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茶房ドラマを書く/作品紹介


石喰ひ日記

再会

小泉八重子



 声を聞かなくなってから十一ヶ月がたった。六十二歳の夫は五十六歳の妻に完全に心を閉ざしたのであった。結婚したのがおよそ三十年前だ。子供が生れた頃から不協和音がし始め、別居した。それでも夫は仕送りを欠かさず、週末には子供の顔をみるという暮しを続けた。だが、それが一ヶ月に一回になり、三ヶ月に一回となり、ついには電話で罵り合うだけの関係となった。
 平成十五年、つまり今から二年前、妻である私は身の程知らずにも恵まれた一戸建ての家から駅前の高額賃貸マンションへと引っ越したのである。「一家」が暮していた敷地面積八十三坪、建坪六十坪の二階建ては、恋人のアパートへと息子を叩き出した後は、まるで見知らぬ廃墟となった。いてもたってもいられぬ焦慮と不安に急き立てられ、道端にしゃがんで吐きながら、私は新しい引越し先を探した。
 駅前のそこがなぜ決め手となったのか。風呂場と台所に窓が開いていたからだ。阿呆はそこではしゃぎまわった。一円も稼がず近在の畑をぶらつき、外車のショウルームでプジョーだシトロエンだと泥靴で運転席を汚しまわった。当然精神に破綻を来し、抗鬱剤は手放せない。挙句に夫へ罵りの電話をかける。散々な思いは夫の方だったかもしれない。
 平成十六年の五月。どれほど電話しても、頑として受話器を取らなくなった夫。初めは私だけへの処置かと思った。最新機器で妻の番号だけ弾くシステムがあるのだろうと思った。そういった画期的な機器がどのような過程で作られ、どういったルートで販売されてる物であるかも知らない。また広告をみたことは勿論ない。それでも周りの人間に現状を説明して、私がもしかしてそういう機器があるのかもしれないというと、彼らは一様に納得したように頷く。こうして彼らから妙な自信を与えられ、機器は私の口から生れた。私は不安だった。夫の連絡遮断状態が、私だけに対する特別な処置であるようにどこかで祈っていたのかもしれない。
 夫の声ばかりではなく、自分自身の声も聞こえなくなった我が家は徐々に深閑とした精神病棟となった。深閑が震撼をよび、本格的に気も狂う日も遠くない気がしたある日、私は思いきって受話器をとり、夫の職場へと電話を入れた。これから書くのは夫との邂逅までの二日間と、邂逅の二日間の記録である。


平成十七年三月四日(金)

 午後三時、横浜関内にある夫の会社に電話する。夫直通の電話に女性が出る。休みの夫にかわって出たのは上司の小浦氏であった。
「御主人は滅多に会社に出られません」
 第一声にずしんと来る。どういうことなのか。
 氏の報告によれば最近の夫は一ヶ月に一度と決められた勤務にも出て来ないという。氏は夫の前任者であるようだった。この一年会社不適応となった夫は三月二十九日の株主総会をもって退職するというのだ。
 氏は、電話連絡できなくなったのは私ばかりではないという。夫は誰からの電話もとろうとしないという。携帯は常に留守電。たまらなくなった氏は夫のマンションに様子を伺いに行くと、逆に管理人から
「あの人、病気じゃないでしょうかね」
 と問い返される始末であったという。それでも鍵で中に入れてもらうよう要求すると、
「私、岩井さん怖いんですよ。無断で中に入れた場合、怒鳴りこまれたら困りますからね」
 という。氏は監査役だ。後任の夫が日銀出身だというので頼もしく思っていた。しかし実際に来てみれば、七十歳の自分より、六十一、二歳の夫の方が足をひきずるように歩き、髪を乱し、ひげもそらない有様で、ずっと老けてみえたという。仕事もはかばかしくなくがっかりしたという。
「私、たびたびズボンからシャツがはみ出してますよと注意したんですがね。若い人の手前もうちょっと気を使ってくれと」
 私は氏の言葉がアタマに入らないような状態になった。然し気を取り直し、とりあえず氏に逢いたい旨を懇願した。三月十六日(水)に役員会がある。それには夫は出席するだろうと氏はいう。午前十時から始まり、午後二時には終り、夫を解放できる。そして然るべき場所に夫を連れて行くという。
「ではその前、三月八日に」
 と氏はいう。
「奥さんは会社の五階に来て頂けますか。そこでお目にかかりましょう。ま、何かの御縁ですし、私も人生経験豊富ですから」
 有難い。何をどうあやまり、お礼すればよいのか。菓子折りが頭に浮かぶ。そんな物では間に合わないが、間に合わせるより仕方ない。金一封をしのばせよう。
 その日のうちに夫へ手紙を書く。
「前略 本日午後三時、私は貴方の会社に連絡しました。昨年の夏以来、貴方とは出会っておりません。一体どうなってしまったのでしょうか。
 正直に申し上げましょう。私が今日会社へ電話したのは貴方へ『有難う』とだけ言いたかったからです。これまで支えてくれて有難う。大変勇気がいりました。それでもこの言葉がなければ明日は来ないと思いました。
 電話に出たのは小浦さんという貴方の上司でした。そこで私は貴方が三月二十九日の株主総会をもって退職されることを伺いました。本当に御苦労様でした。慣れない職場でどれだけ辛かったでしょうか。どんな言葉も今の貴方には届かないことは知ってます。貴方が現在どんな言葉も聞きたくないであろうことはわかります。これが読まれることを祈る他ありません。小浦さんから貴方の様子を伺い、只ならぬことをやっと察知したバカな私です。
 心身が不健全であることを、少なくとももう私の前で隠す必要はなくなりました。これからどうするかという問題は、私の頭も真っ白で答えられません。ただ、もう貴方を責めるのはやめにしました。
 どうか一度だけでも、一時間だけでも逢って頂けませんでしょうか。お願いはそれだけです。貴方もゼロならば私もゼロです。何もありません。そして経済的な苦労は貴方が負って来たのですから、それに対して、言葉の上ですが、お礼がしたいだけなのです。
 申し訳ありませんでした。御連絡をお待ちしております。切にお待ち申し上げます。草々」


