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茶房ドラマを書く
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01物干し竿 岩波三樹緒

茶房ドラマを書く/作品紹介
<石喰ひ日記>  神戸寄港(T)   小泉八重子

(2007年山崎賞最優秀賞)

この作品はあくまでもフィクションです。

二〇〇六年十月二十五日 水曜日 晴れ
 
 新幹線静岡駅で人身事故があったという放送がJR東海道線車内に流れたのは昼前のことだった。そのため列車は暫時開通の見通しはないという。私はそれをグリーン車内でぼんやり聞いた。ふんっ、遅れようが、早まろうが今更の人生なのだ。これから向う先も今更のふるさと神戸なのだ。
 五十八歳で離婚した私は大きな諦観を余儀なくされている。これが慰謝料一億円でも貰えば「故郷に錦を飾れる」ところだが、三千万円ではいかんともしがたい。いや、今どき一億はたかが知れていよう。百億でようやく息をつくというものだ。したい放題はここまでなくてはならない。そうだ。湯水のように使ってこそ癒されるこれまでの人生であった。
 東京駅に着く。新幹線が大巾の遅れというなら大丸で昼食をとろうと思ったが、貧乏性で先を急ぐ。発券所にはいつもより人が並んでいた。
「神戸まで行きたいんですが」
「十二時二十三分ののぞみがあります」
「お願いします」
「はい」
「どのくらい遅れますか?」
「ちょっとわからないですね。それとも自由席にしますか?」
「いえ」
 気持ちだけせくのは、なぜだろう。この期に及んでまで損をしたくないのだ。そうだ。そういう思考で私は三十年を無駄にした。あの男を懲らしめてからでないと別れないと、執念深く思いつめていたのだ。このぼんくらが三億を払うまではとがなりたてたのだ。その結果男は半ばうつけたような具合いで病いに落ちたのだった。病いに落ちてからもケチだけはカクシャクたるもので、不動産五件、預貯金七千万他金の延べ棒数個をガチンコに握りしめたまま、たかが三千万のハシタ金でカタをつけようとしたのだ。
 三十年間のセックスレスが三千万ッ!
 誰が何といおうと大損をこいたのはこの私だ。男に天誅が下ったのがせめてもの救いだった。つまり私たちは刺し違いのように別れた。貧苦と病苦を互いへの土産とし、私は辛うじて「若さ」をとり、男は幻のような「安泰」をとったのだ。
 時計は十二時二十五分をさしている。改札の前の弁当屋で並んだ。
 年寄りに手間取る。何だかなぎ倒したい気分のまま注文の順番が来る。
「しあわせ弁当とお茶!」
「お茶は熱いの、冷たいの?」
「熱いの!」
「大きいの、小さいの?」
「大きいの!」
 伊右衛門と弁当をもって改札に入り、切符を入れるが二回シャットアウトされる。東北新幹線の入り口にいたのだった。山陽新幹線入り口はいかにも混み合っていた。ホームに上ると混雑しているのに駅員の姿はない。彼らは昨今意地でも姿をみせなくなった。
 ようやく薹のたった美女につきまとわれている駅員をみつけた。
「あの、ちょっと」
 というと、美女が
「ごめんね、今、私のが先で答えてもらってるから」
 と駅員の袖を離さず主張する。駅員は柱にあるボックスをあけ小さなパソコン画面をみつめる。美女のややこしい質問に答える間に親爺が割り込み、それがすむと若い美女が質問する。駅員も若い美女がいいんだろうと僻んでると、薹のたった美女が駅員の袖をひっぱりながら身悶える。この手があったんだと思う間もなく順番がまわってきた。
「あのー、神戸まで行きたいんですが博多ゆきと大阪ゆきではどちらが早く着きます?」
「博多ゆきだとそのまま乗り換えずにいけます」
 わかっとらい::。まるで幼稚園児にさとすように言われたまま、博多ゆきの車両に向う。乗り込もうとすると同時に発車の放送がある。やがて一時間半遅れの新幹線は神戸に向った。


二〇〇六年十月二十七日 金曜日 晴れ 

 着いた日はそのまま母のマンションで弁当を食べて眠った。翌日の今日は一日荷物待ちとなる。今回の帰郷には様々な軋轢があった。
