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山崎哲
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茶房ドラマを書く/作品紹介


石喰ひ日記

こおろぎ

小泉響子


(第2回山崎賞・優秀賞受賞)


〈一〉谷幡神社 昭和二十九年

 線路の向うはヨツや。肉屋と花屋でな。海沿いの線路はみんな寡婦の家や。戦争未亡人ばっかりで夜は灯り消して死んだみたいに飯食うとる。そういって父はわらった。
 宮前町は歩いて五分とかからない。夏でもひんやりと暗い谷幡神社の森は松岡町のうちの二階からもよくみえた。あれはヨツの森や。けどようきく神様やと父はいう。神社を取り巻く、町とは名ばかりの舗装のはげた細い迷路には軒の低い家がひしめいていた。
 日参していた谷幡神社に父は私たちをよく連れていった。そして冒険やといって、その周りのヨツ部落をみせ歩いた。車の通れない細い道の両脇にはお供えの地味な花々が束になってブリキのバケツに投げ込まれている。水屋の窓から覗く湿った目がじっとこちらに光ったと思うとふとそれた。鼻先をかすめる饐えたような恥ずかしい匂いが、行く手に立ち塞がっていた。その中を浴衣姿の父は悠々と楽しげに煙草をくゆらせながらすりぬけていった。
「一人できたらあかん」
 小さな声でそっと戒め、すぐに前をむいて歩き続けた。長身、外国人のような風貌の父は目立った。彼は怜悧な皮肉屋だった。そして旺盛で貪欲で下品な好奇心を隠そうともしなかった。ガラの悪い地域をガラの悪い父が好んで行くのも頷けた。真夏のその界隈には、斜めに立てかけられた錆びたドラム缶があちこちに捨て置かれていた。父はそれを風呂やといった。真冬でも外で風呂は入る。何でかいうたらな、狭い家でみんなすし詰めになって暮しとうから外出ても涼しいだけなんや。真冬でも汗流さないられんようなとこなんや、ここは。そういって端整な顔をほころばせた。

 昭和二十九年、父がやっていた麻袋の会社はタフテッドカーペットという基布の製造を始めた。私は六歳。父は四十一歳だった。昭和二十五年に勃発した朝鮮戦争から景気づいた会社は、前年には滋賀に第三工場が竣工された。戦後の神武景気以前の盛りだった。
「戦争あるとうちとこは儲かる」
 父はいった。土嚢の麻袋が飛ぶように売れるのはその後だった。
 夜店から帰ると父はながながと居間に寝そべった。八月の盆の暑さを線香のたなびきが鎮めている。父は帰るといつも着物に着替えた。なだらかに反り返った背中。うつむいて、肩をいからせながら新聞をよむ。夏は浴衣、冬は着物。膝を折って足をゆらめかせている。
 私はそっとその背中をまたぐ。腰をおとすと窪んだ背中があたった。うつぶせの父と仰向きの私の背骨はからまりあってはごつごつとした居心地のよさに落ち着き、二人はいつまでも無言だった。新聞の父と、漫画の私。エホンッとした咳払いや、鼻の脂をひねりとる指の仕草で背中がゆれても一向に動じない私に周りのくすくす笑いが聞こえた。
 仏さんのお下りが朱塗りの卓にのせられてくる。年に一度だけの祖母の腕の奮いどころだった。澄まし汁はあくまでも透き通り、冬瓜の生姜が暑気を祓う。鱧の皮の酢の物。小芋のいとこ煮という小豆のかかった甘いお菜。勿体ぶった祖母はそれらをちびちびとしか私たちに分け与えようとしないのだった。ひんやりとした出し汁にいい加減に煮込まれたさや隠元を私は骨の髄まで旨いと思った。
 盆に来ていた菩提寺の住職をおっずさんとかおっそ様とかつづめてよんでいた。父はこの丸い狸顔の住職を薄く軽んじていた。が、またそれゆえに重宝していた。住職は妻帯していて、一人息子がいた。
「悪い種をまいたわけではありませんから、何とかなると願うとります」
 生臭ものをつまみながら住職は旨そうに酒をのんでいた。気が合うのは二人とも底なしの呑んべえだったせいかもしれない。住職は私たちには殆ど説教をたれたことがなかった。妙光院という急坂をのぼりきった所にある寺。迎えに来たハイヤーによろぼい乗る住職の袈裟衣が胡散臭く光るのを見送っていた。
 私は父の隣に座って、酒のつまみのおこぼれを貰う。干した後塩抜きして煮干とたかのつめで炊いたたくわん。亀甲の切れ目を入れて炊いた茄子に香ばしいすり胡麻をとろりとのせた泥亀汁。薄く切られた鮒寿司。
 黙って座る私を「かわいい」といってくれた祖母。ふだんでも着物でとおす祖母はふきぬけの暗い台所がよく似合った。裏玄関と台所の境には大人の腰までの格子の仕切りがあり、押し売りや獅子舞の訪れる四畳半ほどの三和土があった。祖母はそこに出入りの人々のあしらいをそつなくこなした。押し売りには黙ってその鼻先でふすまをひいた。夜遊びする女中はいつの間にかそこから追い出された。原爆で死んだ息子をもつ老婆の話を私たちにも聞けと手招きした。祖父から台所の豚とさげすまれて磨きぬいた床。井戸からひいた水が迸る鉦のからん、大人の男が寝そべられるくらいの調理台、裏は祖母の城だった。
 父は鯨飲しても泥酔することはなかった。至極さめた男だった。運の強い男でもあった。溺れることがなく、溺れる人が嫌いだった。恵まれて当然という格好で生きていた。そして酒の肴の旨みだけで、つまりは人生の上澄みだけをすすって生きていけると信じている節があった。それは肴の小判鮫であった私も同じだった。
 盆になるとなぜか母の表情は浮かない。家の掃除は朝早くからのつとめだった。母は掃除の合間、御詠歌のようなシャンソンをくちずさむのだった。
「人の気も知らないで ジャメジャメ トゥヌセパ」
 それはダミアの「人の気も知らないで」という唄だった。子守唄のように聞いたこのシャンソン。つれない父にあてたかのようなこの唄の本当の意味を知るのはもっとずっと後だった。巡査の娘だったダミア。その物憂げな声はどこからくるものだったのだろう。
 十七で嫁に来た祖母と、十九で嫁に来た母。二人は父を挟んだ仇同士だった。

 私たち一家の中で、父はただひとりの男だった。たった一人の女にだけやさしくするわけにはいかなかっただろう。
「お父ちゃん」
 私たちは彼のことをそういった。お父ちゃんのからだはしなやかそうだが、とてもかたい。それでも私たち娘が甘えるとやさしく窪む。整髪料とまざった着物の匂い、煙草、汗の匂い。すべてが心をほぐし、頼もしく洗練されていた。彼が怒鳴った姿をみたことがない。彼は私たちが幼い頃はその胸に隠しもったカミソリをじっとねかせていた。
「提灯行列行こ! 行こね!」
 ひとつ違いの姉が叫ぶ。私たち姉妹はこれから盆の夜の庭を白い提灯をもってめぐることになっている。十歳の順子を頭に、七歳の彩子、六歳の私。広い庭はちょっと薄気味悪い森だ。
「気をつけなさいよ、提灯には火が入ってるからね」
 母の声がこだまする。
「提灯行列、ささもて来い」
 ささは酒だ。口々に唄いながら裏庭から木戸をくぐり、応接間の前の花壇をすりぬけ、寝間の角を曲がり、居間のあかりに誘われて沓脱ぎ石に向っていた彩子が、足を滑らせて倒れた。提灯から火があがる。彩子の泣き声と同時に風呂場に走りだした順子は汲んできた湯で火を消し止めた。その光景は走馬灯となっていつまでも私の脳裏を巡る。私たちは無事でいなければない。ずっと死ぬまで無事でなければならない。繰り返し同じメロディーをかなでるヲルゴールのように。


