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茶房ドラマを書く/作品紹介


エッセイ

辻先生のこと

野口忠男



「自分には師はない。この世で出会うすべての人、すべてのものが師である」
 たしか、宮本武蔵がこのようなことを述べていたと思うが、私にも、残念ながら、恩師と呼べるような、特別に薫陶を受けた方はいない。しかし、幸いなことに、この方からは大切なことを教わったと思える人は何人かいる。辻清先生もその一人である。

 辻先生が私の勤めていたカトリック系の中学高校の女子校に来られた時、私はまだ四十才を過ぎていず、辻先生はもう六十の坂を二、三年は越えられていたのではなかったろうか。
 その頃、学校の上層部に移動があり、校長職も前の年配者の温厚篤実なシスターに代わって、理性の勝った若いシスターが新しい校長になったばかりであった。彼女は学校の全面的な改革に並々ならぬ意欲をもっていた。
 四月の初め、これから入学式が始まるという短い職員打ち合わせの時間に、校長から新任の先生方の紹介があり、辻先生の名前が真っ先に出された。
「辻清先生です。先生には社会科で倫理を担当して貰いますが、わたくしの補佐として教頭職をお願いしてあります」
 そして、彼が東京のかなり有名なフランス系カトリックミッションスクールのG校で校長を務めた方であることを告げた。
 黒縁のメガネをかけたシスターの、冷たい事務的な紹介の言葉が終わったあとで、叡山の僧兵のような上背のある、いがぐり頭でじゃがいもの顔つきの老人は、意外にも、西国なまりの優しい声で、
「辻です。このたびこちらでお世話になることになりました。よろしくおねがいします」と言って、私たちに頭を下げた。

 在俗修道会に属していた辻先生は、いつも着古した黒いスーツを着ていた。スーツの下は白いワイシャツと地味なネクタイ姿で通していた。ワイシャツは長袖で、夏の暑いときなど、男の教師達はほとんど皆半袖シャツ、ノーネクタイ姿になるのだが、先生はネクタイははずされたが、長袖のままであった。その理由を尋ねると、長袖の方が自分には合っている、温度が高いときは、その都度まくればよいのだ、と言われる。きわめて合理的な答えであった。
 辻先生は、赴任して一年の間、教頭の仕事は何もしていないように見えた。ただ、我々男子の教員と学校が終わってから、よく飲みに行った。
 学校は大船にあり、駅の近くの〈順ちゃん〉という飲み屋が我々の行きつけの場所であった。
 〈順ちゃん〉の名物はトンカツで、これは大船のうまい店紹介の本にも出てくるので、ご存知の方もいるかも知れない。
 何かの弾みで、男子の職員の間で〈順ちゃん〉のことが話題になると、それを聞いた女子の先生が羨ましがり、「こんど私たちも連れていってよ」と盛んにせっつかれたが、「その内にね」と言って、女の先生や、勿論、シスター方を案内しようとは誰も言わない。それは〈順ちゃん〉が、殺風景な飲み屋だからというだけでなく、昼間女の城の中で生活している男達が、夕暮れになって、やっと、自分たちだけで一息つける、いわば、男の聖域であったからである。何しろ千人以上の女子の生徒を七十人ばかりの職員が管理しているのだが、その職員の三分の二はシスターと女性の職員なのだ。女のなかまに男が一人、というわけである。

 新しい年度が始まって一月ぐらい経った頃、男子職員が、新人歓迎会ということで、例年通り〈順ちゃん〉の二階座敷で宴会をした。私は辻先生の近くに座ったので、先生と話をすることが出来た。
 〈順ちゃん〉の料理は安く、庶民的なものであった。宴会での料理も大体決まっていた。生ビールを大ジョッキーで注文すると枝豆か空豆がさかなとして付いてくる。おきまりのメニューは、たこときゅうりと海藻の酢の物、刺身に冷や奴、野菜の煮物と、これらがいっぺんに来て、名物の大きなトンカツの揚げたてが一人一人めいめいに配られる。そして宴会が終わる頃、赤出汁とごはんとお新香が出て、最後に果物のデザートとなる。
 私は辻先生の食べる様子に注目していた。先生は一皿一皿をゆっくりと丁寧に召し上がっていた。私の食べ方とは違っていた。私は、大体、好きな物、美味そうな物に先ず箸をつけ、アルコールを飲んでは、あちらこちらと箸をつける、いわゆる、乱食いであった。先生は、一つの料理を綺麗に食べ終わってから、おもむろに、次の皿、次の鉢に手を伸ばしていた。そして、これが先生の生活様式、仕事の仕方でもあった。あとになって先生から教えられたことがある。
「物事は、一つ一つしか出来ません。一つ終わったら、その次をやることです」
 辻先生の食事の方法は正に彼の生き方を示していた。
 酒を飲みながらの話し合いというものは大体たあいのないものになる。先生がG校の校長だったと聞いたので、こんな質問をしてみた。
「先生は、G校で染五郎を教えられましたか?」
「はい、教えたことがありますよ」
 染五郎とは現在の松本幸四郎氏のことで、彼がG校の卒業生だと、週刊誌か何かで読んだからである。当時の彼は、二十そこそこの若さで、ブロードウエイに呼ばれて〈ラ・マンチャの男〉の主役を張るということで評判になっていた。
「どんな生徒だったんですか?」
「まじめで良い子でしたよ」
 と言ってから、何か思い出すように微笑して、
「彼には弟がいましてね。こちらの方が元気でした」
 と愉快そうにほっほっほと声に出して笑われた。弟とは〈鬼平犯科帳〉の中村吉右衛門のことで、その頃、兄の名声に隠れてまだ世には出ていなかった。吉右衛門はどうやら中学生のときは結構やんちゃな子供であったらしい。

