主はたわめられる

 

1.スウェーデンボルグ

2.ルイザ・ピッカレータ

3.主は何人にも真理を明らかには教えられはしないで、善を通して真のものを考えるように導かれる

4.彼らはその欲情の中で、欲情に従って考え、話し、行動することを許されてはいるが、そのことは彼らが善へたわめられるため

5.それは彼らの信念と欲念とが破壊されないで、たわめられるためである(外観の法則)

6.マホメット教徒

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義1255

 

 人間が幼少の頃から吸引する主義[原理]は主は決して破壊されないのであって、たわめられるのである。もしその主義がその人間が聖いものとして尊重しているものであり、また神的な、また自然的な秩序に反しているようなものでなく、それ自身では可でもなく、不可でもない事柄であるなら主はそうしたものをそのままにしておかれて、その人間がそうしたものの中に止まるままにしておかれるのである。第二の古代教会の多くの物はそのようなものであったのであり、そのことについては主の神的な慈悲の下に後に述べよう。

 

 

天界の秘義1832

 

 なぜなら教義的なものは、それが仁慈に連結しない中は信仰に属してはいないけれど、信仰の事柄と呼ばれているからである。これらのものと主との間には類似と相応とは存在していない、なぜならそれらのものは、愛と仁慈とに属しているもののように、内なる指示と良心とにより流れ入って来るものではなくて、教えられることにより流れ入り、かくて聞くことにより流れ入って来るのであり、かくて内的なものから流れ入らないで、外的なものから流れ入って来るのであり、そうした方法で人間の中にそれらのもの[愛と仁慈]の容器を、または受容体を形成するからである。

 

 

天界の秘義1832 []

 

それらのものの大部分は真理であるかのように見えるが、しかし真理ではない、すなわち、聖言の文字の意義に属して、真理を表象するものであり、真理を意味しているものであるようなものであり、かくてそれらのものはそれ自身では真理ではなく、そのうちのあるものは誤謬ですらあるが、しかしそれらのものは容器、受容体として役立つことが出来るのである。しかし主には本質的に真理である真理以外には何ものも存在しないのであり、それ故その外観的な真理の側ではそれらのものは[外観的な真理は]愛と仁慈とに属した天的なものに対する容器として役立つように適合[適応]されることが出来るのである。外観的な真理が、前に述べられた知的な部分の雲を構成しているものであって、その中へ主は仁慈を徐々に注ぎこまれ、かくして良心を作られるのである。

 

 

天界の秘義1832 []

 

例えば、聖言の文字の意義の中に止まって、試練に導き入れ、かくして人間の良心を責め苛むものは主であると考えており、また主は悪を許すため、主は悪の原因であり、また主は悪い者を地獄に投げ込むといったようなことを考えている者の場合では、これらのものは外観的な真理ではあるが、真理ではないのである、そしてそれらのものはそれ自身において真理である真理ではないため類似と相応は存在していないのである。それでも主はそれらのものを人間の中にそのままに残されて、それらのものが天的なものに容器として役立つことが出来るように、仁慈によりそれらのものを奇蹟的に適合[適応]させられるのである。気質の善良な異邦人の礼拝と宗教的な教えと道徳とはこのように適合されるのであり、その偶像さえもそのように適合されるのである。こうしたものを主は同じようにそのままに残されておかれ、しかもそれらのものもまた容器として役立つように仁慈によりそれらのものを適合させられるのである。古代教会における、後にはユダヤ教会における極めて多くの祭儀の場合もそれと同じであったのであり、それらのものはそれ自身ではその内に真理を宿していない儀式以外の何ものでもなかったのであって、容認され、また許されもし、実に命じられさえもしたのである、なぜならそれらのものは両親により神聖なものとして考えられ、かくて子供達の心に植えつけられ、幼児の項から真理としてかれらに印刻されたからである。

 

 

天界の秘義1832 []

 

これらの事柄がまた他のそのような事柄が鳥が分けられなかったという記事により意味されているものである。なぜなら一度人間の意見の内に植えつけられて、聖いものとして考えられているものは、それが神的秩序に反しさえしないなら、主はそのままにしておかれるのであり、類似と相応とはないもののそれでも主はそれらのものを適合させられるからである。

 

 

天界の秘義1992[]

 

