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茶房ドラマを書く/作品紹介


短編

もの干し竿

岩波三樹緒


 寒暖計は三十六度を超えていた。
 要子はユーティリティーの壁にかかっているそれを睨み、屋上の洗濯ものを取り込みに上がっていった。猛暑のせいでものの一時間で乾いてしまう。先に干しておけば、朝食の片付けと掃除をする間に乾いてしまう。
 三階建ての二世帯住宅で、二階の半分から上に要子の所帯が住まい、下に姑がいる。
姑はじき八十歳になる。先年、九十歳になったところで舅が他界したが、今のところは一人でやってくれている。
 二階の居間から三階へ、さらに三階から屋上へ繋がる通称ペントハウスのドアまでの階段を上り下りするのが、最近の要子には辛い。ことに暑さが加わるとだめである。俗に言うところの更年期障害なのだ。上がる足取りが重くなり動悸がしてくる。
 屋上にサンダルを出すとくらくらした。そこは日を遮るものがいっさいないし、ウレタン床の照り返しとでざっと四十度はあるだろう。
 十メートルほど先を首都高速が走っている。その壁の上を車の背がのろのろと進んでいる。
渋滞しているらしい。
 ともかく手早く洗濯ものを取り込むことである。こんなところには十分といられない。
 要子はそれを持って下へ降り、どんどん畳んでいく。膝の上でしわを伸ばして次々ともとの場所にしまっていく。こんな熱いものをしまっていいのだろうかと思う。毎日毎日がもとの状態に戻すことの繰り返しである。
 もとに戻してしまうこと。そうすることで、することをなくすこと。
 ひとつひとつ潰していく生活。それでゆったりとした時間を手に入れるというものでもない。
手当りしだいに潰していくだけ。
 この数日、ずっとこんな上天気がつづいているので、シーツやカーテンなど大物洗いが早いサイクルで洗濯されていく。
 それで今日こそ洗濯は止めようかと思った。でもやはり少量運転のボタンを押してしまった。
夫と娘、要子の三人家族の下着程度である。ただ夫の尋也は几帳面できれい好きだから、夜帰ってきてすぐに、寝る前にもう一度、そして出勤前、とシャワーを浴びるので三組ぶんの下着の洗いものがでる。トイレのウオシュレットがない生活なんて信じられないと言う。
 要子にそんな几帳面さはない。
「ばかみたい。中国人がみんなそんな文化生活してごらん、地球がかたむく」
 と心で舌打ちしている。
 心のどこかで想像する。共産主義国には大きな洗濯機があってまとめて百家族ぶんもの洗濯ものを回して洗い、川のような汚水を流すのだ。それから荒涼とした大地にロープを延々と張って洗濯ものを干し続けるのだろう。そんなところで洗濯女はやりたくないなと考えていたりする。けれどそれだけしていればいいというのは案外いいかもしれないとも思う。
 畳んでいると外宣車の音がしてきた。
 音はどんどん近づいてくる。
 もの干し竿売りだった。
「一本五百円からございます。二十年前のお値段です」
 と、だみ声の中年男の声が言っている。
 もの干し竿には多少不足がある。伸び縮みもの干しというスーパーで買ってきた竿は、五、六年使いつづけていたら、二ケ所のコネクティングから雨水が入って錆がでてくるようになった。拭き方が悪いと洗濯ものを汚してしまう。替え時ではないかと思っていた。
 スピーカーのアナウンスが大きくなってきた。
 ここの路地は狭くて敬遠されることが多いのに珍しく入り込んできたのだ。
 要子は戸惑いながらも立ちあがり、三階から二階へ下りてみた。それから窓を開けて下を見降ろした。
干し竿をたくさん積んだ軽トラックがゆるゆる曲がり込んでくるところだった。
「すみませーん」
 と、要子の声はことのほか大声になった。
どれほどの声が適切か出してみなければわからないというのもある。
 車が止まって、男が窓から頭を巡らした。
 もう一度、すみませーん、と少し声を小さくして言ってから、二階の玄関を出る。小走りで、でもサンダルの足で踏み外さないよう外階段を降りていく。
 スピーカーの音は止まった。