 食事が終わりに近づきデザートの果物が出てきたころ、私は、先生が日頃フランス語の教育学の本をよく読んでいられるのを知っていたので、宴席にもかかわらず、聞いてみた。つまらない質問だが、私にとっては大事な問いであった。それは教師になってから、まだ誰にも尋ねなかった問いである。
「先生、学校とは何ですか?」
 先生は、果物を食べる手をちょっと休めたが、こともなげに答えた。
「組織的に教育をする場所ですよ」
「……、はあ……、なるほど……」
 私は、何となく、納得した。
 一年の間、辻先生には目立った動きは見られなかった。学校の内情をじっくり見て、構想を立てていられたのだろう。実はこの時まで、戦後につくられた私たちの学校にはきちんとした組織がなかった。先生が新しい校長に呼ばれたのは、学校の組織作りのためであったのだ。

 翌年、年度の終わりの職員会議で、辻教頭から学校が次年度から新しい組織の元で発足する事が発表された。新しい組織といってもきわめてオーソドックスなもので、学校全体が三つの部に編成され、職員はすべてそこに組み込まれるというものであった。
 その三つとは、事務部、研究部、生徒指導部の三部である。
 事務所で働く職員及びボイラーマンのような保全管理部門の職員はすべて事務部に属し、事務長が事務部を掌握するのは従来と殆ど変わらなかった。
 教師にとって直接関わりのあるのは研究部と生徒指導部である。 研究部は、それぞれの専門分野での教科の研究とその授業内容の研究が課せられているが、学校の年間計画、時間割編成などが主な仕事であり、各教科の主任を研究部長が統括するような仕組みになっている。だが辻教頭は、この出来たばかりの研究部に、「新しい学校の青写真」をつくらせようと考えていたようである。
 生徒指導部は、学級経営、生活指導、クラブ活動などの授業外の生徒指導全般にゆきわたっており、その領域は多岐に渡っていた。

 新しい年度が始まったとき、新しい人事が校長から発表された。初代の研究部長には、私の最も尊敬している同僚が任命された。そしてこともあろうに、この私が、生徒指導部長の重責を与えられていた。
 誰が、私を生徒指導部長になんか校長に推薦したのか。私は、面倒な仕事を引き受けさせられたことにかなり当惑していた。
 私は辻教頭に会いにいった。
「生徒指導部は、研究部と並んで、学校の車の両輪ですから、よろしくお願いします」
 辻先生には、こちらから何か言う前に、のっけからお願いされてしまった。
 私は、暫く、仏頂面をして、先生のにこにこしている顔を見ていたが、やがて聞いてみた。
「先生、生徒指導部というのは、何をどうすればよいのですか?」 先生は、いつものように、あっさりと簡潔に答えられる。
「生徒を素直にさせればよいのです」
 私は、またまた、何と言ってよいか分からず、先生の顔を見つめてから、おうむ返しに言った。
「生徒を、すなおに、ですか……」
「はい、そうです」
「でも、それは……、とても難しいことですね……」
「そうですね。難しいでしょうね」
 こんなやりとりのあとで、聞いてみた。
「それで私は、生徒指導部長として、何をすればよいのでしょう」 先生は私の顔をにこにこ見ながら言われた。
「野口先生は、まず、旗をつくって下さい」
「ハタ……、ですか?」
 私は、意味がつかめず、聞き返した。
「はい。旗です」
「旗ですか……」
「ええ。本校では、どういう考えで、どういうように生徒を指導してゆくのか、それを文章にして下さい」
「やっかいな仕事ですね」
「ええ、厄介でも大事な仕事です」
「何時までですか?」
「今年度中に、生徒指導部会でまとめて下さい」
「一年ですか」
「はい。来年度までにお願いします」
 私は、先生の顔を見ていたが、ためらいがちに、
「それで、先生は、我々の生徒指導部会に出席して下さるんでしょうね」
 すがるような思いだった。
「いいえ。わたしは、研究部会のほうに出席します。生徒指導部会には校長が出ると思いますよ」
 私の期待はにべもなくはね返されてしまった。私は校長の理性的な顔を思い浮かべていた。

