南米紀行


アンデス
関西~ダラス~リマ(ペルー)~ナスカ~クスコ~マチュピチュ~
プーノ~ラパス(ボリビア)~ポトシ~スクレ~サンタクルス


リマ市街
日本から丸一日かかり南米紀行の基点になるペルーの首都リマに着き、セントロと呼ばれる旧市街にある高級ホテルに宿をとった。
翌朝、さっそく街を散策する。アルマス広場を中心とした歴史地区はスペイン植民地時代の栄華を色濃く残している。アルマス広場に面して建つカテドラルは、伝説の黄金郷エルドラドを求めたスペイン人フランシスコ・ピサロによって建てられたペルー最古のものだ。
リマはサンタフェボコダ(コロンビア)、リオ・デ・ジャネイロ(ブラジル)とともに旅人の間で「南米三大危険都市」と呼ばれていた。しかし、現在は旧市街地の一部やスラム地区を除けば、フジモリ大統領の指導のもと治安は改善されているように見えた。
リマ市街

ナスカ宇宙人
リマから450キロ、7時間バスに揺られナスカに着いた。
バスを降りると、ナスカ地上絵への遊覧飛行の客引きがまとわりついてくる。彼らを振りほどき旅行会社で遊覧飛行の手配をし、翌日のフライトに備えた。
1939年ポール・コソック氏によって発表された地上絵は、約30あり、これらの起源、作成者、目的などをめぐり諸説が入り乱れている。
6人乗りの小型飛行機は、宇宙人、コンドル、ハチドリなどの地上絵を旋回しながら見ていく30分間のフライトだった。飛行機から見る地上絵は写真以上にはっきりとその模様をとらえることが出来た。
ナスカ地上絵(宇宙人)

ナスカ
地上絵はこの大地を覆っている黒みを帯びた石や砂をどけ白い地面を出すことによって描かれている。
長年に渡る風水の浸食により地上絵は薄く、ぼんやりとなってきている。そして、多くの観光客によって破壊さえされている。
写真は、地上絵を分断するパンアメリカンハイウエイ。建設当時、地上絵の存在が重要視されず、分断される結果になった。
ナスカ地上絵

クスコ12角の石
ナスカからアレキバを経由しクスコに向かった。標高が3300メートルもあり少し息苦しい。
インカの都、クスコ。クスコとはケチャ語でへそを意味する。広大な領土を持ったインカ帝国のまさに中心であった。インカを征服したスペイン人は、徹底的に町を破壊し、新たに町を築いた。しかしその土台を見るとインカ時代のものが使われている。
アルマス広場に面して建つカテドラルも、インカ時代の皇帝の宮殿跡に建てられている。
後の地震はスペインが建築した教会などに、甚大な被害を与えたが、「カミソリの刃一枚すら通さない」というインカの美しい石材建築は、びくともしなかった。
クスコ 12角の石

クスコ アルマス広場
クスコでは日本人宿として有名な「ペンション花田」に泊まった。世界中を旅している強者達が南米を旅するとき必ず泊まっているので、これから先の情報を仕入れるために滞在した。
ペルーを訪れた観光客のほとんどはクスコそしてマチュピチュを訪れる。クスコからマチュピチュに向かう列車の中で懐かしい女性と再会した。日本からの団体客が埋め尽くした観光列車「アウトバゴン」で突然自分の名前が呼ばれ振り返ると、そこにマッチャンがいた。彼女とは「アフリカ大陸縦断エクスペディション200日の旅」をともに旅した仲間だ。しばしアフリカの思い出話しに花がさいた。それにしても、世界は狭い。
クスコ アルマス広場

マチュピチュ
クスコから列車で4時間、さらにバスで30分かけて行くとそこには、謎に包まれたインカの「空中都市」が姿を見せる。1911年ハイラム・ビンガムによって発見された「マチュピチュ」は、インカ幻の都「ビルカバンバ」なのだろうか。ウルバンバ川から700メートルもの高度があり地上からは発見する事は出来ない。先住民の言葉で年老いた峰を意味する「マチュピチュ」は、何のために作ったのか、そしてここに住んでいたインカ人はどこに消えたのかさえわかっていない。
マチュピチュ

マチュピチュ 棚田
クスコを追われたインカ人は、この地に都市を築いた。約1万人の人口を支えるために可能な限り段々畑にし、農作物を生産していた。700メートルの高度をどのようにして石材を運んだのか、また、その精巧な技術、このインカの遺跡は謎で満ちあふれている。そして、そのことが多くの観光客を惹きつけているのではないだろうか。
段々畑

ウロス島
クスコより列車で12時間ティティカカ湖岸の町プーノに着いた。ティティカカ湖は琵琶湖の12倍もある巨大な湖だ。この湖には葦を積み重ねた島に住んでいるウル族がいる。この葦で出来た島を、ウル族の人々が住む島「ウロス島」と呼んでいる。そして、、大きなものでは300人が生活している。素朴な生活を思い描いていたが、実際には観光客相手の民芸品店が目についた。
ティティカカ湖 ウロス島

タキーレ島
ティティカカ湖はインカ帝国発祥の地でもある。タキーレ島に住むケチュア族は、クスコ周辺に住む民族であり、この一帯にはいない。ティティカカ湖が直轄地になっていたのではないか。標高3800メートルでの石段500段は、非常に苦しいが、登り詰めると、素晴らしい眺めがまっていた。
この湖は国境線になっておりペルーからボリビアへ、この旅初めての国境越えをした。
ティティカカ湖 タキーレ島

ポトシ銀山
ボリビアは現在内陸国だが、以前は海を持っていた。チリとの戦争で太平洋沿岸を失い、更に、ブラジル・パラグアイにも領土を奪われ南米の中でも最も貧しい国の一つになった。
ポトシは世界最大の銀山だった。「セロ・リコ(富める山)」と呼ばれ繁栄を極めた。しかし、産出量の減少とともに、町は衰退していった。標高4070メートルの町は、スズの産出が現在も続いており、10万人を越える人々が懸命に生きている。
ポトシ銀山

スクレ
ボリビアの憲法上の首都であるスクレは、「白い町」だ。
ラ・プラタと呼ばれたこの町は、ボリビア独立宣言が行われた。シモン・ボリバールの名前が国名に、初代大統領ホセ・デ・スクレの名前がこの町につけられた。建物を白く塗ることが条例で定められおり、美しい町並みが残されている。
スクレ歴史地区

スーパー沖縄
ボリビアをはじめ南米諸国には、数多くの日系移民が生活している。特に、第二次大戦後荒廃した沖縄からの移住者が多い。
サンタクルス郊外には、コロニア・オキナワという移住地がある。風土病などと戦いながら未開の原野を切り開いていった彼らの姿には心をうたれる。
サンタクルス







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