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山崎哲 |
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01物干し竿 岩波三樹緒 |
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<短編> 荒野 北村獣一
(2006年山崎賞優秀賞)
テレビは、白いジャケットを着た女のリポーターが、深刻そうな表情をしながら橋の上で語り続けている姿を映していた。この橋の上から我が子を突き落とした女がいて、それがどれほど酷いことかを、リポーターはカメラ目線で語っている。 私は夕食を食べ終わって、ソファの上で膝を抱えながら、その様子をなんとなく眺めていた。なんとなく、容疑者の女は何を考えていたんだろうとか、最近変な人が多いなとか、あまり真剣味もなく思っていた。けれど、ずっとその映像を見ていたら、なんだか妙な気分になってきた。何かがしっくりといかないような、そんな感じだ。なんだろう。なんだかよくわからないけれど、何かがおかしいような気がした。 そう思って、しばらくそのままテレビを見ていると、途中から、ふと女のリポーターの話し方が気になりだした。やけに低い声がなんだか不気味だし、話すスピードだって不自然にゆっくりな気がする。なんだろう。しっくりいかない感じはさっきよりもはっきりしてきた。そういえば、よく見ると、目だって焦点が合ってないんじゃないだろうか……。ついさっきまでは何とも思わなかったのに、一度そんなふうに思ってしまうと、もう他のことには気がいかなくなってしまった。リポーターはまだ同じように話し続けている。もういいから、早く終わってくれればいいのにと思った。なのに、そう思いながらもテレビの画面から目が離せなかった。なぜだろう。 そして目が離せないまま画面を見続けていたら、なんだか胸の真ん中が重くなってきて、苦しくなった。私、なんだか変だ。いったいどうなってるんだろう。そう思ったとき、何かの回路が一瞬のうちにつながった。その一瞬で、私と、このリポーターと、そして子どもを突き落とした女が、一直線で結ばれてしまったような気がした。あっと思った。その瞬間、本当に何かで頭を思いきり殴られた感じがした。私はひどく気が遠くなって、そのままどこかへ行ってしまいそうになった。
それを遮ったのは母だった。 「ユミ、ヨーグルト食べるでしょ?」 母はそう言いながら、私の前にスプーンとヨーグルトを置いた。 「あ……、うん……」 咄嗟のことで、私が言葉に詰まっていると、母が言った。 「『うん』じゃなくて、『ありがとう』でしょ?」 「あ……、ありがとう。」 一呼吸おいてから笑顔でそう言った瞬間、また胸が苦しくなった。今度は強烈な吐き気がした。 「……どうかしたの?」 母が訊いたけれど、私は 「ううん、なんでもない。ごめん、これ、やっぱりいいや」 と言って自分の部屋に逃げ込んで、そしてそのままベッドに潜った。鼓動が妙に早い。目を閉じたまま必死に吐き気をこらえていると、頭の中にさっきのリポーターが浮かんできた。低い声。焦点の合わない目。なんだかこの女はリポートをしているんじゃなくて、何度も何度も、ただひたすら必死に土壁を塗り続けているような、そんな気がしてくる。何かが変だ。そう思うと、女の着ていた白いジャケットや、マイクを握る手さえ、どこかおかしい気がしてきた。吐き気はだんだんと治まってきたものの、依然として鼓動は早くて、大きかった。そして、一回一回脈打つたびにベッドが揺れるものだから、地震がきたのかと思った。
翌朝、駅を出たところでアサコに会ったので、一緒に歩いて学校に向かった。アサコは私に「おはよう」といってくれたのに、私はなぜだか、いつも言っている「おはよう」が言えなかった。 「大丈夫?具合悪いの?」 そんな私の様子をおかしいと思ったのだと思う。アサコが訊いた。 私は大丈夫だと言った。「おはよう」は言えなかったけれど、他の会話は普通にできた。アサコが普通に話して、私も普通に話せた。 今日は久しぶりに暑い。七月に入ってからも梅雨が明けずに、ずっとじめじめした日が続いていたせいですっかり忘れていたけれど、明日が終業式で、明後日からはもう夏休みだ。つまり、高校に入ってからもう四ヶ月が過ぎたのだ。早すぎる、と思った。この四ヶ月、私はいったい何をしていたんだろう。うまく思い出せない。うまく思い出せないのは、暑さで頭がぼーっとしているせいかもしれない、と思った。