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茶房ドラマを書く/作品紹介


短編

トロさんがいる

野口忠男


(2005年度エッセイ賞優秀賞)


「トロちゃん、あなたお見合いしなさい」
大学時代の先輩でもあり、親友でもあるKさんからこう切り出されて、敏子は、一瞬、言葉を失った。
「冗談言わないでよ、K。わたしには付き合っている人がいるのよ。知ってるでしょう」
「あんなの、ただの友達じゃない」
昨年相思相愛の彼と結婚したKさんは、その方面でも先輩だ、と言う顔つきで、言下に否定した。
「いい。お相手は、あなたもご存知の谷村さん。ここにロードショウの切符があるから、二人でいってらっしゃい。ただし、覚悟して行くのよ」
「覚悟」という言葉をやけに強調して、Kさんは笑いながら一枚の切符をトロさんの前に置いた。
昭和三十五年、トロさん二十五才、春を迎える昼下がり、ある喫茶店でのできごとであった。

トロさんとは荒井敏子の愛称である。ちなみに、当人はこの呼び名を気に入ってはいない。
彼女が比較的動作が遅く、特に、食事をする時間が学友たちの倍もかかるので、友人たちがトシ子と呼ばずに、とろい子のトロ子と呼んだのが始まりで、キャンパスでは、学友の誰もがトロさんと呼び、シスターたちも「トロ、トロ」と声をかけるようになってしまったのである。
敗戦の年、昭和二十年は、敏子にとっても、多くの日本人と同じく最悪の年であった。
三月十日の大空襲で家を焼失し、六月に病弱な母が死んだ。
集団疎開先で訃報を聞かされた彼女は、急ぎ、東京の母の葬儀に連れ戻されたが、お棺におさまった母の死に顔も見ていない。
八月十五日に敗戦を迎え、商人であった父荒井直(ただし)は、すぐさま雑貨卸の家業を再建し、十月には再婚した。
敏子が二年ぶりで集団疎開から解放されて、焼け跡の東京日本橋の借家に帰ってきたとき、父親から「新しいお母さんだよ」と紹介された女の人を見て、肝をつぶした。
疎開する前に小学校で、「うどんこばばあ」とみんなで嫌っていた女教師が、白く厚塗りした顔をにこにこして立っているではないか。
「これが、わたしのお母さんになる人か……」
絶句したのも無理はない。小学四年生、敏子十歳のときのことである。
こうして、新しくやってきた継母ノブと敏子との関係は、初めて会ったときから冷えていた。
ノブは、目の前のやせて、色黒の、上目使いで自分を見ている、おかっぱ頭の少女をどう取り扱っていいのか分からなかった。
その後、ノブの関心とエネルギーはこの少女を素通りして全て稼業の商売の方に注がれる。
ノブはかなり情の怖い女だったのだろう。
荒井家に嫁いでくると、すぐに前妻の写真をすべて焼却し、敏子が集団疎開に大事に抱えていた母の写真までも、敏子の居ない留守に、彼女のアルバムからはがして燃やしてしまった。
おかげで敏子には生みの母の写真というものは一枚も残されてはいない。
敏子がこのうどんこばばあに反抗的な態度をとるようになったのも当然のことである。
彼女は、中学二年のとき、継母と折り合いが悪いから家にいたくないと父親に頼み込んで、カトリックの女子修道会が経営する私立の中学校に転校し、学生寮に入れてもらった。
そして、そのままそこの高校、大学と進学し、寄宿生として、寮にずっと居続け、この間、舎監のシスターの薫陶を受け、すなおにカトリックの信者になってしまった。
彼女の霊名の聖人は聖母マリアであり、かくしてマリア荒井敏子が誕生した。