〈二〉小鳥の街 平成元年真夏

 F駅北口。仲通りを北西に向って歩く。南口の繁栄から取り残されたここは軒の低い商店が立ち並ぶ。最初の交差点を渡って数メートル、藤穂水産と勘亭流でかかれた看板の魚屋がせり出している。床を水浸しにした店内で、塩辛声の女が叫んでいる。電光が魚たちを眩しくきらめかせている。道を隔てた隣の履物屋のマツモト。時代遅れの品がガラス障子の奥にびっしり。黄ばんだ白と緑の太いストライプのビニール廂と勘亭流の藤穂水産の看板の間が丁度歯が抜けたようにぽっかりと暗い小鳥の街への入り口だった。

 この街をみつけたのは何がきっかけだったのかもう忘れた。
 私の家がもう人が住んでるようにみえなくなった頃、抜け殻のようにさまよい出た果てにこの街があったのだ。朝日町の片隅にある入り口はいかにも侘しい。
「仲の湯」「コインランドリー」「質大木」「成人病科山川病院」。看板が立ち並ぶ奥には剥げ落ちた「丸善○食店街」の看板。アーチ型の入り口で客を迎える○食店街は谷間のように暗い。さびれて人っ子ひとり通らない。所々地肌の剥き出した道の真ん中に立つと、青ざめた風が音もなくすり抜ける。
 右手には「すなっく小のぶ」「やきとりやひとみ」「酒の店まりこ」と、錆びたトタン壁に看板を立てながら客を待つ。いや、待っていたのだが、いつの間にかここは廃墟となってしまった。袋小路のどん詰まりには「ゆかり」がある。
 袋小路とみえたそこには細い抜け道があり、茶色い井戸のある広場に出る。海老茶色の鉄筋コンクリートのバー長屋が倉庫のように立ち並んでいる。「小鳥の街」とかかれた赤いアーチ型のネオンが昼間の空の下で消えていた。
「紅すずめ」「Bar 洋子どり」「スナック 恋の島」「愛の貴公子 ドンファン」「コーヒースナック 飛鳥」「小料理 佳代」「ナイトキャンパスマドンナ」
 弁当箱みたいな穴倉から、思わせぶりな灯りを送ってよこす店。その脇で一心に石を砕く女。それが私だった。石を砕いてはそれを口にふくみ、奥歯で噛み締めては吐いた。それが快楽だった。この街にいると、その快楽を隠す必要がないように思えた。平成元年の真夏だった。その年の一月、昭和天皇が崩御し、皇太子がようやく天皇になれた。消費税が実施され、六月に発足した宇野内閣が六十九日で終りを告げた。私は四十歳だった。暗い結婚をして行き詰っていた。故郷の父は七十五歳になっていた。父が入れられた病院。私はもうそこに行くことはないだろう。何重にも鍵のかけられたそこで彼は車椅子の人となった。
「ねえ、あんた、どこか具合悪いの?」
 風呂帰りのしいママに声をかけられたとき、私はあやうく叫びそうになった。ママは戦後の闇市で立ち往生している砂かけ婆よりもっとこわかった。切りそろえた前髪にゆるいパーマがかかっていて、両脇の裾も優雅にカールしてあった。黒く染めた髪が、一段とママを老けさせていた。生気のないざらついたわらじ顔に据わった目。小さな受け口にきつく紅をぬっていた。
「口のまわり泥だらけよ、ほらふきなさい」
 そういわれて、理不尽な怒りがこみ上げても、いつものように走って逃げるわけにはいかなかった。家を出てきた私には自転車がない。
「それにどうしたの、その指。血だらけだわ」
 奇妙に上品な声だった。きっちりここまで届いたことがないくらいの穏やかな問いかけだった。
「ああ、これ、自分でやっちゃったの。この、これで、その石をこの錐でぶすっと。石じゃなくて、先に指に命中しちゃって」
 そういって私は、ぎこちなくわらった。ママはそれを薄い三白眼で見据えると、まるでそこに十年しゃがんでみていたような口調でいった。
「そういうの、専門だからね、私」
 太い声だ。
「私だって、あんたなんかにゃ負けないくらい危ないことばっかりやっちゃってね。私が市民権取り戻せたのはここだけだった」
 暗い夜の迷路がぬっと浮き上がった。貧しい飲み屋が軒を連ねるこの街の手前には銭湯がある。仲の湯。高い煙突が夜空に聳え立つ。煙突の裾の短い桜の木は春には満開になる。すうっと息を吸い込むと、しいいんと石の匂いがする。銭湯の建物はカビの浮いたコンクリート。ワイヤーの入ったガラス窓の内側にかけられた簾。カーンとぶつかる桶の音。うっすら漂う石鹸の香り。ママはその路地から出てきたのだった。
「あああ、女も六十になっちゃ終りだね。さっき銭湯に行ったんだけどね、これ忘れちゃって、また戻ってきたの。やだね。近頃物忘れが凄い」
 ママはプラスティックのバケツにシャンプーや何かを詰め込んで、そそくさと帰りを急いでいたところだったのだ。
「どうすんの、これから」
 聞かれたので、血だらけの指をふいたタオルを返す。
「男の人のいる店がいいかしらねえ」
 ママは暢気そうにいった。タオルには、口の中の泥もついている。
「男の人のいる店がいいでしょ。マスターがね、面白いから。うちも店やってるんだけど、男がいる方がいいでしょ」
 有難いような気がした。呆然と血まみれになりながら、私は結局何を求めていたのだろうか。錆びた井戸のある小路をまっすぐ行くと、柳が誘う旅館があった。その隣のトップという店に着く。入り口付近に一目でやくざとわかる怪しげな男たちが群れていた。
 トップはパンチパーマの小太りの男がマスターだった。おばさんのようなもっちりした風貌だが目はきつい。ママは風呂上りのしどけないアッパッパで、カウンターに陣取った。
「何か、外でまた集まりね」
「ああ、事務所の人な」
 マスターは関西訛りだった。
「事務所ちゅうてもわからんやろ」
 マスターがさりげなく言う。
「やくざ者のことよ」
 ママがフォローした。客は隅の方に、目鼻の小さい安穏な顔つきでへらへら笑っている六十年配の女が一人。みっちゃんとよばれていた。ママとは懇意のようだった。
「あんた、ここ、初めてよねえ」
 ママが私に聞く。
「しいちゃん、もちっとやさしく、ね、ほら、こちらびっくりなすってるじゃない」
 みっちゃんが口をはさむ。
「びっくりしたのは私の方だっての」
 ママがくわえ煙草で返した。
「ねえ、そうでしょ? あんた」
「はい」
 仕方なく返事した私を、みっちゃんが訝しげに見つめる。
「ぜええったい、そう。できるわよ、あんた」
 ママは突然そう言うと、しゃがれた声でわらった。いきなり、絶対何ができるというのだろう。この際、何か聞き返すととんでもない答えが飛び出そうで、私は黙った。わからないままに、そのことに触れたくない。目は据わってるが、ママは酔ってはいないようで、ジュースをのむと、黙り込んだ。
 みっちゃんがうたい始める。聞いたこともない演歌だった。退屈な調子だった。マスターが「時のすぎゆくままに」をうたい、私が「そして神戸」をうたった。ママはカラオケが嫌いだと言う。カラオケと酒が嫌いで、どうやってバーをやっているのだろう。
「それでも好きな歌はあるわ」
 目を伏せながらママはいった。
「ちょっと危ないことしちゃってね。よそに入れられたときに聞いたの」
 しいんとなる。
 私たちは無伴奏でうたうママの声を聞いた。出だしは演歌っぽかったが、こぶしをまわすところが少なく、のびのびとして、全体に清々しいうただった。美空ひばりのうただという。故郷を思ううただったが、そこにある故郷はもう帰れない場所だ。
「うらうらと 山肌に 抱かれて 夢をみた」
 慈しむべき日々は遠い。ママのうたは終った。


