(09.8.6)
少しずつ、少しずつ落ち着いてきました。いろんな人が、いろんな事を、憶測で考え、喋り、そして私に戻ってきます。それで・・・私が、会社をなぜ「解散」したのか、残しておく必要があると思い、書くことにしました。こうして文章にしていくと、心の整理も出来ていくようです。
「ジョン・コルトレーン、シーツ・オブ・サウンド」
コルトレーンはハープの教則本を使ってその独特のアルペジオをテナーで演奏しようと試みた。この通常なら誰も試みないようなアイディアが、あの音の波が次々と切れ目なく矢継ぎ早に織り成される急過するサウンド sweeping sound、アイラ・ギトラーが「シーツ・オブ・サウンド」と命名することになる難易度の高い奏法へと結実することになる。
男と生まれたからには、一生に一度は、社長と呼ばれたい。社長としての喜び、苦しみも味わいたい。会社を自分の手で作ってみたい。どれくらいの規模まで出来るか、自分が作った会社を通してみんなが幸せになれるものなのか。全力疾走で、自分がどこまで出来るのか。自分の耐性はどれくらいあるのか。知った人のいない仙台で、頼るべき人もいない仙台で、生活の基盤を作りながら、自分は社長として生きていけるのか。そして、自分は何者になれるのか。試してみたい。
いろいろな人のお陰で私は1985年会社を立ち上げる事が出来た。そして私は、走り出した。全力疾走、脇目もふらず、休みもしないで、ストイックに、走った。2年後には、金は入ってきても、使う時間がないくらいになった。睡眠時間は3時間、走り続ける。大変なお金が会社を通過してゆく。大変なお金を払う、関係する人に、国に、地域に。会社に金は残さない、皆に還元すると公言していた。スタッフにはボーナスと何度も一時金を、株主には高額の配当を払った。自分の作った会社が、関わりのある人たちに充分に応えているという実感が、充実感があった。
まだまだ休めなかった。手書きの仕事から、コンピュータで創るという時代が来ようとしていた。写植版下がなくなり、製版がなくなるという。その時代まで、5年かかると思っていた。しかし、その時代はすぐ来た、3年もかからなかった。走り続けた、その新しい時代に対応するために。全力疾走、脇目もふらず、休みもしないで、ストイックに、走った。設備投資は、今までスタッフに支払っていた金額を飲み込んでいった。毎年毎年、ハードもソフトも新しくなり、毎年毎年、新しく更新して行かなくてはならなかった。新しいバージョンで創るデータでなければ、印刷屋さんに受け取ってもらえない、仕事にならない。対応しなければならない。全力疾走、脇目もふらず、休みもしないで、ストイックに、走った。対応しながら走り続けた。
しかし、その頃、私はある空しさも感じていた。それは、企業としての社会的責任を全うしようとして頑張れば頑張るほど、スタッフは疲弊し、会社も疲弊してゆくと云うことであった。スタッフに高額な給料を払っても、国に、県に、市に、高額な税金を払っても、残るのはスタッフの疲れた顔と、疲弊した会社の空気だけであった。そこで私は、社会的責任以上に、スタッフの生活の質を考える企業に舵を切ってゆくことを決断した。
「豪華客船タイタニック号」
不況やネットの普及で
みんなが「タイタニック号」になってしまう・・・。
バブル経済やITバブルの崩壊。日本人の心象風景はどこか変わり、世の中には「リストラ」という言葉が氾濫していた。そしてまた、2007年頃から世の中は確実に変わり始めていた。今度は媒体が大きく変わり始めている。2011年、日本の国策として、地上デジタル放送が始まる。各家庭にあるテレビがアナログから、デジタルになるということである。つまり、双方向の通信、インターネットが、各家庭のリビングで出来ることになる。まだ、その便利さに8割の人が気付いていないかもしれないが、2011年以降その便利さに気付く人がどんどん増えていく。携帯電話が急速に浸透したように。今、2008年アメリカ発の「サブプライムローン」不況が全世界を覆っている。アメリカのファンド企業、自動車、不動産業が破綻している。そして、IT不況から引きずっている広告不況から更に広告費が削られ広告の出稿がますます減ってきている。広告代理店は前年度比の半分以下というところばかりである。一時は、インターネット等の広告費が伸びている、ラジオや雑誌の広告費を抜いたということが話題になったが、全体が落ち込んでは、焼け石に水である。この「サブプライムローン」不況は回復まで3年いや5年かかると云われている。この不況の時に、広告費を削っている企業は自前でまかなえるインターネットを使って情報を伝達している。金をかけずに、しかも確実に情報を必要とする人に届く広告媒体として、活用している。広告主も、広告を見る側も、この不況のおかげで、逆にインターネットの可能性の確認作業をしている。広告主にとってはコストを削減出来る媒体、ダイレクトにターゲットに届く媒体として、広告を見る側としては興味あるもの、関心あるものの情報だけを見ることが出来、そして送られてくる媒体として、どこでもいつでも見ることの出来る媒体、これまでとは違った認識で広告媒体として捉え始めている。アナログ媒体から、デジタル媒体へ、世の中は確実に変わっている。紙媒体は、印刷媒体はどんどん減少している。無くなりはしないとしても、絶対数は少なくなっている。大袈裟に言えば、紙媒体はデジタル広告の導入部広告(クロス広告)しか残らないかもしれない。後は、紙媒体、印刷媒体に携わる者同士、仕事の奪い合いをするしかない。