 要子が門を開けると男がぴょんと飛び下りた。すらっとした感じのよい青年だった。あら、中年男のアナウンスだったのに、と思う。
「こんにちは」
 と、男が頭をさげた。
 要子も挨拶を返したが、その声がいつもより高いトーンになった。
「どれが五百円かしら?」
「こちらへどうぞ」
 男は軽トラックのうしろに廻る。その後について行きながら高い位置にある細い腰に目がいった。荷台に幌をかけて暗いテントのようになったところから竿のしっぽがたくさん飛び出している。
 要子にはピンクかブルーか太いか細いかの別しかわからない。天井の穴から太陽光線が洩れている。
 男はそのなかの昔ながらの竹竿を持ち上げて、
「これが五百円だけど、でも、お宅にこれは貧弱じゃないかなあ」
 と言う。
 高いほうを売りつけようという魂胆なのだろうと思ったので、それでかまわないわと言った。
「何メートルですか?」
 要子は即座には答えられなかった。
「どこで使われますか? ここですか?」
 男は、門の植え込みに続いて駐車場になっている庭を振り返った。
「ううん。そっちは親の家で、うちは屋上で干してるの。三階のそのまた上なんです」
 男は、屋上ね、と呟いて数歩家から離れると、うんとのけぞって空を見あげた。
 屋上のこちら側に沿ってもの干し竿が二本取りつけてある。
「いちばん長い四メーターじゃないかな」
 要子は、その細いが男っぽい首で上下している喉仏を見ながら、はあ、と言った。
 手っ取りばやく二十年前のお値段のを売って欲しいと思ったが、「五百円でその長さのはないんですよ」
 と言われてしまった。
 そういう商売か、と思う。
「屋上じゃあ雨ざらしでしょう」
「そうですよ」
「錆に強いのでないと」
 男はステンレス製のを持ち上げた。高そうに見える。おいくら? と尋ねると、四千円ですと言う。
「それは高いわ」
 要子は即座に却下した。
 もう少しお安いのは、と聞くと、今使っているような伸縮タイプのプラスチック製を指した。それは二千円だと言う。
「それを今使っているのよ。雨水だか錆だかが出てくるから、替え時かなって思ったんだけど」
 要子は、それくらいの値段ならスーパーでもっと安く手に入れようと思った。が、わざわざ呼び止めておいて断るのも憚られるし、男が意外に感じがよいので考え込んだ。
 男のほうは、要子が難色を示すのは折り込みずみのようだった。
「安い竿は結局もたないんですよ。竹製はまわりのプラスチックが剥離して割れてきちゃうし、
プラスチック製も五、六年で、また交換しなくちゃなりませんからね。屋上で雨ざらしにしても三十年もつようなのを買わないとだめなんですよ」
「三十年、ほんとう?」
 男は家の二階を振り返り、窓枠の桟を長い指でさした。
「ああいうものは錆びないでしょう。これも同じ素材です」
「でも、これは伸び縮みしないから家の中を通せないものね」
 買えない理由をほかに見つけようとする。
「いや、外から引っ張り上げるんです。五階建てのマンションでも大丈夫です。そしたらあと三十年買わずにすみますよ」
 五、六年ごとに買わずにすむから結局はお買い得だという説明をする。
 けれど、このステンレス竿はいかさまかもしれず、まして家の中に入って引っ張りこむというのが躊躇われた。
「ほんとに、ステンレスかしら?」
 すると、男は少し笑った。笑って、作業服の胸ポケットから名刺を差し出し、十年保証ですからと言う。
「十年たったらここの会社がなくなっているんじゃない?」
 笑いに任せて嫌みを言ってみる。
 男は苦笑して、
「きついなあ。でも、これオヤジの会社なんだけど、俺が潰すんじゃないかとは言われてますけど」
 と呟いている。
 そのひとりごちる感じが悪くない。
「でも、このステンレスは錆びないですよ、会社が潰れちゃってもね。保証します」
 何を保証されているのかさっぱりわからない。
 名刺に目を落とすと、住所が江戸川区などと記されている。
「ずいぶん遠くから来るのね」
 男は、はあ、俺はこっち方面が得意で、などと言っている。要子は名刺を返した。
「悪いけど、やっぱりやめるわ。家の中に入ってもらうと下に住んでる親が嫌がるの。ごめんなさい」
 男は、名刺を押しとどめた。
