シャンティニケタン

 


私とパンナラール・ダスグプタ

    二周忌追悼の記     牧野 財士

 私は、今から43年前、セワグラムのガンディーアシュラム(塾)で、畜産、獣医の指導をやるという名目でインドに渡った。当時何一つ言葉の出来なかった私は、二ヵ年ただ黙々と、学生相手に牛舎の管理という仕事に専念していた。ところが自分のパスポートをよく見ると、その渡印目的が「講義のため」と指名されているのだった。大勢の前で講義が出来なくては私の使命はどうやって果たされるのか。こういった気持ちが絶えず私の心に往来していた。

 ところが、二年後ガンディー塾の様子が変わって、この学校は閉鎖解散の憂き目に立ったのである。私は、以前、塾長アーリヤナイカムから、ベンガル州にあるシャンティニケタンの様子を聞かされていた。かって一度訪問したことのあるタゴール創設の地を選び、笈を負って入学した。当時最も必要とされていた、ヒンディー語をここで二ヵ年学んだ。これが私のインド処世の道を踏み間違えた動機となる。今から考えてみるとセワグラムは私にとって人間生活の原点を教えてくれたカルマ・ブミ(実践の地)となり、シャンティニケタンの二ヵ年は智目の温床となった。

 十三年後、私はシャンティニケタンの母校に呼び返されて、無条件で日本語を教える立場に立ち、このとき教師として、改めてここの母国語であるベンガル語をならった。大学に奉職すること十五年、六十五歳で教壇を去った。

 1987年、教壇を去る二年前のことである。当時タゴール協会の事務局長をつとめていたパンナラール氏(当時84)が私のところに見えた。日本自然農法パイオニア、福岡正信氏をインドに招待するに当り、その通訳と一切の世話を引き受けてくれというのである。私は先生のお伴をして、ダスグプタ氏と共に全インドを約一ヶ月講演旅行をした。これがダスグプタ氏との最初の交わりである。年齢から言えば、ダスグプタ、福岡、牧野の差は夫々十年違いだった。一昔づつの時代差がある。福岡、牧野はその部門は違っても、農林畠の育ちであり、ダスグプタ氏はインド独立の闘士という広汎で一段とレベルの高い指導者であった。

 その翌々年(1989)の五月、今度は日本側からダスグプタ氏に招待があり、氏は初めて海外の旅に出ることになった。彼は、タゴールの日本旅行の足跡を辿り、福岡自然農園を見学し、ベンガルの英雄スバス・チャンドラ・ボーズの霊魂鎮まる蓮光寺に詣ることを目指していた。

 僅か二週間の忙しい旅であったが、三回に及ぶ彼の講演で日本人に与えた影響は大したものだった。90歳を超えてからシャンティニケタンに引退した彼に二回目の招待が来たが、忠実な彼はこういってことわった。「自分が日本で見るべきものはこの前既に見て来た。日本の近代化については何一つ学ぶべきものはないから、もうこの年になった私が行ったところで費用が無駄になる」。タゴールが理想的な学校をシャンティニケタンにつくろうとしてこの地を選んで隠棲したように、ダスグプタ氏はシャンティニケタンをとりまく農村地帯(ビールブーム)に理想的なモデル農村を作ろうとして、シャンティニケタンのパラーシュ邸(世話役のシャモリーさんの私邸)に住んだ。

 1990年ダスグプタ氏から招待を受けた「砂漠に種をまく人の会」の代表青木さんが日本ボランティア協会の柴田氏を同伴して217日渡印された。自分のプログラムを変更もせず、ボンベイ、グジラート出張中のダスグプタ氏を追って、青木、柴田ご両人は飛行機でカルカッタからボンベイに飛び、種々の会合に出たり、インドのモデル自然農園を見学した。帰りはダスグプタ氏と同行、二十一日ボンベイ発、夜行列車の二泊三日の長い旅を続け、インドを横断して二十三日カルカッタへ着いた。二十四、二十五日をシャンテニケタンで過ごした。二十六日、カルカッタ帰着、二十八日無事帰国した。僅か十日間という短い滞印だったが、広いインドを東の端から西の端まで汽車で横断するとは普通出来ない冒険である。汽車の「フリーパス」を持っていて、いつも汽車しか利用しないダスグプタさんに付き合ったご縁である。