ITバブルの崩壊時に「リストラ」されたデザイナーやコピーライターがフリーになって、ただでさえ単価が下がっていた仕事をそれよりも、もっと低い価格で請け負っていった。広告代理店も、大手印刷会社もそれを良いことに、次々と単価を下げて仕事を受注していった。広告代理店や大手印刷会社の保身、営業個人の保身のために、この業界の価格破壊が始まった。自分の手で自分の首を絞めてしまう愚かな負のスパイラルが始まった。そして紙媒体、印刷媒体で仕事をしていた会社は(広告代理店、大手印刷会社も含めて)利益の上がらない会社になってしまった。
「必勝法」
勝っている時に止める、負ける前に止める。
出来るだけ早く自分の創った会社をデジタル(web)に対応できる会社に業態を変えていかなければならない、そうしないと、この時代の変化の波に沈没してしまう。かつて、写植版下や製版が無くなったように。自分の創った会社は創業当時からスタッフの入れ替わりはほとんどなかった。つまり、スタッフは、私と一緒に20年以上働いてきた仲間である。アナログの仕事をやる分には、「あ・うん」の呼吸で出来ていたが、デジタル(web)の方に舵を切るにしては勤続疲労を起こしていた。何度も何度も、3年後、5年後のことを説いて新しい方向に行こうと言い続けても、もう頭の中に新しい技術が入る余地はなかったし、新しい方向に行こうという情熱も感じられなくなっていた。社会的責任以上に、スタッフの生活の質を考える企業に舵を切った事が裏目に出て、スタッフの向上心を削いでしまったのかもしれない。今のスタッフでは業態を変えることは出来ない。まさに自分の創った会社は、勤続疲労に陥っていたのだ。この不況のトンネルを抜けたら、トンネルに入る前と同じ、いやそれ以上の好転が待っているのだろうか。この不況を乗り切るために、走る、全力疾走、脇目もふらず、休みもしないで、ストイックに、走って、この不況が回復した時、自分の創った会社が出来る仕事(紙媒体、印刷媒体)は、以前みたいに有るだろうか。そして新しい媒体(web)の仕事を手がける事が出来るだろうか。3年後、5年後のことを考えると、この不況を乗り切るために借入を膨らませてまで、この業界でこの事業を継続する価値はあるのだろうか。私の判断は、懸ける価値はなくなった、である。「自分の創った会社は、このままでは沈没する、そして新しい媒体(web)に対応できないだろう。沈没する前に、船を港に着け、スタッフを降ろし、廃船にしよう。そして新しい波に向かって船出できる船を造る準備をしよう」と云うことであった。
「アーミッシュの寛容」
「アーミッシュ」どんなに凶悪な犯罪でも即座にゆるす。自動車や電気を拒み、非暴力を貫くアメリカのキリスト教の一派である。A:「ゆるすことによって自分の心が癒され、解放される。アーミッシュの人たちは、もしゆるさなかったらいつまでも悲しみを引きずり、あるいは健康を損なうほど悲しみをためて、恨みが続いていくと考えているのでしょうか?」 B:「もしもゆるさなければ、自分たちが神様にゆるしてもらえない、という宗教的な理由があります。永遠の救いは〈ゆるし〉に関係しているという、とても強い動機づけがあるんです」 (2009.7.8 朝日新聞 オピニオン対談 犯罪とゆるし)
解散という道を選ぶより、自分で創った会社は残しても良いのではないか、そして新たな出発でも良いのではないか。当然それも考えた。しかし、自分の創った会社のスタッフを「リストラ」はできない。20年以上も一緒にやっていればスタッフはそれなりにこの業界では高齢になっており、行き場がない。それなら、今まで自分の創った会社が持っていた仕事を分けて、各自に持ってもらい、食っていってもらおう。会社で受けるには安いが、個人でやるならまだ充分に食っていけるだろう。自分で創った会社を残していたら、スタッフを「リストラ」したことにもなるし、お客様は気を使って仕事の依頼をして下さるかもしれない。お客様にも、スタッフにも、気を使うことなくスムーズに次の関係に進んで欲しいと思った。
私にとっても、スタッフにとっても、決断は早いほうが良いと思われた。自分で創った会社を、自分で納める、解散する。〈自分で創った会社に係わった人たちの誰一人として迷惑をかけることなく、借財は私が引き受けて、解散する。〉それはどういう事なのか、自分で全て検証していきたい。どんなに辛いことなのか、または、いろんなものから解放されることなのか、味わいたい。それでこそ、「男と生まれたからには、一生に一度は、社長と呼ばれたい。社長としての喜び、苦しみも味わいたい。」と思って起業した者の責任ではないのか。逃げることなく、正面で受け止めて綺麗に美しく会社を解散する、それが次に自分のやるべき事と決めた。私の創った会社が持っていたお客様をスタッフに譲り、これまでのデータを全て渡し、スムーズに仕事が回るように手配して、解散の清算作業に入っていった。生産性のない、無給のそれは、私の精神をどれだけ悩ませるだろう。「全力疾走で、自分がどこまで出来るのか。自分の耐性はどれくらいあるのか」それを試せる良い機会であるとも思った。
24年間の社長業は、幾多の自己保身の裏切りと、目に見えぬ悪意(人はそれを“駆け引き”だの“戦略”だのと呼ぶ)と、私には勿体ないくらいの信頼と優しさと思いやり、で幕を閉じた。人は生まれて、生きて、そして死ぬ。その間にその人の価値が刻まれる。私は何を学び、何を失ったのだろう。それは私という人間にとって役立つことであったのだろうか。人間は25年ずつ分けて生きるべきだ。「自分のため、家族のため、そして社会のため」と言う言葉が頭の中を回り続けている。それでも私にはまだ解らない。