 私と姉たちの関係はおもわしくない。なぜかといえば私が痴呆になった母の介護をおりたからだ。あれは六年前のことだった。私は五十二歳で、介護の資格をとるから、もう母のめんどうはみられないと言ったのだ。
 だがそれは嘘なのだ。本当はもう何もかもいやになったのだ。旧家族も現家族も、私の苦悩など全くわからず、義務ばかりおしつけてくると思った。とにかく逃げたかった。このままでいけば私は介護の余生で終ってしまうではないかと思った。母の次は姑で、そして夫か。金も貰えず、自立もできず、家から家をまわって老いていくのか。
 冗談じゃない。せめて金にかえられる介護をめざそうと思った。
 おかしなことである。なぜそれがバーのホステスであってはいけなかったのか。
 逃げたいなら逃げると言えばいいじゃないか。
 昔、私は知恵遅れの息子をもつ叔父から、こういう施設で働く人の中には、家族に同じ病人を抱えてる人が多いと聞いた。なるほど。妙に得心のいく話だった。それにしても込み入った逃げ方しかできないものだとも思った。
 こうして私はヘルパーというほっかむりで実家から逃げた。仕事をしているうちは文句を言わなかった姉たちも、やがてそれをやめ、何もせずぶらぶらしている私に不満をもらし始めた。何もせんといるなら手伝って頂戴。それにもう働きなさいよね。
私には意地がある。
 性格的に大真面目だったために不能に陥った夫。その後を追って真面目になる気はない。私がこれから真面目に働くとすれば、それはひたすらあやしげな勤め先においてであろう。
 私はみんなの期待にこたえるような地味でコツコツとした生き方はしたくない。
 長姉の正子と、私と長年の友達だった鉄子。二人は醜くつながっている。
 セックスレスであった私にねぎらいの一言もないまま、いや、どうかすると私の姑に肩入れしたり、夫に味方したりして私の悪口に明け暮れてきた。それはなぜかと考えて、はたと気づいた。
 あいつらにはもう希望がないんだと。
 いい男と寝る希望のない女は、その可能性のある女を徹底的に叩く。その可能性がなくなるように導く。そう、自らがそうしてきたように。正子は刺繍に明け暮れ、女友達をどっさり作り、未亡人だというのにさっぱり冴えない。
 また鉄子は性欲より食欲をとった。数えきれないダイエットとリバウンド。そして太った躰のまま、薄情なくせになぜか介護の仕事を選んだ。おかげで膝を痛める。口が軽く嘘つきで意地悪、時間にルーズだった鉄子。その鉄子が帰っておいでと言っている神戸。一緒に働こうと言ってる籠池通りの特養老ヴィヴィッドライフ。そこには私の母がいる。
 そんな奴らの待っている「神戸」だけには帰りたくない。
 ここで踏みこたえてるのも中々に辛いものがあるのだ。
 私には物書きの巣である下高井戸の小説教室がある。
 だが近年ここは徐々にキナ臭さをましてきた。
 本気で書き始めたからだ。自分の生い立ちを書いた小説がインターネットにのり、私の執筆に目を凝らしている正子と彩子の目にとまったのだ。彩子が二十歳のときに狂ったことが書かれている。作者の名を消せとホームページ製作者である私の師匠Y哲にメールが送られた。Y哲はあわてて私の名を改め、顔写真をひまわりの写真にすげかえた。その一方で、正子はY先生は本当にわかってらっしゃるわよ。あんな人は中々いないわと言う。それなら私の作品も野放しにしていいはずだ。彼女はY哲の本当の怖ろしさがわかっていない。正子が下高井戸の教室に来る日があるとすれば、それは彼女の正しい人生の終りとなるだろう。
 神戸に帰る私に、今年の五月次女の彩子は釘をさした。
「あのね、帰ってもいいけど、阪急六甲近辺ではナンパしないでね」
 五十九歳の姉が五十八歳の妹に望むものとしては異例かもしれない。そのずれをおかしみ、はいはいとそらすのが大人というものなのだろうか。いや大人というものは後わずかしか生きられない子供なのだ。私は言った。
「恋をしちゃいけないってこと?」
「そうじゃないよ。ここでは慎んでほしいってこと」
 かたい声で彩子は言う。彩子の夫は阪急六甲の浜にある父の会社を継いでくれた。元はエリート官僚で、息子の受験を契機に帰神したのだった。この義兄に彩子は頼りきり、世間体をおもんぱかるのだ。また、彼が死んだら自分はどうやって生きていったらわからないと今からうろたえている。