寄宿生の中で、彼女が有名をはせたのは、人一倍の朝寝坊だったことである。
寄宿の寮では朝六時に当番のシスターが鐘を打ち鳴らして個室の前を通り過ぎる。寄宿生たちは七時のミサが始まる前に洗顔と身支度をすませておかなければならない。
支度がととのっているかどうか、もう一度シスターが見回りに来る。そのときトロさんの部屋の戸は閉まっていることが多い。外国人のシスターが戸を叩いて声をかける。
「トロ、ドウシマシタ」
返事はない。シスターが戸を開けると、トロさんは布団をかぶっている。
「トロ、ビョウキデスカ」
トロさんは顔だけ出して、しかめっ面で言う。
「むかー、むかー」
こうしてごミサをさぼり、七時半から始まる朝食でも、テーブルのトロさんの席は空いており、食前の祈りが終わった頃、ばつが悪そうな顔をして彼女は自分の席につく。
シスターたちもみんなも素知らぬ顔をして食事を始めてしまい、彼女は一人でもごもごと食前の祈りをする。
なにしろ彼女は食事が遅い。寄宿時代は、それでみんなに迷惑をかけた。
初めは、彼女が食べ終わるまで、辛抱強く待ってくれていたシスターも、何回目からかは、彼女が食べ終わるのを待たずに食後の祈りするようになった。
短い祈りの言葉がおわるまで、彼女は箸を置いて沈黙を守り、寄宿生たちが「ごちそうさま」という声を合図に、また食べ始めるのが習慣になってしまった。
トロさんがなぜ朝起きられないのか、その理由は当人にも分からない。
のちに、それは当時の食糧事情が悪くて、彼女の体に栄養が十分に行き渡らず、そのために朝起きられなかったのだ、と彼女は友達に説明していたが、真偽のほどは明らかではない。
当時は、みながろくなものを食べていなかったのだから。

大学を卒業すると、トロさんは、シスターの世話で、付属の小学校の先生になることが出来た。そして、一年生の担任になった。
トロさんは、自分でもはじめ気づかなかったが、この仕事が大好きになった。
幼児から抜けきらない一年生の女の子に慕われ、「トシ子先生、トシ子先生」とすり寄ってくる子供たちに囲まれて、彼女は、自分が何か変わったように思った。いや、変えられたと言った方が正しいだろうか、つまり、少し大人になったのだろう。
彼女は人より動作が遅いことをいつも苦にしているが、彼女に取りえがあるとすれば、小さな子と動物には好かれる、というのが彼女の唯一の自慢できる点であり、それが幼い子の先生という仕事に生かされたのだろう。
そう言えば、彼女の大好きなものは、赤ちゃんであり、犬くんであり、猫ちゃんである。
彼女は、赤ちゃんを見れば、笑顔で話しかけ、犬や猫にも同様に声を掛ける。彼女に呼びかけられた赤ちゃんは声を上げて笑い、近所の犬や猫は、彼女の姿を見ると、とんできて彼女にじゃれつく。マリア敏子の特技であった。

 Kさんは、一年上の先輩で、また、仲の良い寮友でもあり、トロさんは何かと姉のように可愛がってもらっていた。
彼女の名前は、梶薫と言ったが、イニシャルのKKをとって、みんなはKさんと親しみと尊敬を込めて呼んでいた。
女子大のキャンパスでは、色白大柄で、堂々とした美人のKさんに、ぶら下がるようにくっついているやせた色黒のトロさん、二人の姿がよく見受けられた。
Kさんは、学年は一年上でも、年齢は五つ年上で、二年ほど小学校の教師の経験をしてから大学に戻ってきたという、いわば、社会経験のある、大人の学生であって、トロさんのようにのほほんとした女子大生とは、生活感覚に大人と子供の開きがあった。
そんなわけで、二人の間柄は、強いて言えば、親分子分の間柄とでも言おうか。トロさんは、Kさんにまといつく小さな黒犬君的存在である。
そこで、Kさんの言うことには一理も二理もあって、トロさんは、何か文句があっても、大体において、従ってしまうのが常なのである。

