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ダカール~バマコ(マリ)~ドゴン~トンプクトゥ~ ワガドゥグ(ブルキナファソ)~クマシ(ガーナ)~ アクラ~ロメ(トーゴ) |
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ダカールを発ったトラックはニオコロコバ国立公園を目指した。ライオンやヒョウも生息するとされているが見ることは出来なかった。 国境の町Sarayaから赤土のピストが続きトラックにも相当負担がかかっている。国境手前50キロで燃料ポンプがついに悲鳴をあげた。金採掘のための居住区があり、ゲルバ本社に連絡をとることが出来、バマコで部品調達が出来るようになった。バマコまではだましだましで行くしかない。セネガルとマリとの国境は写真のファレメ川である。橋もかかっておらず川を渡ることになった。翌日、Keniebaで入国管理事務所に赴き正式にマリに入国することになった。さらにピストを進むとMahinaに着いた。ダカールとバマコを結ぶ鉄道の駅もある町だ。さっそく、冷えたビールを求めて町にくり出した。 |
ファレメ川を渡るトラック |
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「Bar Desert Oasis」と私たちは呼んでいた、夕食後開かれる酒場だ。ゲルトラ以外何もない土地で、夕食後、各自お気に入りの飲み物を飲みながら、旅、人生について語り合った。 |
デザートオアシス |
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赤土のピストはバマコ近くまで続いた。しかし、バマコのキャンプ場は疲れを癒すには十分ではなかった。40度を越す暑さ、街の喧騒、イスラムの街では、コーランが鳴り響き夜も眠れない、そんな状況下で、とうとうマラリアに発病した。40度近い高熱、強烈な下痢にみまわれ倒れるように病院に運びこまれた。写真は病室で見舞いに来てくれたおやじさんが撮影してくれた(左は同じくマラリアで入院したAbebe)。結局3日間入院した。退院後、他のメンバーと合流したが、無理は出来ない。体重が激減し、明らかに体力が落ちているのが解る。 |
マラリアで入院 |
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バマコから「幻の黄金都市」トンプクトゥーを目指した。サハラ砂漠南の終点にあり、ニジェール川岸に位置したトンプクトゥーは交易中継地としての重要性によって繁栄を極め、黄金帝国の名を世にひろめた。しかし、時の流れで、交易方法の変化とともに、町は衰退していった。砂に埋もれ続ける町は、危機に瀕する世界遺産に指定された。しかし、キャラバンは今だに行われている。トンプクトゥーから幹線道路までにあるソンガイ砂漠でトアレグ族のキャラバンに遭遇した。 |
トアレグ |
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世界遺産にも指定されているジェンネ旧市街。この旧市街で有名なのが写真中央に建つモスクだ。このモスクは日干しレンガを積み上げ、表面に泥を塗った黄土色のスーダン様式である。そして、このモスクの前で開かれる「月曜市」には、遠くの集落からも大勢の人々が押し寄せ大変な賑わいを見せていた。キャンプでの食事材料は現地調達しており、ここでも購入した。西アフリカでの野菜は、形は小さく、不揃いだが味が濃く美味しい。 |
世界遺産 ジェンネ |
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バンディアガラ山地には、ドゴン族の集落が点在している。奴隷狩りを逃れるために、またイスラム化や戦禍を避けるために、この地に定着したと言われている。彼らは、独自の神話世界を持ち、伝統的な生活を送っている。ドゴン族の世界を語るとき、仮面の儀礼祭があげられる。仮面をかぶり、独特な衣装をまとい、躍動感あふれる踊りだった。 ドゴン集落を後にし、ブルキナファソへ入国した。首都ワガドゥグには、近代的な建築物もあり、マリに比べれば生活水準は高いように思えた。3日間滞在し、ガーナへと向かった。 |
ドゴンダンス |
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ガーナはこの旅初めての英語文化圏だった。今までフランス語圏とは異なり、どこかしら明るい。しかし、南下していくにつれ暑さが尋常ではなくなってきた。気温が高いのはもちろんだが、それ以上に湿度が高い。日本で一番とされる大阪の夏よりもきつく感じる。乾期にあたるこの時期キャンプ場には十分な水もなく、夜も眠ることも出来ない。そんな中で、写真の「ファンミルクアイス」は救いだった。トラックが止まると何処からともなく彼らが現れ、一気に二つ三つ食べ暑さを凌ぐことがで出来た。 アシャンティ族の建造物が多く残るクマシ、ケンテクロス産地のマンポング、奴隷貿易港で世界遺産のエルミナを観光し、首都アクラに入った。2日の滞在後、Bコース終点トーゴ・ロメに出発した。 |
アイスクリーム売り |
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