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バンナラール・ダスグプタは、今世紀の初頭に、今のバングラデシュのファリッタバード地方の一農村に生を受けた。青春時代に救国の叫びに呼応して家を捨てた人である。血気盛んな彼は英国の圧政下からインドを解放せんとして暴力革命の道を選んだが、あとでこの現実に疑問をもつようになった。共産主義政治に魅力をもち、スターリン主義に傾倒したわけではなかったが、長い間インド共産党(CPI)の事務局長を努めていた。人生の最も華やかな時代20年を牢獄で過ごし、更に20年は地下に潜行し逃亡生活を送った。 1929年に起こったメチュヤバザール爆破事件で投獄され、1931年に解放されたのをきっかけとし牢獄と娑婆への出入りが延々と続く。1949年ダムダム・ワンルハート事件でインド革命共産党(PCPI)を率いて運動を指導したため、25年という終身刑にも近い刑を処せられるが、官僚の目をくらませて逃亡することに成功し地下に潜った。90才の坂を越えてから彼はしみじみ冗談ながらもかく述懐する。「私の敵は、私から20年の人生を奪い取った。今度は、神が、私に40年の寿命を与えて下さるだろう・・・」と、しかし、彼はその数に達しない内にこの世を去ってしまった。 1999年1月11日行年95歳である。 パンナ翁が最初に出獄したのは1962年だった。この時彼の人間性は一変していた。即ち水も漏らさぬ、堅実なるガンディーヤンになっていたのである。彼はピストルや自動小銃を捨てて、人のため、世のため、より幸福に生きて行ける道徳力を取ったのである。 人間は、外部からの圧力や情勢によって救済活動に挺身することは出来ない。出獄後、彼はいかなる政党宗派にも正式に加入しなかったが、1967年ベンガル州議会選挙にポールブルから立候補して圧倒的な勝利をえた。しかし、彼にとって幸いだったことは、この州議会も短命だったため、大きな痛手をうけることのない裡に解放し、彼も立法の地位がいかに脆く、いかに無意味であるかに気がついた。 その代わり、彼はインドが生き長らえ真の良き助言者の必要な農村に目を向けた。ガンディー主義を信じ、しかもタゴールに不動の信頼を寄せていたパンナ翁は、1969年「農村開発タゴール協会」を創設し、理想的なアイディアを広め、希望の指針を示す「キャンパス」(羅針盤)という雑誌(ベンガル語)を発行した。 真のインドは農村に在り、農村が立派に立ち上がらぬ限り、インドの発展は有り得ないと言う理想的目標には誰一人気が着かないが、パンナ翁はこの時洪水、日照り、旱魃等の災害に傷ついた農村を隈なく巡廻した。当時一国の主脳者達は唯権力争いに夢中になった。真の独立と自治のもとに新しいインドを建設するに当って、ガンディーとネルーは意見の相違を持つようになっていた。その相違が解消される前にガンディーは亡くなり、結局インドはネルーの目指していた道へと進み真のガンディー主義思想は閉ざされ、現在の如きインドが出来上がるのである。 インド独立後、コングレスこそガンディーの遺志にもとづき奉仕団として農村で仕事をすべきだったに拘らず、ガンディーの警告や忠告を聞き入れるだけの人物がなく、農村を軸とした経済の上に自給自足する農村のことを考える人がいなかった。 多くのガンディーアンが農村に入って行ったが、その多くは失敗した。誰一人パンナ翁の言うことを聞こうとしない中に、彼は一人で農村に出かけて行って孜々として仕事をした。現在タゴール協会が東部インドの三州で幅広く農村開発のプロジェクトを実施しているが、その何れも根拠は皆、パンナ翁の歩いた足跡でない所は一つもない。彼が歩いたところには、今尚はっきりした足跡が残されているし、彼の名声は彼の影の如くついて廻った。 パンナ翁の最後の情熱は社会の各階層に股をかけて浸透した享楽主義と消費に対する闘いに賭けられた。「・・闘いとは内省への道程である。世間が私の言うことを聞いてくれようと聞いてくれなくても構わないが、ただ私は地球上の人類がその資源を使い果し、切迫した危機に直面した時、慌ててはいけないと警告したいだけである。・・」と叫んでいた。 死は生の止まる所に在る。広く人類の幸福と永遠の理想を念頭におく彼は自分の行動を信じて断行した。彼が指示した目標も時代の要望や規則の流れによって覆されることもあろうが、新しく生まれてくる世代はその道標に向かって進むことだろう。自分の肉体がこの世のため何一つ提供することが出来なくなった時、初めて死がやってくる。パンナ翁は去ったが彼が後に残した遺産は未来の人々によって永く保存されるだろう。 数年前から同居していたパンナ翁は今年の正月から風邪気味で咽喉元に痰がからまり、年のせいか、それを排出するだけの力もなく息苦しくそうに咳込んでいた。一月五日、ある村の農民と一緒にキテュリ(雑炊)を食べる約束をしたことをふと思い出した彼は、苦しい体を押して午後四時頃ジープで出かけ、夕方六時頃帰ってきた。近所のドクターが偶々やって来て体温を測ってみると少々熱があり容態が悪化してきた。そこで医者の勧めで大学の付属病院に入院した。しかし、この病院では、V・I・Pを願うだけの完全設備がないということでその夜のうちに12`離れた州立病院に移され、面会謝絶のまま、夜通し酸素吸入させられた。その後、タゴール協会の面々の計らいで、その翌日(7日)昼の急行でカルカッタ国立SSKM病院へ送られた。心臓病等の特別救急室に三日間入れられた。外部とは一切の面会接触を拒絶されたまま、酸素吸入とリンゲル注射が同時に施行された。彼にとっては牢獄中の苦痛以上のものと闘ったらしいが、四日目に普通病室に移されたその日の夜12時過ぎ息をひきっとたのである。それは、病苦と闘う苦しみというより、がんじがらめの窮屈な介護に耐え抜いて疲れ果てたという感じだった。 カルカッタでゆっくり養生すれば必ず、元気になって再びシャンティニケタンに還って来るものと私は信じていたのだが・・・・・
更新日:2009年04月10日
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