 〈三〉スペンサー通り 昭和五十年九月

 港町の坂道には異国の匂いがした。スペンサーーロードの突き当りには日英協会があった。当時協会員以外立ち入り禁止だったが、坂道の名前の由来は初代会長のジョージ・スペンサーからよって来る。
 昭和五十年の九月。私は二十七歳だった。父は六十二歳。製麻会社は原料の不足から多角経営に乗り出さざるを得なくなっていた。だが父にはそれが重荷だった。長になることの多かった父には、彼の弟のような下働きの才覚はなかった。だから彼は遊び始めた。ゴルフもシングルまで腕を磨き、中国語も検定を通るくらい勉強した。然し彼はそれを仕事に生かそうとはしなかった。彼の仕事は相変わらず商売には関係のない長ばかりだった。
 私は山手にある女子大を出て、郊外の病院で看護婦に英語を教えていた。卒業してからアルバイトを転々としたが、私の本職は見合いだと心得ていたので、生涯の仕事をもつつもりはなかった。だが二十五歳から見合い市場も閑古鳥で、ぱたっと男が絶えた。私は針金のように痩せた。遊ぶほどの度胸もなく、性欲をなだめるのに、不思議な神経症に走っていた。家族の誰にも内緒で、漆喰壁を舐めていたのだ。おかげで、使用人のいなくなった女中部屋の漆喰壁は月のクレーター状態になった。
 日英協会のバザーの招待状をもって、父は明るい色のストライプのこざっぱりしたスーツに身を包んでいた。私はブルーのアンサンブルだった。 
「どや、お前」
 横から父は言った。
「前から来る奴らにわしら負けとらへんやろ」
 山から吹く風は今日は微妙に心地よい。
「そうかな……」
「そや。お前に勝ってる奴おったか?」
「いない」
「だいたいわしらより冴えへんで」

 わけもない自信が親子を包んでいた。嫁き遅れた末娘を案じて、父はこれから「ようけ人の集まる」バザーへと私をいざなうのだった。
「そやけど、お前は数学ができとらへんかったからな」
 父は言った。
「何? そんなんいいん違う、今更」
「いや、あかんのとちゃうか。それにもう二十七やしな。まあ、もう男やったら何でもええんやろ」
「えらい範囲広げてくれはったね」
 憮然と答えると、父はさもおかしそうに笑った。
 私はふてくされてた。せっかくいい心地で舞い上がってるのに、つまらないことを言う男だと思った。父は最高学府の最高学歴を出た男だ。だから長という役職が次々に舞い込んでくる。上流が好きだ。そして莫迦を見下す。中学から成績のがた落ちだった私は家族の中では肩身が狭い。ここに来て、挽回をはからねばならないのだ。
 
 成績が下ってからの私にはあらゆる虐待が始まった。父の言葉の暴力、母の暴力とヒステリー。母はなりふり構わず私を殴った。雑巾を投げつけ、
「まだ覚えられないのっ! 秀吉の刀狩は一五八八年っ!」
と叫んだ。それを階下で聞いていた祖母はかわいそうだと私のことを同情するふうで、実はひそかにほくそえんでいた。
「やっぱりお父さんの血だけではかしこなれへんもんやねえ」
とにっこり呟く。姉の順子は
「あっちでもやってるやん」
 とにやにやしながら、向いの家を指差した。中国人の多産系の一家で、末っ子のヒデちゃんが勉強のことで長兄のコンちゃんに叱られていた。橙色の電灯のあかりがそれを滑稽に浮かび上がらせ、私の屈辱をあぶりだした。
 母の性はくすぶっていた。その脂は悪い煙を放っていた。

 闇の底に漂っているものが浮かび上がる。私たちに何かと理由をつけては幼い頃から、それこそいい年になるまで浣腸をつきたてていたのは、母の唯一の冥い浮気だった。「優秀」な父と「よくできた」祖母。親子は肌を寄せ合うよりできていた。母にとって結婚は初めから負け戦だった。更に跡継ぎを生めなかった怨念を娘の裸の尻に向けていったとすれば、気の毒というよりない。だが私たちも、いや少なくとも私こそ浮かばれない過去だったと思う。

