|
|
|
開発・発展の緒を求めて 農村開発タゴール協会会長パンナラール・ダスグプタは一九六六年インドの東北辺境にある七つの姉妹州の山岳民族をカルカッタに召集して、十二月三日から六日までの三日間のナショナル・セミナーを開催した。その時の講演や欠席者の提出論文を編集し、Common
Representative for North East Indiaと題する一冊の本として翌年出版した。今年90歳になる会長が、昔知り合った生き残りの人や独立の闘士達に久しぶりに会い、最近のマニプールがどうなっているのか,ぜひ一度訪ねてみたいというので、私はマニプール大学の事務局次長を通して州のゲスト待遇で会長を招いて呉れるよう依頼したところ、州政府の方ではマニプール初代の州首相マハラージ クマール プリオウラッタ・シンハ(通称M.K.P.B:85才)を会長として組織している、「マニプール文化統一会議」を通してすべての手配をしてくれた。州の現役若手の大臣達の何名かもこの会議のメンバーなので、何の支障もなくスムースに運んだ。 六月一六日 今日は朝からインパールから一つ二つ峠を越えて東方約四十キロ走ったところにあるアンドロという特殊部落を訪ねた。この村には七デュールカストの人々が住んでいて、古代マニプールの生活様式を保存している。 その村のほぼ中央にメイティの神社があって1000年まえから先祖伝来の火種を大切に守っている。村人は米作を主として陶芸,炭焼き、酒作り、ムシロ編み、竹かご作りといった副業で生計を立てている。M.K.P.Bはこの地が好きで、この部落の一番奥の丘陵約10エーカーの土地を自然農園に作り上げようと、四,五年前から力を入れている。その一端では満々たる水をたたえた池を有し下の低地2エーカーが水田実験地に指定され、風光明媚なところである。B.C.300年前の陶土が掘り出され、この部落にはマトゥワ博物館と称する陶芸品のコレクションがある。この博物館前に建築中の木造八角堂で一服し、タールとご飯だけの質素な昼食を頂いたが茶碗一杯ずつの地酒が添えられていて急に食欲が出た。 車で山路を走り外を眺めていると道がだんだん整備され並木も増えつつある。 夕方、インパールの町へ帰りついてから会長の知人というマヒンドラ・シンハとヴィノニ・シンハ(何れも70代)の二人にあった。この二人は会長が嘗て出獄した時、一緒に獄を出たそうである。70代でも現役の如くピチピチしておりふさふさとした黒髪を備えているのに驚いた。マニプールのテロリストをつかまえてみるとタミール人がかなりいるとか。ラジーワ・ガンディーを殺し、セイロンを撹乱したのもこの種族であるから油断できない。彼等は南アジア特にビルマからマニプールへ流れて来たようである。 六月一七日 途中、同乗した元州大臣(トライバル)ホプキン氏の友人の家に立ち寄ると、思いがけない昼食のもてなしにあづかる。ここでは山岳に於ける焼畑農法を除々にストップして、自然農法に切り替えたいが、自然農法とは一体何か、説明して貰いたいと迫られた。英語での解説は会長にゆずり「藁一本の革命」を熟読せよと、福岡先生の日本語写真版を一冊おいて来た。ここの昼食には豚、しいたけ、豆料理が出たが、やはり茶碗一杯の地酒が添えられていて何よりの珍味であった。MKPB氏も黙って平気で飲んだようで、車中ほろ酔い機嫌で歌を歌いだした。 あと10キロ走るとクモ族の牙城であり、インパールに次いでマニプールで大きい町チロチャンプールに着いた。ここから逆に引き返して又ロクタク湖へ帰った。センドラ丘上から眺望すると去年と比べて二つの点が変わっていた。一つはセンドラへ通じる道路の幅が倍に拡張されていること(ロクタク湖底の泥土を堀上埋め立てたもの)、今一つは湖上の藻草がうんと殖えていたことである。 六月一八日 9時に科学技術(高等教育)担当大臣ガングメイ・カブイ氏の官舎に表敬訪問、今回のマニプール訪問招待のお礼を伝える。会長が1966年セミナーをカルカッタに召集したとき彼はカブイ族の青年代表として出席、30年ぶりに会長ダスグプタ氏と再会した訳である。彼もMKPBシンハの「マニプール文化統一会議」の理事で、マニプール大学に於ける日本館建設を期待していられる。 午後は3時からロッパチン慰霊碑前に据える花立て(2本)と香燈台(1本)を一年前に石屋に注文して作らせていたものが出来て、ヴィシャエシンハの家に置いてあるということで、その検分に出かけた。