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エッセイ

カミさまとのたたかい

深谷巖



カミさまとのたたかい

与太郎こと鉄男は、昭和の一桁年代、東北山村の農家に八人兄弟姉妹の次男坊として生まれたが、上の方四人は男の子だった。当時はどこの家でも子沢山で、貧しくてもにぎやかだった。生家は少しの山林と田畑を所有している、まる百姓(自作農)だった。収穫物をまるまる自家収入に出来たので、暮らしに困るほどの事もなく、幼時は甘やかされて育った。小学校に入っても他の子供と競うことは考えなかった。成績は最低に近かったが、向学心も成績への執念もなかったから本人は平気だった。母が心配して小言をいうほかは身近な女の人みんなにかわいがられていた。祖母も叔母もみんな味方だった。なんの意欲もないような子供に父は呆れていた。

そんな彼にも厳しさが襲って来たのは、日本が第二次大戦に入ってからだ。国家の興亡をかけた戦争遂行のため、男は強くならねばならぬ、耐えねばならぬという風潮のなか、弱虫・泣き虫は必要のない時代時代だったが、弱虫なりに何とか生き延びた。

敗戦後、国の工業生産施設等は零に等しい中で戦後の苦しい生活が始まった。鉄男が高校を卒業する頃、就職難であった。日々の苦しい暮らしの中で、のんきな百姓屋の次男坊も独立、自活しなければならないことを知った。そこで当時、卒業後就職に心配なく、学費の安い教育系の学校を選び教育愛もないくせに進学した。貧乏学生としての男子寮暮らしだったがそれなりに楽しい日々だった。中学・高校と男子校だったせいか女子アレルギーみたいなもので女生徒には近づけなかった。

卒業後、四月から隣村の小学校に就職出来た。通勤は無理なので独身宿舎に入った。朝は寝ているうち子供たちが「せんせーいーおはよう、はやく起きらしーッ」と声をかけて前の道を通り、楽しく忙しい一日が始まるのだった。初月給はそのまま母親に渡した。母はそれを神棚にあげて拝んだ。父は「あんな奴に金を払うんだから国も大変だ」と言ったそうだ。そのくせ後では弟の授業料を払わせたこともあった。あっという間に三年経った。次の年の四月異動があり、年下の女子教員が転入して来て隣の席になった。女子に免疫のない鉄男はたちまち落ち着きを欠き、教頭に机の配置換えを頼んだが駄目だった。だがなんとなく彼女が気になり姿を見ない日曜などには物足りなく思うようになった。やがて自分の異動が迫ってくると「いつも一緒に居られたらいいなあ」と思うようになった。幾つかの紆余曲折の末ふたりは家庭をもった。

それからX年過ぎた。現実は思うようにはいかなかった。彼女は幾つかの計算外の事に悩まされた。彼は人がいいというか、仲間との飲み会に義理堅く、家庭を一人で守るようなことが重なったのだ。おまけに組合運動に熱を上げたり、部活の練習に夢中になっていた。「普段の日の帰りがおそいのなら、土日ぐらい家にいればいいのに」とよくいわれたものだ。

ある日曜日のこと、彼は部活(テニス部)の練習に出掛けた。生徒との約束の時間も迫っていた鉄男はバイクを飛ばしていたところ、警察のスピード取締りにつかまって反則金四千円取られてしまった。家に帰ってすましていたが、知人から彼がねずみとりにつかまったことを聞いていた彼女に「普通の人は働きに出て、お金をとってくるのに、取るどころか取られてくるとはどういう了見なの」といわれた。

それからまたX年、ふたりとも高齢者と言われる年齢に達した。彼は妻にかけた積年の苦労を思いながらも、素直な態度が取れない。今日も食事の時、汁の飲み方が悪いと注意され「あ、俺は上野のお山あたりの青いビニールテントで暮したい」といったところ彼女に「オトウサンなんて、ホームレスのお仲間にだって入れてもらえないわよ、その歳でなに考えてるの」と言われた。次は自分の悪いことは棚にあげ、往生際悪くささやかな抵抗を続ける男のつぶやきである。



誘惑
                               
足が思わず止まる。そこは居酒屋だ。かと思うとチャンスコーナーという宝くじ売り場だったり、ラッキーなどというめでたい名前のパチンコホールだったりする。「ラッキー」な「チャンス」がごろごろしていたら苦労はない。

この前、六歳の孫を連れて外出した時、せがまれて「ユーホーキャチャー」という、ユーホーの腕で賞品を取るゲームをした。一回百円で二回の約束だった。しかし賞品は取れず、あっという間に終わってしまった。孫が泣きそうな顔をしているので「これだけだよ」と言ってもう百円与えた。彼は喜び勇んでユーホー操作したが賞品を獲得出来ずお金はなくなった。

「もっとー」というのを「もうおわり」とたしなめて帰った。「ゲームは悲しいね」と言ったら頷いていた。子供にかぎらずゲームをほどほどに楽しむのは難しい。私もかっては、酒やパチンコでささやかな、いや底抜けの楽しみを味わったあと、費やした金と時間を考え、なんども深い悲しみにおそわれた。カミさんは「お父さんが飲まなかったら蔵が建っていた」と今もうらんでいる。

幼時からの環境は人間の人格形成に大きな役割を果たす。女性に余り縁がなく育った鉄男は、世の女性に賛仰の心をもっていても近づくことは出来ない。まあ、桜の花見のようなものと思っている。だから「皿皿」の店で素敵な方が傍に座ったとしても、テーブルに見えない線を引き、一線を越えないように心がけている。

