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山崎哲
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01物干し竿 岩波三樹緒

茶房ドラマを書く/作品紹介
<エッセイ>     男はつらいよ・ふーてんの寅     野口忠男

(06年ムービーエッセイ賞佳作)

わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。
帝釈天で産湯をつかいました。
姓は車、名は寅次郎、人呼んでふーてんの寅と発します。

 これは、映画「男はつらいよ」の冒頭シーンで、渥美清の寅さんが必ず語るセリフです。
 ところで、数ある寅さん映画の中で、私がおすすめするのは、やはりファン投票第一位の「男はつらいよ」第一作です。
 脚本山田洋次、森崎東、監督山田洋次のこの作品には、後の寅さん映画のエッセンスのようなものが全て含まれていると思われます。

 ご覧になっていない方に簡単に筋書きを申しましょう。
 生まれ故郷の柴又に、八年ぶりで寅次郎が帰ってきます。妹さくらとは二十年ぶりの再会です。叔父叔母が営む、帝釈天参道のダンゴの店寅屋に居候をすることになった寅次郎は、折から持ち上がったさくらのお見合い話におい(叔父)ちゃんの代わりに付き添いを頼まれますが、大酒を飲み、下品な言葉遣いで相手方の不興を買い、見合いの席をぶち壊してしまいます。さくらは、寅屋の庭続きの隣の印刷工場で働く、真面目な青年博(ひろし)さんと結ばれ、結婚し、寅次郎は、帝釈天のお寺のお嬢さん冬子さんとの恋が実らず、失恋して柴又を去って行きます。
 映画そのものは、一見、落語に出てくる長屋のどたばた喜劇のように見えますが、松竹大船の人情喜劇の伝統を引き継いで、下町のユーモアとペーソスにあふれた見事な作品に仕上がっています。
 寅さん映画の魅力はいろいろあると思われますが、主人公の寅さんを支える脇役の人たちの活躍は見逃すことは出来ません。

 ところで、あの脇役達がこの初めての作品でどんなふうに登場してくるのか見てみようではありませんか。そこには思いも掛けない脚本家と監督の腕のさえが見られます。
 勿論、最初に出てくるのは主人公の寅さんです。
 映画は帝釈天の年に一度の祭礼の場面から始まります。
 参道にあふれる人の波、団扇太鼓を打ち鳴らして行列がお寺に向かって行きます。組のお兄さんが数名、纏をかかげて先導しています。と、突然、参道脇の店から一人の男が、上着を脱いで、先頭に駆け込んでくるなり、声を掛けます。「おい、兄ちゃん、おいらにもやらしてくんな」そして、いきなり纏をひったくると、天に差し上げ、くるくると器用に廻しながら、行列を先導して、山門をくぐって行きます。主人公の見事な登場です。
 そして最初の脇役が登場します。
 寺の本堂の上で、絢爛たる烏帽子礼服すがたで、住職が欄干越しに行列を出迎えようとしています。笠智衆扮する御前(ごぜん)さまです。
 纏をもった寅さんが、ばらばらっと住職の真下にきて、跪いて、叫びます。
「御前さまじゃございませんか。そうでしょう。寅ですよ。昔、よくしかられた。車寅次郎ですよ」
 住職は、見下ろす位置で、男をじっと見つめていますが、すぐに、「おう、寅か。寺で、よくいたずらをしていた、あの寅か。よく戻ってきたな」と懐かしそうに申します。
 寅次郎が故郷で出会う最初の人物は、彼が心のよりどころにしている御前さまで、カメラはこのことをよく表しており、寅次郎は膝をつき、地面から仰ぎ見るような姿勢で、堂の上の御前さまを見上げているのです。
 そこへおばちゃん(三崎千恵子)が駆け寄ってきます。二番目の人物です。
「あんた寅ちゃんだろう。そうだろう」