大体注文通り出来てはいたが、線香立の穴が浅かったのでもう2インチ深く掘り下げるよう、又夫々の石の前に「献花」「献香燈」と日本字を彫ってくれるよう紙に字を書きヴィジャエ君に依託しておいた。私が9月再訪する頃には出来ている筈である。 そのあと会長をゴビンダ寺院と有名なウーマン・バザールに案内し5時ゲストハウスに帰った。 5時から8時まで、トライバル・ミニスター(種族管理担当大臣)タルー氏の晩食招待をうけた。酒は流石に出なかったが豚、鳥、牛といった、山岳料理が出て、菜食主義の会長はとまどっていた。この日ビルマから避難し、デリーで広くビルマ軍政政府の暴挙を訴え人権援護を広く呼びかけている二人の学生代表も一緒だった。が、その内情を聞いてまったく同情し、驚いた。ダスグプタ会長は、この青年にあくまで非暴力の抵抗を辛抱強く続けるようアドバイスしていた。 90歳のダスグプタ氏に大衆前の講演などは抜きにして貰って、個人対談とインタビューだけのプログラムであったが、大体彼が語った要旨を要約してみるとつぎのような陳述となる。 マニプールの学生諸君は、私費や官費でインドの他州へ出て高等教育をうける者が多いが、マニプールへ帰ってからマニプールのために何か役立つことを遣っているのだろうか?教育とは、ただ「テイク」することでなくて、「ギブ」すること、「リターン」することが目的なのである。私は学生時代に二つの大きな戦争を見て来たし、共産党で政治遊戯をやったりテロリストの中に入って暴力革命をやろうとして投獄され、二十年、それから出獄後十二年、地下に潜行したが、獄中深く考え感じるところがあって、今までの過去のすべてが誤りであることを知った。当時、コングレスを指導していたガンディーの非暴力主義に新しい光明を見出した。現代はポリティックスや種々のローカル革命(断片的な)の時代ではなく全体革命、世界革命の時機に来ており、ガンディーの提唱する経済革命である生産プログラムに直参すべき時代である。 マニプールは幸いしっかりした古い偉大な文化をもち、めぐまれた自然条件、豊かな大地を持っているのにどうして暴力地帯に化したのであろうか?これは何もマニプール自体の罪ではない。外部からの悪影響をうけた、言えば一時的な伝染病にかかった訳である。この病気を一日も早く追い出すべきである。 この病気は一体なにか?それは消費主義と言う近代文明の置き土産なのである。アジアの後進国が先進国のまねをしてライフスタイルをすっかり変えてしまた。先進国の行き着く所は広島長崎の原爆が待っている。ここに気がついたら今こそ180度のUターンすべきである。 日本、アメリカ、カルカッタ、デリーはもう到底Uターンは出来ないが、マニプールはまだその可能性があると期待する。今までマニプールが学んだものはすべて西欧から学んだもので我々東洋人にとっては敵であり、現在マニプールに横行する暴力はマニプール自体が招来したものである。女子がハイヒールをはき、小学生の児童がみんなネクタイをつけているのを排除せぬ限り殺生、暴力の世界はマニプールから消えない。 見聞きしたところマニプールには何一つ産業がなく、伝統的に有名な織物も今徐々に衰退しつつあるとのこと、これはやはり近代文明の影響で、涛々として金権と消費の方向に進んでいる証拠である。需要はあってもそれを作り出す技術者がいなくて注文に応じかねている。この衰えつつある手工業を再興し子供達の教育材料とすべき時なのに、今の教育は専らホワイトカラーを目指し、職業教育は無視されている。こんな教育で育った子供達の中で果たして何人に職があたえられるのか、何の保証もない。失業であふれた若者が生きて行く道は物を盗み人を殺し金品を強奪するために銃をもつしかないであろう。 ここ三年前から特にひどくなったクキ族とナガ族の同胞合い食む闘争の原因も金や権力に優勝劣敗を示唆せんとする競争意識に過ぎない。暴力殺生はマニプールの社会的癌であり、昔から戦場の因縁にとりつかれたマニプールの宿命かも知れない。 死霊の怨念が宇宙をさまよい血が血を呼び永久の戦場と化したのが、今マニプールに第二のチャンバルがある。過去五十年という永い道程で私達は良くも悪くもすべてを体験して来た。既に我々の進むべき道はどの方向か決定している筈である。これからの平和社会建設のために競争(コンペティション)でなくて協力(コ‐パレーション) がなければならない。先ず最初は自分からスタートすべきである。町を離れて農村に還ろう。村には真の平和が待っている。欲を捨てて質素な生活にかえるべきである。 六月十九日 この日インパールへ引き返した私達は二人の独立の闘士の家を訪れた。