そんなことを思っていると、歩いているすぐ横を、トラックが一台、大きな音を立てながら通っていった。熱くなった排気ガスのむっとするにおいがした。 それにしても暑い。久しぶりの暑さに体が汗のかき方を忘れているのか、歩いていると背中だけにだらだらと汗が流れた。 私は気づいている。あのリポーターは深刻ぶって語り続けていた。だけど、あの女は、本当は大変なことだなんて思ってないんだ。子どもを橋から突き落とした女だって、きっと大変なことだなんて、ほんの少しも思ってないんじゃないか。そしてそれは、私にも言える。大変なことだと思いきれない自分に気づいている。もちろん頭ではわかっている。特にあのリポーターはよくわかっているのだろう。だからこそ、ふりをしなければならなかったのだ。中身がからっぽなことを隠すために、外側を厚化粧みたいにべたべたと塗り続けた。その結果が、あの奇妙な話し方なのだと思う。
「おはよう。はい、おはよう」 気づくともう校門の前まで歩いてきていた。そこには中年の体育教師が立っていて、登校指導と称して、通り過ぎる生徒たちに向かって挨拶を連呼していた。三重に皺のある黒い額には、汗が浮いて光っている。それに対して、多くの生徒が挨拶か会釈を返していた。隣ではアサコも軽く会釈をしているのが視界の隅に入った。私は、こんなに簡単に次から次へと挨拶ができてしまうこの体育教師のことを、すごいなと思いながら、黙ってその横を通り過ぎた。私、やっぱり変だ。私だって、昨日までは挨拶くらい普通にできてたのに……。校門から昇降口に向かう緩やかな下り坂を歩いていると、目の前の道がぐにゃぐにゃとねじ曲がって見えた。後ろでは体育教師が何かを言っている気がした。たぶん、挨拶をしなかった私を咎めているのだろう。でもしょうがない。今は何を思いながら、どんな顔をして挨拶をすればいいのかわからないのだ。アサコはそんな私を見て、ひどく心配そうにしていた。私はなんだか申し訳なくて、自分が情けなかった。これ以上、アサコに心配をさせたらいけないな、と思った。
授業は、私がぼんやりしていてもお構いなしに進む。考えてみれば、終業式の前日にまで授業をするなんて、まったくヒドい話だと思う。アサコは保健室に行くことを勧めてくれたけど、私は行かなかった。どうしても保健室には行ってはいけないような気がしたからだ。 教室にはエアコンが効いていて、そのせいで、本当なら暑苦しくて蒸すような空気で充満しているはずの女しかいない教室でも、それなりに快適にすごせた。黒板にはおじいちゃん先生がx軸だとかy軸だとかの図を描いている。良い先生だと思うけど、もごもごとしゃべるせいで、たまに何を言っているのかわからないことがある。だからもちろん授業の内容もいまいちよくわからないのだけど、それはいつもいつも授業を聞いているふりばかりしている私のせいでもある。 アサコは美人だ。それに品もある。初めて見たときからそう思っていて、それは今でも変わらないのだけど、それで初めのうちはなんだか近づき難いような気がしていた。けれど、あるとき、アサコが歯ぐきを剥き出して豪快に笑っているのを見て、とても魅力的だなと思った。それから私はアサコと一緒にいることが多くなった。もちろん、他の女の子たちとも話はするけれど、アサコと一緒にいるときがいちばん安心できたし、笑ったアサコの歯ぐきを見るたびになんだか嬉しくなった。そして、他のどの子も私ほどはアサコの魅力に気づいていないだろうな、という妙な自信があった。 突然、後ろの席でケータイが鳴って、そしてすぐに止まった。二人の女の子がくすくすと笑った。おじいちゃん先生は一瞬だけ戸惑った表情をしたような気がしたけれど、次の瞬間には、もういつも通りにもごもごと授業を進めていた。 私はふと、なんでこんなところに座ってるんだっけ、と思った。私は確か、こんな私立の女子校になんか来たくなかったはずだ。通学だって二時間かかる。それも嫌だったはずだ。もしも地元の高校に進んでいたら、ミホもカナコも、それに田中君も一緒だったのに、なんで私はこんなところにいるんだろう。なんで母がこの学校を薦めてきたとき、私は反対しなかったんだろう。そして、なんで今でもその母に笑顔で接してしまうんだろう。 でも……、と思う。でも、私は本当に母を嫌っているのだろうか。わからない。そう思うと、昨日のように胸が苦しくなって、脈が早くなってきた。私は少しだけうずくまりながら、ちらりとアサコの方を見た。アサコは黙々とおじいちゃん先生の板書をノートに書き写していた。もしもアサコがいなかったら、私はなんの未練もなく、この学校を辞められただろうか。わからない。そんなことを考えるほどこの学校のことが嫌なのだろうか。わからない。 私はうずくまったまま、教室の中を見回してみた。みんな一様に授業を聞いているか、もしくは聞いてるふりをしていた。ふと、ここにいる女が全員、昨日のリポーターに見えて、また吐き気を覚えた。