さて、このあたりで、冒頭の話に戻ろう。
Kさんがトロさんにお見合いの話を持ち出したのには伏線があった。
トロさんの教師ぶりも二年目を迎えて、そろそろ板についてきた頃のことだが、親分のKさんの結婚を目の当たりに見て、トロさんも、人生に、何かあせりのようなものを感じて、Kさんに、そのことを相談したのである。つまり、結婚願望というやつである。
自分の家の複雑な事情を述べて、こんな私でも結婚できるかしら、とかなんとか、Kさんに訴えたものである。
五つ年上と言っても、まだ十分に若いKさんは、それをまた、まともに受け取り、真剣に考えてしまい、親分として何とかしなければ、と思いこんでしまった。
Kさんは、当時まだ大学講師であった夫の良介さんに相談し、良介さんは、これまた自分の後輩のなかで、トロさんに合いそうな人物の名前をいろいろあげて、二人の結論は、谷村誠がいいんじゃないの、ということに相成り、かくして、Kさん、良介さん二人の策謀によって、トロさんのお見合いの次第になったという、これが今回の顛末である。

ところで、先のトロさんの付き合っている人云々と言う話だが。
何校かの大学には、カトリックの信者学生の横の連帯をはかるための組織として、カトリック学生連盟というのがある。
信者の学生達はこれを学連と呼び、相当数の会員がおり、広島の平和運動に参加したりして、地味な活動を行っている。
Kさんは、その学連の委員長に推薦され、成り行き上、トロさんも、副委員長になって、Kさんを助けた。
学連には、男子の信者学生も会員としており、女子大の中で、あまり男子と会うことの無いトロさんには、男子学生と話す機会は、胸のときめきを覚える経験であった。
Kさんのうしろにくっついて、いろいろな学生たちと付き合ううちに、手紙を交換するまでに交際がすすんだ男子学生がいる。

常明寺という、お寺さんのような名前の彼は、なぜかトロさんに好意をもち、卒業しても手紙を寄こしてきた。

常明寺は、二年浪人して、念願のY国大に入った。大学では、造船科を専攻し、どうやら規定の年数で卒業を果たし、三光興産の造船部門に就職ができた。
彼は就職した年に、トロさんと会い、
「会社の方針なので、あと四年待っていてくれない。五年経ったら結婚できると思うから」とプロポーズのような言葉を告げている。
トロさんは、トロさんで、
「五年は長いわ。五年の間には何があるかわからないもの」
彼女としては、きわめて常識的な答えをしている。
Kさんは、こんな二人のいきさつを知っており、トロさんに、常明寺との交際から身を引くようにすすめていた。
「大体さ、あのポチャポチャ坊やとトロじゃ似合わないよ」
「どこが似合わないの」
トロさんは、気色ばって、Kさんにつめよった。
「あの手の坊やは相性が悪いよ。お公家さんの血筋の、色の白い女の子が似合うのよ。トロなんか、南洋の土人じゃない。ぜんぜん釣り合わないでしょう」
「自分が色が白いからってよく言うよ」
と口にはださなかったが、トロさんには、Kさんの眼力は半ば当たっていると思われるころがあった。
常明寺の名は信彦と言い、トロさんは、その名を聞いたとき、継母のノブのことを連想したものだ。
そして、信彦の母に最初に会った時も、その白い肌と目尻の少し上がった顔を見て、あっ、と声を上げそうになった。
「うどんこばばあと同じタイプだ」
運命の皮肉である。
Kさんの言うように、トロさんは、谷村誠にこれまで二度会っている。しかし、その印象は漠たるものであった。