平成十七年三月八日(火)晴れ

 頭が重い。昨日チラシ配りのアルバイトを受けに行ったが、面接は省略していきなり仕事の説明だったので、全く頭に入らず、たまらなくなって中座した。
 本日は上司小浦氏との約束、午後二時。関内で降りる。五千円の金一封と五千円の千疋屋のジェリー。一万円包むべきだったかと後悔する。
 五階で待ち受けていたのは夫より十歳若くみえる目の男だった。年老いたが野性があった。紺の背広に渋いネクタイをしめている。水菓子を進呈すると受け取り、事務所にいる若い人々に向かい、
「おい、みんな、頂いたぞ!」
 と高く掲げてみせた。私はあわててその中に入っていた金一封を取り出し差し上げる。隅にある簡易な応接間に通された。
「御主人が去年の三月二十八日、日銀から来られるというので私どもはまあ、緊張して徹夜で準備してお待ちしてました。ブランドっぽくいかにも日銀マンという方を想像してました。然し、こう申し上げては何ですが肩透かしをくらったというか、印象は違ったようです。私は地方銀行からコンサルタント会社、様々な職業を転々として定年になりました。遊んでるときに『おい、面白い仕事があるぞ』と声をかけられてこちらの美容専門会社に参りましたが、御主人は箱入りというかある意味下働きをしないで来られた方ではないかと思いました」
 いちいち頷く。とがめだてしてるわけではない情のある語り口であった。
「御主人は本籍を一戸建てのお住いにされ、住所を都心のマンションにされてました。あれっと思いましたが、そのうち、あ、ま、そうかと、まあ色々ありますから。そこは別段問題なく過ぎました。然しそうこうしているうち九月に入って女子からクレームが入りました。御主人が女子トイレに入られたんです。驚いた女子が問うと『そんなん関係ないだろう』っと怒鳴り返されたそうです」
 それから夫は仕事から外された。五月から連絡不能の上、そのような事態になれば、無理もない。十月からは監査役は土日以外週一回休みをとるようにいわれた。小浦氏は水曜日。夫は金曜日をとった。だがその体制はすぐに夫に限って週一回来るようにとかえさせられたのだ。給料も月十万と定められた。この体制でやるについては日銀人事局企画部広川雅章氏に承諾を得た。様子をみて納得したようだ。
 それで仕送りもできなくなったのだ。私への仕送りは十月二十二日をもって終っていた。
 夫は三十三歳の新婚当初でも週一回のセックスであった。それも週末で、平日は仕事に追われることが多かった。そのことでたびたび言い争いがあった。二年後に私が妊娠してからはその週一回もなくなった。いたわられているのではない。彼は元々そういう男なのであった。セックスが好きではなく、母親が好きなのだった。なぜ男と女が愛し合うのか、それさえもわかっていなかったと思う。そんな男が六十を過ぎて女子トイレに入る。夢遊病にしては場所が悪すぎた。間違えたにしては日頃の態度がおかしすぎた。
