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山崎哲
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茶房ドラマを書く
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01物干し竿 岩波三樹緒

茶房ドラマを書く/作品紹介
<短編>    サイレン    瑠璃子

 その日、町田竹三は朝から忙しかった。客が来るのだった。
「十時頃うかがいたいんですけれど。ご都合はいかがかしら」
 電話の主はそう言った。品のよい中年女性の声だった。
 落ち着かない気分で、六時には目が覚めてしまった。外はまだ薄暗かった。カーテンのない窓からは、平たい紫雲が空になびいてるのが見えた。
 春先とはいえ、朝は底冷えがした。竹三は薄い掛布にくるまって、体を縮こまらせた。もう一度寝ようかと思ったが、目がさえて眠れそうにない。仕方なく起き出すと、パジャマ代わりのトレーナーの上に分厚いビニールのジャンパーを着こんだ。ストーブは点けなかった。点けようにも、肝心の灯油が二週間前から切れているのだった。 彼は布団の上で胡座をかき、たぐり寄せた毛布を胸もとまで引き上げた。彼の住む団地には、どの部屋にも柵のついたベランダがついている。六階の部屋からは、錆びた鉄枠越しに近郊の町並みが見渡せた。どれも似たような箱形の民家の屋根に、朝日が斜めにあたりはじめていた。家々に囲まれた小学校のグラウンドは、オレンジ色の水たまりみたいだった。少し先には緑の大樹に包まれた神社があり、その向こうには、もう何年も営業していない銭湯の煙突が細長い影法師のように立っていた。目覚めたばかりの鳥の一群がどこからかやってきて、古びた煙突の上を弧を描いて飛び、鳴き交わしながら境内の木立に吸いこまれていった。

 竹三はとろんとした目で、そんな光景を眺めていた。やがて、柔らかな光が窓を通って彼の足元を暖めはじめると、ふと我に返った。
 そうだ。今日、オレには客があるのだ。
 彼は布団をはね除けて立ち上がった。竹三がここに住みはじめて五年あまり。客を迎えるのは初めてだった。彼は、客にいい印象を持ってもらいたかった。この部屋にも、彼自身に対しても。
 まずは部屋の片づけにとりかかった。それは容易ではなかった。ふすまで仕切られた四畳半と六畳の二間は、物であふれかえっていた。それらは竹三の暮らしに必要な品ばかりとは言えなかった。古いテレビが数台。音のでないラジオやラジカセが数個。カバーのはずれたスピーカー、電源の入らないパソコン、錆びついたミシンや編み機、それに大小様々な時計もあった。すべて彼が団地のゴミ置き場をまわって集めたものだ。
 とりあえず、手当たり次第奥の六畳間に放りこんだ。その上に、丸めた布団と掛布も積み上げた。入りきらない分は、玄関外のコンクリート通路に出すことにした。そこにはすでに壊れた自転車やベビーカーが置かれていたが、隙間を見つけて押しこんだ。
 どうにか部屋をこざっぱりさせると、今度は掃除にとりかかった。ほうきを探したが見あたらない。たしか、どこかにあったはずだが。仕方なく目につくゴミを手で拾い、スーパーのレジ袋につっこんでまわった。丸くふくらんだ袋の山ができた。それらを壁に寄せ、目隠しに毛布をかぶせた。そうして中央にこさえた円形の空間に、久しく埃をかぶっていた折りたたみテーブルを据えた。
 竹三の顔に、満足そうな笑みが浮かんだ。そりゃ完璧とは言えないだろうけど、どうだい。客間としては、なかなかのもんじゃねえか。
 心が浮き立つようだ。こんなに体を動かしたのは久しぶりだが、疲れを感じるどころか、むしろ前より身が軽くなった気がする。窓を開けると、朝の空気もすがすがしい。
 そのとき、澄んだ春の微風に乗って低いサイレンが聞こえてきた。
 朝っぱらから、またかよ。竹三は舌打ちした。数年前から聞こえはじめた。工場の始業を告げるみたいな、単調で抑揚のない、長く尾を引いて続くサイレンの音。それがはじまると、竹三は決まっていらいらした。ちくしょう、いったいどこのどいつが鳴らしてやがる。サイレンの鳴る時刻は、決まっていないようだった。数日沈黙していることもあれば、日に何度も鳴りだすこともあった。それがまた、腹立たしかった。
 竹三は窓を閉じ、鍵も下ろした。それでも足りなくて、両手で耳をふさいだ。わずらわしいサイレンは心もち小さくなったが、代わりに耳の奥でかすかな地鳴りのような音が聞こえた。いつだったか、飯場で一緒に働いていた男に教えられたっけ。
「それは血流の音だよ。耳をふさぐと、自分の体を流れる血の音が聞こえるんだ」
 ずいぶん物知りなやつだと感心したものだ。竹三はその男の名前を思い出そうとした。顔も思い浮かべようとしたが、ぼんやり煙がかかったみたいで、どうしてもだめだ。どこの工事現場だったろう。八王子か、蒲田だったか。そのうち、考えるのが面倒になってやめた。彼は再びとろんとした忘我に落ちていった。何も考えず、何も思わず、自分の体内から聞こえる低い水音に耳をすませた。

