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山崎哲 |
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01物干し竿 岩波三樹緒 |
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<エッセイ> 本と私 深谷 巖
劇的変化
転居する事になって、身の回りの物品を整理しなければならなくなった。 まず書籍類である。はじめは小品、安い本などをばらばらにほぐし、燃えるゴミとして可燃物収集所に出した。それでもいくらも減らない。職業に関する図書もかなりあったが子ども達は親と同じ職業についてないので要らないという。高価で新品に近いものは関係機関に寄贈した。 そのほか、かなりの部数を町営の焼却所へ運んだ。欲しい時は高い金額を支払い買ったつもりなのに、読まないでしまった本もある。今となっては只で処分しなければならない。なんだか自分の人生を処分しているようで情けない。 そんな中にあって、どうしても捨てがたいのがある。「悪石島」(大城立祐著・おりじん書房)という本である。頑丈な箱入りで書棚に鎮座し私の生き様を睨んでいるようだ。 この本は第2次大戦末期迫る危機のなかでせめて子どもだけは安全な所へ送ろうとした親の願いも空しく、7歳から15歳までの学童約800名が犠牲になった記録である。
輸送船対馬丸(6754トン)は沖縄から本土へ向う疎開児童800余名をはじめ、一般人あわせて1661名という人員を満載していた。明日は鹿児島港に着くという1944年8月22日夜、対馬丸はアメリカ海軍潜水艦の魚雷攻撃にあい11分後に沈没した。このなかで生き残ったのは一般人168名、学童わずか59名だったのだ。 保護者たちには、はじめ本土への集団疎開に参加させたくないという意見が多かったが「国策」に協力しなければならないという行政・教育機関の強い要請を受けしぶしぶ疎開に参加させることを承諾したのだった。 約一ヵ月後、59名の児童は、こっそりと家族の元に送られた。だが彼らは憲兵や警官からの固い口止めにしたがい、戦後まで貝のように口を閉じたままだった。 沖縄からの疎開船、昭和20年(1945)3月20日に沖縄戦がはじまる直前まで、延187隻で、本土、台湾へ7万余人をはこんだ。しかし、犠牲は対馬丸ただ1隻。しかもそのおもな犠牲者が学童たちであった。
翌45年3月10日には東京大空襲があり、本土の主要都市は次々大きな被害を受けていた。このような雰囲気の中で私は小学6年生であった。当然軍国少年に育っていく。当時、私は自分もいつかは国のために死ぬと心に決めていた。弱虫なりに潔く立派に死にたいと思っていたものだ。だが8月15日、日本は連合国に降伏し戦争は終わり、私たちの命は助かった。
この日を境に鬼畜米英は平和、民主主義を代表する善となり、「国を守れ」と戦争の先頭に立っていた人や兵隊さんは悪い人にされてしまった。もはや戦時中の日本人を縛り付けていた諸々の拘束は無くなり、全員が「自由」になった。 この価値観の逆転体験もまた、「悪石島」の本と同様、簡単に捨て去ることは出来ない。
それからは「自由」と引きかえに、飢えと寒さの生活苦が襲ってきた。だから私を含め当時の子ども達は早く大人になって働き、金を取り、独立した生活をしたいと考えた。こうして私たち日本人は戦後60余年、平和憲法のもとでとにもかくにも戦争を避け貧困脱出に努力してきたのだった。 しかるにである。昨今の諸誌にこんなことが書かれている。 現在の青少年に見られる不登校とか引き籠もり、パラサイト人間などが発生したのは今60歳半ば以上の者たちがわが子に自分と同じ苦労をさせたくないと甘やかしたせいである・・・。
敗戦後の復興の功労者はわれ等だとひそかに自負していたのが突然、若者を堕落させた犯人とされ憤懣やるかた無かった。それでいてしかも一部思い当たるところがあるのがくやしい。
心に残った本
小冊の本だが岩波新書、太田昌秀著「沖縄、平和の石碑」という本が心に残った。 50年前(著作の時)の沖縄戦で犠牲になった方々を悼み、摩文仁の地に建てた碑が表題になっている。内容は元琉球大学教授・元沖縄県知事太田昌秀氏の講演集である。氏は淡々と語っているが、昭和8年生まれで戦中派しんがりの私には印象深かった。 久米島に生まれ、貧しさのため進学出来ず小学校卒業後母校の小使いを一年間勤め、世の中の事を少し知った。その後給費制の師範学校へ進学した。やがて沖縄守備隊に動員され負傷した。隣の洞窟では米軍機からガソリンに続いて焼夷弾が投下され、避難していた女子学生20名ほど焼死したという。 沢山の生地獄を目のあたりにし、洞窟の岩肌に「生きる」と刻みながら死線をさまよっていた時、石井という外語学校を出た将校に出会いしばらく行動を共にしたそうだ。太田氏が拾って来た英字新聞を見て現在の米軍の様子を教えてくれるのを見て、英語を読めることのすごさを知り、もし自分が生き延びることができたら自分も学びたいと思ったそうだ。彼は太田氏に「若いあなたはどんなことがあっても生き延びろ」と言って別れた。太田氏は紙一重の差で生き延びることができたが亡くなった多くの仲間のことがいつも頭にあるという。
戦後はマスコミ学を専攻しながら、日米両国のかけひきや同胞の裏切りを知ったと記している。 1957年〜8年の那覇市民の選挙で当選した瀬長亀次郎市長を反米的という理由で、時の米高等弁務官が法令を変えて追放した点について後日、当の弁務官にインタビューした太田氏は、 「あなたは民主主義国のアメリカから来ていながら、民主的に選ばれた市長を追放したことに良心の呵責はなかったのか」 と尋ねた。 すると弁務官は、 「冗談じゃない、市長の追放は自分が決めたのではない。あれは何人かの沖縄政財界の指導者の強い要請を受けてやったのだ」 と答えた。 それを聞いた時ほど私は情けない思いをしたことはありません、と著者は語っている。 核抜き本土並み日本復帰の願いも空しく、日本全土の0・6パーセントの面積の沖縄に在日米軍基地の75パーセントが集中している。この事実を、多数決原理とする民主主義の名において日本政府が未解決のまま放置する現実に対して太田氏は、民主主義は少数派の意見を尊重することが前提と説いている。 その一方では、知事として沖縄と聞けば悲劇の島とされがちな暗いイメージを転換し21世紀には若者が夢を描き希望の持てる島にするために努力した。遺骨収集、植林など全島をあげて取り組んだ明るい展望を含んだ活動も記されている。 国家、個人エゴにふれながら沖縄の歴史を語りつつ読む者の生き方を問うている忘れ難い本である。
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