「恋は場所を選ばないものよ」
 私は答えた。
「恋とかっていうと違うんじゃないかと思うわ、たえちゃんの場合」 
「何であれ、今更束縛されることはないと思うわ」
「あのね、たえちゃんがそうやってナンパすると、私がしてるっていうことになるのよ」
「どうして? 彩ちゃんと私、そんな似てるわけないやん」
「どうしてもなのっ! それができないようならもう帰って来ないでっ!」
 鋭く叫んで、彩子は受話器を置いた。母のマンションの鍵は手元にある。入ろうと思えばいつだって入れる。だがまた空き巣狙いのようにいわれるに違いない。帰郷前、私はかしこまって言ったのだった。
「阪急六甲近辺ではナンパしませんから、お母様のマンションに泊めてね」
 何だか不潔な汁液が躰いっぱい溢れてくるような気がした。
「はい」
 こわばりながらも笑みを含んだ彩子の声が聞こえた。
 
 荷物が届いたのは午後四時頃だった。私は彩子に電話を入れた。
「荷物届いたわ。これからそっち行っていい?」
「いいよ」
「何か買って行こうか」
「別にいい」
 坂道をのぼる。マンションから五分も歩けば彩子のマンションだ。教会の隣にあるここはもとは私たちの家だった。彩子夫婦が管理人となり、最上階に住む。
 扉をあけて招く彩子は、一月前より幾分か明るくなった。
「今日は夕食もあるし、食べてって」
 九月末に短期帰郷したときには、彩子の顔色の尋常でない青黒さと、凍えるようにやるせない眼に胸をつかれた。待ち合わせた明るい喫茶店の中、彩子は足を折られた青鬼のように浮き上がった悲しみの中にいた。私には一番なつかしい彩子の形である。幸せの中にいても奈落に突き落とされる彩子の病い。それがどこか抱腹絶倒のおかしさをたたえているのを知っている。この間近な無器用さを幼い頃からずっと見つめて続けてきた。
 九月よりはいくぶんか癒えたかにみえるが相変らずセメダインのように憂鬱をひきずり、その気配はかたわらの人間を巻き込まずにはおかない。私はベランダの扉を開けた。
「眺めがいいね。海と明石大橋もみえるし」
「そう?」
「そうよ、彩ちゃん、恵まれてるよ」
 彩子は嬉しそうに笑う。その日彩子が作ってくれた鮭のムニエルとマカロニグラタン、ちくわと大根の煮付けはとてもおいしかった。


二〇〇六年十月二十八日 土曜日 晴れ

 午前中、トンコに電話を入れる。
 大学時代から親しくなったトンコは中高時代、プレイガールだった。
 長細い顔に肉感的な唇。小さな三白眼とストンと通った鼻柱。浅黒い肌。決して美人ではないが、どこか鉄火肌の姐御が匂う粋な女だ。
 不良だったが、彼女があげられたことは一度もなかった。持ち前のあっさりした性格と機転、あるいはあまり美人でなかったせいか、男とは問題になるまでの関係に至らなかったのがその理由かもしれない。音楽が好きで、コーラス部に入っていた。また大変マメで、めんどうみがいい。学生時代には彼女が主催するダンスパーティに度々よばれ、うきうきといったはいいが、最後は壁の蛾となって涙をのむはめに陥った。
 そこには何匹かの男女の蛾が恨みを押し殺してたっていた。その蛾の一員の中に、トンコと未来の旦那もいた。
「俺、ほんま、汗出てくるわあ」
 といって、壁にもたれたまま、それでも私やトンコを相手に誘おうとしなかっためがねの大男である。私たちはお互い全くバツの悪い思いで汗をかきあった。旦那は曽根崎近くの寺の跡取りだった。舅姑を見送り、大黒さんとなった彼女の苦労は並大抵ではなかった。旦那の浮気もあり、それは閨のテクニックで知れたという。
「あ、またよそで習ってきたわあ思うけど、もうどうでもええねん」
 情けなさそうに笑った。私と出逢うときはいつも高価な衣装を身にまとい、それが似合った。一人息子のかあ君を音楽留学させて、今は夫婦二人暮しだ。
 今回の帰省では、彼女と逢うのが一番の楽しみだった。
 男を連れてきてくれるからだ。その男がやってくるきっかけを作ったのは私なのだが、トンコの腕力なくしては到底無理だっただろう。
 和田という美少年の写真がほしい。
