている反対側に体を向けて、頑なに黙っている。
看護婦が夕食をもって入ってくる。

看護婦  大杉さん、お食事ですよ。しっかり食べて、早く元気になりましょうね。
伊余子  (食事を受け取って)いつもいつも申し訳ありません。
(一顧も与えぬ重一郎を見て、笑いながら)何だか今日は、朝から一日中すねているんですよ。誰とも会いたくないと言って、私にも口を聞いてくれないのですから。
看護婦  入り口に面会謝絶の札が下がっているんですから、その方がいいかもね。じゃあお大事に。(退場)

伊余子は、ベッドを起こし、ベッドテーブルを出し、食事の準備 を整えるが、重一郎は箸をつけようともしない。

伊余子  少しでも召し上がったら? 栄養をつけないと、どうしても快復が遅れますよ。
重一郎  (冷笑を浮かべて)快復なんて気休めをお前まで言うのか。
伊余子  (このとげとげしさの理由がまるでわからず)どうなさったのです。今日から急に。
重一郎  きのう私は真相を知ったからだ。
伊余子  真相って?
重一郎  白ばっくれるのじゃない。(暁子に対するいたわりから、起こった事実を少し曲げて)一雄と暁子の様子があんまり変だから、私が糾問して、とうとう白状させたのだ。
私が胃癌で時間の問題だということは、もう本人の私がよく知っているのだから、これ以上茶番狂言をやることはない。

今や一家中が知っているこんな大事な秘密を、台所を預かっている母親が少しも知らなかったということに、いたく誇りを傷つけられた伊余子は、この瞬間に、かえって自分の乏しい直感に対する虚栄心を働かし、しゃにむに秘密に参与していたふりをしょうと努める。

伊余子  (ベッドの端に崩れ、泣きじゃくる)ごめんなさい……。知っていたんです……。知っていたんです……。どうしても言えなかったの……。

重一郎の目はこれを聞いたとき、空井戸のように虚ろになる。
暫くしてから。

重一郎  (静かな口調で)分かった、分かった。もう泣かなくていい。
すべて明るみに出てしまったのだから……。

間―。

重一郎  伊余子、今夜は家へ帰りなさい。今夜の看護はいらないから。
今夜は一人で考えてみたいから。
伊余子  (激しく反対する)何を仰言るんです。
ご自分の体が今どんな状態だかお分かりなんですか。
こんな時に家族が付いていなくて、いつ付いていたらいいと云うのです。
私は絶対家には帰りません。今夜はあなたの側にいます。

伊余子の激しい声は廊下まで響き、先ほどの看護婦が驚いて入ってくる。

看護婦  奥さんどうなさったんですか、大きな声をお出しになって。
伊余子  この人が、今夜は付いていなくていいから、家へ帰れって言うのよ。
ひとの心配も知らないで。
看護婦  大杉さん、大杉さんも、何で、そんな薄情なことを仰言るんですか。
重一郎  看護婦さんまで、私の個人的問題にかかずらわせて大変恐縮です。
実は私は、今朝ほど、とても重要な問題に気がつきまして、今晩はその問題を一人でじっくり考えてみたいのです。
学者の悪い習慣とでも申しましょうか、側に人が居ると気が散って考えに集中できないんですよ。
伊余子   勝手なことばかり言って、本当に勝手な人なんだから。そんな事云っても、私は家へは帰りませんからね。一雄や暁子にも、今晩は私が付いているから安心しなさい、って言ってあるんですから。
看護婦  分かりました。要は、奥様がここに居なければよいのでしょう。
じゃあこうしましょう。奥様は朝からずっと患者さんに付きっきりでさぞかしお疲れでしょう。ここは一番旦那様にお休みを戴いて、しばらくの間、私どものナースステーションで休息なさればいいんですよ。
旦那様の方で変わったことや奥様に御用が生じた場合にはお手元のナースコールの釦を押してもらえば、私たちか奥様がすぐに飛んでくればいいでしょう。
これでどうですか大杉さん。
重一郎  そうしてもらえばありがたい。
看護婦  よし、これで商談成立と。
さあ奥様わがナースステーションまでご案内申し上げますわ。
(気取って伊余子の手を取る)実はもらい物のおいしいコーヒーがあるの。
ご馳走しますわ。

芝居がかった調子で二人が退場したあと、森閑とした暗闇の中で、重一郎は、病院の一人きりの夜の恐ろしさをつぶさに味わう。
時々隣の病室のトイレが、吼えるような水洗の響きを立てる。
病人の陰惨な孤独な排泄。やや隔たった向かい側の病室のざわめきが伝わり、忍び泣きの声や、あわただしい足音が乱れて聞こえる。
それも圧し殺したような静けさに変わる。
死がその部屋に点ったのを彼は感じた。
死が計器の赤いランプのように、ぽつりと、機械的に点ったのを、重一郎は自分を包む暗黒に向かって独白する。

