直接的な慈悲から発した瞬間的な救いは不可能

 

 

信仰義認説

主はたわめられる

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界と地獄54

 

 天界は各人の外に在るとは決して言われることは出来ず、それは常に各人の中に在る。なぜなら各天使は自分の中に在る天界に従って、自分の外にある天界を受けるからである。このことから、己が内的な生命はいかようであろうとも、天界に入ることは単に天使たちの間へ引き上げられることに過ぎないと信じ、かくて天界は凡ゆる者に直接の慈悲から与えられていると信じる者はいかに欺かれているかが明らかである(*2)。即ち、天界は各人の中に存在しないならば、その者の外に在る天界の物は何一つ彼のもとへ流れ入って、受け入れられはしないのである。多くの者がこうした信念を抱いて、そうした理由から天界へ上げられたが、しかしそのとき彼らは、その内的な生命が天使たちの生命に反してしたため、その知的能力は盲目になりはじめ、遂には愚物のようになり、意志能力では苦しみ悶えはじめて、狂人のように振舞ったのである。約言すれば、悪い生活をしているのに、天界に入る者は、魚が水から出て空気中にいるように、また動物が空気の出尽くした空気ポンプの容器中のエーテルの中にいるように、そこでは息切れがして、苦しみ悶えるのである。ここから天界は人間の外にはなくて、その内に在ることが明らかとなるであろう(*3)。

 

*2。天界は直接の慈悲から与えられず、生命に応じて与えられる、そして主により人間が天界へ導かれて行く手段となる生命の凡ゆる物は慈悲から与えらえ、そのことが慈悲により意味されるものである、5057、10659。もし天界が直接の慈悲から与えられるなら、それは凡ての者に与えられるであろう、2401。天界は各々に直接の慈悲から

与えられると信じ、天界から投げ落とされた若干の霊については、4226。

 

*3。天界は人間の中にある、3884。

 

 

 

神の摂理279[3]

 

「悪は除かれるに応じて、赦される」。

 

 一度悪は赦されると、それは人間から分離され、全く放逐され、人間の生活状態は一瞬にしてその反対の状態に変えることが出来、かくて主の直接的な慈悲により、人間は悪の状態から善となり、従って地獄から導き出されて、直ぐさま天界へ移されることが出来ると想像することは現代の誤りである。こうした信念と見解とを抱く者は悪と善との何であるかを把握せず、人間の生活状態については何ごとも知らず、また意志の諸々の情愛は心の純粋に有機的な諸々の原質の状態の変化、変動にすぎず、理解の中の思考はその原質の形の変化、変動にすぎず、記憶はその変化から生まれる恒久的な状態であることを知りさえもしない。このことが凡て知られると、悪は徐々にしか除かれることは出来ず、悪を赦すことはそれを除去することと同一の事柄ではないことが明らかに認められることが出来る。しかしこれは概括的な主張であって、説明されない限り、実際承認はされても、理解されないし、理解されないものは手で車輪をあてもなく回すようなものであり、それで前に述べた見解は、その述べられた順序に従って、一つ一つ説明しなくてはならない。

 

 

 

神の摂理279[3](ロ)

 

「人間の生活状態は一瞬にして変えられることが出来、かくして、主の直接的な慈悲により、人間は悪の状態から善となることが出来、従って地獄から導き出されて、直ちに天界へ移されることが出来ると考えることは現代の誤りである」。

 

この誤りの下に苦しんでいる者たちは仁慈を信仰から分離し、救いを信仰のみの結果として認めている、なぜなら彼らは義認と救いとは、その信仰を言い現わしている言葉を信頼と信任とを以て信じ、繰返しさえすれば、そこから生まれてくると考えているからである。多くの者もまたそれと同じ結果が即時に、人間の生涯の最後の時間にも―その前ではないとしても―生まれると考えている。これらの者は人間の生活状態は一瞬にして変えられることが出来、人間は即座の慈悲により救われることが出来ると信じざるを得ない。しかし主の慈悲は即時的なものでなく、人間は一瞬にして悪から善になることは出来ず、神的摂理が人間生活の幼少期からその終わりに至るまでも絶えず働かない限り、人間は地獄から導き出されて、天界へ移されることは出来ないことが本章の最後の項に見られるであろう。ここに我々はそこから以下の主張を引用しよう、すなわち神的摂理の法則は凡て人間の改良を、従ってその救いを目指しており、それ故、生来地獄的な彼の状態をその反対の天界的状態へ変化させることを目指しており、このことは、人間が悪とその歓喜から遠ざかって、善とその歓喜へ入るにつれて、徐々にしか為され得ないものである。

