初々しい

死を恐れない

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P87

 

皆さんに平和!言うまでもなく、金しか持っていない年寄りにとっても、莫大な財産のある青年にとっても死はつらい。だが高い徳を持ち、清い生活をしている人にとって、死は少しもつらくない。真の知恵者は、若い時から死さえもつらくないような生き方をしようとしています。

“生とは死の準備であり、また同様に、死とは最も崇高なる命への準備です”真の知恵者は、生と死の意味を悟った時、はかない物事に執着しないように人事を尽くし、裁きの時、神に捧げるために、永遠に役立つもの、すなわち、多くの徳や善行をつむのです。真の知恵者は、その生きざまにおいてまた知恵において老人を超え、そして少年よりも柔軟です。徳と正義を持って生きるならば、しばしば少年にさえも見られない初々しさを保つからです。

死とは何と甘美なことか。命が霧の中に後ろ姿を見せて去って行っても、疲れきった頭を御父の胸にもたせかけ、その懐に抱かれて『父よ、あなたを愛します。あなたに望みます。あなたを信じます』と、今はの際に言い、天国の輝く光を浴びて『永遠にあなたを愛します』と何度も何度も繰り返すのは何と喜ばしい!! 死をつらいものと考えていますか。死はすべての人間に課せられたものであり、信仰を持たず、罪にまみれている人たちにのみ重苦しい憂慮となるものです。

 だれかが亡くなると、時に『もう少し長生きしたら、善いことをもっとたくさん行って、より大きな報いを得られたでしょうに』と言われたりするが、そういうものではありません。霊魂は、時間がどれくらい与えられているかを漠然と自覚しています。それは永遠に比べると、ほんの一瞬です。

 それにしても、どれほどのあわれな霊魂たちがこういったことに触れないよう心を砕き、その代わりに、善意の人々が絶えず神の戒めに従って働き、時として聖人は日々の暮らしに豊かな功徳を持っています。百年いや千年、それ以上生きたとしても、今を超える聖徳には至らないと思います。なぜなら、神への愛、隣人への愛に、できる限りの寛大さを持ち、すべてにわたって実行するならば、それはもう完徳に到達しているからです。天国では“何年生きたか”ではなく“どう生きたか”が重視されるのです。