 新年度が始まってすぐの職員会議で、研究部の提案ということで、校長の方から、学校を改革するための特別委員会を設置するという発表がなされた。
 委員の名前があげられたが、辻教頭を筆頭に六名の男子の教員とシスターが一名だけ入っていた。私の名前もその中にあり、委員会の議長は私が信頼する研究部長が務めるということである。
 いよいよ辻先生が動き始めたな、と私は心の中で思った。
 特別委員会は、毎週決められた時間に開かれ、私たちは辻教頭を中心にして喧々諤々の議論をした。この改革委員会は一年ほどかかった。そしてこの会議は、私の教員生活ににとって、特別思い出深いものになった。
 新しい学校の青写真をつくるために、私たちは熱っぽく将来のビジョンについて語り合った。
 辻先生は、会議中多くを語らなかった。にこにこしながら我々の論争を聞き、最後に、頃合いを見て「では、そうしましょう」と発言すると、会議が終了した。
 改革委員会はその後の私の勤めていた学校の体制をすべて規定するという根本的な役割を担い、それは、辻先生の本校に於ける最も重要な仕事になったと思われる。

 委員会が、校長の学校改革の諮問への答申として、あげた点は大きく言って二つある。一つは、従来の中学高校の制度を中高一貫教育の制度に切り替えること。もう一つは、週五日制教育の導入ということである。
 今でこそ、中高一貫と言っても、五日制と言っても誰も驚かないが、三十年以上も前の話である。世間が騒ぎ出す二十年もまえのことなのだ。
 そして問題は、この二つを一つにまとめた教育制度の中身をどのようなものにするかということで、そのために私たちは大いに知恵をしぼらなければならなかった。
 根本的な発想の転換として、私たちは、文部省中等教育の前期(中学)と後期(高校)の二段階の分け方に対して、この思春期の大切な六年間をもう少しきめ細かく見るために、三段階に分けて考えることにした。そして、これは中高一貫なら可能なことなのである。
 つまり、中一、中二の初期教育の段階、中三、高一の中期教育の段階そして高二、高三の後期教育という三段階である。
 私たちは、この考え方を《二、二、二制》と簡略化して呼んだが、中高の六年間に於ける、思春期の生徒達の肉体的、精神的変化に対応するためには、この考え方は妥当なものであったと思う。というのは、各教科とも、これまでは一年毎にちまちまと細かく教科目標を立てていたのに、六年を俯瞰して三段階で目標を設定するという全体的視野があたえられ、生徒指導の面においても少女から一人前の女性に成長していく過程の指導で何が必要なのかが掴みやすくなったと思われるのである。 
 新しい教育体制を具体化するために、私たちは様々な具体案を考えた。中学高校別の二つの職員室を一つにするとか、中学高校に分かれている教室を一体化させるとか、六学年の六人の学年主任を二、二、二制を考えて三人にするとか……、また、五日制で授業時数が縮小される問題をどう有効に生かしていこうとか……。
 正に、いろいろな問題が次から次へと生じて果てしがないように思われたが、私たちはそれらの難問を一つ一つ克服していった。
 こうして改革委員会は苦労も多かったが、未来のよりよい教育を夢見て、私たちには、それは希望に満ち、実り多きものであった。