一人はポッサンガム・トーマル・シンハという93歳になる老人である。おどろいたことにはこの人の家に、彼自家製のチャルカ(手織車)が埋没していたことである。教育こそないが手の器用な彼は金属と木で色々のチャルカを試作している。夕方になると、スバス・チャンドラポーズやガンディーの事を語るのが一つの楽しみになっているのが彼だった。今一人はINAの旗を初めてモイラングに掲げたという生き証人ナキ・チョーダー(81歳)である。回教徒である彼は当時の思い出を切々として語った。 彼の陳述によると、「1942年INAの旗をモイラングに掲げたのは、スバス・チャントラボーズでなくてこの私であり、その現場も今のところから約半キロ離れた所で、今では水中に埋没している」と主張していた。若しこれが真実なら今までの記録を全部くつがえすことになる。彼の一言一言を今のうちにテープに収めておくことが必要であろう。この事をダスグプタ会長はMKPBシンハ閣下に依頼していた。 六月二十日 マニプールの山は年中緑で蔽われ、豊かなようだが実は潅木であって、森や林は余程奥地へ行かぬと見られない。盆地を取り巻く山々は殆ど禿山である。聞けば政府の営林局が管理する山林は僅か全山林の九割しかないそうで残りの全部は夫々の山岳民族によって牛耳られているとの事。 この山林環境を破壊する要因が三つある。
このような狭量で無計画で利己的な遣り方は、一日も早くストップせねばならない。マニプールの改革は生活にかかわりがあって急には出来ないが、マニプールの改革を起こす者は家庭経済の実権を握るマニプールの女性だろう。会長は、カディーを着ているアチョ‐シンハに小冊でもいいからガンディーの本をマンプリー語に訳して出版したり、ガンディー研究センターを是非作るよう依頼していた。 飯は食おうが食うまいが、人前に出られるが、人間は衣なしには社会に出られない。ここに人間と動物の違いがある。人間のアイデンティティーとして服装と言うものが人の心や考え方をあらわすことになる。古代インドのライフスタイルに還るべきである。 この日の午後は、トライバル婦人社会福祉協会会長B・Kローズさん、共産党(CIP)のシャンタとサバジャオバ、そして夜はロビンの父が来て会長と大いに語った。 会長はいつも私を俎上にあげてこんな事を言っていた。 「牧野はマニプールで100人以上に日本語を教えたと言うが言葉を教えることによって果たして人間が形成されるだろうか?インド人は先を争って英語を学んだが、これは就職と自尊心を高めることには役立ったが真にインド紳士を作ることには役立たなかった。日本語を習うことが金儲けの手段につながり、出世コースか日本へ行くために利用されるようなら無意味であろう。日本人が繁栄と平和の日本をどうして作ったのか、その原因を研究し追求し、それをインド乃至マニプールの発展に寄与出来るものにしない限り、マニプールにおける日本語は口先だけの遊びで役には立たない」と 六月二十一日 西洋楽器とインド楽器混成オーケストラが最後にあって幕を閉じた。「この文化の底力のある限りマニプールは早く覚醒して昔のマニプールに還り、危機をのがれて平和をとり戻すことが出来るだろう。」と語り、この地を去るにあたり最後のメッセージ
を残し叫んでインパールを立った。(六月二十二日出立す。) 去年の10月、戦友会の小林さんから贈られてきた慰問小包が、長い間カルカッタの税関にひっかかっていたのに通知が来なくて放置してあった。それがマニプールへ行く直前通知があり、カルカッタへ出た私は、娘と共に税関に出向き、八ヶ月経ったあと漸くこの小包をうけとることが出来た。 この中に、高木俊朗著「全滅」というインパール作戦記が入っていた。私はこの本を今回の旅行中読み続け、旅が終わると同時に読了した。日本人としてインドに住む私は、やはり日本という祖国の文化を背負ってこのインドの大地に足を踏みしめている自分の立場を思うとき、この日印両国の相互理解と真の発展のために尽くすところがなくてはならぬことを痛感する。 数十万と言う将兵が、飢餓線上をさまよい、病傷と闘いつつ死んで、骨を埋めたマニプール、この地の天地宇宙にさまよう怨霊が、今のマニプールの人心をかき乱し、同胞相食む殺生暴力に追い込んでいる。鎮魂慰霊供養をどこまでしようが、これ位の祈りや御利益で成仏させ得るものではない。マニプールの人をして仏陀平和不殺の道、別してはガンディーの非暴力の道へと導いていくことこそ、戦没勇士の霊に対する供養となるのではなかろうか。
更新日:2009年04月10日
|