 私はトンコに頼んでいた。和田は一つ上の、同じK学園の男子校の美術部にいた。私がほしいのは今の写真ではない。当時の和田の顔写真だ。和田とはデイト寸前までこぎつけながら、私の臆病風でふいにした経緯がある。なぜか離婚後、和田のかんばせが拝みたくなったのだ。
 トンコからすぐにメールが来た。K高校OBの安里(あんり)という男に頼んだから、その内写真が送られるだろうという。わくわくした。二、三日して安里からメールが来た。
 左端の詰襟の学生服の男が目についた。鼻が大きくて、ポパイみたいで、腰にかけている手が小生意気な男の子だ。
「まさか、これじゃないよねっ」
 と思わず叫んだが、それらしき男の子は一人もうつっていない。四、五人スクロールしてようやく和田をみつけても、やはり「まさか、これじゃないよねっ」と叫びたくなった。一瞬目にしたあの和田は幻だったのか。キュートな横顔はまつ毛が長く、妖精のようだったのだが。
 すぐにメールをトンコとスガミキに転送した。
 スガミキは私に和田を紹介した女である。学校は男子と女子とで違ったが、同じ美術部
に属していた。
 トンコと違って、こちらはしょっちゅうあげられていた。間が悪いのだろう。またよくめだった。スペイン風の彫りの深い顔立ち。ちょっと猪首で体型は牛のようだったが、いっちりもっちり色っぽい。カサカサに乾いた女教師に不純異性交遊だの、喫茶店に入っただの責められては泣いていた。
 後年そのカサカサが私に別れた旦那を紹介したのだ。カチコチの金庫みたいな男を。
 トンコとスガミキから返信のメールが来た。
 トンコはポパイが安里だという。スガミキはこの写真のメンバーの男の子は全部知ってるといった。さすがである。それからスガミキはトンコに聞いて私の作品を全部読んだという。よかったといった。そして四人で逢う約束をした。
 ポパイ安里の写真をみせると、東京での知り合いはみんな、和田よりかっこいいという。何か世界を持ってるわ、この人という。安里は彩子の息子の世界史の教師でもあり、担任でもあった。世界百カ国をまわってる安里の授業は臨場感があり、生徒の受けがいいという。私も次第に安里にひかれた。
 トンコに電話を入れた。
「いやあ、たえちゃん、今お着きなの? 私ねえ、ついたちの日、いけへんようになってしもたん。膝の半月損傷して。あなたら三人で行ってきてよ」
「ええええっ」
「いや、ほんま、センセはね、教え子のお母さんのような方たちによばれたんやけど、行っていいもんやろかっておっしゃってたのよ」
「あははははは」
 一つ違いの安里を、トンコは先生とたてる。そこに甘い響きがある。昔、一度深江のスケートリンクでデイトしたことがある男を、魅力的なまま立てておこうというのだろうか。
「トンコが来ないでどうするんよ」
「ええっ?」
「私がスガミキと安里先生に電話しとくわ。病院から退院するのいつやの?」
「十五日には退院できる」
「ほな、四人で逢うのは十一月の二十日にしようよ。ああ、そやけど安里先生に電話するのはまた汗かくわ」
「何言うてるの、たえちゃん。人生思いきったことやらないと変らないのよ」
 控えめに遠慮するかと思えば、焚きつけるトンコであった。
 受話器を置く。スガミキに連絡した。
「たー坊?」
 スガミキは高校時代のニックネームで私をよんだ。彼女は若い頃二児を連れて出戻っている。最近になって再婚した。電話はその嫁ぎ先の奈良へかけたのだ。
「今、おばばがうるさいから、二階いくね、ちょっと待って」
 うるさい田舎の姑が同居中だ。
「へえ、トンコが足いかれたん。いいやん、待ってたげよ。それよか、ああたとは一回ゆっくりしゃべりたい思ってたんよ」
「ほんまやねえ。あなた、そやけど二人のお嬢さん連れて、よう出戻れたもんやねえ」
「うち、あのとき実家(さと)に一億円あってん。利子だけで娘二人養えたんよ。家あるしね。そやけど、それもぱあよ。利子だけでは食えへんようになって。娘も仕上がったし、今のんとは年金狙いで再婚してん」
 そう言って磨き上げたタイルをこするような声でわらった。
「けど、結婚してすぐに三つ巴になったんよ。昔の女と今の女出てきて。もう、私、なんでいつまでたってもこんな泥べっちゃんみたいな遊びせないかんのか思うたわ」