一度目は、Kさんに誘われて、信州の高原旅行に行ったときで、美ヶ原から霧ヶ峰にぬける二泊三日のコースに参加したときのことである。
Kさんの婚約者、自称アルピニストの良介さんは、二人の結婚前の思い出として、この夏休みの旅行を計画し、それぞれが自分の後輩つまり子分を引き連れて、にぎやかな山行きとなった。
高原と言っても、美ヶ原は海抜二千メートルの高みにあり、四方の眺望は、まさに「アルプスの展望台」とガイドブックに記されているとおり素晴らしく、また、草原の牧場には、牛や馬が群れをなしていて、トロさんは、その景観を見て、何度も歓声をあげたものである。
良介さんが連れてきた男性は二人で、一人は、背の高い青年で、栗原と名乗った。良介さんと同じく学者タイプで、度の強いメガネをかけていた。もう一人の方が谷村で、陽に焼けた、細面の顔つきの青年で、とてもやせて見えた。
トロさんは、学者タイプの栗原君に好印象を持ったが、彼は、トロさん以外の、Kさんが連れてきた二人の女性の方に関心があるらしく、そちらの方に気を取られていた。
その二人は、良家のお嬢さんらしく、明るく、華やかなスポーツシャツを着て、登山用のスラックスとストッキングをつけ、新品の登山靴を履いていた。ザックもおそろいの新品である。
トロさんと言えば、白シャツを着て、黒いズボンをつけ、普通の運動靴を履いていた。帽子は中学生の時学校で買わされた白の丸帽で風に飛ばないように顎ひもがついていた。リュックサックは借り物でかなりの年代物だし、おまけに、彼女は兵隊用のアルミの水筒を肩からななめに掛けていた。言ってみれば、ほかの二人にくらべて、彼女はかなり野暮な格好をしていたものである。
そう言えば、谷村さんは、あの時、紺の青いシャツの袖をたくし上げていて、黒のベレーをかぶり、それが似合っていたっけ、とトロさんは谷村の山の服装を思い出した。
それから、一度、流れの急な岩場を渡るとき、手を差しのべて助けてくれたのは、栗原さんではなく谷村さんだったなあ、と谷村のベレー帽の下の細い目を思い出した。
山では、谷村は、細い体に似合わずひょいひょいと軽やかに歩き、いつも遅れがちになるトロさんを笑顔で待ってくれていたっけ、とそんな姿も思い出された。

二度目の出会いは、Kさんの結婚式の当日で、手伝いを頼まれたときのことだった。
Kさんと良介さんの結婚式は、その年の秋の一日、二人が勤めているJ大のキャンパス内にある古い聖堂で行われ、トロさんは、前もって、Kさんから電話で、受付を頼まれた。
「トロ、当日、受付やってね」
「いいけど、わたし、何していいか分からないよ」
「大丈夫よ。谷村さんと栗原さんも一緒だから。分からないことがあったら、谷村さんに聞いて。あ、それから、保子もお嬢も来てくれるからね。よろしくね」