「いえ、僕は家に入りませんよ。あなたが屋上からちょっと引っ張っりあげてくれればいいんですから。それと、いらなくなったもの干し竿もうちで引取ります」
「へえ? そんなことってできるかしら」
 男は説明した。
「最初に、いらないほうの竿を落としてもらいます。僕がうまくそれをつかまえますから。そのあとで、あなたに縄を持っていってもらうので、それを投げてください。僕が結んで立てます。
ちょっと引っ張りあげてくれればいいんです。家のどこかにぶつけたりとか、へまはやりませんから。大丈夫です」
 ふうん、と要子は唸った。
 わけないように言っているが、おおごとのようでもある。でも今日替えないと、いつまでも替えないだろうと思った。スーパーで長い二本の竿を買ってきて、それを上まで持っていって、それから不要になった竿を降ろして、清掃局に連絡をして、後日取りに来てもらうなどの面倒が頭をよぎった。
 男の目とぶつかった。男はいい笑いを浮かべている。
 押し付けがましくなくて真直ぐな感じ。
 要子は、とっさに買ってしまおうと決めた。つまりこの男の子が気に入ったのだ。
「四千円のを二本いただくわ」
 男は、ほい、と言ったか、頷くやすぐに次の行動に出た。気が変わらないうちにとでもいうのか。
 庭をちょっと拝見、というなり駐車場の扉をからだぶん開けて入りこんで行った。
要子はあわてて後を追いかけた。義母に事情を話さないといけない。居間のテラスから声をかけた。外の話し声は筒抜けだから義母にはとっくにわかっているだろうが、何ごともクリアにしておくことが大切だ。男に対して、ここに親がいるんですよ、という示威行為にもなる。
 お義母さん、お義母さんと呼んだ。
 義母はテレビを見ていたが、ちらとこちらに視線をなげて、
「もの干し竿? あらそう」
 とだけ言い、またテレビに視線を戻してしまった。
 男はすでに家の裏を確かめていて、
「こっちにしましょう」
 と言う。
 裏の家の垣根との間の一メートルほどの隙間だ。裏の家は土地もちで、都内では珍しく鬱蒼とした木々をそのまま放置してくれている。そちらに迷惑はかかりそうにないと見たらしい。
要子の家の庭は半分駐車場で車が入っているし、植木やプランターで邪魔らしい。
 男は説明した。
「最初に古い竿をおろしてください」
「届くかしら」
 要子はイメージできないので聞いた。
「届きませんが、僕が、離して、と言ったら手を離してくれればいいんです」
 男に促されて車に戻った。そして、軽トラックの幌のしたから取り出した麻縄を渡された。縄には赤いビニールテープを巻いた目印がついている。
「古い竿は何本ですか?」
 二本だと言うと、
「二本とも降ろし終わったら、縄のこっち側を投げてください。こっちの新しい竿を結び付けますから」
 男の目にはなにか生き生きしたいい力がこもっているように感じられた。で、それについ促された。
 渡された麻縄を持って要子は家へ取って返した。わけもなく急ぎ足で外階段を上がってしまうのが我ながら訝しい。さっきのだらけかたと打って変わっている。
 玄関で、(鍵をかけなくていいいのよね)などと少し迷ったが、そのままにして三階へ、それから屋上へと行く。いつにない軽い足取りである。
 屋上の扉を開けてサンダルを出す。正午に近い太陽はウレタン床をいっそう激しく焼いている。しかしそこへピョンと出た。
 足の裏が熱い。
 打ち合わせたほうへ身を乗り出すと、男がこっちを見上げて軽く手をあげた。
 地上七、八メートルはあるはずだから、垣根との狭間はほとんどないに等しい。大丈夫なのかと思う。
 要子はとりあえず麻縄をそこに放りだし、古い竿をはずしにかかる。嵐が来る前に取り込むことがあるが、これは意外に爽快感がある。これほど長い棒を振り回せるのは、遮るもののない屋上こそである。青空に突き出すようにして旋回させるのが爽快だ。槍投げのように運んでいく。いったん桟のふちに立て掛けて男を見る。男がまた手を上げて合図する。笑っているようだ。
 先からそろそろと降ろしていく。棒の先端を掴んで垂直に降ろした状態になった。男が伸ばした手には遥かに届かない。
「届かないですね」