ノボルと出会ってセックスをするようになったのは、二ヶ月くらい前だったと思う。ノボルは自分のことを二十五歳だと言っていたけれど、お腹がずいぶん出ているのを見ると、もしかしたら三十代かもしれないと思った。でも、そんなことはどうでもよかった。「どこが好き?」と訊いたときに「君の学校の制服が好き」と言ったこの男を、なんて正直な人なんだろうと思った。もしかしたら、ノボルという名前も本当じゃないのかもしれない。でも、そんなこともどうでもよかった。 ソファに座って、紙パックのミルクティーをストローで飲みながらぼんやりそんなことを考えていると、後ろからノボルが近づいてきて訊いた。 「どうしたの?」 私は振り向かずに前を向いたまま、 「なんでもない」 と答えた。その時のノボルの表情はわからない。でも、たぶんいつもと同じなんだろう。ノボルはそのまま私を抱きしめようとして、後ろから腕を伸ばしてきた。なんとなく、もしかしたらこれは優しい抱き方なんじゃないかな、と思った。 ノボルは妙な男だった。どんなことがあってもまったく慌てずに、表情もほとんど変えない。いつもどこか心ここにあらずといった感じで、言うことだっていつも微妙に的はずれだ。にもかかわらず、その言葉はどこか核心をついているような気がして、なんとなく迫力があった。 ノボルは何かと注文も多かった。セックスするときは、私はいつも制服を着たまま、パンツだけ脱がされた。休みの日に会うときにも、当たり前のように制服は持って来させられた。だいたい、初めてしたときだって、経験のない私に向かって、そこを触れとか、そこにキスしろとかうるさかった。正直、うっとうしいなと思うこともある。けれど、妙に優しいところがあるこの男と、もう会わないというほどの理由もなかった。 正面から上の制服をたくしあげて、懸命に胸をさわっているノボルの頭を撫でながら、私はライオンのことを考えていた。ライオンは自分の子を谷底に突き落として、そこから這い上がってきた子だけを育てると聞いたことがある。それが本当かどうかは知らない。ただ、もし本当だとしたら、子どもを突き落とすとき、親のライオンはいったいどんな気持ちなんだろう。落ちて死んでしまう可能性なんて、まったく考えていないんだろうか。わからない。それに、どうやって子ライオンを突き落とすのかな。きっと、まず子どもを谷に落ちないぎりぎりのところに立たせるのだろう。そして、背後からそっとその背中を押してみる。けれど、背中に触れる直前に、娘はその妙な気配を察して、こちらを振り向くのだ。けれど、私の手はそのまま娘を押してしまう。娘が、あっ、と思った瞬間、私の手をつかもうとするけど届かない。今まさに落ちていく娘と目が合う。その瞬間は、きっとスローモーションみたいなに感じるんだろうな。そして、橋から落ちていく自分の娘を眺めながら、ああ、自分はライオンみたいだな、などと思うのだろうか。 そんなことを考えながら、ぼんやりと私の上で動くノボルを眺めていた。ノボルのお腹がゆさゆさと揺れた。それを見ながら、私はふと、田中君もこんなふうに、制服を着せたままセックスをするのかな、と思った。ちょっと考えてみたけれど、田中君としているところは、うまく想像することができなかった。
夕食を食べ終えてから、昨日と同じように、ソファの上でひざを抱えてテレビを見ていた。そこでは昨日のニュースの続報を、今日は男のリポーターが伝えていた。今日の男性リポーターはいささか早口で、内容だけを黙々と伝えている気がして、なんとなく、ああ、これが仕事なんだな、と感じた。そして、こういうのは単に毎日リポーターが交代するものなのかもしれないけれど、昨日の女リポーターはテレビ局に苦情が殺到してクビになってればいいのに、とけっこう本気で思っていた。 「ユミ、置いとくわよ」 そう言って唐突に、母がまた私の前に皿を置いた。 私は置かれた皿をちらりとも見ずに、 「ありがとう」と言った。 言った瞬間、まずい、と思った。私はそれをいつも通りに言おうと思ったのに、その笑顔は硬直してひきつり、声はめちゃくちゃに上ずってるような気がした。けれど母は、そのことに気づいていないのか、何事もなかったようにキッチンに戻っていった。いや、もしかしたら気づいてるのに、気づかないふりをしているのかもしれない。まあ、それならそれでいいや。私はなんとなく投げやりな感じでそう思った。再びテレビに目を向けると、さっきの男性レポーターがスタジオと中継を結んで話をしていた。彼はやっぱり淡々と仕事をしていた。私はそれをじっと見ていることができなくて、目を背けてしまった。目を背けたら、なんだか惨めな気持ちになった。と同時に、なんでそんなことを思うのかがわからなくて、やっぱり変になっちゃったのかな、と思った。