 

 

 

神の摂理338[3]

 

「直接的な慈悲から発した瞬間的な救いは不可能である」。

 

人間を救おうとする神的摂理の働きはその出生に始まり、その生涯の終わりまでも続き、以後永遠に続くこと、またこの働きは絶えず純粋な慈悲から手段を用いていることも前に示した。それゆえ瞬間的な救いまたは直接的な慈悲のような物はないことが推論される。しかし教会または宗教に関わる事柄を決して考えない、または、それを理解しようと決して試みない多くの者は、自分たちは直接的な慈悲により救われると信じているため、そしてこれは真理に反し、さらに有害な信仰であるため、この主題は以下のように適当な順序で考察することが重要である。

 

(イ)直接的な慈悲から発した瞬間的な救いを信じる信仰は人間の自然的な生活状態に基礎づけられている。

(ロ)この信仰は、自然的な状態とは全然異なった霊的状態の無知から発している。

(ハ)基督教世界のすべての教会の教義は直接的な慈悲から発した瞬間的な救いに根本的に反している、が、それにも拘らず、外的な教会員はこの教義を擁護している。

 

 

 

神の摂理338(イ)

 

「直接的な慈悲から発した瞬間的な救いを信じる信仰は人間の自然的な生活状態に基礎づけられている」。

 

 自然的な人間は自分自身の生活状態から以下のように推測する、即ち天界の喜びは世の喜びのようなものであり、それは同じように流れ入って、受け入れられるものである、例えば、それは貧しい人間が金持ちになり、かくて欠乏の悲しい状態から満ち溢れた幸福な状態へ移る有様に似ており、またはそれは身分などの低い人間が傑出した者になり、かくて軽視された状態から有名になる有様に似ており、または葬いの家から婚礼の祝宴に入る者のそれに似ていると。これらの状態は一日の中に相次いで起ることが出来、これに似た変化が死後の人間の状態の中に可能であると考えられるため、直接的な慈悲から発した瞬間的な救いに対する信仰は何処から来ているかは明白である。世ではまた多くの者は性格を異にしつつも同じ会合または親しいサークルをつくって互に愉快に交わりながら生活できるのである。これは自然的な状態の事実である、なぜなら一人の人間の外なるものは他の人間の外なるものに、たとえその二人は内的には如何ほど異なっていようとも、適応することが出来るからである。この自然的な状態から救いは単に天界の天使の間に入れられることであって、この入れられることは直接的な慈悲から与えられると推測されている。それ故また天界は善い者にも悪い者にも与えられることができ、そこから世にあるような社交も生まれ、ただその喜びの完全さのみが異なっていると信じられている。

 

 

 

神の摂理338(ロ)

 

「この信念は自然的な状態とは全然異なった霊的状態の無知から生まれている」。

 