 会議が終わったあとは〈順ちゃん〉というお決まりのコースであった。勿論、シスターは修院に帰られて、我々男子の教員と辻教頭の七人の侍のみである。一杯飲んで、食事を終えて帰るとき、辻先生は、よく我々のためにおみやげを下さった。
「今夜はおそくまでご苦労様。これは奥様へのおみやげです。遅くまで待っていられる奥様に私からのお礼のしるしです」
 と言って、我々六人の妻帯者に、グレープフルーツとか、夏みかんとかの包みを八百屋で買って与えてくださった。
 私が主催する生徒指導部会は、週一回金曜日の五時間目に組み込まれていた。この会議の後の六時間目は、自分の授業が入っていなかったので、ずいぶん助かった。会議の後の頭の整理ができたのだ。 指導部会の成員は、中一から高三までの六人の学年主任と生徒会顧問とクラブ顧問の二名の男子教員、それに私で構成されていた。学年主任はすべてシスターであった。
 シスターたちも、男の二人の先生も専門の授業を受け持ち、シスターたちは、それぞれ学年のクラス担任から成る担任会議をまとめる仕事があり、生徒会顧問は学級委員会の指導の役割、クラブ顧問は生徒のクラブ部長会の指導の役割があった。
 言ってみれば、みな忙しくて、みんなで話し合って、辻教頭から出された課題の論文を作り上げる時間も余裕もなかったのである。いきおい、この難題はほとんど私一人の肩にかかってきた。

 私は、論旨全体を上から下への三段階のピラミッドに分け、全体を表現する「理念」と、改革委員会で基礎づけられた二、二、二制に基づく「学年の目標」、そして実際の「指導のあり方」に区分し、それぞれの項目について、各員から意見を出して貰って、それをまとめて草案に書き上げた。
 そうして、各員にそれを読んでもらって、了承を取り付けてから辻教頭に提出した。
 辻先生は、その翌日、私を呼んで言った。
「野口先生、ご苦労でした。良くできていますよ」
 そしてにっこり笑われた。
 私の原稿は、研究部に廻され、研究部発行の学校機関誌「研究集録4号」に乗せられた。その表題は「本校に於ける生徒指導の理念と目標及びそのあり方について」という厳めしいもので、印刷された題名を見たとき、私は自分がつけたくせに、なんて長々しい題なんだ、と気に入らなかった。

 辻先生は、若い頃運動をしていたらしく、体を動かすことはお好きなようだった。
 学校では年に一回二日続きの体育祭があった。個人の運動能力の更新とクラス対抗の球技が中心に行われたが、最終回に、アトラクションとして、バスケットボールとバレーボールの勝ち抜き戦で優勝したクラスのチームと先生チームの試合が催された。
辻教頭はいつもバスケの選手として人気を博していた。六十過ぎの老人が、女性とは云え高二位の血気盛んな選手を相手にして走る姿は、とうてい華麗とは云えず、どこかぎこちなく危なげで、それでかえって、大いに観衆を沸かしていた。先生は、それでも一本か二本確実にシュートを決め、引き上げてくると、満足げにタバコを吸っていられた。
 教頭職を辞められる最後の秋のことだと思うが、体育祭終盤のイベントである先生チームと生徒チームのバレーとバスケの試合が体育館で行われ、全生徒応援の歓声と拍手のうちに無事終了した。勿論、勝ったのは生徒側の方だったが、先生チームも若い男の先生たちの活躍があって、善戦だった。
 地鳴りのような観衆の拍手をあとにして、私は、用を足すために、別の建物にある男子用のトイレに向かっていた。体育館から出て校舎に行く途中で、ふと、緑の木々の方に目をやると、辻先生が一人で木陰の下のベンチにいるのが見えた。
 私は、近寄って、先生の健闘に、ご苦労様でしたと、ねぎらいの言葉をかけようとしたが、思いとどまった。先生は、何か物思いにふける、ややきびしい顔つきで、前を見て坐っておられ、私は、古武士のようなその姿に、何か近寄りがたいものを感じて、その場を離れてしまった。

 辻先生は、私の学校に六年間教頭職をつとめ、その間大改革をもたらして、教職をしりぞいた。その後は二年間事務長として在籍され、そして学校を去られた。
 あれは、先生が事務長になられた頃であったか。
 たまたま、大船から横浜への電車の中でご一緒になったことがあった。二人だけでボックスシートに腰を下ろして向き合っていたが、世間話の合間に、伺ったことがある。
「先生、ちょっと変なことを聞いてもいいですか」
 事務長になられてからも、前からの習慣で、私たちは先生とお呼びしていた。先生は教頭の頃と同じ笑顔で、「はい、何でしょう」 と応えられた。
「先生は、私とくらべるともう大分お年をめしていますが……、年をとるというのはどういうことでしょう」
 先生は以前と変わらずに簡潔に答えた。
「何も変わりませんよ」
 そして声を上げて笑われた。私は、そのあと何も言えず、先生の笑顔を見ていた。

 私は、六十の定年退職で講師になり、四年つとめてから教師をやめた。数年たって、辻先生の亡くなられたことを聞いたが、その知らせは先生の死から半年以上もたって私の元に届いたので、私は先生の葬式には参列していない。

(平成十七年七月十四日)