 そして寅屋へと場面が移ります。
 寅屋では、長年の無沙汰を詫び、妹の面倒をみてもらった謝礼の口上を述べる寅さんを前にして、おいちゃん(森川信)、おばちゃんがかしこまって坐っています。
 寅さんは、鞄の中から、商売道具の金ぴかの健康ブレスレットを取り出して二人にプレゼントします。それを近所の人たちが寄り集まって見ています。
「さあ、この腕輪はそこにある、あそこにあるという品物じゃあない。これを腕にはめると、すぐさま、体中の血の巡りがさーっといっぺんに良くなるという品物だよ。今日はお二人に、感謝のしるしに、ふつつかですが、これを差し上げます」
 人の良いおいちゃんは、本物の金の腕輪かと思って、びっくりしながらも喜びます。
 物見高い近所の人々の顔を見て、寅さんの口上も冴えているところへ、さくら(倍賞千恵子)が顔をみせます。人々の顔、顔の中に若い娘の顔を見て、
「あれ、お前……、さくらか?」と寅さん。
 テキ屋ふうの男におびえるさくらの顔が、一転して、喜びの輝きを見せ
「おにいちゃん?」と問いかけます。
「そうよ。おにいちゃんよ。」
 二人の二十年ぶりの再会です。

 寅さんとは相性が悪く、会えば必ずと言っていいほど、喧嘩になる隣のタコ社長(太宰久雄)の最初の登場は声だけです。
 さくらのお見合いをぶち壊し、酔っぱらって、さくらの肩を借りて寅屋に戻ってきた寅さんは、おいちゃん、おばちゃんの「どうだった?」との心配の問いかけに、「ああ、うまくいったよ。何しろ、俺が付いていったんだから」と上機嫌で、裏庭に出て、立ち小便ををします。すると、
「うちの塀に小便をするのは誰だ!」
 という甲高い叫び声。タコ社長です。
 さくらの亭主になる博さん(前田吟)の登場は、その翌日の夕方のことです。
 さくらから見合いが寅さんのせいで駄目になったと聞かされたおいちゃんが寅さんをなじって、二人がつかみ合いの大げんかになりますが、隣の二階から見ていた博さんが仲裁に割って入ってくるのがきっかけです。博さんは、隣家のさくらさんの姿を見るのが楽しみで、何時も寅屋の動静を気に掛けていたのです。
 ふたりの喧嘩は、さくらやおばちゃん、タコ社長に博さんの仲間の職工たち、大勢の人たちの仲裁でおさまりますが、寅さんはおいちゃんとの喧嘩がこたえたのか、次の日、寅屋を出てしまいます。

 そうそう、おいちゃんと喧嘩をしたその日の午後、やはり、重要な脇役の一人が登場しています。寅さんを尊敬しているテキ屋の舎弟のぼる(秋野大作)です。
 のぼるは、寺の裏庭のようなところで、地面に古本の店を開いていますが、客が誰も寄りつかず、ふてくされているところに、寅さんが通りかかって声を掛けます。
「あれ、お前、のぼるじゃないか」
「兄貴!」
 寅さんがたちまち得意の口上で人を呼び集め、古本を売りさばくのを、のぼるは、ほれぼれとした顔で見ています。
 このあと、のぼるは、寅さんに連れられて、寅屋で働くことになり、その晩のおいちゃんと寅さんの大げんかの仲裁に入って、寅さんから投げ飛ばされたりしています。

 さて、寅さん作品の喜劇的色合いに欠かすことのできない脇役の一人に寺男のひげのげん公(佐藤蛾次郎)がいますが、彼は第一作でどんなふうに登場するのでしょう。このシーンはちょっと気がつかないかも知れません。
 妹さくらの見合いを失敗させ、おいちゃんと大げんかをした寅さんは、翌朝、鞄を提げて、ぷいっと寅屋を出て行ってしまいます。さくらとのぼるが気付いてあとを追いかけますが、そのとき、のぼるは、寺の前で、バケツを持った少年にぶつかり、少年は転んでバケツの水を地面にまいてしまいます。
 この少年がのちのあのひげのげん公です。この頃ののぼるもげん公も本当にあどけない少年のような顔をしています。そう言えば、倍賞千恵子のさくらも可愛い少女のようです。
 のぼるとさくらは矢切の渡しで寅さんに追いつきますが、寅さんは、すでに渡し舟の上にいて、二人が声をかぎりに「戻ってきて」と叫んでも、「みんな達者でな」と去ってしまいます。
 矢切の渡しの舟賃の立て札が出ますが、大人三十円、子供二十円でした。

