福音生活の中で得られる祝福

今回のお話のテーマは「福音生活の中で得られる祝福」です。
祝福とは何でしょう。「祝福」の反対の意味の言葉は「呪い」です。
ある人が災難続きだと、あの人呪われてるね、てなことをいいます。
それに関連して朝日新聞の御悩み相談に寄せられた投書を読んでみ
ましょう。ある中年の主婦の方の投書です。

「私の実の兄は、ある新興宗教に入信しました。兄は、信心などし
ているくせにアル中で、おまけに教団の女事務員に手を付けて、妻
子を放って駆け落ちしてしまいました。しかも、教団の浄財をごそ
っと盗んでです。この穴埋めに私たち一家は共働きで何とか返済し
ようとしたのですが追いつかず、夫がサラ金に手を出してしまいま
した。それから、毎日ヤクザじみた男たちが家に押しかけるように
なって、そのうち耐え切れなくなった夫は酒におぼれ、飲み屋のホ
ステスと蒸発してしまいました。おまけに私は、悪性の病気にかか
って倒れてしまい生活保護を受けることになりました。そこへ問題
の兄がまた舞い戻ってきて、生活保護金を無心していきます。その
うち、高校生の息子がグレて家の中で暴れるようになりました。私
はいったいどうすればいいのでしょうか。」

これでは呪われていると言いたくなります。

それに対して、ある人がいいこと尽くしだと、祝福されているねと
一般にはいいます。女性にもてもてでバレンタインデーにチョコを
100個もらったとか、宝くじで1000万円当たったとかです。

そういう基準で私の場合をみてみると、せいぜい、女性は妻と娘ぐ
らいにしかもてないし、宝くじも当たったこともありません。もと
もと買わないから当たるわけないのですが。

そういうことから言うと、あまり、祝福されているとはいえないで
す。でも、私自身は妻と娘と仲良くやっていることに満足ですし、
御金持ちではないけれど、金に困っているわけでもないので、それ
で充分と感じています。

今回のテーマの「祝福」は一般的にいわれているものとは、違って
いるようです。聖典には、祝福とは、「この世においては平安を得、
来るべき世においては永遠の生命を受ける」(D&C59:23)
ことだと書かれています。平安と永遠の生命です。私は、永遠の生
命を受けたことがないので、平安についてしかお話できません。

先ほど私が言ったように、ごく平凡な生活のなかに神様の祝福を感
じ、感謝していくことは大切なことです。それはとてもすばらしい
祝福です。でも、そのようなことができる人でも、冒頭の主婦のよ
うな立場に置かれたら、平安を感じることはとても難しいのです。
しかし、福音にはそのような状況に置かれた人にも、平安を与える
力があります。

ここで「病者の祈り」という詩を読みます。これはニューヨークの
リハビリテーションセンターの壁にある患者が書いた詩だそうです。

「大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
  慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。
  より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、
  より良き事ができるようにと病弱を与えられた。
  幸せになろうとして富を求めたのに、
  賢明であるようにと貧困を授かった。
  世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
  神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。
  人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
  あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。
  求めたものは一つとして与えられなかったが、
  願いはすべて聞き届けられた。
  神の意にそわぬものであるにもかかわらず、
  心の中を言い表せない祈りはすべてかなえられた。
  私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。」
  原文
  (山川千秋著「死は終わりではない」より引用)

次にハワード・W・ハンター長老の言葉を読みます。

「皆さんの中には、正しい道からそれた子供を抱えて悩んでいる人
もいるでしょう。経済的な問題や情緒的な苦しみで自分の家庭や幸
福が危機的な状況に瀕している人もいるでしょう。また健康を害し
たり、生命を失ったりする人もいるでしょう。わたしはそのような
人々に心の安らぎがあるように祈っています。わたしたちは、自分
の力で耐えられないような誘惑を受けることはありません。私たち
には回り道や失望と思える道が、主の目にはまっすぐで狭い道なの
です。」(「私たちの受け継ぎ」より引用)

回り道が主にとってまっすぐというのは深い意味があります。この
現世そのものが回り道です。わたしたちは前世で神とともに住み、
ある程度まで成長しましたが、そのままでは成長に限界が来ました。
そのためにこの世に来て、神から離れて生活することになりました。
つまり、より神に近づくために、一旦、神から遠ざかったのです。
また不死不滅の体を得るために、一旦、肉体の死を受けます。この
回り道には意味があります。

たとえば、手の届かない高い所の物を取るためには、一旦、身をか
がめて飛び上がって取ります。つまり、より高い所へ行くために、
一時的に、低い所へ行く訳です。

聖典には次のようにあります。
「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、
死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)

きれいに咲く花もやがて枯れて種が残ります。そして、その種が成
長してまたきれいな花を咲かせます。花が種になり、種が花になる。
これは聖典の中で「先のものは後になり、後のものは先になる」
という言葉で表現されている法則です。
花がまた花になるのなら、一旦、種になるのはどういう意味がある
のでしょうか。種になる前の花と、種からでた花は同じように見え
て、違っているところがあります。数が増えています。

神様の計画には、これに当てはまるものがみられます。アダムの堕
落とキリストの贖いです。

エデンの園に住んでいたアダムとエバは子供を作る能力を持ってい
ませんでしたが、死なない体を持っていました。また、神と顔を合
わせて話をすることができました。しかし、アダムとエバが善悪を
知る木の実を食べたために、人の体は病気になったり、歳を取って
死ぬ体になりました。また、神と会うことができなくなりました。
これを堕落といいます。つまり、人類は肉体の死と霊の死を受ける
ことになりました。肉体の死とは肉体と霊が離れることをいい、霊
の死とは、人が神から離れることを言います。

肉体の死を受けた反面、人類には子供を作る力が与えられました。
霊の死を受けた反面、人類には善悪を知る力、すなわち、選択の自
由意志が与えられました。これは人類に与えられた大きな祝福です。

この肉体の死と霊の死から人類を救うために、キリストにより贖い
が行なわれました。キリストの贖いにより、肉体の死に対して、不
死不滅が、霊の死に対して、永遠の生命が与えられます。不死不滅
とは、肉体と霊とが再び一緒になり二度と離れないことを言います。
永遠の生命とは、人と神とが再び一緒になり二度と離れないことを
言います。

このように、元々一緒だったものが一度離れまた元に戻るのです。
これは回り道です。しかし、意味があるのです。

アダムの堕落は神の計画の大きな挫折のように見えます。事実、サ
タンはそういうつもりで、アダムとエバを誘惑しました。しかし、
この挫折は、神の計画の中では大きな意味を持ちます。というより、
この挫折そのものが、神の計画でした。

キリストが殺されたことも、大きな挫折のように見えますが、それ
によって、キリストは贖いを完成させました。

このように回り道や挫折が、神にとって真っ直ぐな場合があるので
す。私たちはこのようなことを知ることによって、人生のすべての
ことに意味を見出すことができ、平安を得ることができます。

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