「もう一つの女子からのクレームは、仕事中特定の女子をじーっとみつめるということでした。私なんかも監査ですから、じっと座ったっきり、考えながら視線がとまることもあります。だからそういってる女子にきっと岩井さん、あんたが好きなんやろといいました。きっと好きなんだろと」
 小浦氏の気遣いのせいか、少しもこちらが気恥ずかしい思いをせずにすんでいる。この一件は、本来夫のおかしさだけが浮き立つばかりだ。小浦氏は閑職になった夫に、仕事である美容院に関するレポートを図書館で調べて書いてくるように宿題を出した。休みがたっぷりあるはずの夫は「どうも時間がなくて」と言葉を濁した。そして今年からは月一回の仕事に格下げされた。だがその仕事も二月には欠席するという連絡すらなく姿を消した。
「どうも京都に行ってたらしいです。御実家のようですな」
 あっけにとられた私は思わずそっぽを向き、窓外を眺めるはめになった。午後の空は透明で様々な色の青に彩られていた。何本もの真っ直ぐな雲が平行に薄くたなびき、森の向うの高速道路が晴れ晴れと車を通していた。
「会議は忘れてましたという答えでした」
 年四百万でスタートしたらしい夫の給料はもうない。声が出ない。もう何もなくなった。清算という言葉もあたらない。ただ呆然とした。何をどう考えればいいのか。一つ明るいのは悲しくないということだった。
 それから十六日までの八日間。必要な物しか買ってはならぬという自戒のもと、日記には毎日レシートを貼り付け、朝から掃除しまくった。北向きの部屋はゴミの倉庫だった。その部屋で一番気になっている「裁判資料」と名づけられたダンボールにはこれまでの結婚生活の日誌が詰め込まれている。それが宝の山と信じた日もあった。追い詰められたダンボールは捨てられることを拒む。そこには不能になった夫と神経症になった私の日々が詰まっている。残ったといえばこれだけが残ったのだ。
 三月九日水曜日には息子に出会った。車で来るようにと指定されたショッピングモール街で、相変わらず踵を潰したような歩き方をする息子が現れた。
「親爺、会社不適応だって?」
 にやにや笑いで問いかける。
「それどこじゃないわよ。下手すりゃ精神病院かもしれない」
「俺なんかどうなるのよ。昨日も十一時だぜ。客の苦情係。ソニーに左遷されてね」
 と、なぜか誇らしげにいう息子。随分太ったものだと思う。
「三月二十九日に、あんたも来てくれる? お父さんに逢ってほしいんだけど。休みとれる?」
「二十九日ね、わかった」
 メモする。
「仕送りもなくなったわ」
「あんたも働きなよ。凄いよ、職安は。とにかく仕事のない奴ばっかだからさ。うん。俺なんかエレベーターの前で土下座したよ。仕事下さいって。やってみりゃわかるわ」
 気味よさそうにコーラをのむ。
「これが従業員用のラベルね」
 つまんでみせたプラスティックの名札には口を真一文字にひき結んだ息子の顔写真が貼ってある。
「あんたなの、これって?」
「そうだよ」
幼稚園時代に撮った写真を思い出した。車で送ろうかといったが彼女が迎えに来るという。このモールともおさらばかもしれない。車を売る決意をかためる。