 と要子は大声で言う。男は落ち着いたもので、大丈夫ですよと言う。
 からだを桟におしつけて、なるべく低くなるよう手を持ち替えた。なにがしかの緊張感を覚える。
 男は、竿の先が届くあたりを目算して、両手で胸の前にたいらな輪っかをつくり構えた。
「この中へ。じゃあ、ゆっくり放して下さい」
 要子は動悸をしずめた。そしてすっと手を放す。引力が長細い棒を引き取った。次の瞬間、竿は男の胸の前で握られて止まった。
 男の両の手がみごとに竿を捕らえている。武芸の型が決まったときのような胸のすっとする鮮やかさだった。
 男はオーケーのサインを出しながら、音も立てずにそれを土の上に寝かせた。しばし感動して見惚れていると、男は次のをどうぞと言う。
 要子は頷きながら、「上手いわ、凄いわね」 と大声で誉めた。
 思わず四方のマンションを見回した。そこから見物していたら案外圧巻な場面なのではないかなどと思った。しかし無数のベランダに人の気配はないようだ。一瞬風が止まるような瞬間が実にここちよかった。
 二本目を取りに行く。 さっきの要領で構えて、陽子は見下ろす。
 男もまたさっきの構えで両足を少し広げて立っていた。どうぞ、と男が言う。
 二本目の棒が手をはなれた。次の瞬間には男の胸の前でその棒が止まる。すこしのぶれも乱れもないのだった。
 男はニコッと片手で合図した。要子は、凄いわ、と拍手した。
 男は、どうもどうも、と言ったようだ。そしてさっきの竿と二本重ね合わせると、脇に抱えて直角に庭を曲がって運んでいった。植木や障害物を上手によけて音らしい音もさせずに庭を出ていく。要子はそれを目で追いかけて屋上を移動した。そして車の背にその竿が差し込まれるのを見届けた。
 プロなんだあ。竿の扱いに慣れているんだ。
 と思うことがなにか卑猥なことを秘めているような気がした。が、どう卑猥なのかはわからなかった。
 男は再び定位置に戻ってきた。すでに新しいステンレス製の竿が用意されている。
「じゃあ、縄を」
 と男が言った。
 要子は頷いてそれを取りに戻る。
 縄は熱いウレタン床の上で熱くなっていた。まだ新しいのか白くてきれいだ。紐の輪っかを持って男を見る。男が合図をする。それを見て縄の先を降ろす。そろりそろりと降ろしていって、男に掴ませる。男と繋がる。
 男は片手でそれを掴みながらもう一方の手で竿を持ち上げた。長い膝を折って竿を立てかけ巧みに結び付けた。それから、
「じゃあ引っ張ってください」
 と見上げた。
 要子と竿と男が繋がっている。
 長い竿は男に支えられて立ち上がった。その竿をぎりぎりまで高く差し出してくる。あと数メートル引くことが要子の腕にかかっている。桟の上まで引っぱり上げ慎重に手に持ちかえる。
細腕だが要子は案外こういうとき力を発揮する。それから桟に沿わせて水平にそろそろと引っ張り上げる。
 握り損なうなんてことがあってはならない。
 ごろんと床に寝かせる。しっかり辿り着いたのだ。手の甲で額の汗を拭う。縄はきっちり結ばれているが、ほどくには手間がいらないという縛りかただ。それでもしばし難渋する。
 要子は蹲って結び目を解く。
 背中を焼かれながら自分の黒い影の中の結び目を解いていると、ウレタン床の照り返しで目の奥に暗いぽっかりとした穴が広がる。
 誰かが見てはいないだろうか。あちらこちらのマンションに人影を感じることがあっても普段は互いに無関心な一風景でしかない。
 けれど、この場面はなかなかに見物ではないか。
 もし次の竿で引っ張りあげそこないでもしたら、竿が落下してたてる音はそこいらじゅうに響くだろうし、あの男は負傷するかもしれないし、そうなったらみんながベランダに飛び出してくるだろう。衆目の的となるだろう。
 縄はしゅるしゅると下にひきずりこまれていき、それを追って自分まで屋上から引きずり出されてしまうかもしれない。この我が身が転落して、もの干し竿の人身御供となって、あの男の足下にたたきつけられてしまったら。事件に出てくるヒト型となってしまえば、すべてのことは誤破算に……。
 黒い影に吸い込まれていた。縄は解けていた。
 もう一度、これを垂らしたらそれで終わりだ。なんだかそれも惜しいような気がする。