 霊的な状態または人間の死後の状態については既に多くの箇所に記しておいた。そして人間は凡てその人間自身の愛であり、彼処では何人も自分と愛を同じくしている者以外の者とは共に生活することができず、もし他の者の間に入るならば、自分の生命を息づくことが出来ないことが示された。これが人間はすべて死後自分に似た者たちまたは愛を同じくしている者たちと交わり、その者たちを恰も隣人、友達であるかのように認める理由である。更に驚くべきことは彼は彼らに会って、彼らを見ると、彼らを幼時の頃から知っていたかのように思われるのである。こうしたことが起るのは霊的な血縁と友情によっている。さらに如何ような共同体の者であっても、自分の家以外のどのような家にも住むことは出来ない。凡ての者は自分の家を持ち、彼が始めてその共同体に加わると、それが自分のために供えられているのを知るのである。彼は自分の家の外で他の者と交わることは出来るが、その家以外の何処にも止まることは出来ない。さらに何人も、他人の部屋にいる時は、自分の場所以外の場所に坐ることは出来ない。もしその場所以外の場所に坐るなら、愚鈍になって、口がきけなくなり、しかも妙なことには、人は凡て、部屋に入ると、自分の場所を知っているのである。彼らが礼拝所または公の集会に共に集まる時も同じである。それゆえ霊的状態は自然的状態とは全く相違し、それは人間はすべて自分を支配している愛の在る所にいなくてはならない性質を持っていることが明白である。なぜならその愛は彼の生命の歓喜であり、凡ての者は自分の生命の歓喜の中にいることを欲するからである。さらに人間の霊はそれ以外の所にいることは出来ないのである、なぜならこの歓喜は彼の生命を構成し、実に、それは彼の鼻孔の息であり、心臓の鼓動であるから。自然界ではそうでない。この世では人間はその心の中で抱いている歓喜を顔、言葉、態度に外面的に佯り装うことを幼年時代から教えられている。それゆえ自然界の人間の状態からその死後の状態については如何ような結論も下すことは出来ない。なぜなら凡ての人間の死後の状態は霊的なものであって、そのため彼は自然界の生活により自分自身のために得たところのその愛の歓喜以外の何処にもいることは出来ないからである。このことから、地獄的な歓喜にいる者は何人も、一般に天界的歓喜と呼ばれている天界の歓喜に入れられることは出来ず、または、それと同じように、悪の歓喜にいる者は何人も善の歓喜へ入れられることが出来ないことが明白であるに違いない。それは以下の事実から更に明らかに認めることが出来よう、即ち、何人も死後天界に登ることを禁じられてはおらず、その道が示され、機会が与えられ、入ることを許されているが、しかし天界に入って、その歓喜の中で息づくと、胸が痛み、心臓が苦しくなり、意識が混濁し、ために彼は火の傍に置かれた蛇のように、のたうちまわって、天界に面をそむけ、地獄に面を向け、真逆様になって逃げ去り、その者自身の愛の支配している共同体に着くまでは止まりはしない。それ故多くの者が想像しているように、何人も直接的な慈悲から天界に入るのではなく、またそれは単に入ることを許される事柄でもなく、また瞬間的な救いのようなものもないことが明らかである、なぜならこれは直接的な慈悲を予想しているから。世に在って直接的な慈悲から発した瞬間的な救いを信じた者がいた。彼らは霊となったとき、自分の地獄的な歓喜が、すなわち、悪の歓喜が神の全能と慈悲とにより天界的な歓喜に、または善の歓喜に変えられることを望んだ。彼らは切にこれを願ったので、許しが天使に与えられ、かくて天使は彼らの地獄的な歓喜を取り除いた。しかしこれは彼らの生命の愛の歓喜であり、従って彼らの生命以外のものを吹き込むことも不可能であった、なぜなら凡て歪められていた彼らの心と身体との全組織を覆すことは不可能であったから。それゆえ彼らは彼らの生命の愛を注入されることにより再び生気を与えられたのである。この後で彼らは、その状態の中では自分たちは身の毛のよだつような恐ろしい感じを持ったと語ったが、それを洩らそうとはしなかったのである。このことは、地獄の霊を天使に変えるよりは、梟を鳩に、または蛇を子羊に変える方が易しいと天界に言われている理由を示している。

 

 

 

神の摂理338(ハ)

 

「基督教世界の諸教会の教義は直接的な慈悲から発した瞬間的な救いに根本的に反しているが、しかし外的な教会員は、それにも拘らず、この教義を擁護している」。

 