平成十七年三月十六日(水)晴れ
 
 暖かい日だった。夫と会う日がやってきた。小浦氏とは二度も電話で確認をとった。だいたい十二時頃そちらに向わせるつもりだと昨日約束した。
 早朝職安に行って検索したが何も出て来ない。後ろから職安のおじさんが画面を指さし、使い方を教えてくれる。「こうしたら詳細が、ほら大きくなります」という。三十分だけの使用なので焦るが、場所をかえれば一日中でもいられると聞きほっとする。一時間いて急いで帰る。帰ってスーツにアイロンをあて小刻みに時間を調整してるとあっという間に十時となった。
 服を着替えて、ショルダーをさげ、コートを着る。落ち着けと自分に言いきかせながらも気が急く。果たして会えるものかと。
 日は五千円で買ったブルーのスーツが間に合う。出がけにスリットがほころんでいたのを直した。家を出たのが十時半、関内に降りたのは午前十一時四十五分だった。
 ホテルは以前も夫と出会ったことがある場所なのですぐわかった。入ると左手に丸テーブルがある。そこに座って待っていてほしいと小浦氏に指示されている。喫茶店で大立ち回りを演じられても困るからだろう。氏が来たとき、下座にすわらせてはならない。この場合入り口に近い方が下座なのだろうと勝手に決めてうろうろしてると、近くのサラリーマンらしい男がどさりと新聞のラックを置いた。両手で端を押さえながらにらみつけるように読み始める。
 ばからしくなってトイレで水をのむ。まだ足りない気がしてホテルの前の自販機に向かい、急いで通りを渡る。いつ夫が来るかもしれないので気にかかり左ばかり注意してるとひかれそうになる。戻って喉を潤していると氏から電話がある。
「会議が終って今そちらに向うところです。言いふくめておきましたから」
 という明るい声。ほっとする。また気もそぞろとなる。湾曲したガラスの自動扉に自転車で走りぬけるジャケットと帽子の女の子、楽しそうに語らいながら歩くカートをひいたカップルなどがうつる。
 やがて人通りが途絶え、通りが白茶けたとき、正面から足取りのおぼつかないやつれた夫が、それでも一歩一歩ふみしめ、一体どこをみているのかわからない眼で、私の方に向ってきた。その視線はホテルを突き抜けても焦点を結びそうになかった。手をふると、やっとわらった。ごま塩の疎らな無精ひげ、垢のたまった爪。
「お疲れ様でした。有難うございました」
 礼をすると、夫はぎくしゃくと震えながら笑った。疲労の色が濃い。責めることはできない。何もいえない。来てくれてよかった。よかったとひたすら絶賛する。自然に和む。さっき食べたみかんとアンパンで少しは私の方が元気なのだ。どんなときでも私が落ち着き、この人がおたおたして来た。なぜだろう。不思議なのだ。ずっと頭がよく、慎重であるこの人がなぜいつもこんなにおたおたするのか。
 内容はともかく、私には落ち着きと自信があり、この人には今何もなくなったということだ。私が小浦さんには世話になったというと
「あの人は真面目すぎる」
 という。掠れた声だ。自分でも気づき、二度いう。それでも何をいってるのか注意しないと聞こえない。ほこりが目立つ背広。真面目すぎるという言葉が、硬すぎるといわれ続けた夫の口から聞けようとは思わなかった。
「もう、殆どヤケになってね」
 自ら言う。口臭がきつい。
「ヤケじゃ始まらないでしょう」
 とやさしく返す。先日電話に出た小浦氏の言葉を思い出す。
「奥さん、言葉悪いですけど、水のみたがらない馬を引っ張っていくのですから、奥さんと会わないと始まらないぞとだけは言ってあります」
 こうして会ってもお互い抱き合うこともなく、当然だがキスもなく、何もない。一定の距離を保ちながら軽く肩をたたくのが精一杯だ。それにしても臭い。こけた頬によろめく足取り。病人といっても、病院で治る類のものではない。殺風景な紺の背広に、濃いブルーのネクタイ。
「どう、これ?」
 いいじゃない、そのネクタイ。明るいわね。波みたい」
「京都で買った」