 といって祖母が幸せだったわけではない。真夜中に私たちが寝ている枕元に座り、いきなり孫の顔にメンソレータムを塗りつけたのは確かに祖母だった。十七で女道楽の激しい夫のもとに嫁いだ祖母だった。
 おかしいといえば父もまた年頃の私たちが入っている風呂にずかずかと入ってこようとした。当然のようなふりをして入って来ようとした彼もまたこの結婚で浮かばれなかったのだろう。それを当然のようなふりをして十八になるまで受け入れた長姉の順子も浮かばれようとは思わなかったのだろう。
 幸せと見えて実は幻だったのだ。神経と躰を病いがちだった幼い私は実はそのことをうすうすわかっていた。その中で五歳から自慰を覚えたのは、何とか命をつなごうとした窮余の策だった。そんな私にとっての幸せとは一体なんなのだろう。
 私は一切忘れたふりをする。しれっとお嬢様を張って、幸せな結婚をし、老けたお嬢様のまま死んでいかねばならない。いや、死んでいけるものだと思っていた。
 スペンサー通りにはエキゾティックな店がしのぎを削っていた。ニュートンというエレガンスの生地だけを扱う仕立て屋、シャシャという洋画でしかみたことがない帽子を売る店、ショロンという元は馬蹄屋の乗馬服屋。デリカテッセンというとびっきりのスモーク・ド・サーモンとキャビアを売る店。もう少し行けば、英語の達者な姉の順子がアルバイトしていたマイルド・ファーマシーという洒落た薬屋がある。今ほど既製服が流行らない頃だったので、私も父もこの日のために誂えた服に身を包んでいた。
 父は小学校から高校までをこの港町で過ごし、東京の大学に行った。卒業後、三年間をよその紡績会社で修行し、家に戻って跡を継いだ。四十には社長になっていた。私は欲張りだった。周りには十万、二十万を鼻紙のように捨てる友達がいっぱいたので、比べれば、自分はくずのようなお嬢様だと思っていた。
 この町の上流では、いくら老舗でも中小企業の娘では本当のお嬢様とはみなされない。成績が芳しくないので、思いっきりお洒落してみた。さりげなく装うということに大枚をはたかねばならないお洒落だった。
 私たちは必死を隠していた。父を日英協会のバザーに誘ったのは新藤瑛吉夫人だった。
 新藤家は湖が大半を占める県から出た商人では出世頭だった。瑛吉は新藤商事を興した新藤忠吉の次男で、当時は取締役だったが、父と同様ゴルフ三昧に明け暮れていた。
「とくさーん、おるかあ」
 日曜の朝、どんな天変地異が起ころうが、瑛吉は愛車で迎えに来た。アスコットタイにツイードの背広。キュートな笑顔は私の胸を高鳴らせた。瑛吉は新急電車沿いに外国人のような広壮な住いをもっていた。
 父は瑛吉の家の床暖房を自分の家にも設置しようとして、直前に母にとめられた。松岡町の社宅からようやくぬけられ、私たちは山手の土地に建てた家に移った。広い家はガス代だけでも生活を脅かすものだったからだ。父と瑛吉を結ぶものは同窓生の優等生同士で、お互い死ぬほどゴルフが好きであったことくらいだろうか。
 日英協会の門扉は僅かに紅葉が始まっている木々に彩られていた。受付ではにこやかな瑛吉夫人が迎えた。
「ようこそいらっしゃいませ!」
 背筋をのばし、ロイヤルファミリーのように手を差し出す夫人に私は気後れがした。夫人の目がどうしても真正面からみられなかった。
「一番出来の悪い娘連れて来ました」
 父の言葉が私を突き放すように言った。それから父は、何人かの同年輩の男たちに囲まれて談笑した。
「奥さんか、思いましたわ」
 一人の男がこちらを向いていった。
「いや、あはははは」
 紹介する価値もないといったように父はわらった。そして男たちの群れに交じって消えてしまった。私は困惑した。またこれからこのブルジュワの群れの中でどうやって泳いでいっていいのかかわからなかった。
「八重子ちゃん」
 瑛吉夫人の声がした。背筋をのばした彼女によばれると、自分がビルの屋上まですっと引き上げられた気がした。
「そちらのティールームにいらして」
 ひきつった笑顔に、なぜか目が憎々しげだった。行き場所がないので仕方なく言うとおりにした。刈り込まれた日本庭園。一枚ガラス越しにみえるそこは緑が枝垂れるオアシスだった。瑛吉夫人は私の背中をおして、テーブルにつかせた。
「お待ちかねだったのよ」
 目の前にこの場にしては垢抜けない格子縞の麻の替え上着にこげ茶色のズボンというなりの男がいた。その男はこれといって特徴がなかった。中肉中背で、物堅く育ったらしいどこか死んだ魚のような目をしていた。その横に彼の母親らしい権高そうな女がいた。
「岩井さんのお坊ちゃまとお母様。こちら小泉様のお嬢様」
 お坊ちゃまというには薹の立ちすぎた三十三歳の男に私は何の関心もなかった。だが見合いを三十二回もこなしてきた私には、恋愛するということをあきらめてもいたのだ。肩書きでふるい落とされた二人が見合う。彼はエリート銀行員。私はエリートでも何でもない。ただK市では名の通った古い中小企業の社長の三女である。いわば父が私にとっての肩書きであった。隣に控える母親らしい女、岩井夫人が巾着袋のような顔をほころばせた。真っ赤に塗った薄い唇から出っ歯がほころびでた。その前歯に紅が刷かれているのをみて、悲惨という言葉が浮かんだ。この母子はまるでベトナムの砲火から裸で泣き叫びながら逃げてきたような所がある。なぜかそう感じた。
「初めまして」
 男は丸い額の下の目で掬い上げるように私をみてお辞儀した。
 男と私はそれからバザー会場を出てデイトした。車を運転するでもない男を海辺まで誘った。新急電車沿いに歩いていると、白くたそがれていく夏の夕暮れ、振り返ると、何の色気もない男のぽつ然とした地味な顔があった。男は自分が振り返られているともわからないようで、私と同じように振り返り、夕空を見上げた。そして海沿いの喫茶店に入ったのだ。喫茶店はちょっと見ない間に随分落ちぶれていた。これが同じ店内かと思うほど暗かった。その奥から、気障なくらい張り切っていた店主が、しょろしょろと出てきた。皺の寄った饅頭のような具合だった。コーヒーを頼んだ。
「シクラメンの香りが僕のおはこでしてね」
 と男は手帳を取り出した。
「へえ」
 と私は優しく相槌をうってやった。
「うたってみて下さいよ」
 どうでもいいことを頼んだ。男ははにかんで私に手帳を差し出した。
「あら、ここに細かく歌詞が書き込んである。ルビまでふってありますよ」
 私が言うと男は肩をすくめって笑った。コーヒーをのみ、店を出て、海辺の駅まで歩いて戻った。駅のトイレに入った。終って出てくると入り口で男がじっと待っているのに驚いた。そして変な気になった。そんな近くでじっと待つこともないだろうと思った。
 家に帰ると、母が待っていた。バザーのみやげのキャンディーとケーキを渡す。
「どうやったの、あんた。バザーで紹介があったでしょ」
「ああ、岩井さん?」
「岩井さんておっしゃるの? どんな方」
「うーん、地味な方」
 瞬間気を落とした母を尻目に二階に上がる。当時の私には結婚が自立への一本道だった。姉たちはエリートと結婚した。だから私もエリートと結婚しなければ。当然のように考え、二十七になってしまった。岩井さんのお坊ちゃまもそうなのだろう。いいとこのお嬢様と結婚しないと親を嘆かせる。籠の鳥はただお互いの目をおずおずと覗きあっただけだった。
翌日、階下に降りると、母は浮かない顔でソファに身を任せていた。
「どうしたの?」
「何だかね、もうくたびれちゃって」
「ふうん::」
「あんたが中々決まらないとね、私も、もうね::」
 死ぬというのだろうか。私が結婚しないことが母をこうもくたびれさせているのか。
「目の前が黄色くみえるわ。黄色い砂塵が舞ってるみたい」
 母の口臭がにおった。すべての不幸が私のせいだというのか。三十二回目の見合いで私が片付けば、祖母と父と母が残る。嫁き遅れの私には出て行ってもらい、そして次には祖母に死んでもらうと、母の幸せが来るというのだろうか。
 中学高校と成績の悪かった私。家族としての市民権を得たのは、次姉の彩子が狂ったときだった。大学入学とともに、躁鬱病になった彩子は、学内の階段を日焼けして真っ黒な顔で、ゆらりとのぼっていった。まるで天からあやつられているような足取りだった。躁状態のときの消耗で痩せ細った躰からは瘴気がたちこめていた。
 そんな彩子の見張り役として、狂うきっかけを失った私は、かわりに「信用」を得た。山手に立てた我が家には、子供部屋と称して、三姉妹のために仕切りで区切っただけのなぜか扉が一つしかない広い空間があった。しかもその仕切りと天井の間には十五センチほどの隙間があり、スイッチ一つで三部屋が同時にともる灯りがそこから眩しくもれてくるのだった。一気に三部屋を暗くした母は
「早く寝なさい」
 という。ひたすら躁鬱の彩子を救うためだった。時計は十時をさしている。「彩ちゃんを刺激しないで」母は言った。「読書ばかりするからああなったのよ」。東京の大学にいった友達から吉本隆明を読まされておかしくなったのだと言う。
 暗い闇の中で私は思想に怯えた。思想にふれると気が触れる。文学でもなく、思想でもない、唯の事実だけの本を求めた。そこには文化人類学があった。
 といっても、フィールドワークに出る男たちのジープにしがみつくほどの勇気が私にあるわけはなかった。
 なめくじみたいやなあ、私って。せちがらい世の塩をあびると途端にしおたれる。そうして壁の土を舐めるのだ。
 私の性のめざめは早い。五歳の頃から自慰をおぼえ今日に至っている。
だが、見合い結婚をすすめる親の元で育ったので、性には抑圧的に育った。どこの家もそうなのだろうか。自慰をみつけると、母は私に家から出て行けと言った。
 然し、そんなものは隠れていくらでもした。
 それよりも母がヒステリーを爆発させる方が難儀だった。
 この上暗い母の顔を見るのがいやで、私は外に出た。夕方遅くに新急電車が小豆色の車体を光らせて踏み切りを走り抜けていった。私はそれを何本も見送った。羊羹色の山並みにうっすらと夕焼けがにじんでいた。   
「この踏み切りを」
 私は思った。
「この踏み切りをくぐり抜けて死ぬよりは」
 結婚する方がましだろう。そう思った。そう思う自分を勇気ある女と思った。新急電車の蛍光灯のあかりが「一大決心」をした私の頼りない微笑みを照らした。踏み切りをくぐり抜けられず、ただ微笑む私を。