そう言い終わると、Kさんはそそくさと電話を切った。
保子とお嬢というのは、山へ一緒に行った、あの二人の学友であり、お嬢というのはトロさんと同じく愛称である。
結婚式の当日は、雨が降り、聖堂の中はかなり混雑した。しかし、式はとどこおりなく行われ、新郎新婦は、親戚や大学の二人の関係者ともども、披露宴の会場であるホテルの方へ移動した。
トロさん、保子、お嬢の三人は、谷村から頼まれた受付のあとの片付けと整理に体を動かし、谷村と栗原は、雨の中傘をさして、タクシーを呼び止めて、客を披露宴会場へ案内するために、忙しげに立ち働いていた。
聖堂の玄関前でトロさんたち女性三人が待っていると、傘をさした男二人が「寒い、寒い」と言いながら、戻ってきた。
それから五人は大学の近くの喫茶店に入った。
谷村は、太田さんから軍資金をもらったから、何を注文してもいいですよ、と彼女たちに伝え、彼女たちはめいめい好きなケーキ二個と暖かい飲み物を注文した。
トロさんも、体が冷えていたので、熱いレモンテーとチーズケーキ、それにマロンケーキを所望して、トイレに急いだ。
暖かい店内に入って、やっと人心地を取り戻した五人は、最初夏山の思い出話に花を咲かせていたが、話題が太田良介とKさんの恋愛話に移り、二人のなれそめの話になって、大いに沸いてきた。
Kさんは、図書司の資格があるので、J大の図書館で働いていて、良介さんも同じ建物で辞書の編集の仕事をしていて、二人はしょっちゅう会う機会があったのである。
女三人のああだこうだの推論が一段落したあとで、
「一説によると」
良介さんと同じ独文専攻の後輩である栗原が重々しく口を開いた。
「二人が接近したきっかけは、食べ物のうらみが原因と言われています」
四人は、栗原の癖であるぐっと結んだ唇がほどけるのを待った。 栗原が口を開いた。
「太田先輩は、一見、思慮深そうに見えても、無頓着なところがあるのです」
「そういえば、そうだね。直感はするどいけれどね」
谷村が、これも、とんちんかんな返答をした。
「実は、図書館では、職員が昼食用にパンの注文をしているんですが、太田さんがまちがえて薫さんのクリームパンを食べてしまったという事件があったそうです。これは内部だけの秘密で、外部には口止めされた事件ですが……」
栗原は事件という言葉を二度くりかえして使った。
「それで太田さんは何パンを注文したんですか?」
お嬢が口を挟んだ。
栗原はお嬢の方にやさしい顔を見せて言った。
「それが、先輩は、自分は注文したと思いこんでいて、パンを注文していなかったんです」
聞いているみんなは、嬉しくなって、顔を見合わせた。
「太田さんは、薫さんに平謝りにあやまって、事件をおんびんに済ませてもらい、それがきっかけで二人の交際がはじまったそうです」 栗原は、一同の顔を見渡した。
「いいですか。ただし、このことは他の人には話さないでください。先輩の名誉のためにお願いします」
彼は、三人の女性が喜んでいるのを確認してから、得意げな表情を見せて口を結んだ。

それから暫くは二人の新婚旅行の話になった。Kさんと良介さんは、上高地に三泊四日を過ごし、登山をする予定だという。
羨ましい、とか、もう雪が降るんじゃない、とか、遭難するかも知れない、とか、遭難しても本望だろう、とか二人のうわさ話で盛り上がった。
と、突然、保子が水を差した。
「Kさんもひどいわ。なぜ私達は、披露宴によんでくれないのかしら。ねえ、おかしいと思わない」
彼女は文句を言い始めた。
谷村がとりなすように、
「披露宴というのは、結婚式と同様、社会に船出するための、二人の親戚や職場への了解を取り付ける儀式のようなものでしょう。あんまり楽しいものではないでしょう」
と言葉を切ってから、
「太田さんも、落ち着いたら新居に招待するよ、と言ってますから、その時はまたみんなで押しかけていきましょう」と言い、
「じゃあ、今日はこの辺で散開しますか」と座を締めくくった。
トロさんは、谷村の言った「社会に船出する」という言葉が耳に残った。