重一郎  私は、私が暮らしてきたこの地上の世界と人間の生活をどれほど愛してきただろうか。私は、あの祖父と父から譲り受けた古い大きな家で、妻の伊余子、息子の一雄、暁子と共にどれほど充実した生と呼ばれる生活を送った事があっただろうか。
考えてみれば、私はほとんど生きたことがなかったのではあるまいか。
そうだ、私はほとんど生きた事が無いのだ。その事に何の悔いがあろうか。
私は生きることはあの愛する人間どもに任せてきたのだ。
それなのに、私の仮の肉体の衰えと消滅がどうしてこんな恐怖や恐ろしい沈鬱な感情をのしかからせてくるのだろう。
人間は死の不可解に悩まされるというが、まさに今、私は死の恐怖の不可解、死の影響力の不可解に驚いているのだ。
自分が生きて来なかった人間的な生の軽さに比べて、突然襲ってきた死のこの不当な重さが私の心を惑わしている。
もしこの重さが人間の生活の実感であるとすれば、今こそ私はそれを生き始めたのだろうか?

重一郎は、病院の外に生き、動き、生殖している人類のぼう大な幻を見る。
それは病室の白壁に映像となって映し出される。

重一郎  あれほど私にとって確かに思われた全人類の破滅のイメージはどこに消えてしまったのだろう         

(映像)一団の群衆が都会の大道を、死を待っている重一郎を冷酷に嘲笑し、一斉に歓呼の声を挙げて行進してゆく。

重一郎  今や彼らは私を必要としなくなったのだろうか。
私の努力は彼らとは何の関わりもないというのだろうか。

(映像)群衆は無目的な生へ向かって、こ踊りして、雑然と進んで行き、互いに道ばたで絡み合い、又身を起こしては、奇矯な叫びを挙げ、笑いさざめきながら、泣きながら、しかし決して滞ることなく進んで行く。
彼らは歌を唄っている。考えられるかぎり猥褻で、又すずやかなその旋律。
彼らの思想が、結局そこに帰着するような単純で野放図なその歌。

重一郎  人間は、私が考えるよりもしぶとく、強健で、ずるがしこく、猥褻で、高貴だ。

彼の脳裏に、人間が幸福や永生を願って考えだしたいろいろな象徴が思い浮かぶ。

(映像)祝寿の象徴である紅白の水引。
のびやかに飛翔する鶴。海のきわに海風に押しまくられて傾いている松。
打ち上げられた様々な海藻。そのあいだにうずくまる巨大な亀。

重一郎  彼らは彼らのやり方で、時間に対する束の間の勝利と繁殖による永遠の連環を夢見たのだ。(自分の乾いた手を眺める)
私は生きて行く人間達の、はかない、しかし輝かしい肉を夢見た。
ちょっと傷つけただけで血を流すくせに、太陽を写す鏡ともなるつややかな肉。あの肉の外へ一ミリでも出ることができないのが人間の宿命なのだ。
しかし同時に、人間はその肉体を、広大な宇宙空間の海と、等しく広大な内面の陸との傷つきやすい「明るいなぎさ」にしたのだ。
その内部から放たれる力は海をほんの少し押し戻し、その薄い皮膚は、また絶え間無い海の浸食を防いでいた。
若い輝かしい肉が人間の誇りになるのも尤もなことだ。
それは祝寿にあふれた、最も明るい、最も輝かしい灯なのだから。

映像は消え、再び暗闇の中で重一郎のみが孤独な姿をスポットで照らし出される。

重一郎  私を置き去りにして人間が生き続けることは、私の予見に背いた事態ではあるが、疑いもなくこれは、白鳥座六十一番星の見えざる惑星から来た、あの不吉な宇宙人たちに対する私の勝利を示すものだ……。
犠牲、そうか犠牲か……。
宇宙の御意志は、私という一個の火星人の犠牲と引換に、全人類の救済を約束しており、その計画は私自身にも、今まで隠されていたのかもしれない。

彼はおそるおそる自分を遣わした宇宙の意志の存在する方向を見遥かした。
そして最後の力を振り絞って宇宙交信法を再び試みてみようと思った。
彼は足を組み、姿勢を調え、呼吸を整え、両手を胸の前で合掌した。
目を前方に見据えて、彼が宇宙の最高意志と呼ぶものに向かって訴える。

重一郎  どうか、私を地上へ送った企ての隠された意味を明らかにして下さい。
そうすれば、私は自分の死に確信が持てるようになるでしょう。
もしあなたの御意志が私を犠牲にして人類を救うつもりなら、私の死は三十億の人類の生の重みに匹敵するものとなり、もはや、ただの人間の死ではなくなるでしょう……。
ほんの少しでもあなたの御意志が洩らされれば、私は今のいわれのない恐怖と苦痛から救われるのです……。