 映画も半ばを過ぎて、やっとマドンナの登場です。
 柴又を去った寅さんは、奈良で、偶然、お寺巡りをしている御前さまに会います。御前さまはお嬢さん(光本幸子)と一緒です。
そこへわけの分からぬ外人の案内役を買って出た寅さんが出会うのです。
 奇遇を喜んだ寅さんは、御前さまが女連れなのを見て、からかいます。
「綺麗な方ですね。御前さまも隅におけませんね」
「馬鹿。むすめの冬子だ。お前が、小さい頃、出目金、出目金と言って、いじめていただろうが」
「あ、出目金!」
 お嬢さんが、寅さんを見て、からからと笑います。寅さんはとたんに恋をしてしまいます。

 ところで、このあたりで二人の名優の名演技の場面を披露いたしましょう。
 一つは、今述べた奈良のお寺さんの場面での、笠智衆の演技です。 寅さんが御前さまとお嬢さんの写真を撮るというので、ふたりに注文をつけます。「さあ、笑って、笑って」 しかし、きまじめな御前さまはなかなか笑えません。やがて、御前さまからあの有名な言葉が飛び出します。「バター」 お嬢さんから「チーズの間違いでしょう」と言われても、二度、三度と渋い顔で、「バター」が繰り返されるのです。いやあ、面白さ絶品です。
 そして、この「バター」は、さくらと博さんの結婚式の集合写真のとき、再び、寅さんの口から飛び出すのです。

 この作品で最後に登場する脇役は志村喬扮する博さんのお父さん諏訪 一郎です。
 さくらと博さんの結婚式は、寅屋、印刷工場と近所の人たちが集まって、神道形式で、つつましくも和気あいあいの内に執り行われます。ただ、車家の関係者ばかりで、諏訪家側は両親の二人だけです。
 博さんが両親と仲たがいをして音信も絶えていたのを、さくらの知らせで突然に表れたのです。
 憮然としている元大学教授の肩書きをもつ 一郎の雰囲気に、みなとっつきにくい感じをうけていて、二人を敬遠しています。寅さんも、博さんから、親も兄弟も無いも同然と聞かされていて、 一郎には良い感情を持っていません。
 披露宴では、司会者(関敬六)も仲人のタコ社長も 一郎の「 」という字をどう読んでいいのか分からず、ごまかすのに大変で、タコ社長の新郎新婦の紹介はしどろもどろの気の毒なものになってしまいます。
 御前さまは、さくらさんの人となりを紹介して「さくらさんは、小さい頃からおとなしい子で、お兄さんの寅次郎君が喧嘩をすると、側に行ってしくしく泣いていました。本当に心の優しい良い子でした。それにひきかえ、お兄さんの寅次郎君には、本当に、困った……、いや、困った……」で、あとの方は「困った」で終わります。

 披露宴も終わりの頃となり、司会の「では、諏訪家を代表して、博さんのお父様からご挨拶を頂きます」とうながされて、 一郎が妻とともに立ち上がります。
 志村喬が演ずる博の父は、憮然とした様子で天を仰ぎ、なかなか喋り出しません。長い沈黙に座がしらけ、花婿の博さんはそっぽを向き、寅さんは白目をむいて、 一郎を睨みつけ、さくらさん始め会衆はうつむいて下を見ています。この重苦しい沈黙の間が絶妙です。
 やおら、 一郎が口を開きますが、その言葉は、参加している人たちの思いも掛けないものでした。大学教授の堂々たる風格に似合わず、博の父は、とつとつと慚愧の思いを語ります。
「本来なら、新郎の親として、みなさんにお礼の言葉を申さねばなりませんが、私共は、そのような資格のない親でございます……。 親として、いたたまれないような恥ずかしさを……、私は、親として、伜に何をしてやれたのか……。隣の家内もそうだと思います」 ここで 一郎は、メガネをはずして、涙をぬぐいます。
「この八年間、私共にとっては、長い、長い冬でした。それがやっと春を迎えられます。
 さくらさん、ありがとう。みなさん、ありがとう。
さくらさん。みなさん。ひろしのことをよろしくお願いします。 さくらさんのお兄さん、二人のことをよろしくお願いします」
 一郎が席に着こうとすると、寅さんが駆け寄ります。
「待ってくれ。おとっつあん。おっかさん。博の奴、喜んでいますよ」と言って、博の父に握手を求めます。そして下を向いて泣いている博さんとさくらの方を向き、声を掛けます。
「さくら。よかったなあ」