この前、パチンコの話をしていたらある人が「トータルでモトは取りましたか」というので「嫌なこと聞くもんでねえ」と言ったら皆笑った。多分、だれにも思い当たることがあるのだ。いつも損ばかりしているのに「いやー、この前は玉がこぼれっぱなしの大当たりで、止めようもなくてヨー」なんて十年も前の当たり話をしている人がほとんどなのだ。

ある人の言によると「人間一生の間の楽しみや飲む酒の量はきまっている」そうだ。だからといってもし私が山のカミに「カミサマ、私の飲み分やパチンコ・競輪・競馬の楽しみはあと、どのくらい残っているでしょう」とお伺いをたてれば「そんなのあるはずないワヨ、性懲りもなく」というお告げがその場で下るのは、わかりきっている。だが未熟な私は、幾つになっても人畜無害・誘惑無関係という澄んだ世界にすめないようだ。いい話があるとすぐにとびつく。



自由か、脳梗塞か

今年は自然災害が多かった。緊急避難する時など体に障害のある方のご苦労はさぞかし大変だったろうと思う。私は永年、血圧が高いと言われてきた。それだけに成人病検診もまじめに受けてきた。現在は医師から肥満傾向につき体重を減らすようにいわれている。それで処方を受けた降圧剤を毎朝飲んでいる。

だが食事の時など妻から「もう、止めにしたら」などと言われると「食うなというのか」と不機嫌になる。するとテキは「食べたいだけどうぞ」と茶碗に盛りなおしてドンとテーブルに置く。「憎らしそうに、そだに山盛り…」と私。だが「お好きなように」と妻は取り合わない。かくてわが家は冷戦状態に入る。「せっかく健康を気遣っているのに」というのだろうがこっちは面白くない。子供たちも独立し、仲裁する者がいないからどうしても戦いは長引く。いつからかご飯は自分でよそうようになった。

H医師によると日本がまだ貧しかった昭和三十年代の前半、一家の大黒柱である年代の男性に脳血管障害・癌・心臓病などで倒れるものが続出した。そこでこの悲惨な状況の防止と医療費の軽減を計って始めたのが成人病検診だったという。生活のため朝から晩まで健康のことも考えず働き続ける人々の生活を改善するのが目的だった。

現在はそのころの苦境を脱し、衛生環境も良くなったはずなのに疾病は減少していない。そこであまりよくない生活習慣により引き起こされる疾病を生活習慣病と定義づけ、平成九年からは名称も成人病検診から生活習慣病検診と変わったという。

昭和三十年代、病人は医師から「安静にして、栄養価の高いものを食べるように」と言われたのにたいして、今は「あんまし、食うな。できるだけ体を動かせ」といわれるのだそうだ。

私はといえば、医者の言うことには素直に従うが妻の忠告には文句をつけ、五体満足な体を余り動かそうともしない。身勝手な贅沢とは、こうしたことをいうのだろうか。さて今度「あまり食べないで、飲まないで」と妻から言われたら「はい、わかりました」とはいきそうにない。「脳梗塞で歩けなくなっても、口もきけなくなっても知らないから」と脅かされながら「余計なこと言うな」と一蹴することも出来ず、今日もたたかいは続く。



ひとりじゃない

電話のベルがなる。受話器を取ると、カミさんの「駅にいるので迎えに来て」という声・私は反射的に「わかった。行く、行く」と答えていた。受話器を置いてから、なんで俺はこうなのか、と思う。同じ会話でも時には「バスで来い」とか一言重々しく「行く」と答えるなんて格好いいではないか。それなのに「…行く行く」なんて二度も繰り返している。

カミさんは、市内の社会福祉センターでの英会話教室に出かけ、私はひとりでせいせいしたとばかり寝転がっていたのだ。ついでに友人の加藤さんや細谷さんと食事会でもしてしばらく帰っても来なければ、もっとのんびり出来たのにとの思いをかくしてニコニコと車を出す。

大威張りで運搬していた月給のない定年後の私とカミさんは立場は逆転だ。この前、新聞を眺めていたらある欄に、「定年後…家内は、飯、風呂としか言わなくなった…」と川俣町のウソツキ氏の嘆きの投稿があった。同感だ。うちのカミさんは喋るだけ、よしとすべきか。だが私が文句を言うと「何を言ってるの::」と三倍ぐらいになって返ってくるから油断がならない。

私は服や下着、靴などは年号に合わせ、一年間同じ物を着用するのが便利で経済的でいいと思っているのに着替えろとうるさい。カミなんにはなんといっても、私と同じく勤めながら、育児、家事をこなしてきた実績がある。勤めにもあまり実績あがらず、家事を顧みなかった私は家庭内戦では形勢不利だ。大金を投じチームを補強したのに連敗続きの巨人軍堀内監督のようなものだ。どなたかが詠んだ「八十路超え妻に叱られ母恋し」という川柳を思い出す。

気分転換だとばかりに二階に避難すると、階下から芹洋子の歌に合わせて「はーるを愛するひーとーはー…」などとうたうカミさんの声が勝ち誇ったように聞こえてくる。「なーにが春を愛するだ人を愛せ、オメエ、人間だろう…」と私は悪態をつく。
エイーッ、鬼平でも見るかと、テレビのスイッチを入れたが習慣で指は教育テレビを押していたのは流石だ。川柳講座だった。見ていると「かあちゃんの家来になった定年後」という句が出てきた。あーここに仲間がいた。

「全国各地で孤独な戦いを続けているみなさん、熟年離婚とか地震とか耐震度偽装と、かしましい昨今ではございますが、下高井戸はパスタの店「皿皿」に集合して態勢をととのえませんか」
「どこだかわからないって」
「あー、場所はですね、駅から日大通りを歩いて一分、地震にもびくともしない安心堂ビル、二階でございます」