 私は、停年以来毎年の如く、マニプール大学から招かれて、夏季日本語集中講座を開くためインパールに出張していた。ふとした機会にパンナラールさんが「マニプールには私の知っている旧友闘士が何人かいるので一度是非訪ねてみたい・・・」というので、1995年六月十五日から二十四日まで約十日間、彼を案内してマニプールを訪問した。彼の独立運動時代の闘士達が何人か生きていて、懐旧の情に絶えず抱き合って涙を流していた。当時若かった青年指導者達も今では錚々たる大臣の椅子についており、彼らはダスグプタ氏を食事に招き、丁重なもてなしをすると共に遮断されているマニプール開発の緒(いとぐち)を熱心に討論した。

 1987年以来、約十二年間ダスグプタ氏に接して来た私は、私の出来ることで少しでも彼に仕えようと接近したが、遠慮していたのか、私には何もさせようとしなかった。私は何かにつけて彼に不快な印象を与えてはいないかと、私の行動を危惧していた。細かい点で注意が足りない、世話が行き届かない、話し相手になってやれない(話題が合わない)といった点で、私は随身としては落第だった。年を取るに従って気短になり怒りっぽくなる彼から、私は曾って一度もお叱りを受けた覚えは無い。私が外国人だったせいかも知れない。激しい気性の彼は、女主人シャモリーさんとはいつも口喧嘩していたし、協会の若い運動員等をいつも叱責し激励していた。彼は、40有余年をインドで暮らしている私が、何も本を書こうとしていないのを見て、或る日こう言った。「君は何か本でも書かないのか。」と。こう聞かれた私は、さて私に何が書けるのだろうか、と自問してみた。彼は「40年以上もインドに住んでいるなら、インド在住体験記くらいなら書けるだろう。是非書いてみるがいい」と指針を与えてくれた。これが動機となって、私は40冊以上の日記を引っ張り出し早速執筆にかかった。彼の示唆が無かったら、私は何一つこの世に置き土産を残すことが出来なかったはずである。

 いまひとつ私とって驚くべきことは,0代までずっと眼鏡をかけていた彼が、ふと気がつくと、90代に入って眼鏡なしで新聞を読んでいるのである。歯も同じで、これまで彼は入れ歯無しで食事していた。何一つ気にしない、執着しないという無法恬淡な彼の性質によるにしても、人間は一度は若返りするものであることを彼を通して初めて知った。

 私は、もともと農業指導のためにインドに渡ったが,途中脱線して長い間放浪渡世した。晩年に至り再び「農」と関係ある最重要な農村開発や砂漠緑化という広大な実践プロジェクトに関わり、その原点に回帰して来た感がある。しかし,何一つ出来ない私は、ダスグプタ氏と一緒に行動するというだけで、多くの事を学び,また農村巡廻をするごとに、その実践方法やアイディアを学ぶことが出来た。

ダスグプタ氏は自分の始めたNGO団体に、タゴールの名を取り入れて「タゴール協会」と名ずけたが、よくみると、その実践内容はガンディーの理想や実践の道を踏んでいた。若し私がもっと早くダスグプタ氏に会っていたら,もっと深く農村に溶け込んで有益な仕事にも在りつけたのに、と今もって残念に思っている。

 私を知ってくれていた、インドの元老の殆どがもうこの世を去った以上、インドにも未練はなくなった。あと幾らか残された仕事を少しでも推進し,実現し、この世を去りたい。

   わが命これが最後と思いしに

     喜寿を迎えて蘇りけり

以上

更新日:2009年04月10日

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