 早朝のスーパーマーケットは人影もまばらだった。
 きれいに磨かれた床を、竹三は足を引きずりながら歩いた。天井を埋め尽くした蛍光灯がやけにまぶしい。通路をうろついて、菓子売り場を探した。少し歩きまわっただけなのに体の節々が痛んだ。朝から慣れない片づけをしたせいに違いない。
 五十歳を過ぎたばかりというのに、腰を曲げてそろそろ歩く彼の姿は八十の老人のようだ。十代の半ばで故郷を出て、彼はいろいろな仕事を転々とした。ほとんどが短期の肉体労働だった。不安定な暮らしだったけれど日銭は稼げたし、学歴も職歴も問われない。小うるさい質問をされることもないから、気が楽だった。それでも一度だけ、きちんと就職しようと警備会社のガードマンに応募したことがある。背広を着た面接官に「弊社を志望なさった動機について話してください」と言われ閉口した。ひどく緊張して頭の中が真っ白になり、ひと言も発しないままその場を逃げ出した。あんな思いはこりごりだ。
 竹三は、袋詰めにされた和菓子の棚を見つけて立ち止まった。
 そうそう、ちょうどこんな菓子だったな。

 あれは小田原の大きな種苗店にいた頃のことだ。ガラス張りのフロアには家庭向けの観葉植物から、農作物の苗、南洋の珍しい樹木まで置かれ、ちょっとした植物園みたいだった。彼はそこで、毎日運ばれてくる種や苗をトラックから下ろしたり、客が買った鉢植えを車まで運んだりする仕事をしていた。昼前の十時と午後三時に、店の若奥さんが従業員たちにお茶を煎れてくれた。色の白い、口数の少ない女性だった。どことなく悲しげで、誰とも目を合わせて話をすることもない人だったが、汗をかいた体に彼女の煎れた熱い茶は染みいるようにうまかった。
 長年酷使したせいで、その頃から竹三の腰は使い物にならなくなりはじめていた。重いものを持つと、きしむように痛んだ。我慢して荷役を続けたが、そのうちまるっきり力が入らなくなってきた。彼はうんうん呻りながら、種が詰まった袋を地べたを引きずるようにして運んだ。
 そのうち、ふと竹三は気づいた。午後の休憩に、茶と一緒に出される菓子が自分のだけ少し多い。他の者が一個なら、彼は二個。他の者が二個ならば、彼は三個というふうに。不思議に思っていると、支度を終えて部屋を出る奥さんが竹三の脇を通った。
「ごくろうさま」
 消え入るような声だったが、彼には聞こえた。それだけ言うと、奥さんは足早に行ってしまった。
 オレのことを気遣ってくれた。優しい人だったな。今頃どうしているだろう。
 今でもときどき思い出すと、彼は胸の奥が暖かくなる。
 結局、その種苗店が彼の最後の職場になった。
 あるとき、竹三は荷下ろしをしていて、トラックの荷台から転落した。彼の体は駐車場のコンクリートに叩きつけられ、一緒にずり落ちてきた二十キロもある腐葉土の袋の下敷きになった。右肘と大腿骨を骨折し、二ヶ月入院をした。退院しても、軽く足を引きずらなければ歩けなかった。肘は九の字に曲がってしまって、肩より上に物を持ち上げることができなくなった。以前のような力仕事はとうてい無理だった。けれどその代わり、役所は彼に障害者手帳をくれた。
 以来、毎月振り込まれる少額の手当で彼は生活している。とくに不満はなかった。贅沢をしなければ暮らしていけたし、つましい暮らしに慣れた彼には、たとえ贅沢をしろと言われても、仕方がわからなかった。むしろ、働かなくて金がもらえるなんて夢のようだ。
 竹三は、商品の棚から安売りのどらやき五個パックと緑茶のペットボトルを選んで手持ちかごに入れた。レジを打つ店員は髪をレンガ色に染めた若い男で、まだ起き抜けといった風情で眠い目をこすっていた。
「にいちゃん、それ痛かったかね」
 青年の耳のピアスを指さして、竹三は尋ねた。
「はあ」
 青年は気の抜けた返事をした。
「オレなんかさ、ほら」
 そう言うと、彼はトレーナーの袖をまくって、黒く変色した肘の手術跡をむき出して見せた。
 ちらりと見ただけで、青年はレジに目を戻した。
「三百五十六円です」
 竹三は、財布の小銭をレジ台にひとつひとつ数えながら丁寧に置いていった。
「今日は、うちにお客があるのよ。でもって茶菓子を買いに来たのよ」
 青年は竹三が並べた小銭を手のひらでかき集めた。
「ちょうどお預かりします」
「まあ、スーパーで買い物するのに、いちいち理由なんて説明するこたあねえだろうけんどよ」
 竹三は笑った。
「にいちゃん、ありがとね」
「ありがとうございました」
 店員も頭を下げた。心のこもらない礼だったが、それでも竹三は上機嫌だった。なにしろ、今日は特別な日なのだ。これで準備も整った。あとは客を迎えるだけだ。約束の時間は、もう間もなくだった。
 