 凡ての教会の教義は、これを内的に観察するならば、人間に如何ように生きねばならぬかを教えている。人間は自分自身を点検し、罪を認め、承認し、それを告白し、悔改め、かくて新しい生活に入らねばならないことをその教義で教えない教会があろうか。この勧告と命令なしに何人が聖餐に列席することを許されようか。尋ねられよ、さすれば納得されるであろう。その教義が十誡の誡命に基礎づけられていない教会があろうか。十誡の誡命は生活の教えである。教会を多少なりと真に自分の中に宿している教会員であって、善良な生活を送る者は救われ、邪悪な生活を送る者は罪に定められることを直ちに認めない者があろうか。それ故全基督教世界に受け入れられているアタナシウス信条は、主は生きた者と死んだ者とを審くために来られるであろう、善を行った者は永遠の生命に入り、悪を為した者は永遠の火に入るであろうと述べている。このことは、凡ての教会の教義は、これを内的に観察すると、人間は如何に生活しなければならぬかを教えていることを示しており、それはそのことを教えている故、以下のことも教えているのである、すなわち、救いは人間の生命にかかり、人間の生命は一瞬に人間に吹き込まれるものでなくて、人間が悪を罪として避け、罪とは何かを知り、これを認め、承認し、これを欲しなくなり、それゆえこれから遠ざかり、神を知ることにかかっている改良の手段について学ぶにつれ、人間の生命は徐々に形作られ、改良されるのである。この凡てにより人間の生命は形作られ、改良されるのである。それらは一瞬に獲得されることは出来ない。なぜならそれ自身に於いて地獄的なものである遺伝悪が除かれて、それ自身に於いて天界的なものである善がその代わりに植え付けられねばならぬからである。この遺伝悪については、人間は理解では梟に、意志では蛇に譬えることが出来ようが、改良された人間は理解では鳩に、意志では羊に譬えることができよう。かくて瞬間的な改良とそれに基づく救いは、梟が鳩に、蛇が羊に瞬間的に変えられることに譬えることが出来よう。人間の生命を多少なりと知っている者であって、このことは梟と蛇の性質が取り除かれて、鳩と羊の性質がそれに代らない限り、不可能であることを認めない者があろうか。凡て知的な人間は更に知的になり、凡て賢明な人間は更に賢明になることが出来、理知と知恵とは増大することが出来、或る人間にあっては、幼時から生涯の終わりまでも増し加わり、こうして人間は絶えず完成して行くこともまた良く知られている。そのことはなぜ霊的な理知と知恵について更に言われないであろうか。なぜならこれらは自然的な理知と知恵よりは、二つの度も上に昇り、このように昇ると、筆舌に表現出来ない天使的知恵になるからである。永遠に完全にされつつあるものが、一瞬で完全にされることは不可能であることを理解しようと欲して、理解出来ない者があろうか。

 

 

 

神の摂理339

 

 生命に基礎づけられた見解を持つ者は一人として直接的な慈悲から発した瞬間的な救いを考えないで救いの手段を考える ― 主はその手段の中に、またその手段により神的摂理の法則に従って働かれるのであり、すなわち、人間はその手段により主により純粋な慈悲から導かれるのである。しかし生命から救いについて考えない者は、救いは瞬間的に起り、慈悲は直接的なものであると考える。例えば、信仰を仁慈から切り離す者もまた ― 仁慈は生命であるが ― 信仰は瞬間的なものであって、死ぬ前でないなら、死の最後の時でも得られると考える。そして悔改めのない罪の赦しは罪からの解放ともなってそれ故救いを確保させると信じ、そこから聖餐に行く者もまたそのように考えており、また修道僧の免罪と死者への祈りを信頼し、修道僧らが人間の霊魂に対し要求している権能のゆえにその与える赦免を信頼する者もそのように考えている。

 

 

 

神の摂理340[4]

 

「直接的な慈悲から発する瞬間的な救いは教会内の飛びかける火の蛇である」。飛びかける火の蛇により奈落の火に燃えた悪が意味され、それと同じことがイザヤ書に言われている飛びかける火の蛇により意味されている、『ペリシテよ、お前を打った杖が折れたからといって喜ぶな、蛇の根からバジリスクが出て、その果は飛びかける火の蛇となるから』(14・29)。直接的な慈悲から発する瞬間的な救いを信じる信念が起ると、こうした悪が教会を飛び回る、なぜならそれにより、(イ)宗教が廃棄され、(ロ)無頓着が生まれ、(ハ)堕地獄は主に帰せられるからである。