(この項、2へ)

〈四〉小鳥の街 ふたたび

 カウンターの隅にトップのマスターはいる。ちびた煙草を指先で大事そうにつまみ、こちらを盗み見ていた。あの日からこの街に居座った私は確かに胡散臭い。ママは薄暗い店内でいかがわしい占いをしている。
「この街も終りやな。しゃあけどこの街は金玉やで。疎かに扱うたら罰あたる」
 マスターはドスのきいた声で言った。
「なあに、それって」
 しいママはだるそうに返した。
「皺だらけのここは小鳥の街だけやのうてF市の街の空調もするっちゅうこっちゃ。」
 ブッ、馬鹿らしい。ママは取り合わない。
「マスターは関西の出なの」
 私は聞いてみた。
「そや」
「私もよ」
「そか。ま、うっとこはあんたとことはちゃうで。ほれ、大きな声ではいわれんがな、谷幡神社の裏いうたら、これか、あれかや」
 マスターは掌でよっつ指をたて、人さし指ですうっと頬をなでた。谷幡神社。この先、帰りたくても帰れなくなった故郷の神社の名があらわれ、私はぐっと言葉をのみこんだ。
製麻会社が左前になり、多角経営に乗り出すようになってから父は酒の量をふやした。元々社交的ではあるものの、商売熱心という気質ではない。どこかで面白くない気がしていたのだろう。
 三年前父は倒れた。七十二歳だった。大きな心臓発作だった。それから脳梗塞を併発し、あっという間に痴呆となった。母と二人の姉とともに父を支えてきた私は、一人その看護から逃げた。二十七のとき巡り会って結婚した男との間にはセックスがなかった。十三年もそんな状態で親孝行しているのが嘘っぽく思えた。
 最後に父と散歩した、しまいかけた神社の夜店のあかりがふとこの街のあかりと重なる。父は痴呆になってから昼夜を問わず外を出歩きたがり、ことに神社が好きだった。しばらく歩くと足はもつれがちになり、おいっちにいと掛け声をかけないと腰から崩れていく。。ある日の昼、境内の木陰に野垂れ込み、しばらく父と涼をとっていると、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。その匂いに釣られた父が飴りんごの店の前に近づいていった。微笑んだ父に的屋の老婆がうすら笑いで言った。
「ぼけたんはあっち行き」
 父はどかなかった。
「うろちょろせんと早う逝に」
 いわれても意に介さず、父はいう。
「これ下さい」
「はいはい。そっから持っていき」
 指差した先にゴミ箱があった。父を覚えてるものは段々この界隈からも姿を消していくのだろう。この老婆も少し前までは「社長はん」と腰をかがめていたものだ。母はそれを悔しいという。会社のボウリング場の従業員でさえ知らん顔すると嘆く。
 マスターは私たちが幼い頃連れられたあの谷幡神社の脇にあるヨツ部落の地名をいった。
「わしとこは鳶や。鳶いうたらあれや。わしはその親爺の三番目の子ぉじゃ。わしゃ、頭は冴えとったんやが、気移りが激しいての、よそへやられたんじゃ。あんなかっこ悪い家はないで。指落すんを障子の間から盗み見たらな、大きなまな板があるんじゃ。そこに指据えられての。ぽーんと。大の男が転げまわって畳を血まみれにするんや。今は麻酔うってやるらしで。お医者もほなさよか言うてやりようらしいわ」
 ふうん、しいママは目をつぶりながら相槌をうつ。
「あのさあ」
 ママは向き直って私に問いかけてきた。
「あんた、困ってるんじゃない?」
 そうだ。家を出た私は困っている。死ぬことも生きることもできず困っている。金にも困っている。石を噛む癖が治らない状態でこの先どうなるのかと喘いでいる。
「そうかもしれない。困ってるのかもしれない」
 正直に答えた。
「いっそ稼いでみたら、ここで、あんたのその躰で」
「……」
「難しいことじゃないわ。私を信じてくれたらいいの。この街の地図が頭に入ってる私を。地図といっても人間の東西南北よ」
 なぜだろう。私に疑いの心がなくなったのは。
「ママちゃんはこないだまでやっとったからなあ」
 マスターはぽつんと言う。
 ママの店とは、実はここなのかもしれない。
「ぜええったい、そう。できるわよ、あんた」
 一週間前に叫んだのと同じ調子でママは言った。
「たちんぼでは危ないから。といったってさあ、あんた四十にもなってソープに行くわけにもいかないでしょ。この人ならOKという人を紹介するわ。紹介料は初めは半分とらせてもらうけど、三回目からは二・八でどう?」
 いい話のような気がした。私がやりたかったのはつまりそういうことだった。神経症が治るのもつまりは一歩出ることだった。
「いいわよ」
 私は頷いた。
 門出に御詠歌のようなものをくちずさんでみたくなった。
「人ぉの気ぃも知らないで、涙もみせず、ジャメジャメ トゥヌセパ」
 その節が流れたのはなぜだろう。ダミアの投げやりで暗い声がそのときの私の心をほぐした。しいママが占いの手をとめる。
「あら、あんた。その唄、私のおはこじゃん」
 嘘らしくもなかった。
「日本人で、その唄の本当の訳を知ってる人は少ないんじゃない?」
 私の唄はとまった。
「本当の訳って?」
「これはさあ、年上の女が年下の若い男をけだるく払い下げる唄なのよ。つまり、ある夜、あんたは私に躰を与えたけど、そう、けれど心はくれないっていう唄。あんたの大きな眼の底には青い空しかうつってないっていう。ふざけたり激しくあいしあっても魂はくれない、だからさよならっていう唄ね」
「ふうん、そうなの?」
 頬杖をした私は問い返す。
「そうよ」
「冷たい男を詰る唄なんじゃないの。つれない夫にあてこすって妻が掃除しながらうたう唄じゃないの?」
「そんなもんじゃないわよ。所帯臭いもんじゃないけど、充たされない女の唄であるのは間違いないわね。でも恋する年上の女の唄よ。お前のきれいな顔の向うにはあっけらかんとした白痴みたいな青空しか広がらないって。だからさよならって」
 魂……。それはどこにもない。なくていいのだ。白痴のような青空が広がるのならそれでいい。マスターがやにわに怖い顔をして聞いてきた。
「あんた、こないだ道端で何か食うとったな。確かあそこには何も食うもんがなかったはずやが。何食うとったんや、蟻か?」
 表情を変えず私は答える。
「蟻? 蟻なんか食うてへんよ。そんなまずいもん。いや、もしかしてかじってるかもしれんけど、石よ、石」
「ん? 何?」
 痙攣したように頭をふるマスター。ママはがらがら声で嗤った。
「マスターさあ、この子は私より無難だと思うわよ。まあ、わかんないけど」
「ほんまか?」
 マスターはおちょくったように私とママをみる。その笑顔をチャーミングだと思った。
「ママがカウンターの中で瓶飛ばしてくれたんはめでたいこっちゃった」
「ははははは」
 危ないことしちゃってといったことはこういったことだったのか。
「家のテーブル燃やすよかましでしょうが」
「お宅はんでいくら何してもうてもよろしゅおまんがな。お宅はんのテーブルでどんどん焼きして、旦那はんがいくら小便ちびてもうたかて」
 はははは、三人同時にわらった。