「そうかあ。現役はってるね」
「いやん、もうたくさん」
「御馳走さん」
「ははははは」
 スガミキのOKをとってから、安里に電話する。学校より家がいいだろうとひらめいたのは土曜日だからだ。もし奥さんが出てきたら父兄だと名乗ればいい。果たして出てきたのは安里だった。安里は落ち着いて受け答えをした。二十日の日もOKだという。
「迂路さんは鵠沼におられるんですよね」
「はあ」
「僕、小さいときあそこに住んでました。安里商事いうて、家は江ノ電の踏み切りの近くやった思いますわ」
「あら、そうですか」
「大きな会社でした。今はないんですけどね」
「今度帰ったら調べてみますわ」
 受話器を置く。汗びっしょりになっていた。トンコに電話する。
「トンコ、みんなOKやったよ。入院しといで。待ってるから」
「ありがとう」
 電話を切る。ソファに横たわる。私の神戸における友達の地図も変った。以前すぐに連絡をとっていた鉄子と志穂、絵子にはまだ連絡する気がない。
 鉄子が中心だった私たち四人のグループ。
 彼女たちの声は私に対して一様にかたくなった。それはおそらく、私が彼女たちの間尺にあわなくなったからだ。
 離婚したら、出戻って、母親のめんどうをみながら真面目に働く。丁度志穂のように。
志穂は不仲の夫から逃れて神戸の実家に戻り、老母のめんどうをみている。若い頃イタリー人と不倫して子をなした彼女が、なぜか今になって妙に道徳的なことを私に言い始める。
 鉄子は介護の仕事を始め、絵子もそれに続く。
 絵子はともかく、わがままだった彼女らが介護というのがおかしい。もしかするとこれも神の采配かもしれない。とすれば私は落ちぶれてもわがままに生きなければならない気がする。そして彼女たちの前に目障りに立ちふさがり、泳ぎ続けるのを使命としなければならない。これは最後の意地だろう。


二〇〇六年 十一月十日 金曜日 晴れ

 神戸に来てから約二週間たった。彩子はたびたびマンションを訪れ、お茶をのみ、共に散歩しようという。散歩は山の手のバス通り沿いに歩くことが多い。川の袂にあるプッペというブティックは中世ヨーロッパアンティーク風のインテリアで、イブニングからランジェリー、カジュアルウエア、小物に至るまで妖しげで色っぽい。まるで舞台女優御用達のような趣だ。ヨーロッパからの買い付けが多いという。彩子はそこでベージュのパンツ二万円を買った。
 ミキサーの音が天井まで突き抜けるフルーツパーラーでジュースをのみ、ヤクザの親分の屋敷を通りぬけ、畑原市場の平台で出来合いの煮物を買う。何もかもがなじみのこの風景の中で、居座り続けようかとも思うが、待てよという声もする。待て、待て。この横に歩いている彩子。殆ど空気のよめぬこの姉が
「たえちゃん、あそぼう」
 とまるで何十年間をすっとばしたかのように寄り添ってくるとしたら苦しい。そして茶坊主のように気のきく義兄をなくした、やるせなくよるべない彩子がずずずっと私にすりよってきたらどうなる。その上にぼけた母だ。ここに帰るにはよほど覚悟を決めて自立せねばならない。それも不真面目の自立とくれば、やきもちが手枷足枷をはめにくるだろう。慎重にすすまねばならない。
 猫背の彩子はしばらくみぬまに随分老けた。深い皺がより、歩き方もとぼついている。本来なら苦労の果てに離婚した私が老いぼれなければならないのだが、あまりの不安にシャキついているのだ。ああ、老けたい。幸せとともにぼけ、病院の白いシーツの上でくたばりたい。
 彩子の鬱は日を追うごとに癒えていった。私もまたたった一人東京にあって、心病むよりはここに帰りたいとも思う。だが困難が待ち受けている。母のマンションに「住まわせてもらう」なら、書くことにも制限をかけられるだろう。私はそれと闘えるだろうか。あるいはシラをきりとおせるだろうか。本当のことを書くことをあきらめねばならないとしたら、窓からみえる山手風景もどれだけわびしくうつるだろうか。
 だが、自力で神戸に住むというのなら、それは私の自由だ。何をして食っていこうが彼女らに干渉されるいわれはない。