 

 

 

神の摂理340[4]

 

(イ)「瞬間的な救いを信じる信念により宗教が廃棄される」。

 

宗教の本質的なものと普遍的なものである二つの物、即ち、神に対する信仰と悔改めがある。それは二つとも、人間はどのような生活をしようとも、慈悲のみにより救われると信じる者には無意味である。なぜならそこには『嗚呼、神よ、私を憐みたまえ』と言う以外に何を為す必要があろうか。他の凡ての宗教的な事柄については彼らは暗闇におり、実に彼らは暗闇を愛している。神を信じる信仰である教会の最初の本質的なものについては、彼らは単に『神とは何か、たれが神を見たか』と考えるに過ぎない。もし彼らは神は存在し、一人であられると告げられるなら、その一人であることに同意する。しかし三人の神がいると告げられるなら、それに同意するが、しかしその三人の神は一人の神と呼ばれねばならぬと言う。これが彼らの神を信じる信仰の考えである。悔改めという教会の第二の本質的なものについては彼らは決して考えず、それで罪については考えず、遂にはそうした物があることも知らなくなり、かくて、『基督教徒は律法の軛の下にいないから、律法により罰せられはしない、ただ、神よ、私を御子のゆえに憐み給えと言うのみで、救われるであろう』という保証を喜んで聞き、それを熱心に吸収する。これが生活の悔改めについての彼らの考えである。しかし悔改めを取り去られよ、または、それと同様に、宗教から生活を切り離されよ、さすれば、『私を憐み給え』という単なる言葉以外に何が残るであろうか。従ってこうした人間はその言葉を死ぬ前でないなら、死ぬ頃にでも口に出すことにより救いは瞬間的に与えられると考えざるを得ないのである。それで聖言は彼らには、いわばほら穴の祭壇から聞こえてくる判然としない曖昧な宣言または偶像の託宣から聞こえてくる意味不明な応唱でなくて何であろう。約言すれば、もし悔改めを取り去るなら、すなわち、宗教から生活を切り離すなら、人間は奈落の火に燃える悪または教会の飛びかける火の蛇でなくて何であろう。なぜなら悔改めなくしては人間は悪におり、悪は地獄であるから。

 

 

 

神の摂理340[4]

 

(ロ)「純粋な慈悲のみから発する即時の救いを信じる信仰により、生活の無頓着が生まれる」。

 

 生活の無頓着は死後の生命は無いという神の無い人間の信念からか、生活は救いには何の関係も持たないというその者の信念からか、その何れからか生まれる。後の種類の人間は永遠の生命を信じるけれど、依然『私は善い生活を送ろうが、または悪い生活を送ろうが、救いは純粋な慈悲から発する以上、また神は何人の死も欲しられないため、その慈悲は万人に及ぶ以上、私は救われることが出来る』と考える。もし受け入れられた信仰の言葉で憐みを祈らねばならぬと偶々彼は考えるとしても、これは死の前に為されなかったなら、死ぬ直前にでも為されることが出来ると考えるであろう。このように無頓着な者は凡て姦淫、詐欺、不正、暴行、涜神または復讐を全く意に介しないで、そのすべてに自分自身を身も魂も捧げる。彼はまた霊的な悪とその欲念の何であるかも知らない、聖言からそれを多少知るにしても、それは黒檀の上に落ちてはねかえる物のようなものであるか、または溝に落ちて、飲み込まれる物のようなものである。

 

 

 

神の摂理340[4]

 

(ハ)「即時の救いを信じる信仰により堕地獄は主に帰せられる」。

 