 〈五〉都ホテル 昭和五十一年六月

 古い都ホテルのロビーがなぜあんなに暗かったのかわからない。ただ私の躰だけは知っていた。これからおこることを。昭和五十年六月。私は二十七歳。前年の九月、スペンサー通りの突き当たりにある日英協会で巡り会った男と結婚することになった。男はこの日を境に夫となった。
 夫は結婚式が始まる前、処女のように怯えて、椅子に座っていた。まるで滴がおちたようにぽつーんと座っていたと彩子は言った。同様の感想をもった。
 ウェディングケーキは上だけが本物のケーキで、下はハリボテだから、カットのときはあまり力を入れないように。ボーイがそう耳うちしたにも拘らず、夫だけは懸命にハリボテまでナイフをめり込ませようとした。苦笑する私を尻目に唇を引き結び、一心不乱な目をして苦闘していた。
 式と披露宴の終った後、都ホテルのロビーは、両親、友人、姉妹が残った。
 ソファに座った夫と舅になった人がいた。舅は上機嫌で早口の英語で何かまくしたてていた。無邪気な男だった。天才肌の学者であった。夫の一家の中で一番ヴィヴィッドな魅力に富んでいた。盛んに遊びまわって姑に性病をうつしたりはするものの、そしてその結果家族から疎外されはしても、私は彼を一番話せる人間のように感じていた。夫は相変わらず色気の欠片もなかった。二人が揃った所はまるで重役会議のようだった。友人が消え、両親が消え、ロビーの灯りが消えた。私たちは荷物をもってエレベーターで部屋までいった。
 部屋に入るとキスをした。夫の薄い唇の内側には熱い肉が分厚くぬれていた。私はその肉を舌の先でくるりとえぐった。夫は動揺したようにびくりと躰を波打たせた。
 彼はバスに消えた。しばらくして蒼白な滴をたらしながら、横目で私をにらみ、着替えて清潔なスポーツシャツとズボンでそそくさと前を通り過ぎた。他人行儀の度を越えたひやりとした空気が私をかたまらせた。私もバスに入り、透明な湯の中で考えをめぐらせた結果清潔なメンシャツとズボンに着替えた。彼はベッドルームにいて姿がみえなかった。 私はそっとカーテンに身をくるみ隠れた。
「あれ?」
 ベッドルームから出てきた彼はきょとんとした。が、すぐに私をみつけるとほっとしたように近づいてまたキスをした。私から離れると、「うーん、興奮するなー」と眉をしかめてみせた。それからベッドへといった。
 互いに脱いだり脱がせたりという記憶がとんでいるのはなぜだろう。彼はシャツだけは脱がなかった。おかしなかっこうなのだが、それが彼だった。後には寒いから、風邪をひくから、汗を吸収するからという理由で着続けることになるのだが。こちらは全裸なのにおかしな人だと思った。そうして躰を重ね合わせた。彼の開いた脚が、閉じた脚のままの私を跨いだ。訝しく思った私は問いかけた。
「それって逆じゃないの? 脚の開き方として」
「あっ、そうか」
 彼は焦った。そうして私は閉じた彼の脚を迎えるべく脚を開いた。彼は溺れかけた人間のように躰を前後にゆすったが、そのものは場所を探しあぐねてるようだった。
「導いて」
 と彼はいったので指でそこまでもっていった。だがそれはすぐに萎えた。あれ? あれ?
どうしたんだろうと言い、何度も試したがだめだった。私は結婚式の疲れで、彼がすったもんだしてる間に眠った。起きるとベッドサイドで彼が裸のまま座っているのがみえた。
 不安がないではなかったが、こんなもんだろうと思っていた。
 然し、新婚初夜の翌日、夫の母親がホテルの扉をノックして入ってきたのには驚いた。口元は微笑んでいたが、眼がこわかった。ぎらりと睨まれて、どうぞと招き入れる他なかった。だが私の「お茶でもお淹れしましょうか」の高い声に「いえ、すぐに出ますから」と姑はいって、部屋の隅で夫と風呂敷をいじり始めた。
 姑は新婚旅行にはピルを飲むなと言った。ピルをのんで生理をとめて、セックスをしても、躰に悪いからやめてくれと言った。よけいなお世話だと思いながら言うとおりにしていた私は、そのために旅行の途中で生理になった。
 ハワイのホテルで、夫は不発弾のように陰気だった。海水パンツをはいて部屋を出ていくときに
「泳いでくるから」
 といったその先は越前岬より暗い海が広がっているのだろう。そんな気がした。私は生理で躰中がだるく、眠ってばかりいた。夫はかなづちだった。こざっぱりと帰ってきた夫は私に小声で頼み込んだ。
「ねえ、手でして」
「いいわよ」
 バスの中はほんのりと暗かった。浴槽のへりに腰掛けて私は夫のものに触れた。夫は自分の脚の間にしゃがんでくれといった。厚かましい奴だと思いながら言うとおりにした。夫はあーとため息をつきながら目をつぶっていた。下から覗くと大きな鼻の穴がみえた。
 屈辱感もあったが、私は人一倍好奇心も強かった。
「舐めて、ああ」
 夫はのけぞりながら命じた。言うとおりにした。どこかおかしい気がしたが、なりゆきだと思ってやった。
「いく、ああ、いく」
 夫は激しく喘いだ。
「のんで、八重ちゃん、のんで」
 いくら何でもと思ったがのんでしまった。何だか凄く損をした気分だった。いってから、夫は私を首根っこにしがみつくように抱きしめた。しょうがない奴だと思った。そんなことがあった後のある夜、彼はソファに腰掛けてうつむいていた。恨みがましい目で私を見上げていた。手紙を書いていた私は不吉な気配におされて聞いた。
「どうしたの? 貴方。貴方もしかして私のこと疑ってる?」
「そうなんだよ」
 夫はやっと解放されたように悲痛な目を上げた。
 これには事情があった。私は結婚前に子宮にポリープができて、その手術のために処女膜を喪失していた。そのことを夫になる前の男に言うべきだと思った。それは良心というものではなく、男の狭量さが予感されたからだった。私はそのことを母に相談した。すると母は全身から気だるい不安と怒りをないまぜにした甘えのような暗いしなを作り、(彼女は私を振り返って躰を横向けにしただけなのだが、私にはそうみえた)
「よけいなこと言いなさんな、あんた」
 といった。私が嫁いで、やっと解放されるという希望にすがっていた彼女はその将来に暗雲がたちこめるのがいやだったのだ。意気を阻喪した私はそのまま初夜のベッドへと赴いたのだった。
 初夜のベッドにビニールを敷かなかったことが男を不安に陥れてるのはわかった。だが、そのことでまるで犯罪人のようにとがめだてされるいわれはない。何かもやもやしたものが弾けそうだった。それは自分が正直に「白状」しなかったという後ろめたさを誤魔化したいという気持ちもないまぜだった。
 鋭い音とともに私は夫の頬をうっていた。
 大したセックスもできないくせに。
 ビニール敷いてないくらい何よ。
 ここで終りになるなら、さよならでもいいわ。
