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山崎哲
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茶房ドラマを書く/作品紹介


短編

Y氏の新しい愛人

岩波三樹緒



Y氏から誘われた。長嶺ヤス子が浅草で踊るから見にいかないか、という。
その昔、Y氏が大学で歌声サークルをしていた頃、彼女も歌いにきていたという。その頃は、踊りをしているなんてしらなかった。活躍するようになってから、つきあいでチケットを買いようになった、と言う。
今は、彼女も七十になってがんばってるから、“かわいそうだから“買ってあげてると付け加えた。

浅草の小屋のような劇場だった。座布団敷きの客席のいちばん前の段に腰掛けた。こんなに前はよくないんじゃないか?とY氏には珍しくためらいつつ坐っていたが、そうだ楽屋に来てと言われてるんだ、と、立ちあがった。
「あなたも来る?」
返事を待たずに、彼はさっさと舞台を突っ切っていってしまった。わたしは迷いつつ、のろのろ追いかけて舞台のそでに入った。
せまい占いの部屋のような楽屋口に、もたれるようにしてY氏が話していた。中の様子はわからなかった。暖簾をたくし上げながら壁にもたれているY氏の黒いセーターの体が、軟弱なシルエットをつくっていた。ラフなかんじとも、くつろいだ感じともいえた。
私は、出番まえのダンサーに、Y氏の同伴として会ってもしかたないな、と感じた。というより、そこに入りこめないものを感じた。
はるか昔の、いや、折々の、永いときを経てきた恋人なのかもしれない。暗転している舞台のはしを引き返して、また、いちばん前の席にもどった。翳りを背負った私の心が後ろの客たちにばれている気がした。

Y氏はなかなかもどらなかった。そして、やがてもどると、
「来なかったの?」
と聞いたから、うん、悪いからと言った。まるで行かなかったかのように言った。
長嶺ヤス子は、少しもお高くとまったダンサーではなく、演目も、今回は、ぜんぶ演歌で、着物の早がわりで踊りとおした。タップの踏み鳴らし方やカスタネットの使い方がたしょうフラメンコかもしれないが、ジャンルを超えてしまった踊りで、ひたすら踊りまくった。踊りたいから踊っているというかんじだった。子どものときに見ていたら、私もすぐさま感応して踊りはじめただろう。本能の原始に引き戻されてしまう踊りかもしれない。
お弟子さんのようなフアンが幾人もいて、合いの手を入れた。ずいぶん庶民的なおばちゃん風のひとが多かった。合いの手を受けて踊りがヒートアップするようだった。ストリップ小屋に行ったことがないが、陽性で同性的なストリップかもしれない。ともかくも、到底、七十の身のこなしではなかった。
ひっつめた金髪の生え際がいたいたしいし、顔と首の皺の深さは年齢どおりだが、しかし上下に飛び跳ねる腰のうごきが可愛くて、女の私が魅せられてしまった。この年齢を超越した異種な女にどこかで共感することにした。だってこの腰と、Y氏を共有しているのかもしれないから。

とちゅう二十分の休憩をはさんで十曲を踊りきった。
切らした息のままかわいい挨拶をした。この小屋がとっても気に入ってるの。そして小屋の管理人さんやお手伝いの〇〇さん、、音響の〇〇さん、と紹介して、とっても感謝した。それから、やおら舞台に机と椅子を持ってきて腰掛け、プログラムを売り出した。
「あたし昔とってもきれいだったの。そのときの写真のプログラム千円だから、買ってね。そうするとあたし、とっても助かるの。」
立ち見席をつくるほどいた客の半分くらいがぞろぞろそと列をつくった。私もその台詞に打たれて、列に加わった。もっと近くによって見たかった。しかたなく私のあとについたY氏は、プログラムは買わなかったけれど、ヤス子氏のほうで気づいて、
「どうだったァ?演歌」
と甘い声で聞いた。よかった、としごくまじめにY氏は答えた。そお?という目で見返したときにはもう次の客にプログラムをわたしていた。私がY氏の連れであることは意識されなかった。千円札をつぎつぎほそい指ににぎりしめていた。なにかせつなくってよかった。
芝居小屋をあとにしたが、浅草の夜はまだ芝居の中だった。
閑散として人が歩かない通りがやけにととのった石畳になっており、浅草風情を出すために、どの店も揃いのしつらいをしていて、わざとらしかった。夜の電光のしたでは、書き割りのようなのだ。電気ブランを片手にステップ踏まねばと、心が浮かれてもいた。
演歌のリズムでタップが呼び覚まされてしまう。カスタネットが欲しいと思った。ね。ね。カスタネットがあればね。とY氏の腕にからみながら、ヒールの音も高らかに歩いた。

浅草から馬喰横山へ出て、都営線にのりかえ京王にのりいれた。、わたしはずっとY氏のとなりにすわって、リズムを踏み続けていた。
Y氏はあさっての大森のダンスパーテイーを気にしていた。最近、今さらのように凝っている社交ダンスだが、来ない?、と誘う。私が社交ダンスができなくて、これからもしないとわかっているから誘う。
工業倶楽部でのウインナーワルツのダンスパーテイーが十二月にあった。大森のは、それを踊るまえの、練習らしい。工業倶楽部のほうは、外務省の主催で、大臣候補や宮様までが名を連ねている気の張るダンスパーテイらしいから、そこで組んでいる人を、大森くんだりには誘えないらしい。
ダンスなんてやる奴、軽薄だし、俗物ばっかり、といいながら、全身で漬かっている日々だ。男のほうがすくないから、ペアの相手に引っ張りだこであることも匂わせている。ダブルブッキングしちゃうと大変なんだよ、つかみあいの喧嘩がおこりそう、とまで。
「そうだ、長嶺ヤス子さんさそってみたら?」
と、私は提案した。ざっくばらんな人柄にもみえた。
「彼女来ちゃいそうだから、誘わない。」
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いずれにしても私のしらないどこかで、だれかしら愛人との時間がながれているらしい。
都営線が地上に出るまえの一瞬、ガラスに映った二人の姿はとても虚ろにみえた。