 時計をにらんでいる。文字盤に固定された長い針と短い針。細い秒針が、かちりかちりと時をかみ砕きながら、小さな音をたてて巡っている。
 十時を少し過ぎたあたりで玄関の呼び鈴が鳴った。待ちかねたようにドアを開けると、客が立っていた。
 年の頃は四十くらい。ふっくらした大柄な女だ。クリーム色のスーツを着て、肩にとどく髪はゆるいウェーブをかけてセットしてある。
「こんにちは」
 口紅を塗った唇が、竹三に向かって笑いかけた。
 彼はぎこちなく頭を下げると女を招き入れた。パンプスを脱いだ女のナイロンストッキングは薄く、素足の爪が透けて見えた。自分の前を通り過ぎるとき、豊かな髪からスプレーの甘い香りがした。それだけで、彼はぼうっとしてしまった。
 女は部屋に入るとさりげなくあたりを見回し、それから竹三が指し示した座布団に膝を折って座った。
「はじめまして。わたくし瀬田第四団地の管理組合で運営委員をしております、西棟B2の佐藤と申します」
 女は名乗った。
 竹三も愛想よく返答しようとしたが、うまくいかなかった。緊張して顔がこわばった。相手が真っ直ぐ自分を見てると思うだけで、体が石のようになってしまった。
 女はそんなことは気づきもしない素振りで、このところよいお天気が続きますねとか、もうすぐ桜も咲きますねとか、でも最近団地では風邪がはやっているから町田さんも気をつけられてとか、そんな話をにこやかに続けた。
 それから、ふと気づいたように竹三に尋ねた。 
「お生まれはどちらです?」
 竹三は顔を赤らめた。
「オレのしゃべりがどこか変かね」
 女はなだめるように頬笑んだ。それがまた気に障った。
「どうせ田舎っぺだからよ」
 彼はぷいと横を向いて言い捨てた。
 女は顔を曇らせた。
「わたしの両親は秋田にいるんです。もしかしたら町田さんもそうかなって。訛りを聞いてちょっと懐かしい気がしたものだから。お気を悪くされたならすみません」
 そう言って目を伏せたので、竹三はひどく女に申し訳ない気持ちになった。なんだってオレはいつもこうなんだ。仲よくしたい相手にも、ついけんか腰になってしまう。
「まあ、そんなに気にせんで」
 彼は女を元気づけるように言うと、茶菓子のどら焼きを勧めた。女は包みを開けて、上品に手でちぎって食べた。
「とてもおいしいわ」
 女がにっこりするのを見て、竹三は嬉しくなった。ペットボトルの緑茶もコップに注いぐと、女の前に置いて勧めた。
 頃合いを見計らって、女が切り出した。
「今日、わたくしがここへ参りましたのは」
 そこで間をとるように優しく言った。
「失礼だったらごめんなさいね」
 竹三は首をひねった。変わった話し方をする女だ。話す前に謝るなんて、そんな作法があるものかね。
「町田さんのご趣味についてですの」
 ご趣味って何の話だ。 
「ほら、ここにあるこの」
『がらくた』とは言いかねて、女は竹三の収集品を目で示した。
「ああ、これかね」
 竹三は照れたように頭をかいた。
「こいつは趣味とは違う」
「じゃあ、なんです」
「そいつは言えねえなあ」
 秘密の計画なのだった。今まで誰にも話したことがない。けれど、不意に竹三は目の前のこの女にうち明けたくなった。本当を言うと、これまでだってずっと彼は誰かにしゃべりたくて仕方なかった。ただ、聞いてくれる相手がいなかっただけの話だ。
「じつは店を持とうと思っとるのさ。今はやりのリサイクルショップってやつだよ」