 折れ針みたいな模様だがそうはいわない。テーブルに座り込んだ夫が、ぼりぼり鼻糞をほじり始める。鼻の下をのばしたまま、人指しゆびでのびのびとほじり続ける。凄まじい有様となった。ふっきれたともいえる。
「鼻糞はいつもこういうふうにやってるの?」
「え?」
「人前でもつまりのびのびと」
「ああ、あははははは」
 と怯えたように笑う。じっと座ってるのも何だから昼を食べようといい、和食おでんという看板のある隅の方に連れて行こうとした。そこは閉まっている。またにぎりめしという看板につられていくと、そこは豆絞りの鉢巻の板前がうっそりと立っていて、ケースのネタは夜店のようにチャチだった。
「にぎりずしじゃなくて、めしだっ」
 掠れた声で夫が叫ぶ。
「おにいさん、すみませんねえ、ネタはありません。シャケとたらこ、葉唐辛子くらいでしょうかねえ。後、玉子。うちはにぎりめし屋でして」
 私たちにはふさわしいように思えるが、夫は突っ立つだけで座ろうとしない。悄然としたまま横浜駅に出る。駅前のそごうに行く。
 オムレツの店。向いの蕎麦屋に行きたいのを我慢する。
「どんなもんかな。ここはおいしくなさそうだが」
 とはいうものの、夫はこういう脂っこいものが好きなのだ。向い合わせに座り、夫はきのこオムレツ、私は熱い紅茶とりんごのスフレを頼む。気がかりな保険証の手続きがある。退職後、第一種とかそういう保険証に切り替えなければならない。別居していると何かと不都合で、連絡がないとなると自力でこれもやらざるを得ず、コピーをとりたいといった。
 この保険証の争奪を巡っては熾烈な争いがあった。私が頑として持ち続けたことも、彼の絶望感を深めただろう。息子が出奔してからは、当然のように、じゃあこれは俺が預かるといった夫に一旦手渡したものの、不便を極めた。半年毎に持ち合おうという協議も行われず、たまたま私の手に渡った時点で、金輪際夫に返す気がなくなった。意地悪だといわれようが、返しなさいと姉にいわれようが、唯一無二の財産のようにしがみついたのだ。その保険証をもう一回返してくれ。コピーをとりたいといったら夫はさすがにいやな顔をしたが、渡した。
「じゃ、紅茶とりんごのスフレ頼んでおいてね」
 言い置いて私は店を出た。隣のスカイビルの二階のコンビニにコピー機がある。帰り道に迷い、時間がかかった。途中携帯に留守録をいれる。「今、コピーし終り帰ります」疲れ果てた暗い声だ。店に戻ると、心配そうに入り口をみつめている夫の心細い後ろ髪がみえた。ああ、また盗まれたと思っているな。そう思うといじましい気分に陥る。テーブルに戻ると汚れた皿が積み重ねてあった。
「全部食べたよ。注文したら?」
 という。自分のだけ注文してたいらげたようだ。私の分まで食べたのじゃないかと思ってがっくりする。どうせ二人で食べてもおいしくはないのだ。
「お茶でものもうか」
 と申し訳のようにいうのが苛つく。店を出て歩きながらしゃべる。
「ピアノ演奏の所があるけど、そこで食べてもいいけど、ピアノ演奏してなかったらやめるわ」
 ホールに誘う。さきほどの演奏は一人だから聞けたのだが。静かなホールの看板をみる。
「三時から四時が演奏の時間だから、だめね、今二時だわ」
 早く振り払いたい気持ちになる。地下に行く。エスカレーターで降りた所で、夫が目の前の中華食品売り場をうつろに見据えながら
「じゃ、この前のこの弁当でも、ジュ、ジューマイでも買っていけばいいじゃないか」
 と大声でいう。
「シューマイでしょ?」
「そう、シューマイ」
 大きな声で食べ物の話をするのが恥ずかしい。離れてくれないかと切に願う。
「私、食欲ないから、今」
 脳貧血がおきそうだった。
「じゃ、ここでね。また三月二十九日に会いましょう」
「わかった」
 握手の力が極めて弱い。じゃ、ね。目の前のエスカレーターに引き込まれる。上へ上へ。気が付くと五階まで来ていた。帰るはずじゃなかったのか。いやとりあえず夫から離れたかったのだ。あの臭いから。また地下に行く。もう何も食べたくなくなっていたが、試食したわらび餅がおいしかったので昼ごはんに買って帰る。