当時、京橋の橋のたもとに、テアトロ東京というロードショウ専門の新しい映画の劇場ができて話題になっていた。
トロさんが渡されたチケットはその劇場の指定席券であり、上映作品はウイリアム・ワイラー監督「ベン・ハー」で、古代ローマの戦車競争のシーンが評判になっていた。
その日は日曜日だったので、トロさんは、遅くまで十分に睡眠を取ることができた。
朝と昼を一緒にした食事をゆっくり食べ、それから、めずらしく、念入りにお化粧をし、お気に入りの白のブラウスに白のフレアースカート、つまり流行のヘップバーンスタイルに装いを決めて、逗子の下宿先から颯爽と東京へと向かった。
切符が指定席なので、あわてることはなかったのだが、始まる二十分前ぐらいに目的地に着いた。すると、思いがけず、谷村が紺のスーツ姿で劇場の前に立っていた。
「やあ、お久しぶり」
と、片手をひょいっと上げ、笑顔で近寄ってきた彼に、気負いが見られず、大人びた風格があって、トロさんは安心した。
映画は、のちに映画史上に残る名作と呼ばれるのにふさわしく、冒頭の、エルサレムに向かうユダヤの民衆とそれにまぎれこんでいる身重のマリアと付き添うヨゼフのシーンから、夜空に輝く星に導かれてベトレヘムのキリスト誕生を祝う三博士の表情等、大変すばらしく、呼び物の戦車競争も、文句のつけようがない、圧倒的迫力であった。
夕方の六時から始まった映画は、途中の休憩もいれて、終わった時は十時近くになっていた。
東京駅から横須賀線で逗子へ帰るというトロさんを送って、二人は京橋から八重洲まで歩いた。谷村はさかんに映画の内容について興奮して喋った。その間、トロさんは主役を演じたチャールトン・ヘストンの見事な肉体を思い出していた。
駅でトロさんの電車を時刻表で確認してから、二人は喫茶室に入ってコーヒーを頼んだ。
コーヒーがまだ来る前に谷村が聞いてきた。
「今度は何時会えますか?」
トロさんは、テーブルに目を落として、来るときに電車の中で考えてきた言葉を口にした。
「そのことなんですけど。Kさんにはっきり言わなくて、谷村さんには申し訳ないんですが……、実は、私には付き合っている人がいるんです」
谷村は動ぜずに応えた。
「太田さんから伺ってます。どうです。僕に乗り換えたら。僕の方がいいんじゃないかな」
トロさんは、無神経とも言える相手の言葉に、とっさに、強い口調で言い返した。
「そうはいきません。あちらの方が長いお付き合いなんですから」 谷村は、驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔を見せて言った。
「そうですか。それじゃあ、少し僕とも付き合って、良い方を選ばれればいいでしょう」
「いいえ。やはり、今度のお話は無かった事にしてください」
自分の意志とは関係なく、トロさんの口は勝手に喋っていた。
ウエイトレスがコーヒーを運んできたので、二人は黙って熱い液体を体に入れた。
飲み終わってカップを置くと、谷村は少し淋しげな表情をトロさんに向けた。
「実はね、僕、ふられることに慣れているんですよ。去年から今年にかけて、もう三度も女の人から断られているんです」
(何でそんなことをこの場で言うのか)トロさんは心の中で叫んだ。
「そうですか……。でも、谷村さんなら、きっと、私なんかより、ずっと良い人が見つかりますよ」
ありきたりの慰めの言葉であった。
「分かりました。合う、合わないは当人次第ですものね。こっちが良くても、相手が良くなきゃしょうがないですよね」
谷村はあっさりと引き下がった。
「今回は縁がなかったものとしてあきらめます。どうぞお幸せに」
谷村は立ち上がってトロさんに握手を求めた。
「今日はお付き合いくださってありがとうございます。わたしも谷村さんが良い方にお会いするのをお祈りしています」
(あっさりしすぎているわ、この人は)とトロさんは谷村の冷たい手を握りながら、心の中では、彼の自分への思いの軽さに対して腹を立てていた。

帰りの横須賀線の電車に揺られながら、トロさんは今日一日のことを考えていた。
結局、谷村とはあまり話らしい話もせずに別れてしまった。
東京駅のホームの上で、車上で離れていく自分を見送ってくれていた痩せた谷村の笑顔が思い出された。
でも、仕方がない。自分は正しいことをしたんだ。自分は正しかったんだ。
常明寺信彦のメガネを掛けた、丸っこい、肉付きの良い顔が目に浮かんだ。
同時に、彼の母親の色の白い神経質そうな顔も浮かんできた。
自分はあのひととやっていけるのだろうか、とトロさんは信彦に対して不安を覚えた。
お茶を教えているという信彦の母は、トロさんが訪問したとき、はじめは笑顔で挨拶を交わしたが、トロさんの立ち居ふるまいの一挙手一投足に鋭い目を向け、細かいしつけを何一つ身につけていないトロさんの正体が分かると、がらっと態度を変え、トロさんが帰るときには見送りにも出てこなかったではないか。
「常明寺家は、由緒正しい家柄で……」
信彦の母の人を威圧するような声が聞こえてきた。
信彦は、万一のときに、あの母親から、自分を守ってくれるのだろうか。
いや、あの母親に彼がかなう筈がない。
トロさんは、電車の轍(わだち)の音を聞きながら、暗澹たる気分に落ち込んでいた。