 この繊細で起伏に富んだ街を私はいつの間にか深く愛してしまったのだろうか。山を背に負い、その胸で寛く海を抱いた街神戸。その弓なりにしなった細長い躰に、三本の鉄路を走らせている。山手より、阪急、国鉄JR、阪神と、降りるに従って品下れるかと思わせてそうでもない。魚崎や芦屋、夙川など、貧富の棲み分けは混然としてわかりにくい。そこがこの街の一筋縄ではいかぬしたたかさをあらわしている。それにしてもこの風景はなめらかだ。花崗岩でできた六甲山系の土はそこはかとない白さに輝き、山は羊羹色にたなびいている。夕日はその山々をどこまでも透き通らせていくのであった。
 十八日に小学校のクラス会を主催する以外、特に用事らしい用事はない。私はそこらじゅうを歩きまわったのであった。
 午前中、夙川に行った。この浜にある大谷記念美術館をみようと思ったのだ。然し、実はそんなことはどうでもいい。私はここらあたりのブティックが気に入っている。歩いて苦楽園まで行く。途中レースの店や、豪華なリセールショップに目を奪われる。ああ、因果な街だ。骨まで溶かすこの贅沢の数々。コンビニもここでは垢ぬけており、売っているものも気がきいている。金がないので納豆煎餅だけを買った。
 そこから電車で夙川に帰り、ゆっくりと川を下る。川の水は海に向うにつれ透明度を増し、鴨が群れ泳ぐ。川藻もゆれ、サギのような大きな白い鳥がひっそりと一本足で立っている。
 香櫨園(こうろえん)は阪神の駅だ。この駅辺りは山手の阪急夙川駅辺りよりずっと奥ゆかしい自然に恵まれている。
 浜にいく。驚いたことに海が生きていた。川が途切れたあたりに広がる香櫨園浜。御前浜公園。なだらかな砂浜。浮き輪をもってざぶざぶと入っていけそうな海だ。三角州になった浜辺に白いかもめが群れている。
 浜の右側には回生病院がある。旧式な造りで庭には枯葉をどっさり蓄えた椰子の木が何本か陰気に立っている。病室からは海の向うに西宮市がみえることだろう。中に入る。患者たちの座るソファが昔ながらの木製の脚に合成レザー張りでなごむ。
 外に出る。防波堤を歩き下りる。犬を散歩させているおばさんに出会った。
「向うの岸にヨットハーバーがあって、そらきれいですよ」
 明るく教えてくれる。おばさん、私、それどころでもないのよ。呑気にハーバーまでいってられる御身分でもないんよ。もしかしてこれから八十五までいやでも働かなきゃ生きてけないかもしれんからね。
 川を上り駅に出た。阪神御影にいく。
 ここは昔、材木屋を営む小谷鉄子の実家があった。私は学校の帰り鉄子の家にしょっちゅう入り浸っていた。ある日こたつにぬくもっていると、ふすまがあき、ほわんと太った、人のよさそうな男があらわれた。と、いきなり鉄子がその鼻先でぴしゃりとふすまをしめた。それが浪人中の鉄子の兄ゲシルであることは一目でわかった。鉄子とは四つ違いで、私の姉正子と同学年のゲシルは京大文学部をめざして三浪していた。鉄子はそんな兄を「浪人ブタ」といっては泣かせ、除け者にした。ふわっとあらわれてはピシャリを繰り返し、やがてゲシルはいつの間にか私たちの間に入ってしゃべり始めた。
 しゃべり始めるとゲシルは鉄子よりずっと博識で頭の回転が早く面白かった。あらゆることに通じていて、下世話な皮肉がきいていた。私はジャーナリストとしゃべっているようにうきうきした。ざらついた肌で大きな人懐っこい顔、剛い毛が立ったような頭髪。やせているときにはケネディとよばれ、太ってからはコメディアンの丸井太郎だといわれていた。せかせかと追いかけられるようにしゃべるゲシルは、大宰治が好きだった。「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ」、「富士には月見草がよく似合う」。これらの台詞もゲシルにかかると、商売人の愛想に冗談めかされながらも不思議に核心をついた、やさしく上品な気配が漂うのであった。
 三浪の末入った関西学院大学では弁論部に属し、俺、ほんまはもうどうでもええんやと言いながら活動的だったゲシル。私は阪神御影の家に行って、ゲシルがいるとほっと胸に灯がともった。あれは恋だったのだろうか。いや、違う。もっと根源的な人間の地熱のような暖かさに触れ、癒されたのだ。
