花嫁

 

 

箴言19・13−14

 

愚かな息子は父の破滅。

いさかい好きな妻は滴り続けるしずく。

家と財産は先祖からの嗣業。

賢い妻は主からいただくもの。

 

 

 

箴言31・10−31

 

有能な妻を見いだすのは誰か。

真珠よりはるかに貴い妻を。

夫は心から彼女を信頼している。

儲けに不足することはない。

彼女は生涯の日々

夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。

羊毛と亜麻を求め

手ずから望みどおりのものに仕立てる。

商人の船のように

遠くからパンを運んで来る。

夜の明ける前に起き出して

一族には食べ物を供し

召し使いの女たちには指図を与える。

熟慮して畑を買い

手ずから実らせた儲けでぶどう畑をひらく。

力強く腰に帯し、腕を強くする。

商売が好調かどうか味わい

灯は夜も消えることがない。

手を糸車に伸べ、手のひらに錘をあやつる。

貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる。

雪が降っても一族に憂いはない。

一族は皆、衣を重ねているから。

敷物を自分のために織り、麻と紫の衣を着ている。

夫は名を知られた人で

その地の長老らと城門で座に着いている。

彼女は亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す。

力と気品をまとい、未来にほほえみかける。

口を開いて知恵の言葉を語り

慈しみの教えをその舌にのせる。

一族の様子によく目を配り

怠惰のパンを食べることはない。

息子らは立って彼女を幸いな人と呼び

夫は彼女をたたえて言う。

「有能な女は多いが

あなたはなお、そのすべてにまさる」と。

あでやかさは欺き、美しさは空しい。

主を畏れる女こそ、たたえられる。

彼女にその手の実りを報いよ。

その業を町の城門でたたえよ。

 

 

 

イザヤ54・6

 

捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように

主はあなたを呼ばれる。

若いときの妻を見放せようかと

あなたの神は言われる。

 

 

 

 

天界の秘義1468

 

「かれはその妻サライに言った」。

これは天的なものがそれに接合された真理について主がそのように考えられたことを意味していることはサライが妻と呼ばれている時のサライの意義から明白である。

 

『妻』は、聖言の内意では、善に連結した真理以外の何ごとをも意味していない、なぜなら善と真理との連結の条件は結婚の条件と正確に似ているからである。聖言では、『夫』が記されている時は、夫は善を意味し、妻は真理を意味しているが、しかしかれが夫と呼ばれないで、『男』と呼ばれている時は、そのときはそれは真理を意味して、妻は善を意味しており、このことは前に言ったように(915番)聖言に絶えず用いられている。

 

わたしたちが今とり扱っている記事では、アブラムが記されているため、その妻サライは真理を意味しているのである。かれの妻サライにそのように言うことは、内意では、天的なものがそれに連結した真理についてそのように考えることである。アブラムがエジプトに旅をしたとき、その妻にそのように言ったことは歴史的に真であるが、しかし前に言ったように、聖言の歴史的なものはすべて表象的なものであり、その言葉は凡て表意的なものである。内意のうちでこうしたアルカナを含まない歴史的なもの以外の歴史的なものは聖言に記されていないのであり、またそれ以外の順序をもって記されておらず、またその歴史的なものを表現するために、それ以外の言葉も用いられてはいないのである。

 

 

 

新エルサレムの教義6

 

教会は聖言で主の『花嫁』、『妻』と呼ばれている、即ち、それは連結以前では『花嫁』と呼ばれ、連結以後は『妻』と呼ばれている。そのことはまた「天界の秘義」にも見ることが出来よう(3103、3105、3164、3165、3207、7022、9182番)。

 

 

 

真の基督教122

 

聖言には花嫁と妻によって主の教会が意味され、姦通者によってそれを犯す者たち、主の聖言を不浄化する者が意味されている。これが主がユダヤ人を不義なる代の者と呼び給うた理由である。