主が『シャッダイ』の名により彼らの前に初めて表象されることを望まれた理由は、主はたれかの中にその者の幼少期から植え付けられている礼拝を不意には(まして一瞬には)破壊しようとは決して望まれはしないということである。なぜならこれは根元をひきちぎって、そのことによってそれまでに深く植えつけられている崇拝と礼拝の聖い状態を破壊してしまうことであり、主はそれを決して破壊されないで、たわめられるからである。幼少の頃から植え付けられている礼拝の聖い状態は暴力には堪えることは出来ないで、ただ優しく親切にたわめられることにのみ堪えることが出来る性質を持っているのである。身体の生命の中では偶像を拝しはしたものの、相互愛に生きていた異教徒の場合も同じである。彼らの礼拝の聖い状態は幼少の頃から植え付けられているため、他生ではそれは一瞬に取り去られるのではなく、継続的に取り去られるのである、なぜなら相互愛に生きている者たちの中には信仰の諸々の善と真理とは容易に植え付けられることが出来て、彼は後に喜びをもってこれを受けるからである、なぜなら仁慈[相互愛]こそその土壌そのものであるからである。そしてアブラハムとイサクとヤコブの場合もまたそうであったのであり、主は彼らに『神シャッダイ』の名を保持することを許されて、ご自分が神シャッダイであると言われさえもしたのであるが、これはその名の意義から来ていたのである。

 

 

天界の秘義2053〔2〕

 

 しかしそれでも主は御自身をこうした不潔な幾多の真理の中に人間に連結させ給うたのである、なぜなら主はその不潔な幾多の真理を無垢と仁慈とをもって生かし、活気づけ、そのことによって良心を形作られるからである。良心の幾多の真理は多様なものである、すなわち、それらは各々の者の宗教に順応しており、そしてこれらの真理は信仰の善に反してさえいないなら、主はそれらに暴行を加えようとはされないのである、なぜならその人間はそれらの真理に浸透して、それらのものを聖いものとして認めてきているからである。主はたれ一人をも砕かれはしない、ただたわめられるのみである、このことは以下の事実から認めることが出来よう、すなわち、教会のあらゆる教理の中に、良心を与えられつつある者たちがいて、その良心はその幾多の真理が信仰の純粋な幾多の真理にさらに密接に近づくに比例して更に良くなるのである。良心はこうした種類の信仰の幾多の真理から形作られるため、それは人間の知的な部分の中に形作られていることは明白である、なぜならこれらの真理を受け入れる者は知的な部分であるから、それで主はこの部分を意志の部分から奇蹟的に分離されてしまったのである―これは前には知られなかったアルカナであり、これについては第一部を参照されたい(863、875、895、927、1023番)。

 

 

天界の秘義2180[5]

 

そのことはモーセの書に以下のように記されている―

 

  アロンは子牛の目に祭壇を設け、布れて言った、明日はエホバの祭りである、と。彼らは朝早く起きて、燔祭を捧げ、酬恩祭の捧げ物をもって来た、民は坐って食べ、飲み、立って戯れた(出エジプト記33・5、6)。

 

これはモーセがシナイ山にいる間に行われたのであり、かくて祭壇と生けにえにかかわる命令が来る以前に行われたのである。その命令は以下の理由から来たのである、すなわち、生けにえの礼拝は異邦人のもとで偶像崇拝になってしまっていたように、彼らのもとでも偶像崇拝になってしまっていたのであり、彼らはそれを主要な聖いものとして認めていたため、(この礼拝から)引き出されることは出来なかったのである。なぜなら幼児の頃から聖いものとして一度び植えつけられたものは、特にもしそれが父祖たちにより植えつけられ、かくて根を張っているならば、それが秩序そのものに反しない限り、主は決してそれを折られはしないで、たわめられるからである、そのことが生けにえがモーセの書に記されている方法で制定されなくてはならないと言いつけられた理由なのである。

 

 

天界の秘義7186       

 

霊的な教会に属している者たちは取り憑かれて悩まされることから直ぐに自由にされるようになるであろうと律法の神的なものから信じられていたためであるが、それでも取り憑かれて悩ます悪い者らは徐々に遠ざけられねばならないのであり、霊的な教会に属している者も徐々に自由にされねばならないことが秩序に従っているのである、

 

 

天界の秘義7186〔3〕

 