 ゲシルと私はデイトした。幾度かのデイトではゲシルはしゃべりづめだった。こちらがわかるまいがおかまいなしで、歴史的人物を出してきたり、わけのわからない冗談に一人で笑ったりした。ゲシルの中の聖と俗はガシャガシャに攪拌され、全くおさまりかえった様子に至らない。
 あるとき私はゲシルとのデイトの約束をすっかり忘れたことがあった。一時間もたった頃、すさまじい怒りの電話がかかってきた。
「何しとん、自分! 俺、一時間も待っとんぞ!」
 張り裂けそうな声は今でも耳の底に残る。それはゲシルとの終焉を知らせる晩鐘だった。私はゲシルを、彼が自分を思うほどには思っていないことに気づいたのだった。その後、阪神御影の家に平気で通い続ける私も相当なものだった。まるで家族のようにこたつに足を突っ込み寝転んでいると、他のみんなもゲシルも何くわぬ顔で横にいる。私とのいきさつを知っている母親が私に
「近頃、ちょっと(ゲシルの)様子がおかしいの」
と冗談半分に笑いながら伝えた。
「あ、やっぱり?」
 と私が軽くいうと、
「何がやっぱりやっ」
 突っ込むやゲシルは、寝転んで頭を支えてる私の腕をスコンと叩きぬいた。それはまるで家族でふざけあっているような感じであった。
 それでもその後私が今までどおり、ゲシルちゃんとよびかけると、
「気安くよぶな!」
 とすごまれた。以来私はゲシルをどうよんでいいのかわからなくなった。ゲシルさんでは気をもたせすぎるし、お兄さんでは改まりすぎる。他の友達がゲシルちゃん、ゲシルちゃんとよんでいる中、私だけが未だにうろたえて続けているのだ。
 ゲシルは大学を卒業してから家業を継ぐため、大阪の放出(はなてん)という所に修行にいった。「俺なんでこんなとこおるんやろなあ」と考えながらも、ガラの悪い女性事務員がえらい美人やと、呑気な話しで笑わせてくれた。
 やがてゲシルは結婚した。同じ製材関係のお嬢さんとだった。
 その後私が結婚したとき、ゲシルは相手の顔写真を眺め
「やっぱりお金で決めたのね」
 と一言いった。むっとした。ゲシルは一矢報いたのだ。
 三子に恵まれ穏やかに人生を送っていると思っていた矢先、あれは何年前だろう。ゲシルが癌に侵されていると聞いたのは。丁度その頃、鉄子の夫も癌だと聞いた。鉄子はかけがえのない二人の男を癌におかされたのだ。
 ゲシルは病室に来る友人に言った。
「この部屋はみんな癌や」
 どきっとする友人にまた、言う。
「ほんで俺が窓際で、みんな自殺せんように見張っとんや」
 すると悪友が言う。
「嘘つけ、お前が自殺せんように窓に柵こしらえたあんのんや」
私はゲシルが好きだ。
 ここ阪神御影はいかにも猥雑でゲシルの生れ故郷らしい。駅の南のロータリーはバス停になっており六甲行きが何台もプールされている。市場は今、一部木の扉で閉鎖され、奥は細々と生き残っている。イカ天の旨い店がある。また魚勝という老舗仕出し屋の御節は秀逸だった。高架下には喫茶店や洋品店、飲食店街がごちゃごちゃと蝟集し、浜には安物らしい家具店と、スーパーが並んでいる。
 猥雑な一角に由緒正しい御影の源がまつられているのもここらしい。阪神の駅を海側に出て、西に沿って歩くと高架下に大きな池がある。真ん中に小さな噴水があり、緑にそまった甕に波紋を与えている。神功皇后が、船出したとき、この泉の水を化粧に召され、また顔をうつされたのが始まりとなって御影とよばれた、御影発祥の地である。囲いがあるものの、大腸菌発祥の地でもあるらしく有難味は薄くなった。沢の井とよばれる湧水池は高架下の薄暗がりにまるで安物のトレビの泉のように広がっている。
 地震でも倒れなかった木造平屋の喫茶店が道を隔てた場所にたっている。
 沢の井という店名だ。買取りたいと無茶苦茶なことを思いつく。
 その阪神御影の市場の中のパソコン教室で、現在ゲシルが生徒になって通っている。私はそれを彩子から聞いた。
