神を愛する

第一の戒めは「神を愛する」ことで、
第二の戒めは「人を愛する」ことである。

  「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。
  主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
  心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、
  主なるあなたの神を愛せよ』。
  第二はこれである、
  『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
  これより大事ないましめは、ほかにない 。」
  (マルコ12:29-31)

これに対して次の疑問があった。

・神は愛される必要があるのか
・なぜ、「神を愛する」ことが優先されるのか。
・どのように、神を愛するのか。

神は愛される必要があるのか

  人に対して、愛を行うときは、相手に何か困ったことがあるときだ。
  神は完全で何でもできるので、人に助けてもらう必要がない。
  つまり、神は愛してもらう必要がないのではないか。

  これに対する自分なりの答え
  神と人の関係は、親子の関係に似ている。
  親は子から助けてもらうことを期待していない。
  しかし、親は子を助けたいと、いつも思っている。
  子が親から離れてしまっては、いい助けはできない。
  子が自分につながって、助けを求めてほしいと、親は思っている。
  このことから類推すると、
  人が自分につながっていることを神は期待している。
  神を愛するということは、神とつながるということだ。

なぜ、「神を愛する」ことが優先されるのか。

  神を意識しないでも、愛を実践できると言う人がいるだろう。
  事実、神を信仰していない人も、人類に貢献している。
  なぜ、「神を愛する」ことの方が第一の戒めになっているのか。
  「神を愛する」ことと「人を愛する」ことが相いれない場面で、
  どうするべきか。
  例えば、ニーファイがラバンを殺すよう促されたときなど。

  これに対する自分なりの答え
  神は人よりも広い視点で物事を捉えることのできる御方なので、
  人が良いと判断したことが、実は、後に悪いことにつながるかも
  しれない。
  自分の考えが、神の導きと相反した場合は、神に従うべきだと思う。
  もし、ニーファイがラバンを殺さずにいたならば、
  ニーファイの家族が野営しているところにラバンたちが攻めて来て、
  全滅させられたたかもしれない。
  そうなると、現在のモルモン書も無かったし、
  末日において福音と神権と教会の回復は無かっただろう。
  しかし、神を愛するとこと、人を愛することが相反する事例は
  少ないだろう。多くは、人を愛することが、神を愛することに
  なる。人を助けるためのより良い導きを神からいただくことが
  神を愛することになる。
  神と聖約を交した人と、そうでない人の違いは、聖霊から常に
  導きを受けることができるかどうかだと思う。この違いは大きい。

  参考)「なぜ聖約の道なのか」

どのように、神を愛するのか。

  人は神に直接会えないし会話をすることもできない。
  具体的にどのように、神を愛するのか。

  これに対する自分なりの答え
  ・聖典や預言者の言葉から、神の言葉を学ぶ。
  ・すべてのことについて祈る。
  ・聖霊を通して、神から導きを受ける。
  ・神の戒めを守る。
  ・十戒の中でも最初の4つは神に対するものである
    ・主を唯一の神とする
    ・偶像を作ってはならない
    ・神の名をみだりに唱えてはならない
    ・安息日を守る

  教会で言われていることに義務感をいだいてしまい、
  疲れをを感じている人や、教会に入ったばかりで、
  何から始めたらいいか分からない人へ。
  まず、「神の愛を感じる」ことから始めるのがよい。
  神からの愛を感じることができなければ、
  神を愛するという気持ちになれない。
  義務感や神の罰に対する恐怖心では、
  神を愛することはできない。
  神の愛に気付くことから始める。
  毎日、神への祈りをささげる前に、
  自分のまわりのことで、神に感謝すべきことを探す。
  毎日、同じことを感謝するのでなく、
  新たな発見したことを1つ以上入れて、感謝する。
  こうすることで、神の愛を感じることができるようになる。
  このことは、日記を書くとき行うとよい。
  自分で気づかないところで、神の助けがあったことに、
  後で気づいて、感動することがよくある。

  参考)「なぜ教会に来ることになったのか」


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