 交通費往復    八〇〇
 関内まで地下鉄  三九〇
 飲料       一三〇
 コピー      一〇〇
わらび餅     六三〇        総計 二〇五〇円


平成十七年三月二十九日(火)曇りときどき雨

 昨日午後九時半、ようやく連絡のとれた息子は、約束したにも拘らず本日同道しないといった。親の問題だろうといい、仕事第一だという。腹も立ち、めげたが、すぐに気を取り直して夜は眠った。
 今日、九時二十一分の東海道線に乗り横浜をめざす。乗り換えた横浜線の桜木町の駅から、九時五十四分の表示時計がみえる。観覧車のどてっ腹についたオレンジのデジタル時計だ。寒々しい光景から、関内に入ると途端に下世話ににぎにぎしい看板の立ち並ぶ様子となる。
 駅に降り、ベンチに腰掛ける。プラスティックの簡易ベンチには、小豆色の風呂敷に覆われたかつぎ屋のダンボール荷物がある。白い化繊の紐で結わえられたそれの横には、バナナと書かれた一個だけのダンボールがある。持ち主は不在だ。
 ホテルに着く。約束は十時半だが、誰も来ていない。通りを隔てた向いのコンビニでムースつきのシェービングとガムを買う。またしても丸テーブルに腰掛けて待つ。背中に札幌ゼミナールと印字されたジャージを着た高校生の集団がなだれこむ。続いて眼鏡をかけた作業着姿の中高年男。
 十時四十分、夫が現れる。前よりは少しばかりうつろではない。顔が黒くなったようにみえるのは同様。ひげはあたっていない。
「ひげ、ひげ」
 とよびかけると、あたってる、いらないというが、シェービングを強く押し付け、トイレに送り込む。背中を押しながら、トイレまで誘導すると、手前に来てどちらが男のトイレか迷う姿に、これが騒ぎの元と知る。しばらくトイレにひきこもったままの夫を待つ。またふらりと出てくると、ひげは剃れていない。今度は身障者用トイレに入らせ、私も入る。鏡の前で剃らせようとするが、あまりにも無器用な手つきなので、手をかす。介護に入る。単発だがこたえる介護だ。一刻の猶予もない。離婚届までまっしぐらだ。
 傷もなく介護し終る。少しましになった。トイレから出て歩かせる。歩幅が極端に狭い。すり足に近い状態である。喫茶店に入る。向い合わせに座らせ、ソファに腰掛けさせる。夫はコーヒー、私は紅茶を頼む。家から持って来た、昆布とかつおだしに漬けた大豆を食べさせる。スプーンにとり、二、三粒でやめたので、もっと食べなければだめだとスプーンで口に入れる。豆は夫のかさついた唇にほろほろと落ちていった。
 喫茶店を出て関内の駅まで行く。今日は自宅まで送って行く覚悟である。それをいえば拒否されるのでとっさの嘘をいう。
「私ね、今日暇だし、本郷で遊びたいのよ。弥生美術館とかあるでしょ。楽しみたいの。いい、行って?」
「ああ」
「じゃ、切符買って」
「ああ、えと、えと::」
 切符の掲示板にうつろに目をさまよわせる夫。
「どこなの、駅は? どこまで買うの」
「あーと」
 白痴という言葉が浮かぶ。きつい声でいう。
「自分さあ、いつもどうやってここまで来るの? 定期? そうか、それも切れてるわけだから、一ヶ月に一度じゃ道も忘れるわね」
「今日はタクシーで来た」
 ぎょっとなる。ドアツードアだろうか。今の状態ならやりかねない。それにしてもどこまで切符を買うべきか。
「東京っ?」
 叫んでしまう。
「と、と、東京だっ!」
 五百四十円。二人で千八十円という計算ができず、千円札だけ入れようとする夫。この痴呆ぶりは永久に続くのだろうか。電車に乗る。夫はボックス席の取っ手を、私はつり革をそれぞれ掴む。横浜で東海道線に乗り換える。幸いボックス席があき、私は毛糸ジャケットの男の隣、夫は女の隣に座る。通路側の向い合わせに座る。
「ね、やっと仕事も終ったし、少し休んだらどう。これから一緒にここで食事しましょうよ」
 フォーレストというホテルのパンフレットを見せる。
「ここは、親戚の人に教えてもらったの。私が母方の祖父母のこと調べに木曾に行ったとき、やっと巡り会えた人なのよ。野呂隆という人よ。祖母の生家を引き継いでるわ。その野呂さんが遠い親戚の菅井深恵さんを紹介してくれて、彼女は東大の大学院を出て本郷に研究所を持っている。その人に教えてもらったホテルなの」
 どうでもいいことをまくしたてる。新橋で隣の乗客が二人降りる。私は席を立つが、夫にはその気配がない。東京駅を降り、丸ノ内口をめざす。切符売り場で、またもやもたつく。切符を買う動作を忘れたようだ。本郷三丁目駅に着いてからも不安だったが、自分で作った地図がある。