翌日、結果報告をするという約束通り、トロさんはKさんに電話を掛けた。
Kさんの声ははずんでいた。
「それで、どうなの。うまくいった」
トロさんは、自分の気持ちを正直に伝えなければ、と必死の思いであった。
「お願いがあるの。谷村さんにKからあやまって欲しいの」
「ええ、どうしたの。何かあったの?」
「わたし馬鹿なのよ」
「何か、へました」
「交際を断ったの」
「えー。どうして」
「ほら、例の彼のことで」
「常明寺君?」
「うん」
Kさんの声が一時途切れた。それからたしなめるように、
「ねえトロ、何でもすぐに決めればいいってもんじゃないのよ。物事には時間を掛けなければならないものもあるのよ」
トロさんは電話の前で神妙にコックリした。
「で、どうしょう」
「Kからもう一度とりなしてもらえないかしら」
「そうねえ、良ちゃんに頼んでみるけど。ちょっと難しいかもね」
「駄目かしら」
「ほら、男の人ってメンツを重んじるでしょう。トロが一度断ってしまったんだから」
「駄目かな」
トロさんのため息が聞こえた。
「まあ、しょうがないじゃない。期待しないで待っていて。聞いてあげるから」
「ありがとう。お願い」
「駄目でもともとじゃない。トロちゃん、男はいくらでもいるわよ」 Kさんは、トロさんの不首尾が嬉しいかのように、上機嫌で電話を切った。

一週間たっても、Kさんから何も知らせては来なかった。
十日ほどたった頃、谷村から直接トロさんのところへ一通の封書が届いた。
トロさんは、封書の薄さを透かして見て、これは縁切り状だな、と暗い気分で封を切った。
一枚の便せんに、簡潔な文面で、次のように書かれてあった。

拝啓
先日は、素晴らしい映画を一緒に見られて幸せでした。
今日、太田先輩から、荒井さんが、小生との交際をもう一度考え直してくださるというお話がありました。
つきましては、次の日曜日、イグナチオ教会の十一時のごミサに来られませんか。
小生は、前から三列目、祭壇正面右側の方の席におります。
万一、来られない場合は、太田夫人にご連絡下されば、小生には通じます。太田夫妻も、何時も、この時間のミサに出席していますから。
敬具
谷村 誠
荒井敏子様

一読して、トロさんは口に出した。
「小生、小生、小生か……」
そして何か唄いたくなった。
トロさんは、音痴だったが、自然と体が動き出し、谷村の手紙を頭上にかざし、阿波踊りのように体を揺らして唄った。
歌はハチャメチャな東京ブギウギだった。

イグナチオ教会は四谷駅を降りた正面にある。
次の日曜日、トロさんは、自分が気に入っている花柄のワンピースを着て、朝早く、東京へ向かった。
東京駅で中央線に乗り換え、四谷駅に着いたとき、時計を見ると、十時三十五分を廻っていた。
丁度良い時間だわ、彼女は、うなずいてから、急いで階段を上り、信号のある横断歩道を渡った。目の前にそそり立つ尖塔があり、塀の門の先に、白い教会の正面玄関が見えた。
広場には何人かの人たちがたむろしていたが、その先の、入り口の階段の上に、前と同じ紺のスーツを着た谷村が、こちらの方へ片手を挙げて立っていた。
トロさんは、彼のやさしげな笑顔を見たとき、何か分からぬが、これから私はこの人と一生付き合うのかも知れない、と幸福な感情に満たされて、そう予感した。

(平成17年12月)