 それは彼の夢だった。オレの店で、オレの商品を、オレの客に売る。
 団地で捨てられた物をかき集めながら、竹三はよく夢想した。これは人助けだ。世の中、新品を買う金の余裕がない人間は大勢いる。そのことは竹三が身に染みて知っていた。そしてこれは物助けでもある。壊れて見捨てられた物たちも、息を吹き返してまた人の役に立てれば喜ぶに違いないのだ。
 オレの店では、みんな欲しい物が手に入る。そりゃ、少しは代金をもらわねばなるまい。でもそれは礼であって、客たちは感謝の気持ちからすすんで払うのだ。順調に店が軌道に乗ったら、ひとりくらい店員も雇おう。女の店員がいいな。美人だけど若すぎず、感じがよくて思いやりにあふれている。そうだ、ちょうどこの人みたいな女だ。いや、ひょっとして、詳しい話をしてやったら、一緒にやりたいなんて言い出すかも知れないぞ。もし彼女がその気なら、考えてやらないこともないけどな。
 竹三はひとりでにやにやした。
「でも、このままじゃ売れないでしょう」
 女が尋ねた。
「もちろん修理はするさ」
 竹三は答えた。
「見たところ、どれも壊れたままのようですけど」
「そのうちにやるさ」
「そのうちって?」
「そのうちは、そのうちさ」
「それまで、この調子で物は増え続けるわけですか」
「そうだよ」
「ゴミ漁りもお続けになるつもり?」
「だったらなんだよ」
 空想の羽根を折られて、竹三はむかっ腹を立てた。
「まるで警官みたいだな、あんた」
「わたしは、瀬田第四団地管理組合の運営委員です」
 女は事務的に繰り返した。
「団地のみなさんから苦情が寄せられてます。あなたがゴミ集積所から勝手に廃品を持ち出しているって」
 竹三は驚いて聞き返した。
「苦情ってなんだね」
 声を荒げる竹三の顔を、女はまじまじと見た。そして静かに言った。
「あなたの場合、あっちのゴミをこっちに運んでいるだけでしょう。ねえ、目を開いてよく見てください。この部屋はゴミ溜めじゃないですか」
 竹三の怒りに火がついた。
「あんた、いったいどういう了見だね。いきなり他人の部屋を訪ねてきて、他人の持ち物をとやかく言って。だいたい、自分らがいらないって捨てたもんだろうがね。その面倒を見ようっていうオレの、どこが迷惑なんだがね」
 彼は甲高い声でわめいた。
「迷惑っつうのなら、あのサイレンの音の方が、ずうっと迷惑なんじゃないかね」
 女はきょとんとした顔つきをした。
「どのサイレン?」
 そんなふうにとぼけたってだめだ。
「今も聞こえとるだねえかよ。何のサイレンだか知らん。うるさくってかなわん」
 竹三は顔をしかめて首を振った。あまり激しく振ったので、しばらく散髪をしていない髪がばさばさと目の下までかぶさった。ほつれた髪の間から、彼は女をにらみつけた。女は怯んだように腰を引いた。
「あなたがそういう態度でしたら、行政にお願いして撤去していただくしか方法はありませんね」
 今度は竹三がきょとんとした。
「ギョウセイってなんだね。テッキョとはどういうことだね」
 女の言葉の意味がわからなかった。おそらくそれは屈強な男たちで、力ずくで彼を追い出そうとやって来るのだと思った。そんなもんに負けてたまるか。 
「またご連絡いたします」
 女はそそくさと立ち上がった。
「おうともよ。こん次はギョウセイさんでもテッキョさんでも、連れてくればいいだがね!」
 竹三は女の背中に罵声を浴びせかけた。怒りはそれでもおさまらなかった。女が消えたドアに向かって、うおおう、うおおうと野犬のように吠えたてた。大声を出し続けていると、いくぶん気分がすっきりした。彼はぴたりと叫ぶのをやめた。
「ばかやろうが」
 小さくつぶやくと肩を落とした。うなだれて汚れた畳のへりを見ていると、なんだか無性に悲しくなってきた。彼は、自分がしぼんだ風船にでもなった気がした。