「本郷通りはここよね」
「そうだここだ」
「赤門はこっちでいいのね」
「うん」
 通りは木立が多く、学生街らしい店の佇まいが幾分かほっと気をゆるませる。夫の腕をとる。歩き方が覚束ないからだ。赤門の通りを隔てた向い側の道を左に入る。当てずっぽうの細い路地なので、遅れてついてきた夫はたまらず
「どこまで歩くかということだな」
 とよびかけてくる。
「そこの旅館で聞くからね」
 と答える。旅館で聞くと、ホテルは過ぎてしまったようだ。道を戻り、木立を左に入ると見覚えのあるロータリーに出た。日陰になった灰色の建物がうずくまっている。
「小さなマンションみたいでしょ」
「うん」
 夫の顔が和む。昼のランチは、私がAの牛ランプ肉、夫がBのヒラマサを頼む。品が揃う前に、フロントで今夜の宿泊状況を聞くが満室なのであきらめ、四月十五日、十六日をシングルで二人予約を入れる。テーブルに戻り、夫に聞く。
「これから月一回出会ってくれる? 本当は月二回がいいと思うけど、とりあえず四月の十五日! 覚えやすいでしょう。金曜日になるわ。金、土と二人でここに泊るのよ。そうしましょう」
 私は立て続けに決めさせた。もう時間はない。逃げるが勝ちと思うが、今は逆の行動になっている。食事が終り、小雨けぶる町を本郷通りに向けて歩く。マンションに同道するいいわけを瞬時に頭を巡らせて思いつく。
「またあなたと四時に会いたいわ」
 有体にいえば最後の金をまきあげる為の努力だ。空しい結果が予想される。悲惨な逢瀬だ。仕方なくタクシーを止め、後ろから来る夫にひたすら手招きする。ガードレールの内側を歩いてきた夫に
「あなた、この柵乗り越えられるの?」
 と聞く。
「無理だね」
 という。
「なら、Uターンして」
 とぼとぼ引き返し、戻ってくる。タクシーに乗る。
「四時に会いたい。近くの喫茶店でいいのよ」
「うちの近くには喫茶店がないんだよねえ」
 そんなバカなことがあるものか。
「ジョナサンでいいだろ? 本当にないんだよ」
 とごまかす。白山通りで車は止まった。
「え? こんな所で降ろすの? 確か、もっと坂の上の近くだったような::。あなたまた私をまこうとしてるわね」
 すると夫は懸命に笑いをかみ殺し堅く目をつぶったまま鼻先に皺を寄せる。
 不景気風が吹きすさぶようなビルの、近付くときにしか動かないエスカレーターが鈍い唸りとともに上りに切り替わる。二階にはファミリーレストランのジョナサンと、中華のバーミアンがある。ガラス扉を押して入って行こうとするのに
「約束は四時でしょ?」
 と念を押すと、
「そうだ」
 といって引き返し、二人で階段を下りる。
「じゃあ、私はこれから東大の辺りまで戻るから」
「そう」
 ほっとする夫。後ろをみないでとっとと歩く私。振り向くと、曇天の下、夫が空をうかがってるのがみえる。マンションの管理人室が閉まるのは午後三時だ。後一時間弱。まだ間に合う。忙しく頭を巡らせるものの、位置がわからない。呆然とすずらん通りを歩く。ばったり夫と出会うと元も子もなくなるのだ。商店街は活気にあふれ、関係ない私をそれでも元気づける。往復して見覚えのある交差点に出た。去年もここに来て場所を聞いた交番だ。住所をいい、道を聞く。
「ここから三番目の信号を右に曲がり、七十メートル歩いて下さい。右です」
 そのとおりに行き、オリンピックというスーパーを右に入ると、懐かしいらしい鉢植えがみえた。軒の低い、この辺りだろうか。捜すがない。住所表示は白山になってしまう。クリーニング屋のような、洗剤の目立つ店に入って聞くと、ここは白山だから戻れという。途方にくれていると案内板があった。夫のいる本郷四丁目は元の交番を戻って、坂の上をのぼった所だと知る。再び交番に戻り、坂の上をのぼる。真砂という地名と知る。その左が本郷四丁目なので曲がる。この辺りだろうと、建設会社に入って聞くと、違うという。汗がふきだしてくる。
「そこの大きな坂に出て、下ってから、白山通りを行って下さい。今、地図差し上げます」
 午後三時は過ぎたがまだあきらめるわけにはいかない。コピーを受け取り、礼をして去る。地図のとおり、坂を下りた所には庄やがある。だが地図と同じだったのはそれ一軒で、後は殆ど同名の店はない。移り変わりの激しさに驚く。春日という名だけが頼りのビルを過ぎ、やはり同じオリンピックを右に曲がり、同じクリーニング屋まがいに戻る。汗だくで扉を開け、再び道を聞く。