 霊的な教会に属し、低地にいる者たちは取り憑かれて悩まされることから徐々に自由にされるのであって、直ぐには自由にされないのは、彼らに密着している幾多の悪と誤謬はそれ以外の方法では遠ざけられることは出来ないし、また幾多の善と真理もそれに代って導き入れられることも出来ないためである、なぜならそのことは状態の多くの変化により行われ、かくて徐々に順次行われるからである。人間は天界へ直ぐにも導き入れられることが出来、そしてそれは全く主の慈悲から行われると信じている者は甚だしく誤っているのである。もしそれが可能なら、地獄にいる者はすべていかようなものであろうと天界へ挙げられるのである、なぜなら主の慈悲は凡ゆる者に及んでいるからである。しかし以下のことが秩序に従っているのである、即ち、たれでも世で送ったその生活〔生命〕を携えて行き、他生におけるその者の状態はその生活〔生命〕に順応しており、主の慈悲は凡ての者のもとへ流れ入ってはいるが、しかしそれは多様に受け入れられており、悪の中にいる者によっては、斥けられ、世で彼らは彼ら自身の悪を染み込ませたため、その悪を他生でもまた保有しており、他生では矯正もまた不可能となるのである、なぜなら木はその倒れた所にとどまるからである。この凡てから、善の中に生きはしたものの世への愛と自己への愛に属している粗悪な不純なものもまた最もっている者たちは、そうしたものが除かれない中は、天界にいる者たちと交わることが出来ないことが明白である。この凡てから取り憑かれて悩まされることから自由にされることは徐々に順次行われることが明白である。

 

 

霊界日記1937

 

なぜならそうした者〔秩序の中にいない者〕は先ず正しい道へ、または秩序へ連れ戻されなくてはならず、それは必然的に、その霊が破壊されてしまわないためには、時間のかかる業であるからである、

 

 

霊界日記2194

 

 

霊界日記2911

 

私はいかようにして人間は、用から起ってくる説得[納得、信念]を通して、欲念から、主によりたわめられるかを認めたのであり、かくて人間は悪により欲念へ入れられ、欲念から善を通して(たわめられるのであり)、そのことを認めることが私に与えられたのである、なぜならそのことを認めることはその状態では非常に容易であったからである。悪霊らが流れ入ると、彼らは凡てすぐにもたわめられることが出来たのである。1748年[60歳]8月24日。

 

 

2.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P131

 

主は完徳への歩みを少しずつ導く。

1899年9月5日

 

 今朝の私はとても落胆していた。悪い人間なのを思い知り、とても我慢できなかった。イエズスがやって来たので、私の苦しみと、自分がおちいっていた惨めな有様について話した。すると主は言った。

 

「娘(こ)よ、勇気を持ちなさい。私は常に一歩ずつ完成へ導き、すべてを一瞬のうちに得させるようなことはしません。それは、人がいつも自分に欠けたものが何かを発見して私を喜ばせ、自分を聖化し、欠けている所に辿り着くよう、全力で努力するようにさせるためです。私はそんな行動に魅せられ、さらに新しい恵みと天の援助を与えるように強められたと感じます。こうして霊魂と神の間に一つの聖なる取り引きがなされるのです。

 反対に、もし人が自分のうちにすべての徳を完成させているなら、もはや主に喜ばれようとする力を感じることもなく、人と創造主との間に火を灯すための火皿を欠くことになります。

 

 主は常に讃美されますように!

 

 

3.主は何人にも真理を明らかには教えられはしないで、善を通して真のものを考えるように導かれる

 

天界の秘義5952

 

『快いものとして』と言われているのは、『エジプトの車』により意味されている教義的なものは聖言の文字の意義から来ており(5945番)、その文字の意義は内意がないなら何であれ如何ような善にも適用されることができるからである。なぜなら主は何人にも真理を明らかには教えられはしないで、善を通して真のものを考えるように導かれるからであり、またそうした事柄は聖言がそのように明言しているため、またそれは聖言に一致しているため、真理であるという認識を、その人間に知られぬままに、その人間に吹き込まれ、従ってそれを選ばせられるのである。このようにして主は善が各人により受け入れられるに応じて、それに諸真理を適応させられるのであり、このことは各人の情愛に従って起こり、かくて自由の中に起るため、ここに『快いものとして』と言われているのである。

 

 

4.彼らはその欲情の中で、欲情に従って考え、話し、行動することを許されてはいるが、そのことは彼らが善へたわめられるため

 

霊界日記2223

 