 主は純粋な慈悲から凡ての者を救うことが出来るのに、もし誰かが救われないならば、その責任は人間にはなくて、主にあるという結論を誰が避けることが出来よう。信仰は救いの手段であると言われるかもしれない、しかし信仰の与え得られない者があろうか。なぜならそれは単に考えに過ぎず、その心の状態が世俗の事から引き出されている者なら誰にでも信頼を以て受けられることが出来るからである、そして彼はまた『私は私自身ではその信仰を受け入れることは出来ない』と言うであろう、それ故もしその信仰が与えられず、そしてその人間が地獄に堕ちるなら救う力があるのに、救おうとしない主にその責任があるとしか彼は考えないであろう。このことは主を無慈悲なものと呼ぶことではないか。更にに彼はその信念に燃えて、『彼は純粋な慈悲から凡ての者を一瞬に救うことが出来るのに、かくも多くの者が地獄に罰せられるのを如何にして見るに堪えることが出来よう』と語るであろう。その他このような、神的な者に対する忌むべき非難と呼ばれねばならない事を彼は言うであろう。これらの考察から、純粋な慈悲から発した即時の救いを信じる信仰は教会内の飛びかける火の蛇であることが今や明らかであるに相違ない。

 

 

 

天界の秘義6571

 

善と真理とから離反した人間は善を意図することが出来ないため、悪以外には何ものも意図しない。そして彼の意図するものは彼を支配し、それで彼の凡ゆる思考の中に存在し、また彼の最小の細々したことの一切のものの中にすら存在しているのである、なぜなら意図または目的は人間の生命そのものであり、目的は人間の愛であり、愛は人間の生命であるからである。さらに、人間はその人間の目的と正確に同一のものであり、またそれが天界の光の中のその人間の像[形、イメージ]であり、そして―このことはあなた方を驚かせるかもしれないが―人間の全般的な形が彼の意志の最小のものの形ともなっているのである。かくてその人間全体はその目的と同一のものとなっている。

 

 

 

天界の秘義6571[2]

 

 このことから悪い目的である人間は善い目的である者たちの間には決していることは出来ず、かくて地獄にいる者は天界には決していることは出来ないことが明白である、なぜならその目的は互に争って、善い目的は神的なものから発しているため、支配するからである。ここからまた何人でも慈悲のみから天界に入れられることが出来ると信じる者は正しく考えていないことが明白である、なぜなら悪い目的である者が天界へ入るなら、その生命は死の苦悶をなめている者のように苦しみ、凄まじい呵責にさらされ、さらに彼は天界の光の中では悪魔として現れもするからである。ここから真理と善から離反した者らは悪以外には何ごとも考えることは出来ないことは明白であり、この悪は彼らの思考と意志との最小のものの中にさえも存在していることは、こうした霊たちから遥か遠くにまでも放出されているスフィアからも非常に明らかである、なぜなら彼らの性質はそのことにより認められるからである。このスフィアはその生命の細々した一切のものからも放出されている霊的な蒸発気のようなものである。

 

 

 

天界の秘義7186〔3〕

 

 霊的な教会に属し、低地にいる者たちは取り憑かれて悩まされることから徐々に自由にされるのであって、直ぐには自由にされないのは、彼らに密着している幾多の悪と誤謬はそれ以外の方法では遠ざけられることは出来ないし、また幾多の善と真理もそれに代って導き入れられることも出来ないためである、なぜならそのことは状態の多くの変化により行われ、かくて徐々に順次行われるからである。人間は天界へ直ぐにも導き入れられることが出来、そしてそれは全く主の慈悲から行われると信じている者は甚だしく誤っているのである。もしそれが可能なら、地獄にいる者はすべていかようなものであろうと天界へ挙げられるのである、なぜなら主の慈悲は凡ゆる者に及んでいるからである。しかし以下のことが秩序に従っているのである、即ち、たれでも世で送ったその生活〔生命〕を携えて行き、他生におけるその者の状態はその生活〔生命〕に順応しており、主の慈悲は凡ての者のもとへ流れ入ってはいるが、しかしそれは多様に受け入れられており、悪の中にいる者によっては、斥けられ、世で彼らは彼ら自身の悪を染み込ませたため、その悪を他生でもまた保有しており、他生では矯正もまた不可能となるのである、なぜなら木はその倒れた所にとどまるからである。この凡てから、善の中に生きはしたものの世への愛と自己への愛に属している粗悪な不純なものもまた持っている者たちは、そうしたものが除かれない中は、天界にいる者たちと交わることが出来ないことが明白である。この凡てから取り憑かれて悩まされることから自由にされることは徐々に順次行われることが明白である。