 その感慨はすべてあたっていたのだ。私は部屋を出た。さよなら。碌でもない夜だったわね。エレベーターに乗ったら、夫は追いかけてきた。それは不如意に終った夜を告げ口されることを怖れているだけのようにみえた。だが私は結局部屋に戻ったのだ。セックスのないまま新婚旅行は終った。
 旅行が終って、しばらくして私たちは仲人のK大教授のもとに御礼かたがた土産物をもって訪ねた。広い応接間で、話をしているうちに夫は奇妙なことを言い出した。
「でも旅行してわかったんですがね、僕もまあ神経質なんですけど、この人はもっと神経質なんだということがわかりましたよ」
 教授夫人はきょとんとしていた。私も何か妙な気がした。この私が? 僕が神経質?
ハワイのバスルームで私にあんなことをいきなりさせたお前が神経質? で、それよりも神経質って一体どういう神経質なんだ? それでも妙に「暖かく」くるまれたような気がして私は黙っていた。ぴんと来ないな、どうもと思いながら。
その後狭い寮に移ると、夫はやっと活気を取り戻したように元気になった。セックスもそれなりに軌道に乗った。ただ淡白な性だった。新婚だというのにせいぜい週一回だった。夫は忙しいという言葉を繰り返しながら、夜を避けた。
 私は狭い寮を一生懸命磨いた。欲求不満にも耐えた。その無理がたたったのか、血尿が出た。躰がだるいの。言うと夫は姑に電話した。そしてなぜか産婦人科に行かされた。
「子供が生れる躰かどうかついでに診てもらえばっておふくろが言ってる」
 夫は何くわぬ顔をしていった。
「どういうこと?」
「いや、もう、一年だしさ、結婚して」
 夫は言葉を濁した。むっとした。だが仕方なく私は産婦人科に行った。
 子宮後屈と癒着で非常に子供ができにくい体質です。
 診断が下ったとき、真っ先に姑の笑顔が頭に浮かんだ。してやったりといった笑顔だった。何か罠にはまった気がした。暗い気分だった。
 その日、会社から帰ってきた夫は寝ていた私の布団の上に嬉しそうにまたがった。肚をきめて私は言った。
「あのね、不妊症というわけじゃないんだけど、子供ができにくい体質なんだって」
「……」
 夫の顔から笑いが消えた。
「しょうがない。よそで作ろうか」
 神経質な夫が答えた。ここにきて、神経質というのは繊細というのではないのだと知った。この男は自分のことにだけ神経質なのだというのがわかり、さすがに暗澹となった。
「別れる?」
 私の声は本気で湿り気を帯びていたと思う。すると夫は急に笑顔を作り、
「ジョーク、ジョーク」
 といった。得体の知れない怒りがこんこんと湧き出てきた。
 然し、それからほどなく私は妊娠した。また風疹にかかり中絶した。これで子供はできる体質だということは証明された。それでも不思議なことに、今度は夫が萎えてきたのだ。元々弱い男だったがさらに弱くなった。詰め寄るとうるさがった。
「君はそういうことにしか興味がないの? 英語でも勉強すれば?」
 といった。子供がほしいというと、出来にくいだろう、君はといった。まるで私に責任があるかのような口ぶりだった。また姑からは、暗に早く生めというように血行をよくする朝鮮人参が山のように送られてきた。私は少しずつ狂っていった。
 三十すぎになって私は耐えかねて実家に電話を入れ、事情を話した。実家に帰り、もう永久に夫との暮しには戻りたくないと訴えた。母は私の話をじっくりと聞くと、
「それは苦労のし甲斐がないわ」
 と感に堪えたように答えた。目の前の木々の緑が一皮めくれたように輝いてみえた。束の間の喜びだった。数日してすぐに母から電話があった。
「あんた、欲求不満を、自分で何とかする方法くらいわかってるでしょう」
 絶句しそうになった。
「知ってるわよ、でも空しいじゃない」
 やっと答えた。
「お父様がね、友達で、出戻った娘かかえて苦労してる奴がおるって言うの。あんた、もし帰ったとしたら、私たちの老後のめんどうみること約束できる?」
 絶句した。できないと答えることもできなかった。
 やがて父が寮にやってきた。父は大きな掌を寮の窓の外の夜空に向けて差し出した。夜空は狭く、それでも星は散っていた。
「ともかく、働いたらよろしやないか」
 その声は明るいが力はなかった。働いたらよろしやないか。どうでもよろしやないか。そんなふうに聞こえた。父は女は結婚して子供を生んで育て、おばあちゃんになるのが一番の幸せやと言っていたのである。
 こうなった以上働く以外どうしようもないではないか。そういう声だった。
「もしお前が」
 父は言った。
「実家に帰れへんなら死にます言うんなら、戻ってきてええ」
 死にますという部分を黄色い声をはりあげて父は言った。
 黄色い声を張り上げることも、死ぬことも、働くことも、そしてこのまま夫と生きることもできない気がした。毎夜の喧嘩で私は死ぬほど疲れていた。
私は絶望し、そしてやけになった。寮の壁を画鋲でぶち抜き、漆喰とセメントの欠片を奥歯でかみしめて、絶望をやり過ごした。やがてそれはとまらなくなり、寮の壁は所々穴だらけになった。
 夫の言うように、関心を外に向けようと、生け花の免状をとったりもした。
 先生はめざましい努力を続ける私に早々と免状をくれた。
 私たちは都心のマンションに引っ越した。家の中に漆喰壁がないから私は外の石塀に向っていった。錐で石塀をつきさし欠片をほおばり奥歯で噛み締めた。家の住人に
「何してるんですか、貴方それっ!」
 と罵られ、あわてて走って逃げたことも二度や三度ではなかった。みじめと思うゆとりもなかった。外の石塀は硬く、漆喰があった家がなつかしかった。あれを生クリームとすれば、石塀は古くてかたくなったマーガリンだなと思った。歯の損傷は一通りではなかった。歯科医で治療しても追いつかないこの損傷は私の心に限界がきているということなのだろう。そう気付いたとき、すがるのは夫しかいなかった。四十歳に後一ヶ月ということになって私は夫に言った。夫はッ四十六歳だった。
「私ね、病気かもしれない。石を噛むのがやめられないの」
 夫の背中はぴくりとも動かなかった。出勤前の緊張がクリーニングしたての背広に張り付いていた。なぜそんな朝に声をかけたのか。夜は喧嘩しかできなかったからだ。夫は背中をかがめ前を向いたまま、ぽつりと呟いた。
「気持ち悪い」
 小さな声だった。やがて意を決したようにかたく口を引き結ぶと決然と言い放った。
「言っとくけど、それは俺のせいじゃないからな」
 さっと血の気がひいた。
「勿論そうよ」
 私は反射的に答えた。なぜだろう。
 では誰のせいだろう。私にもわからなかった。だが病んだ私を受け止める人は誰もいなかった。それだけはわかった。その日、私は家を出た。