 午後になって、竹三は散歩に出かけた。
 団地から多摩川の河川敷へは、歩いて二十分もかからなかった。硬いつぼみをつけはじめた桜並木を抜け、バス通りを越えると、間もなく土手が見えてくる。途中の空き地で縞模様の蛇を一匹見かけた気がしたが、すぐに見失ってしまった。
 歩きながら、竹三はまた思い返していた。
 ひどい女だ。最初はきれいな人だと思ったが、よく見れば厚化粧の年増女というだけだ。首筋はたるんでいたし、胸もとには茶色いシミが浮いていた。オレはちゃんと見逃さなかったからな。だまされるもんか。オレにひどいことをしようったってだめだ。そうだ。今度やつらがやって来たときのために、備えをしとかなきゃな。武器を用意しよう。包丁とかナイフとかな。そいつを手に持って脅してやるんだ。一歩でも入ったらただじゃおかねえ。威勢よく啖呵を切ってやるんだ。
「ただじゃおかねえ」
 彼は口の中でぶつぶつ練習をした。そう言って敵を追い払う自分を想像するうちに、少しずつ気が晴れてきた。そして河原に着く頃には、実際に自分がその勇敢な行為をすでに成し遂げた後のように、すっかり機嫌がよくなっていた。
 川は午後の日差しの下で、ゆったり流れていた。小さな波のひとつひとつが光を吸ってきらきら輝いていた。
 竹三は岸に沿ってのんびり歩いた。ときどき身を屈めて、草むらから片方だけの手袋や、ビーズを編んだブローチや、使いかけのインスタントカメラを拾ってジャンパーのポケットにしまった。 
 河原には、いつもいろんな物が落ちていた。
 いつだったか、つぶれた段ボール箱の中で鳴いている子猫を見つけたこともある。竹三はその猫を連れ帰り、しばらくの間飼っていた。猫はとても人なつこく、竹三の膝の上にはい上がっては丸くなって眠った。猫の前足は綿みたいに柔らかで、彼は指で触って軽くつまんだり、つついたりするのが好きだった。そうすると猫は目を閉じたまま足を持ち上げ、まるで夢の中で絵を描くように優しく空中を動かすのだった。
 ある日、猫は彼が楽しみにとっておいた焼き鮭を、ちょっと目を離したすきに食べてしまった。竹三は怒って猫を蹴飛ばした。小さな猫は鞠みたいに壁まで吹っ飛んで床に落ち、みゅうと苦しげに鳴くとそれきり出て行ってしまった。
 恩知らずな性悪猫め。
 それでも、あたりで似た猫を見かけると、竹三はつい目で追ってしまう。小さく舌を鳴らして呼んでみたりもする。猫たちは胡散臭げに一瞥すると、彼を残していつも行ってしまうのだけれど。

 石ころだらけの道を歩いていると、途中に帽子が落ちていた。グレーのソフト帽だった。少しくたびれているが、目立つ汚れもないし、何より形が洒落ている。試しにかぶってみると、サイズもちょうどいい具合だった。
 竹三は河のへりに近づいて、水面を鏡代わりに覗きこんだ。帽子をかぶった自分は、なかなかいい男に見えた。つばを指でつまんで少し傾けてみた。うん、この方がいいかな。
 川面を眺める竹三の背後を、自転車に乗った親子連れが、のどかに語らいながら通り過ぎて行った。道の反対方向からは、ジョギングする若い女がやって来る。川沿いの広場では草野球をやっていた。子どもたちの歓声。かーんと音をたてて白球が空を舞い、周囲の観客からどよめきと拍手がわき起こった。
 そして、それらの音に混じって、またあのサイレンが聞こえだした。高く低く、呻るように鳴り続ける。何を知らせようとしているのだろう。何を警告しようとしているのだろう。まるでわからないが、その音は人が耳をふさいだときにだけ聞こえるあの血の音みたいに、いつもそこに『在る』のだった。
 竹三は眉間にしわを寄せて目をつぶった。
 しつこいサイレンめ。まるでスズメバチみてえだ。払っても払っても戻って来て、オレの周りをぶんぶん飛びまわりやがる。だが、まあいいさ。原っぱを蜂が一匹飛んでるからって、春の気分が根こそぎ台無しになるわけじゃない。
 彼は閉じていた目を開いた。位置を確かめるようにちょっと帽子のへりに触り、それからよく晴れた空を見上げた。飛行機の白い機影が、ずっと高い所を日にきらめきながら西へ向かっていた。
 竹三はぽかんと口を開けて、しばらくそれを眺めた。それから、枯れ枝のような足を引きずりながら浄水場の方へ歩きはじめた。