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エッセイ

モチを買いに

深谷巌



2004年度エッセイ大賞受賞)



モチを買いに

高円寺に住む娘の家に行った時のことである。
昼食に磯辺焼き風の餅を作るというので、調理には戦力外の私が高円寺駅わきの東急ストアに切り餅買いに出掛けた。
売り場のおばちゃんに「餅はどこにありますか」と聞いたところ、何か考えたような風をしたがやがて食肉品の棚に案内された。
言葉が聞き取れなかったのかと思い今度は丁寧に「モチを欲しいのですが」というと「豚のモツはここです」と答える。
仕方がないので「あのう、米で作ったモチですが」というと驚いた顔をして、「あ、こちらです」と餅の重なっているところへ案内するとニコニコして去っていった。
「なんで、はじめから教えなかったんだ。こんな陰のほうに置いて」と思った。
家に帰って私が「ストアのおばちゃん、きれいな顔しているのに、かわいそうに耳が悪いようだ」と事の次第を話すと、妻は「可哀相なのはどっちだガ」といい、ほかの人間は「ははは」と笑いやがった。
馬鹿にするなって言うんだ、ふるさとの言葉が口から出ても仕方がないではないか。
生まれ育った土地の手形みたいなもんだ。
馴れない土地でふるさと言葉を聞いた時の懐かしさ、嬉しさは当人にしかわからない。
心細い思いで暮らしている都会で偶然同郷の方言を話す友人に出会ったら、普段の無口はどこへやら時の経つのを忘れ話し込んでしまうというものだ。
啄木も「故郷の訛りなつかし停車場の人込のなかにそを聞きにゆく」とうたっている。
だが考えてみると若い頃、都会地に就職し、話す言葉でからかわれたり、苦労した東北出身者は多かったという。
モチと言ったつもりなのに、モツと聞き取られるようでは調理の世界などでは、さぞかし使いものにならなかっただろう。
女優の三崎千恵子さん(東京都出身)が言っていた。
「劇団の養成所で同期だった春日八郎(会津坂下町出身)は会津なまりがひどくて俳優には無理だと宣告され歌手に転向していった」と。
彼はその後歌手として成功し世田谷に長く住み生涯を終えたが、故郷坂下町への思いは篤く何かと侭力し続けた。
方言が大切にされるのは生活の場であって、正確さとスピードが求められるビジネスの世界では、とにかく明瞭な言葉が求められるのだ。
数々の事例から、どこでも支障なく生活できる言葉を身につけることの大切さが説かれて来たことがわかる。
それをうけて東北各県では各学校で共通語の指導が重視された。
方言を使うとその場に立たせ其の言葉を共通語で五回唱えさせたりした例もあったそうだ。
「泣けた、泣けたア・・・」と春日八郎が歌う「別れの一本杉」の哀愁には、ひょっとすると彼の無念さと望郷の念がこめられているのかも知れない。


カジカの旅


小さい頃、頭でっかじで目玉ばかり大きく動作が鈍い私は遊び仲間から「カジッカ」というあだ名をつけられた。
その由来は村内を流れる川にすむ鰍である。
この川魚は頭部が大きく目が飛び出していて、動きが遅く、子どもにでも捕まえられる格好の悪い魚だった。
私はこのあだ名が恥ずかしく嫌だった。
普段は仲良くしていても、なにかがこじれけんかなどした時「このカジッカやろう」と言われると急に勢いをなくした。
仲の良い友達が「んでもな、川魚でいちばんうめえのはカジッカだってじっちさんゆっていたぞ」と慰め応援してくれた。
だが意地の悪いのがいて「んだがら、カジッカはすぐ獲られて食われっちまあだ」などというものだから私はなお落ち込むのだった。
もう一つのあだ名は、少し大きくなってから、たぶん家族の大人につけられたものだとおもうが「グズいわ」というものだった。
家族で何か決めた時、「その次どうするの」とか言って先ざきのことまで心配して、「おら、やだ」とぐずぐず文句いうのでそう呼ばれたらしい。
時には後になって私の心配が現実になることもあったが、弱虫で普段の生活も頼りなかったのであまり重視されなかった。
勝手に弁解すれば、以前の農家などは長男に都合いいように物事を進めることが多かったので、二男の私にいつも不満の種は尽きなかったのだ。
二つのあだ名に表われる褒められたものでない私の性格は大人になっても続いていた。
人間としてさっぱり成長しなかったわけである。
ふるさとの川から現在、鰍は姿を消してしまったそうだ。
あれほど姿を見せていたのだから死滅してしまったわけではなかろうが、どこか住みよい場所へ移って行ってしまったのだろう。
私も住みよい場所を求めてふるさとを離れた。
歳月のたった今はあの当時「カジッカ」と呼ばれたことさえうれしい気分だ。
「グズいわ」というのもよく私の特性をとらえている言葉ではある。
幼時に大病したとかで小さいうちは風邪をひきやすくいわゆる虚弱児といわれる丈夫でなく生きているだけで手柄になるような子どもだったらしい。
いうなれば家族の中で味噌っかすだったのだ。
だから私が小学校に入学した時親戚の人達は「よーく、育ったごどお〜」と驚いていた。
私はだれからもなにかを期待される子ではなかった。
小学低学年ごろの成績は最低に近かった。
本人は何も感じず平気だったが当然まわりからは馬鹿にされていた。
だがどういうわけか祖母だけは「ユワちゃんは、やさしいからきっと立派な人になる」と肩を持ってくれていた。
私にも自分を軽んじている家族をいつか見返してやる、と反抗心が芽生えていた。
其の頃から私のグズがはじまったらしい。

今さら己を飾ることはないし、かと言って自分の思いを捨てて暮らそうとも思わない。
ありのままに居心地の良い所を求めて旅を続けようと思う。
緩慢ではあっても清流を求め、今日もほんの少し流れに逆らって泳ぐ。


(備考)
特集・ふるさと
この特集は04年の年末講座(12/16)の課題として出されたもので、参加者全員の投票によって「ふるさと」賞3作が選ばれた。