 

 

 

天界の秘義7439〔3〕

 

 こうした理由からまた彼らの中で天界にいる者は僅かしかいないのである、なぜなら彼らは他生ではその生命〔生活〕に応じてその運命を受けているからである。それで彼らは他の者にも優って天界へ選ばれたと信じてはならない、なぜならたれでもそのように信じる者は、各々の者の生命は死後もその者のもとに存続していることを信じないし、また人間は世におけるその全生活によって天界へ入る備えをなさなくてはならないのであり、そのことは主の慈悲から為されるのであって、たれ一人、世ではいかような生活をしようとも、ただ慈悲のみからは天界へは入られはしないことを信じてもいないからである。天界と主の慈悲について考えられるこうした見解は信仰のみの教義により、善い業を伴わないただ信仰のみによる救いの教義から生まれているのである。なぜならこうした教義を奉じている者はその生活を何ら顧みないし、かくて垢が水で洗い落とされるように、悪も洗い落とされることが出来ると信じ、かくて人間は一瞬にして善の生命へ移ることが出来、従って天界へ入れられることが出来ると信じているのである。なぜなら彼らは、もし悪の生命が悪い者らから取り去られるなら、悪い者には全くいかような生命も無くなり、もし悪の生命にいる者らが天界へ入れられるなら、その者らはその者自身の中に地獄を感じ、そしてそのことは、彼らが天界の内部へ深く入れられるに比例して、益々甚だしくなることを知らないからである。

 

 

 

啓示による黙示録解説611

 

これらの事柄から人はたれでも天界へただ入れてもらえるのみで天界の浄福を楽しむことが出来ようと信じている者らはいかに誤っているかが明らかとなるであろう。

 

 

 

 

天界と地獄521〜527

何人も直接的な慈悲から天界に入らない

 

信仰義認/に収録

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻中/P150/

172・5−7

 

わたしの公生活中に、わたしは一度ならず苦悶する心が次のように言うのを聞きました。『神がわたしの懇願を聞き入れてくださらなかったあの時、わたしはどれほど苦しんだことか。でも今、わたしは<あれでよかったのだ、なぜならあの時お願いした恵みは、わたしがのこの時に達するのを妨げただろうから>と言います』と。他の者たちはわたしに『よ、なぜわたしの願いを聞いてくださらないのですか? みんなにはそうなさるのに、わたしにはなぜそうしてくださらないのですか?』と言うのを聞きました。それでもなお、その苦しみを見て悲しみつつも、わたしは『出来ません』と言わねばなりませんでした。なぜなら彼らの願いを聞き入れることは、彼らの完全な生命への飛翔を妨げることになりかねなかったからです。も時としておっしゃいます。『わたしには出来ない』と。それはたちどころに聞き入れることがお出来にならないからではありません。ただ、それに続く未来を御存じだから聞き入れようとなさらないのです。

 

 耳を傾けなさい。一人の男の子が腸の病気に罹っています。母親は医者を呼び、医者は『この子を治すには絶対に断食させる必要がある』と言います。男の子は泣き、喚き、哀願し、衰弱してゆくかに見えます。慈愛溢れる母親は自分の嘆き悲しみを息子のそれと一つにします。彼女は息子の号泣と断食が彼に有害なのではないかと疑います。しかし医者は情け容赦なく彼女の考えを退けます。そして最後に言います。『女人よ、わたしはあなたの知らないことを知っています。あなたは坊やを失いたいのですか、それともわたしが坊やを救うのを望むのですか?』と。『この子を生かして!』と母親は叫びます。医者は言います。『それじゃ、わたしは坊やに食物をあげることは出来ません。死ぬでしょうから』と。もそうおっしゃいます。『わたしには出来ない。それがあなたに悪いことを知っているから』と。『我がよ、わたしの愚かさを聞き入れてくださらなかったことを感謝します!』と言う日が、あるいは永遠がそのうちやって来るでしょう。