(by 石飛洋司)


(by 品川光太郎)

(11.12.8)

送る言葉  武政 Sumiyo さま

 枯れ葉が舞う季節、別れを言う時がこんなにも突然くるとは、信じられません。コーチとの出会いは18歳の時、大学の松原寮でのこと。高知県の出身だからコーチと呼んでかれこれ40年。松原寮の面々は、個性的でユニークな女子の集まりでした。私たちの共通点は「ドジ」なところ「アホ」なところ。協調性はちょっと足りなかったけれど、オリジナリティとクリエイティビティーに溢れて、その志はずーっと変わらなかった。泣いたり、笑ったりを繰り返す不思議な4年間。デザインの勉強をしているというより、今思えば表現の基礎的考え方や、前向きに生きる姿勢を学んだ時間だったねぇ。卒業後も私たちは二年毎に正月に会う約束をして、ずーっとそれを守ってきた。72Dの会で再会した瞬間から、青春の頃にチャンネルが切り替わり、女子大生トークでエネルギーをもらって、また現実の生活に戻るというお互いにとって貴重な時間でした。

 ここ10年あまりの武政Sumiyoは弟の龍司さんと 病の御両親の介護で 忙しい時期を過ごしていました。高松の「たむら内科」の設立、医療事務、多忙な事務長をしながら、創作活動を続けていました。深夜の電話で
「ねぇ ありまん 私みたいな者は、何か世の中の為になっちゅんじゃろか?」がコーチの口癖でした。
「何言いよるとね、裏方が憎まれ役をせねば、孤独なのが役に立っている証拠じゃないかい」と返事したものです。しかし、義弟さんの地域医療に向かう志を支えたいと願う妹さんの学ぶ姿を見ながら、妹さん夫婦の影響をうけていました。「私は役に立っているのだろうか」という自問自答を繰り返しながら、甥や姪たちの成長を楽しみに夢を語ってくれたものです。近頃は若い彼らと一緒に老人ホームを作ると息巻いて、ありまんの部屋も確保しておくからと頼もしいことを話してくれました。その夢の形が現実のものとして動き出し、コーチ凄いなと思うことでした。 我らの思い出はありすぎて、まだ冷静には語れないけれど、、、
 武政Sumiyoの作品に纏わる思い出はいくつもあります。
●医療をテーマにしたもの。命をテーマにしたもの。ショパンの夜想曲でコンサートのポスターをデザインした時、金魚がふわっと夜の闇に浮かびあがり、墨絵のようなモノトーンの濃淡で表現していました。
●和風のモチーフを大切にしたいと、桜や洲浜雲などの伝統的な和の文様を取り入れて 積極的にアピールしていた頃、テーマの捉え方表現の仕方が安定してきました。お母様が日本画家だった影響もあり、日舞、茶道を嗜み、得意の「和」のテイストを活かした作品づくりに自信を持ち始めていました。県展での特別賞の受賞も流石でした。新聞にも掲載。この頃には二科の常連になっていました。
●地球の環境問題、絶滅危惧種の野性動物の命を守らねばとカワセミや朱鷺の命の保護をテーマに日本画の手法を使って表現した作品 清廉で気品があり迫力さえ感じるようになりました。

 先週の電話では「作品も数揃ったから、そりゃぁ個展をせねば」と言ったら「でへへ、まだまだ・・」とはぐらかして、そんな話を真剣にしなければと思いつつ、11月12日の土曜日に高松で合う約束をしました。このお別れの会は ドッキリで私を驚かせようと 終わり頃にバタバタと登場して、「ゴメーン、遅うなって」と皆の受けを狙っているのではないの?ここで現れないと出番をドジったコーチって、「やっぱりコーチらしいよね」言われるんやけど。我ら72Dのアイドル、コーチとの別れ会の為に、今日は仲間が集まっていますよ。オキャーマ、工学部、豊、謙吾、あきしゃん、圭子、泰介、岩坂、舌間君、キノ、正二郎君、新福君、河地先生と黒江先生も立派なお花を送って下さいました。武政Sumiyoは我らの憧れ、温かな癒し系のアイドルでありました。
 そののんびりした言動とは表裏一体で「鋭い感性」の持主でした。仕事も作品も、その生き方はいつも実直で一生懸命でした。生き方がデザインと思わせるゆるぎない「こだわり」の視点を持っていました。
 その生き方は 芯が通っていて、素敵な女性でした。
 コーチと友達として過ごせた40年間、充実した時間だったと心から感謝しています。ありがとう

  これからも皆を見守っていてください。             2011/11/9 72D-6友人代表 ありまん

 何日経過したのだろうか。真夜中まで台所したり、夜が明けない前に目覚めて、アクセサリー作ったり、とても論文の頭に戻れそうにない時を過ごしています。

 圭子さんからのfacebookへのコメント。あきしゃんからのメール。オキャーマのメール。工学部からの深夜の長電話、豊の電話・メール、舌間くんからのメール。72DのHPに書き込まれた豊や岩坂のコメントを読みながら、涙はとまりません。葬儀に参加したのに信じ難くコーチに語りかける日々が続いています。

 コーチ、向こうへ行く道が解からなくて まだそこら辺をうろうろ彷徨っているのではないのかと心配です。 何を考えていたのか 死ぬ予定じゃなかったろうに、土曜日に会ったらどんな話をするつもりでいたのかねぇ。 春にお母様を亡くして、その後も多忙であった為 「やっと近頃母がいないということがわかってきた。正月は弟と二人でゆっくりしようと思う」と話していました。私も以前に父と姉を病で失いましたが、病であることや入院や手術などのプロセスを踏みながら、別れの覚悟をしていったように思う。こういう突然の別れには免疫はなく、ただ唖然とし、不思議な感覚に襲われています。祭壇の写真だけど、コーチがもっといいのを探してくれやと言ってるようで、USBを持ってカメラ屋さんに行ってプリントをいっぱいして実家に送った。高知に行ったのにコーチが案内してくれないのが不満で、高知駅前をどこか待ち合わせ場所間違えて他の場所にいるのではないかと思ったり、なんだかねぇ妙な感じに襲われています。悲しみとは裏腹にお腹が空くので、私はまだ生きなければいけないのだなあと思う。友を送るのにこんなに体力が必要なんだと よくわかった。コーチが亡くなったこと伝えて私の妹も姉も、あの絵の上手なコーチさんでしょ?信じられないと言いつつ、自宅の室内の片付けをしたという。そんなことを伝えたかったのかなあ。人の命に限りがあることは知っていたけれど、こんな形で念を押さなくても良かったのではないかい。コーチのイメージは57歳で定着するねぇ。これ以上歳をとる心配しなくて良い、白髪を気にすることも、いろいろな厄介なことから解放されたかい。私の老人ホームの部屋の心配まで、そちらでは少しはゆっくりできるのかい。コーチ元気でやってるのかい?  ありまん 2011/11/21

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