 〈六〉小鳥の街 みたび

 そのバーは事務所の隣だった。トップの隣は私が滞在している仙成旅館。旅館と潰れた店の間にある細い路地の前にはバンダナを巻いた平べったい顔の用心棒がいた。ランニングシャツとラッパズボンというルーズな格好だが目は笑っていない。大柄で太い。相撲取りみたいだった。用心棒が立っている砂利の敷き詰められた奥の路地はこの街で一番みすぼらしい佇まいになっている。そこに一軒のバーがあり、看板にすずらんとある。木の扉からは中がまるで見えない。コンクリート平屋の外にエアコンの室外機があり、その台にしょぼたれた老人の用心棒がへたり込んでいた。いかにも頼りない様子がその界隈を一層不気味にしていた。
 扉を押して入る。
 中は明るい普通のバーだった。私は扉側に座った。剥げた木のカウンターだった。そのの端に電子レンジが置いてあり、古い型のものでメッシュの扉に茶色い錆が浮いていた。カウンターの中のママは長い髪を後ろに束ねた優しそうな清楚な美人で、五十がらみと見えた。カウンターに座っている男たちも人のいい笑顔をいっせいにこちらに向けた。私は拍子抜けがした。
 カウンターの奥には朝鮮の民族衣装をまとった人形が埃をかぶり、北海道の木彫りが壁にかけてある。アイヌの女の横に鈴蘭が彫ってあり、「スズラン・メノコ」と書いてある。トイレの横の壁にはゴブラン織りのバンビの安っぽい模様のテキスタイルがかかっている。
「いらっしゃい」
 ママは微笑んだ。
「初めて……よね?」
 ママは意味ありげに間をとって問いかけた。
「ええ」
 私は明るく返した。一番奥に座っている六十がらみの白髪の男が「還暦」という唄をうたった。手前のぺこちゃんのような顔のおじさんが「小樽運河」をうたった。この中から今夜の客を決めろという方が無理だな。私は思った。この店には比較的無難なやくざがいるからとしいママにすすめられたにも拘らず私は二の足をふんだ。カウンターの奥で、ちらりと蜥蜴みたいな視線を送ってよこしたのはよくみるとおばさんだった。
 トイレに入ろうとしたら
「だめよっ、今」
 ママの険しい声が飛んだ。と、同時にすらりと背の高い男が出てきた。パドックスにようやく艶のある馬が登場したかのように私はじっと彼をみつめた。下半身が優雅な獣は力をぬき、深く息を吸い込むと、
「交代ね」
 と低い声をかけた。生臭い風になぶられたような気がした。男は愛くるしく微笑んだが、用心棒と同様目が笑ってなかった。
 私はトイレに入った。中はアーモンドの甘い香りがした。以前何かで、覚醒剤をやっている人間からは甘いアーモンドの匂いがすると書いてあったのを思い出した。不思議とこわくなかった。深く息を吸い込んだ。男が陰茎を向けた便器に脚をひろげてしゃがみ、激しく放尿した。トイレを出て、またカウンターの隅に座った。
「ゆう、久しぶりじゃないの」
 ママは人が変ったように明るい声で言い放った。わざとらしさがカウンターの男たちの失笑をかっているようだった。
「生きてたのね」
「ああ」
 ゆうは不敵に微笑みママの目を真っ直ぐみつめた。
「とっくに湾岸で生き埋めかと思ったわよ」
 男たちがおおっぴらにわらった。
「しょうがないねえ、ママは。忘れられないんでしょ」
 ゆうは爪楊枝でしーしーと歯をせせり、私に流し目をくれながら答えた。どうなっても構わない。下品が魅力になった以上、今夜はこの男にみだらの限りを尽くすしかない。
「じゃ、お嬢ちゃん、何かうたいますか」
 女は釣られるまでが華という。太いカラオケの冊子がまわってきた。カウンターはわくわくと波だってきた。男たちはそわそわと笑いをこらえながら笑いをもらし、私に危険を察知させようとしていた。だが私は胸元のボタンを一つ二つとはずした。
「あのー、私、あれがいいな。欽ちゃんの番組で二人の女の子がうたってた」
「わらべ?」
 ゆうちゃんが答えた。同年輩なんだ。そう思って嬉しかった。
「そうそう、わらべ」
「もしも明日が……ね」
 ママは暗い目で私を見据えていた。
「そう、それね」
「一五八六の〇九」
 ぴぴぴっと音がしてナンバーが光った。未練があるなら素直になんなさいよね、あんた。私は胸のうちでママに毒づいた。あぶらげかっさらわれても文句いいなさんな。音楽が流れ、私は立ち上がった。軽快なメロディーだった。
「もしも、あしたが晴れならば
 愛する人よ あの場所で
 もしも、あしたが雨ならば
 愛する人よ そばにいて
 今日の日よ、さようなら 夢で逢いましょう
 そして、心の窓辺に 灯りともしましょう
 もしも、あしたが風ならば
 愛する人よ、呼びにきて」
 うたいながら私はバーのまわりを巡った。思いきりすみきった声で男たちをくすぐり、しなだれかかってたまらない気持ちにさせた。我ながらどんどんかわいくなっていくような気がした。そして最後のリフレインに来て、ほったらかしにしていたゆうの膝に弓なりになった背中を預けた。のけぞったまま、あえててゆっくりと
「あいっするーひーとーよー」
 と甘えると、頭を支えられた。
「そーばにぃいてぇ」
 とうたいながら身を起こしてゆうの唇に唇を近づけた。躰に透明なトンネルが走った。
「あんた……」
 ママは皮肉な笑みを浮かべて私に向き直った。
「自分で何しに来てるかわかってんの?」
 そのときになってママの首筋に切り傷の跡があるのがわかった。
「わかってるわよ」
 私はしれっと答えた。これまでの歳月に復讐してるようなせいせいした気分だった。
「売春でしょ」
 カウンターにどっと笑いがまきおこった。ママの形相が変った。
「よしなっ! ど素人の売女が」
 その声に店は凍りついた。
「中途半端なやくざに手出すのはおよしっ」
 わけのわかったようなわからない台詞だった。私は小生意気に押し黙った。どのくらいの時間がたったのだろう。僅か一秒でも長く感じられたとき、
「てめえの勝手だろうがよ……」
 還暦をうたった六十がらみの男がぽつりといった。
「死ぬも生きるもな」
 そういって私を、灰色の膜のかかった目でみつめた。はなむけの言葉を背に私たちは店を出た。緑の野へ。砂利道には、黒塗りと白塗りのベンツがいつの間にかずしんととまっていた。目隠し防弾ガラスがはめこまれていた。
「よう」
 ゆうはその車をのぞいていった。
「ちょっくら貸せよ。お嬢様お送りするんだからよ」
 ケッという声とともに、激しく罵倒する声が飛んだ。日本語ではないようだった。
「いいから」
 私はゆうの腕をとった。
「私の部屋にいらっしゃいよ」
 柳のしだれるしけた仙成旅館。手に手をとって入ると、やっと新婚旅行が始まった気がした。部屋は二階で、狭いが新しい畳と 障子を引いた所にある木の手すり窓。
「ここが八重ちゃんの仕事場?」
「そうよ、今日からね」
「俺、金もってないんだよね」
「じゃあ、覚悟しなさい。めちゃめちゃにされても知らないからね」
 そういいながら、歯の根もあわないほどの震えが来た。ゆうが私を抱きしめ、分厚い舌で耳を舐めまわし、奥までいれたとき、震えは全身に及んだ。
「なんだよ、随分おぼこじゃないの」
「そうよ、悪い? おぼこじゃ悪いの?」
「なんだよ、え、なんだよ」
 耳は熱い唾液にまみれた。躰が裏返しになって、肌は粘膜となった。絶叫しそうになる自分の唇を、ゆうの唇でふさいだ。ひきよせられた背中にあてた男の掌が温かい。やっとの思いで引き離すと私はいった。
「ねえ」
 喘ぎ声になりながら
「毛深いのね……」
 と囁くと、
「うん」
 という。手の甲にうっそり生えた毛を五本の指でまさぐった。
「どこが一番毛深いの」
「いえないところ」
 そういって私のブラウスの最後のボタンをはずした。ゆうの胸はまるで犬のようだった。私たちはふとんに転がってもつれあい、卑しい音をたてあった。いつの間にかびしょ濡れになり、私はゆうの毛深い性器をくわえていた。果ててはよみがえるのはあのアーモンドの甘い匂いのせいだろうか。幾度目かの陶酔の後私はいった。
「この脚に、跨っていい?」
「いいよ」
 ゆっくりとこすり続けると自分が愚かで小さなものになっていくような気がした。
 物静かな夜にこおろぎがないている。あれは共食いするのだと聞いたことがある。私たちがこんなに貪りあうのも、どこか身内に似た匂いをかぎつけているのかもしれない。
 この街の入り口にある錆びたポンプ井戸。
その向うからパトカーのサイレンの音が響いた。

(平成17年9月1日)