凡ての者は主により何であれ何らかの思考と言葉と行動へ導かれることは出来るが、しかし多くの者は、実に、非常に多くの者は信仰の中にはおらず、従って秩序の中にいないからには、その者たちをその方面で導くことはさらに困難である、なぜなら主は彼らを砕かれる〔破壊される〕ことは望まれないし、それで彼らを強制して、彼らの欲情に反したことを―彼らはその欲情の中に己が自由を置いているのであるが、その自由に反したことを―考えさせ、話させ、行わせることを望まれないからであり、それで彼らはその欲情の中で、欲情に従って考え、話し、行動することを許されてはいるが、そのことは彼らが善へたわめられるためである。しかし信仰の中にいて、そこから信仰の諸真理を知っているような者たちは、天界のものであるような事柄を知り、それに感動もしているため、砕かれはしないのであり、それで彼らの思考、言葉、行動は、それらはむしろ霊的な秩序の中に置かれているため、他の者らよりも容易に導かれるのである。

 

 

5.それは彼らの信念と欲念とが破壊されないで、たわめられるためである(外観の法則)

 

霊界日記2230

 

 同じように主の聖言の中に非常に多くのものが、たれも信じることが出来ないほどにも多くのものが、人間の感覚の迷妄〔妄想〕に応じて話されている、なぜなら彼らはそうしたものが起り得る、と考えたからである。それでこれらの事柄がそのように話されているのであるが、それは彼らの信念と欲念とが破壊されないで、たわめられるためである、なぜなら人間が把握出来ない方法で話すことは水に種子を蒔くことであって、彼はすぐにもそれを斥け、そのためそれは彼には無意味なものとなるからである、例えば、申命記28章63節のように、主はたれかを激しく怒られる、主は殺そうとされる、主は悪を行われる、主は彼らを砕き、無に帰させて喜ばれる、といった表現は単なる迷妄〔妄想〕であるが、それは彼らがそれが事実である、と信じたためである。こうしたことが起るのは、主が一切の物を支配され、主は一切のものであられることが真であるためであり、それで、彼らは無限なものである他のものを知らなかったため、例えば、普遍的な真理には無限なものが含まれていることを知らなかったため、そうした理由からその極めて全般的な感覚に応じて話されたのである。そうしたものが、身体の生命から他生に入って来て間もない者たちが教えを受ける以前にその者たちと話す善良な霊たちの言葉である。1748年〔60歳〕6月7日

 

6.マホメット教徒

 

霊界日記5669(第9巻)全文

 

 マホメット教徒の中で若干の者らは、主について多くの事柄を聞いた際、教会に加入しようと願った、しかし彼らは以下のように話された、すなわち、もし彼らが主については―そのコーランの教義に従って―主は最大の予言者、神の子、人間の中で最も賢明な者であると考えるに過ぎないなら、彼ら自身の宗教に止まってよろしいのである。なぜなら彼らは心(ハート)の中で主の神的なものを承認することは出来ないし、単に或る者は、そうした教理〔教目〕に対する信念を子供時代から自分自身に浸透させているからには、口で、また知的なものからその主の神的なものを承認するに過ぎないのであり、霊的な善は世における彼らの信仰に属したような事柄により形作られており、それは新しい信仰箇条によってはそのように急には消滅することは出来ないからである。彼らは彼らの善の中に生き、誠実と公正とも遵守し、公正はことごとく神的なものであることを承認することで充分なのであり、また、彼らはかくして彼らなりに幸に生きて、徐々に主へ導かれて行くのである。以下のことが付言された、すなわち、公正の中に、また彼ら自身の善の中に生きる者たちはキリスト教徒よりも善良な者になることが出来るのである、なぜならキリスト教徒は主から神性をことごとく取り去っており、大半のキリスト教徒は、法王派と呼ばれて、天と地における主の権能(ちから)を彼ら自身に僭取し、従って主から神性をことごとく取ってしまって、その神性を主の中に承認はしないで、彼ら自身の中に承認しているからである。そして他のキリスト教徒は―改革派と呼ばれているが―神的なものは主に属しており、主は父と一つであることを、実に知ってはおり、教義から告白はしてはいるものの、それでも、主のことを考えると、主を彼ら自身に似た人間を考えるようにしか考えはしないし、そうしたときは主の神性は全く考えはしないのであり、それで、また、彼らは父に、御子のために彼らの求めるものを与えてくださるようにと祈願して、主には行きはしないのである。そうしたものがかのキリスト教徒の考えである。ここから彼らは、善良なマホメット教徒らは、その心の中では、主については、キリスト教徒よりも善く考えていることを認めたのである。

 彼らはまたモーセを偉大な予言者として、しかし主よりは劣った者として承認してはいるが、しかしモーセのことは最早考えはしないのである。