重一郎は、祈りの姿勢のまま体を前に倒し、慟哭する。
中央奥の白壁が真ん中から静かに左右に開く。
全部開き終わると漆黒の夜空と煌めく無数の星の姿が現れる。
そしてその星々の中心に一際輝く一つの星があり、周囲に光輪を発し始める。
その光輪は次第に大きく広がって、室内で伏している重一郎を優しく包み込むように光の度を強めてゆく。
部屋全体が晃々たる光に包まれたとたん、ふっと光の輪は消えて、夜空に輝く星だけを残す背景に戻る。
白壁がゆっくりと閉じられ、室内が前と同じ状態に戻ると同時に、重一郎はゆっくりと体を起こす。
顔を上げた彼の表情は、たとえようもない安らぎと喜びに満たされている。
彼はナースコールの釦を押す。

看護婦の声  大杉さん、お呼びになりましたか。
重一郎  すみません。ちょっと、家内をお願いします。
看護婦の声  はい、分かりました。

伊余子が心配そうな様子で入ってくる。

重一郎  (おだやかな顔と爽やかな声で)伊余子、すぐに子どもたちを呼び集めてくれ。
我々は明日出立する。

幕。


エピローグ

時 1962年5月28日 夜明け
所 東生田の田園の広がる丘陵地帯


舞台は、正面奥に緩やかな緑の丘が見える郊外の丘陵地帯。
上手 手前からこの丘にジグザグに登るゆるやかな道がつくられている。
幕が上がると地上はまだ暗く、丘の上の空のやや明るい色が夜明けの近いことを教えている。
下手、やや遠くにエンジンの音が聞こえ、それが大きくなって、車の停車音、扉の開閉する音がして、ややあって、一雄が懐中電灯をつけて、下手前に登場する。
少し間をおいて重一郎が伊余子に付き添われて現れる。
重一郎は杖を片手についており、歩行も困難な様子である。
重一郎は、辺りの様子を確かめるように見回し、特に丘の方を注意深く眺める。
遅れて暁子も登場。

一雄  お父さん、ここで正しいのですか。
重一郎  (しっかりした口調で)そう、車はここへ止めて、あとは歩くのだ。
(杖で丘の方角を指して)あそこの丘の上の方へ、あの道標が目印だ。
伊余子  だいぶあるんですの。
重一郎  行ってみなければ分からない。
伊余子  一雄、おとう様をたすけておくれ。
私にはお背中を押すぐらいのことしか出来ないから。
それに暁子は、自分が歩くのがせい一杯で、人助けの余裕なんかないんだし、暁子、転ばないように気をつけてね。
暁子  (素直に)はい。

重一郎は、肩で大きく息をしながら、薄暗がりの中で、家族の各々の顔をつぶさに見回す。

重一郎  こうして又われわれは一堂に会した。
われわれは力を合わせた。お父さんはこんな嬉しいことはない……。
しかし、われわれの家族の特徴は、こうして緊密に結ばれた時ほど別れも近いということだね。
それぞれの故郷へ帰るまでの、われわれは束の間の家族なのだ。
それまでは一層仲良く、口争い一つせず、有終の美を全うしようじゃないか。

重一郎は逞しくなった息子の肩に腕をかけ、妻に支えられて歩き出す。

重一郎  (上手の丘へ登る道を見つけて)そうだ、この道だ。教わったとおりだ。

一行はゆっくりと登り始める。

一雄  お父さん、苦しくなったら、遠慮なく言って下さい。休み休み行きましょう。

途中に道標があり、そこまで来ると重一郎は一雄に合図をして、一同を休ませる。
そこから眼下にまだ眠っている人間の町と夥しいネオンの輝きが星のように眺められる。

重一郎  見るがいい。みんな見るがいい。人間の街の見納めだよ。
暁子  まあネオンが綺麗だこと。まるで星のようね。
伊余子  夜明けの冷え込みはお腹の赤ちゃんに毒だわ。
何かもう一枚着なさい、暁子。(手持ちのバッグを開けて、カーデイガンのようなものを取り出して暁子の肩にかけてやる)
一雄  でもお父さん、われわれが行ってしまったら、後に残る人間達はどうなるんでしょう。
重一郎  (微笑みを浮かべて)何とかやってくさ、人間は。

一同は立ち上がり、登頂を始める。
この頃から、朝日が茜色の光で、四人の姿と丘の稜線とをくっきりとしたシルエットで描きだ す。
四人は丘の稜線にたどりつく。
一雄の肩に手をかけ、杖をついてたどりついた重一郎のシルエットがへたへたと倒れ込むのが見える。
丘の上に一番先に着いた暁子が、朝日に顔を輝かせながら叫ぶ。

暁子  来ているわ! おとう様、来ているわ!

四人の姿は丘の稜線の向こう側に消える。
やがて無機質な機械音と金属音の入り混じった轟音が聞こえ、開幕時の壮大な音楽が鳴り響くと共に、朝日に輝く銀灰色の巨大な円盤が、息づくように、緑色に、又鮮やかなだいだい色に、かわるがわるその下辺の光の色を変えながら、丘の向こう側の空一面をおおってゆっくりと姿を現す。
円盤は上昇して姿を消す。
舞台は再び緑の丘と白い雲の浮かぶ青 空の静けさを取り戻す。
小鳥の声がしきりにして、静かに幕。