弓を射る者
天界の秘義2709
「かれは弓を射る者となった」。これは霊的な教会の人間を意味していることは以下から明白である。すなわち、『矢がら』『なげ矢』または『矢』の意義は真理であり、『弓』の意義は教義である(前の2681番を参照)。霊的な教会の人間は前には『弓を射る者』と呼ばれたが、それはかれが、善により安んじて、真理については論じはしない天的な教会の人間とは相違して(前の2708番を参照)、自分自身を真理により弁護し、真理について論じたためである。霊的な教会の人間が自分自身を弁護する手段ともなり、またその論争する主題ともなっている真理はかれが承認している教義から発しているのである。
天界の秘義2709[4]
聖言の大半の事柄にはまた対立した意義があるように、同じく『矢がら』『なげ矢』『矢』『弓』『射る者』にもその意義があり、それは誤謬、誤謬の教義、誤謬の中にいる者を意味しているのである。かくてモーセの書には
ヨセフは果を多く結ぶものの息子、泉のほとりの果を多く結ぶものの息子、娘の息子である。彼女は壁の上を進んで行く、かれらはかれを悲しませ、かれを射た。射手はかれを憎んだ(創世記49・22、23)。
エレミア記には―
かれらはその舌を発射した。その弓は偽りであって、真理のためのものではない。かれらの舌は長くされた矢であり、たばかりを語っている。
ダビデの書には―
かれらは剣のようにその舌を注ぎ出した。かれらはその矢の、苦々しい言葉の狙いをつけて、密かな所で全き者を射る、不意にかれらはかれを射て、恐れはしない。かれらはかれら自らのために悪い言葉を強くするであろう。かれらはわなをかくしていることを語るであろう(詩篇64・4−6)。
同書に―
見よ、邪悪な者は弓をまげる。かれらは絃にその矢をつがえ、暗がりの中で心の正しい者を射る(詩篇11・2)。
同書には―
かれの真理は盾であり、まる盾である。あなたは夜の恐怖を、昼飛んでくる矢を恐れてはならない(詩篇91・45)。
天界の秘義2710
わたしたちが今とり扱っている節には霊的な教会の人間は教義からのみ真理を知っていて、天的な教会の人間のように、善そのものから真理を知っていないという理由から、霊的な教会の人間の状態は天的な教会の人間のそれに比較された場合、それは明確なものではなく、また戦闘的なものであるとして記されているのである。