 この映画には、他にもいろいろ見所があります。例えば、寅さんが良かれと思ってやることが、ことごとくおかしなことになり、その度に、森川信のおいちゃんの決まり文句「ばかだね、あいつは。本当に馬鹿だよ」が聞かれるシーンとか、マドンナのお嬢さんとデートして、有頂天になったり、お嬢さんに結婚の相手が決まって、失恋する場面とか、観客を喜ばせる工夫が随所にあります。

 ところで、楽しい「男はつらいよ」ですが、見終わってみると、意外に重いテーマが隠されていることに気付かされます。
 私が思いついた点を三つばかり挙げますと、故郷、家族、男と女という点です。これらは、日本的というより、結構、世界的、普遍的な問題をふくんでいるものではないでしょうか。
 渡り鳥の寅さんは、全国を放浪していて、ふと、思い出しては、おいちゃん、おばちゃん、さくらや博さんの住む柴又に、羽を休めに舞い戻ってきます。そして何か悶着を起こすかもしれませんが、そこで新しいエネルギーを注入して、再び旅の空へと向かいます。「人間は、魂のふるさとを求めてさまよう旅人だ」というような言葉を何かで読んだ覚えがありますが、寅さんにとって、故郷柴又は無くてはならぬ場所なのでしょう。
 そう言えば、江戸川の田園風景と帝釈天のお寺を併せ持った柴又という地域は、「故郷」と呼ぶのにふさわしい場所なのかも知れません。
 寅さんの両親は早死にをし、お兄さんも亡くなって、残っているのは、腹違いの妹のさくらだけです。結婚も出来ず、自分の家族を持たない寅さんですが、幸い、親戚のおいちゃん、おばちゃんがさくらを引き取って育てており、寅さんにも、自分たちの跡取りとして、店を継いで貰いたいと考えているようで、いわば、寅屋一家が寅さんの家族の役割を果たしています。
 育ち盛りの頃に、家庭の温かさを知らずに、世の中に放り出された寅さんには、人一倍、家族のぬくもりを求める甘えの気持ちが強いようです。それが、弱い立場にある人や困っている人を見ると、放っておけない義侠心となって吹き出すのでしょう。
 少年の時、家族の縁を絶ちきられた寅さんは、家族のぬくもりを求めて柴又に帰り、家族同然のタコ社長と兄弟のように喧嘩をし、さくらや博さん、おいちゃん、おばちゃんに迷惑を掛け、また、見ず知らずの弱い人たちとも、親類のようにうち解けて、酒をくみ交わすのでしょう。

 もう一つの重要なテーマである男と女の問題、寅さんの女性観について考察してみましょう。
 寅さん映画では、毎回、美しいマドンナが現れて、寅さんは恋に落ち、相手の女性も寅さんに好意を持ちながらも、結ばれることなく、寅さんは身をひいてしまう、というのがお決まりのパターンになっています。
 何人もの女性に恋する寅さんは、一見、ドンファンのように見えますが、次々と女をものにしても飽きたらず、捨ててはまたほかの女を追いかけるドンファンと違って、寅さんは、下品な言葉や野卑な言葉遣いで女性と話し込んでも、その女性の肉体を求めるようなことは絶対に致しません。
 寅さんには、女人のうちにある永遠に女性的なるものへの憧れ、というか、女性の内にある聖なるものへの、少年のような純真な、渇仰の心があるのでしょう。目の前にあらわれる美しい女性の聖性を信じて疑わず、自分をそれに値しないものとして、離れてゆく、そういう純粋な恋心をいつまでも失わぬ男として、寅さんは描かれているように思われます。

 少しくどく書きすぎました。このあたりで、寅さんの「男はつらいよ」の歌でも聞きながら、筆をおきます。

  俺がいたんじゃお嫁にゃ行けぬ
  分かっちゃいるんだ、妹よ
  いつかお前の喜ぶような
  偉い兄貴になりたくて
  奮闘努力の甲斐もなく
  今日も涙の、今日も涙の
  陽が落ちる、陽が落ちる


                        
(蛇足)
映画の初めの方で、さくらと寅次郎が写っている色あせた家族写真がちらっと出ます。
さくらが三つか四つ、寅さんが小学校四年か、五年ぐらいで、寅次郎だけが変な顔をしています。
傑作です。お見逃しのないように。