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山崎哲
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茶房ドラマを書く/作品紹介


短編

五月○日(水)午後

椎野安里子



 天気がよいので自転車で本町小へ。ほぼ一ヶ月ぶり。いろいろ条件が整わないと行けないので。ブローの仕上がりとか。とくに前髪。片道三〇分かけて行って、いられるのは一五分かそこらなのに。
 池田小の事件以来、出入りが厳しくなった。下駄箱の所に来校者が名前を記入するノート。無視する。『保護者』と書いたネームプレートだけ付ける。小学生の保護者だったのはもう一五年も前だ。来賓用のスリッパを履くときだけ少し後ろめたい。
 給食の残り物のにおいと、子どもの力では絞りきれない雑巾のにおいの混じった廊下を行ったら女の先生とすれ違う。会釈。保護者、保護者……。『1の2』の扉をノックする。ドキドキする。いつもドキドキする。少し待って扉を開けたらKもあっちがわから開けたところだった。どうりでいつも重いのに軽く開くと思った。念のために「失礼しまあす」と頭を深く下げて教室に入る。
 久しぶりなので二人でもじもじ。意味なく頷き合ってしまう。照れくさくて本物の保護者のように壁に貼ってある『こんしゅうのもくひょう』や『とうばんひょう』を眺める。
「よこた、みゆき……きの、りかこ……おのだ、ひろば。ひろば! 今の親って凝った名前つけるのね。さかい、こうろ」
「日本航空のこうに路地のろって書くんだよ。おとうさんがパイロットだって」
「ふうん……ちょっと苛めてやりたいかも。なかやま、まんでぃ?」
 いつの間にかKが後ろにいて、おかあさんがリマの人なの、と言った。
「リマ……アフリカ?」
「アフリカはマリ。リマは南米」
「そか……」
 展示物ばかり眺めていたら、Kがすわればと言った。一応、保護者面談のように机を挟んで向かい合う。一年生の椅子は本当に小さい。膝が鋭角に曲がる。向かい合ったところで何も話すことがない。
「連休、どこか行ったの?」
 Kが聞く。当たり障りのない会話の発端。
「また伊豆。でもうち、もう連休だからとかそういうんじゃないから」
「行こうと思えばいつでも行けるんだ」
「どこか行った?」
「長野のね、温泉。下の子が途中、車に酔っちゃって大変だった」
 また沈黙。Kとでなかったらこうはいかない。何か喋らなくちゃとか、相手は何を考えているんだろうとか、落ち着かないのだろう。いくらでも黙っていられるのが心地いい。Kがさっきからしきりに右目をティッシュで押さえている。どうしたのと聞くと、結膜炎かなあと言った。
「右目だけ涙が溜まるんだ」
 校庭で上級生たちがサッカーの練習をしているのを眺める。暖かくて眠くなる。窓のすぐ前のウサギ小屋のところで、三年生くらいの男の子と女の子が、キッチン鋏で野菜くずを切っている。餌なのだろう。バケツが小さいせいか額をくっつけるようにしている。今どきの小学生がこんなに男女仲良さそうにしていて大丈夫なの、というくらい。同級生に見られたらからかわれないか? 何がおかしいのか肩をつつき合って笑いころげている。伝染してきそうな笑い。この子たちは同級生に比べてとびぬけてませているのか、とびぬけて幼いのか、どっちなんだろう。
「お前、今日、帰ってからなんかすんの?」
 女の子が聞いた。特に男の子っぽいタイプでもないのだけれど。
「別に予定はないけど」
「あたしんち来てもいいよ」
「別にいいけど」
 しばらく黙って野菜を切っている。
「お前! でかいよ。ウサギが喰えないじゃん」
 男の子が叱られた。思わず、Kと目を合わせて笑ってしまう。
 その子たちがバケツを持って行ってしまうと、今度は二人組の小さな女の子が来て深刻そうに窓を叩く。担任している子なのだろう。Kが立っていって窓を開けると、一人が、焼却炉のところでカラスが死んでると報告する。大事件。一人はこっちを覗いている。目が合った。笑いかけたら恥ずかしそうに目をそらす。何者だと思われているのだろう。こう言ってやったら、この子はどんな顔をするだろう。
「じつはオバサン、あなたたちの見たことのないK先生の顔を知ってるんだよ」
 Kが身を乗り出して、事務の先生が片づけてくれるから触らないように、と注意している。どこから見ても真面目なベテラン教師。ずっと会えないから最近は『みんなの知らない顔』も忘れそうだ。自分の指の腹で自分の頭皮をゴシゴシこすって、鼻先に持ってくると、みんなの知らないK先生の頭皮と同じにおいがする。時々、そんなことをして気を紛らわせている。それなのにこうして面と向かうと、にこにこしているだけの自分にいらつく。だからますますにこにこする。にこにこしたまま、
「あなたのその目尻に溜まっている半透明の液を、嘗め取ってあげることだってできるんですけどね、私」
 そう言ったらびっくりするだろうなあ。
「あ、長野のお土産。そば茶、好きだって言ってたでしょ」
 教卓の引き出しから出してきた。『下の子』が吐いてる途中にそんな物、買ってていいの?
「帰るね」
 水曜日だから職員会議があるんでしょ。で金曜日が組み合い会議なんでしょ。土日は家族サービスでね。
 廊下に出て念のために、ありがとうございました、と深々を頭を下げる。Kが、今度はちゃんと会おうね、と囁いた。最後に『ちゃんと』会ったのはいつだったか、それも忘れてしまった。