しばらくそのままぼんやりしていたら、そのうちに視線の先に、ひと切れのケーキがあるのに気づいた。テーブルの上の白い皿にショートケーキが置かれていて、その上には苺がひとつ乗っていた。ヘタをもがれて、生クリームの上に転がっているその苺を見て、ふと、ああ、これは私みたいだな、と思った。そう思って、その苺をじっと見つめていた。私はそっと苺を摘まみ上げてみた。赤い色はくすんでいて、まずおいしくはなさそうだった。形もいびつで不格好だし、第一、思いきり季節はずれだ。けれど、その小さくてまずそうな苺が、なぜか自分の一部のように思えて、大事にしてあげたいと思った。私は不均等にへばりついた生クリームを、舌と唇とできれいに舐めとっていった。ざらっとした感覚と生クリームの甘さが舌に残った。そうしてからもう一度、目の前で苺を観察してみた。よく見ると、表面は意外とごつごつしていて、ぶつぶつとへばりついている種が気持ち悪い。そして色は、黒で濁ったようなくすんだ赤色をしている。私の血もきっとこんな色なんだろうな、と思った。それからそっと唇で苺にふれてみた。すっと冷たさが伝わってきて、それがとても心地よかった。そのまましばらくごろごろと唇に押し当てたあとで、ゆっくりと苺を口の中に押し込んでいった。半分まで入ったところで、二度、三度と舌と唇でころころと転がして、それからそっと歯を立てて、ゆっくりと噛み切った。じわっと果汁がしみ出した。血の味がすると思っていたのに、実際はちょっとすっぱい普通の苺の味だった。そのことがすごく悲しくて、噛み切った苺を飲み込むよりも前に嗚咽がもれた。残り半分の苺が手からこぼれて、一度べちゃっとひざに当たってから、床まで落ちた。口に手を当てて、わあわあと泣き出してしまいそうなのを必死で堪えようとした。けれど、胸の奥をぎゅうぎゅう締めつけられてるみたいで、勝手に声が出て、涙があふれた。苦しかった。自分でも何がなんだかわからなかったけれど、とにかく悲しくてしょうがなかった。なんとか堪えようとうずくまったら、床に転がった囓りかけの苺が目に入った。囓ったあとの真ん中の白さがやけに目についた。私はそれを見て何かを思うよりはやく、その場で吐いた。
その晩、夢を見た。私は一頭のライオンになっていて、真っ赤な荒野にたたずんでいた。そこは地面も空も見渡す限り真っ赤だった。地面にはごつごつした石が転がっているだけで、視界を遮るものが何もないから地平線が見えた。ふと後ろを見ると、私の左の後ろ足の近くに、子どものライオンが立っていた。横を向いたり下を向いたりして私とは目を合わせなかった。なんだか少し脅えているように見えた。これは私の子どもだろうか。わからない。わからないけど、あんまりかわいいとは思えなかった。 再び辺りを見回す。他には誰もいなかった。ただ何もない赤い荒野がどこまでも続いているだけに見えた。この赤い色は、さっきの苺の色と似ているかもしれないと思った。 それにしても、妙な感じだ。風も吹いていないし、においもしない。暑くも寒くもない。何の音もしないから静かすぎる。こんなことってあるんだろうか。変な感じだ。そんな中でしばらく立ちつくしていたら、なんだか徐々に苛々してきた。自分が何に苛ついているのかよくわからなかったけれど、とにかく苛々して、前足で地面をがりがりと削ってみた。他にどうすればいいのかわからなかった。そんなことをしながら、もしかしたら、と思った。もしかしたら、本当はずっと前から苛々していたのに、今までそのことに気づかなかっただけなのかもしれない。そう思うと、今度はたまらなく淋しくなって、胸の奥が苦しくなった。何度も何度も苦しくなった。こんなとき、人間なら泣くんだろうなと思ったけれど、私はライオンなのでどうやって泣いたらいいのかわからなかった。 ふと、何にもない、と思った。ここには何もない。荒れ果てたその光景を眺めながら、私はいつまでもその場所で立ちつくしていた。
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