 そろそろとやろう。
 と、要子はなぜか思う。
 この縄を自分にしばっておこうか……。
 結局、二本目の竿はもっと段取りよく引き上げられた。ピカピカのステンレス製で両脇をオレンジいろのキャップで止めてある。もの干し台に乗せると、青空を平行に区切って光った。
「キャップは三十年もたないけど、市販ので交換できますから」
 と男が付け加えて言った。
 代金の勘定をしながら屋上を見上げると、申し分なく光り輝いている。ねえ、見て、と男の肩をたたいて知らせたくなるほどだ。
 三十年の時間が流れるだろう。その前の十年の長い約束は守られるだろうか。会社は潰れずにあるだろうか。
 男は、十年保証いたします、と領収書に書き足した。
それから要子から八千円を受け取った。
「あたし上手かったでしょ?」
 悪戯気に聞いてみる。おばさんの図々しさだが、要子には年に似合わない可愛げがあるのだ。
「ええ。なかなか力がありますね」
 男はゆっくりとこちらを見る。要子は笑い、
「違うわよ。あなたがものすごいテクニシャンなのよ」
 男はまばたきした。
 要子は何度か元気よく頷いてみせ、
「絶対にそう」
 と笑った。
 男も目を細めて笑う。
「じゃあ、二人とも巧かったということで」
「あたし、すごいもの干し竿売りに会ったのね」
「そうですね。それと抜群のアシスタントと」
 男はなかなか気の利いた受け答えをした。
「やっぱりさっきの名刺頂いておこうかな」
 男はさっと胸ポケットに手をいれ、名刺を差し出した。
「やっぱり三十年もたないほうにしておけばよかったかも」
 要子は呟く。
「さっきのあなたのアクロバティックな受け取りかた、また見てみたいわ。三十年後には、あたし、できなくなってるから」
 ははは、と男は大きく笑った。何を思っての、ははは、かはわからない。ただ要子もその笑顔を見ていっしょに笑った。
 どこかで一抹の淋しさをかんじた。
 その淋しさを説明すれば、この男は案外理解するかもしれないという思いもよぎった。
 ふっと立ちくらんだ。
 不定愁訴と名付けられているこんな症状とはいつも隣り合わせなのに、こんな気の遠くなるような暑さの中、無自覚でいられたことが嘘のようだ。
「じゃあ、ありがとうございましたア」
 と、男が元気よく頭を下げた。
「行くの?」
 と思わず要子は言った。
 もう男は車のドアに手をかけている。
 ドアが開けられた。男はからだを滑り込ませながら振り返るようにしてドアを閉めた。窓から首を出す。
「ありがとうございましたア」
 またさっきの笑いを投げかけた。
 要子はようやく立っているという感じだった。にこりともできない。
(あたし、変じゃない?)
 そこに取り残されることばかりが自覚された。
 エンジンがかかった。
 同時にトラックは滑り出す。
 さっと男の右手が窓からちらついた。
 ドアミラーにあたしが映っているんでしょう。それがだんだん小さくなるんでしょう。これで二度とこんな路地へは来ないし、そこにいたこのオバサンのことなどきれいに忘れるんでしょう。
 要子は、ゆっくり離れて行くトラックのもの干し竿の突き出た尻に飛びつく自分を想像した。
うまく飛びついて、滑り込んで、乗り込んでどこまでも揺られていく自分を見た。
 いきなりスピーカーが鳴りだした。
 それは中途から始まった。
「……二十年前のおねだんです」
 車はもうウインカーを出している。甲州街道を左折していく。
 車の切れ目がちょうどよかったのか、あっという間に視界から消え去った。スピーカーの声が遠ざかっていく。
 二十年もあっという間だろう。
 どういう未来かは知れないが二十年はやってくる。
 この二十年がそうだったように。
 戻ろうとして踏み出すと、足が重い。
 汗がどっと噴き出した。
 さっきあの階段を軽やかに上がって行ったことなど嘘のようだ。あの屋上に四メーターの干し竿が上がったことも。あんな高さから干し竿を落とした事なんかもまずあり得ないことのように思えた。
 要子は一生懸命耳をすまし、あの男の車が鳴らしているスピーカーの音を探していた。
 しかし、それは耳鳴りに変わった。