 またそれはネット上でも書かれていた。ゲシルの同級生カキオが「ほたての小屋」というブログをやっていて知れた。無器用なゲシルが机にかじりついている画像に私の胸はいっぱいになった。そしてコメントを寄せたのだ。スクリーンネームを小学校の後輩ということで、「ハイコ」と名乗った。本名を名乗らなかったのは彩子と正子がコメントを寄せていたからだ。何だか姉妹で暑苦しいと思ったのだ。一時はカキオと軽妙なやりとりになり、愉快だった。だがいつからか、そう、一年ほどたってから本名を名乗らない奴は無礼だといって突然カキオが怒ったのだ。この一年もたってから爆発したというのがいやな気がした。そういえば当初から「ええ加減カミングアウトしなはれ。こっちも返事の書きようがある」とは言っていた。こうなっては仕方ない。私も無粋な奴と応酬して喧嘩別れになった。だから今は画面をみつめるだけだ。カキオの記事は面白く、イラストもうまいのでコメントを入れられないのは癪だ。
 カキオはゲシルもこのことについては「失礼なやっちゃ」と怒っていると書いていた。「何やねん!」と更に私は頭に来た。私の卒業したあの少人数の小学校。ゲシルの学年は今に至るまで息苦しいほど仲のいいクラスである。私の学年はまた今に至るまですがすがしいほど仲の悪いクラスだ。だがどちらも村だ。金持ち部落は得体の知れない人物がお嫌いなのだろう。正体は名乗らないことにした。
 こうして自然に、はなれ瞽女おりんとなってさまよう。
 二、三日前、この市場に寄って、リサイクルショップの前にあるゲシルの教室をみつけた。中に入ると質素で楚々としたやさしい女の先生があらわれた。どうぞお入り下さいと言われ、喜んで入り、ゲシルのことを聞いた。ああ、いらっしゃいますと先生は嬉しそうに答えた。そしてゲシルの授業の曜日と時刻を教えてくれたのだ。
「ここに来たこと黙ってて下さいね」
 私が言うと、
「わかりました。どうぞまたこっそりいらして下さい」
 そう言って首をすくめた。その日が今日だ。市場は勢いがなくなり、年寄りの天国になっている。パソコン教室をのぞくと、赤いセーターを着たゲシルがいた。ドクンとした。
薄くなった頭髪と、皺のふえた笑顔。授業が終るまでリサイクルショップで安物のアクセサリーをみる。十二時半になって教室に入ると女の先生がにこやかに迎え、そちらですよと招いた。ゲシルは帰り支度をしていた。
「お疲れ様でした」
 私が言うと、目を上げ、椅子にのけぞるように驚く。
「なんや、たえちゃんかいな」
 それからはゲシルの独壇場だった。自分住所変ったんか? 苗字だけやろ、ほんで、その住所にスコンと送ったらええんやな。わかったわかった。この先生はな、井上先生とおっしゃっるねん……。しゃべりづめにしゃべった。パソコンをかばんにつめ、ショルダーにかけて市場を歩く。ゲシルの足が、癌のせいかびっこになっているのに気づく。こうして二人で歩く時間がたまらないものに思える。
「あんたのお父さんにはな、ロータリーで会うて、俺のこと、『これがわしの娘のケツ追い掛け回してる、娘の恋人や』言うて人に紹介されてな。ははは。恋人や言うて」
 ゲシルの目が一瞬くらくなった。
 ゲシルの事務所は阪神御影のはずれにあった。階段でのぼっていく。部屋は社長室のようで、建築の本や全集が並べられている。事実上は倒産している会社だが事務所だけは残ったのだった。茶は出てこなかった。逆光になったゲシルの影の後ろでほこりが舞う。白州次郎、正子の著書が多く目立つ。
「昔から、わしは美しいものには弱いんや」
 そう言ってはにかみ笑いをした。今、ゲシルは母校の小学校で、新藤勇と理事をやっている。新藤商事を起した忠次郎の孫である勇とゲシルは仲がいい。
「新藤のおじさんと、お宅の寛二叔父さんのコンビみたいにな。まあ、あのスケールには及びもつかんけどな」
 昼から逢う人がいる。ゲシルがそういうので私は腰をあげた。
「逢えてよかったわ」
「今度は前もって言うてきて。御馳走するから」
 ゲシルはそう言ってくれる。だがどこか私をけむたがっているのがわかる。ブログの件も敏感なゲシルは気づいているのだ。かき乱されたくはないのだろう。私のように捨て身のように生きているものは、ゲシルのような男にとっても既に手にあまるものに違いない。階段を降り、小さなビルの入り口で別れた。
「そこにいるのが百円爺さんや」
 こっそり教えてくれた。カキオのブログに登場する誰かれ構わず百円をねだる、鳥打帽をかぶった小さな親爺がいた。 
   

                              平成19年1月25(木)