「ここじゃない」
 と店主は同じ答えをするが、地図をみせると、眼鏡を外し、うーんとためつすがめつしてから、大声で説明してくれた。
「元に戻ってですね、この白山通りをですよ、過ぎてコナカがあります。そこ過ぎた辺りでもう一回聞いてみて下さい。その辺り左に曲がります。右手にはパチンコ屋ね」
 噛み砕いて説明してくれる。白山通りを歩き、やっとその曲がり角に到着した。通りを入って右手に都営三田線の駅の入り口。これからはここが目当てだ。どうも記憶とは違う印象の広く、しゃれた道だった。
 やっと夫のマンションに着く。去年の六月、六時間張り込んだことを思い出す。管理人室は閉まっている。窓に田中キクイと管理人の名が記されている。土、日、年末年始以外は無休で、九時から午後三時までいる。夫と会ってはまずいのでそれだけメモする。
 ぎりぎり四時にジョナサンに間に合う。入った途端ハゲの男が目に付いたが、全ハゲなので夫ではない。来ないのではないかという予感に怯える。
「お一人様ですか?」
 店員が聞く。
「後、約束の人が来ます」
「お二人様お受けしました」
 十分たっても夫は現れない。ほぼあきらめかけたとき、入り口からインターホーンのような音がして、夫が前のめりに歩いてきた。
「ここよ! ここ」
 手をふる。
「おお」
 向いあわせに座った夫をみつめていると
「もう疲れた」
 と涙があふれた。顔をそむけ、じっとしてる内に頬の手前でとまった。夫はアイスクリーム、私はイチゴのケーキを食べる。
「あのね」
 私は切り出した。一家が暮していた、がらん洞の家をどうするかという件だった。連絡先を夫にしていたが、こういう状態では私を連絡先にするよりない。まだ妻である以上責任があるからだ。八十四歳の姑の住所と電話番号を玄関扉に貼り出そうとしたが、それもしのびない。本来名義は姑と夫だが、その能力がない。何かあったときの連絡先を私にしておかないと動きがとれない。ついては私の連絡先を表示するかわりに、管理費として十万くれといった。五万といったり、百万といったり、結局十万に落ち着いた。受け取りを書く。
「夕食をどうする」
 夫が聞く。
「帰って食べるわ」
 そうしてジョナサンを出る。
「じゃあ、送って行こう。タクシーで東京まで」
 歩きながら夫がいう。
「いや、いいの。私は電車で帰りたいの。電車の道を覚えたいのよ。車も売ったしね。三万になったわ」
 いいながら、躰の中をさわやかな風が吹き抜けるのを覚えた。交差点の文京区民会館まで来たとき、その下に市場をみつけた。
「春日の市場よ」
 そこは私たちが白山で新婚当初暮していたときにみつけた市場だった。中に入ると、昔より品薄になっているが、照明は明るすぎる。そこで時期はずれのみかんと、四個入って百円というトマト、九十五円のアボガドを買った。夕食にするつもりだった。
「ああ、そうだ。さっき買ったみかんはあなたに上げるわ。毎日一個食べなさいよね。今日は大豆とみかんで元気になれるわよ」
 交差点を過ぎた所に文京区役所がある。
「区役所にしちゃ随分立派な建物ね」
 驚いていうと
「もっと立派なのがある。き、北千住に」
 どもっている夫。春日通を富坂下まで歩くと、左に後楽園の駅がある。切符売り場に行く。
「えーと、これは丸ノ内線になるのね。こりゃ、便利だわ。東京から一本。マンションに来るにはこの後楽園で降りればわかりやすいと」
「そうだね」
「乗り場はこちらかな」
 そういって改札まで来る。弱々しい夫と握手する。ほこりをはたくように上半身を軽く叩きまわる。
「元気出して。元気は出るからね。大丈夫」
 改札口でもう一度、大きく肩を叩き、明るく手をふる。
「じゃあね」
 じゃあと夫は呟き、呆然と見送る。一旦ホームに上ったが間違えとわかり、向いのホームに行く。東京に出たのは六時前。ラッシュアワーだ。帰ると七時。家の中がせいせいときれいだ。アボガドを切り、えぼ鯛の干物を焼き、イカのちぎり薩摩揚げをトースターで温める。ひじきを小鉢に盛る。食後にとったみかんは甘く躰にしみわたった。

 交通費     五六〇
 ガム・剃刀   四一三
 櫛       三一三
 みかん・野菜  六四八
 みかん     四五〇
 帰りの交通費 一一四〇         総計 三五二四円


(平成17年4月1日)