花嫁
妻/
1.聖書
2.主の『花嫁と妻』と呼ばれるこの生かされた自分自身のもの
1.聖書
ヨハネ3・29−30
花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。
黙示録21・1−2
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
天界の秘義155
『肋骨が女に組み建てられた』という言葉は人がその文字から発見することの出来ないものをその中のその最も深い辺りに隠しているのである。なぜなら主の聖言はその最も深い内容では主御自身とその王国とに関わるものであり、ここから聖言の凡ゆる生命が発しているからである。それで今取り扱っている記事の中で、その最も深い内容において問題とされているものは天界の結婚である。天界の結婚はその自分自身のものの中に存在するといった性質のものであって、その自分自身のものが主によって生かされる時、それは主の『花嫁、妻』と呼ばれるのである。このように生かされた人間自身のものは愛の善と信仰の真理とをことごとく認識し、従って言い尽くし難い幸福と連結した知恵と理知とをことごとく持っているのである。しかし主の『花嫁と妻』と呼ばれるこの生かされた自分自身のものの性質は簡単に説明することは出来ない。それでただ以下のようにのみ述べておこう、即ち、天使たちは自分たちが主から生きていることを認めてはいるものの、それでもその主題について反省していない時は、自分は自分自身から生きているとしか考えてはいないのである。しかし彼らが愛の善と信仰の真理から些かでも外れると、変化を認めるといった共通した情愛が在り、従って彼らは自分は主から生きているという共通した認識の中にいるときは、言い尽くし難い平安と幸福との中にいるのである。
エレミヤ記の以下の記事で意味されているものはまたこの自分自身のものである―
エホバは地に新しい事を創造られた、女は男を抱くであろう(エレミヤ31・22)。
この記事にもまた意味されているものは天界の結婚であり、そこに『女』により主により生かされている自分自身のものが意味され、『抱く[囲む]』の表現がその女について述べられているのは、この自分自身のものは、肉となった肋骨が心臓を囲む[抱く]ようにも囲むものであるからである。
天界の秘義3207
「彼女はヴェールをとって、身を蔽った」。これは真理の外観を意味していることは、花嫁たちが初めて花婿を見ると顔にかけたヴェールの意義から明白であって、それは真理の外観である。なぜなら古代人の間では花嫁は真理の情愛を、花婿は善の情愛を表象し、またはそれと同一のことではあるが、花嫁は真理の情愛から『花嫁』と呼ばれた教会を表象し、主から発している善の情愛は花婿であって、そこからすべて聖言には遍く主御自身は『花婿』と呼ばれている。花嫁は真理の外観を表象するため、初めて花婿のもとに来ると顔をベールで隠したのである。真理の外観はそれ自身では真理ではなく、真理として見えるのであり、そのことについては下記を参照されたい。真理の情愛は真理の外観を通さなくては善の情愛には近づくことは出来ず、またそれは連結しつつあるまでは外観を剥ぎ取られもしないのである。なぜならそれが連結しつつある時それは善の真理となり、善が純粋である限り、純粋になるからである。
天界の秘義4456
結納が同意の印であり、かくて導入することを確認するものであった理由は、銀を支払いまたは与えることはその物が自分自身のものであり、かくてその処女は自分のものであるという印であり、それを受けとることは相互的なものであり、かくてその花嫁は花婿のものであり、花婿は花嫁のものであることを意味したということである。
新エルサレムの教義6
教会は聖言で主の『花嫁』、『妻』と呼ばれている、即ち、それは連結以前では『花嫁』と呼ばれ、連結以後は『妻』と呼ばれている。そのことはまた「天界の秘義」にも見ることが出来よう(3103、3105、3164、3165、3207、7022、9182番)。
真の基督教122
聖言には花嫁と妻によって主の教会が意味され、姦通者によってそれを犯す者たち、主の聖言を不浄化する者が意味されている。これが主がユダヤ人を不義なる代の者と呼び給うた理由である。
天界の秘義253
教会が『女』また『妻』『花嫁』『処女』『娘』と呼ばれているのは天界的な天使的な自分自身のものによっている。それは黙示録には『女』と呼ばれているのである―
陽を着た女がいて、その足の下に月が在り、その頭に十二の星の冠があった。竜は男の子を生んだ女を迫害した(黙示録12・1また4−10)。
この記事では『女』により教会が、『陽』により愛が、『月』により信仰が、『星』により前のように信仰の諸真理が意味され、その凡てを悪霊は憎み、極限までも迫害するのである。教会はイザヤ書により前のように信仰の諸真理が意味され、その凡てを悪霊は憎み、極限までも迫害するのである。教会はイザヤ書に『女』『妻』と呼ばれている―
あなたを作られた方はあなたの夫である、その名は万軍のエホバ。かれはイスラエルの聖者、あなたの贖い主、全地の神と呼ばれたもう、エホバはあなたを棄てられて心悩む女として、若い折の妻として招かれた(イザヤ54・5、6)。
ここでは『作られた方』は自分自身のものに結合されるため、また『夫』と呼ばれたまい、『心悩む女』と『若い折の妻』は特に古代教会と最古代教会とを意味している。同様にマラキ書にも―
エホバはあなたとあなたの若い折の妻の間に証を立てられた(マラキ2・14)。
それは黙示録には『妻』『花嫁』と呼ばれている―
わたしは聖い都、新しいエルサレムが、夫のために身を飾った花嫁のように備えをして、神のもとを出て天から降ってくるのを見た。来なさい。わたしは小羊の妻である花嫁をあなたに見せましょう(黙示録21・2、9)。
教会は予言者の書全体に『処女』『娘』と呼ばれている。
啓示による黙示録解説881
「夫のために飾った花嫁のように備えして」は、聖言を通して主と連結したかの教会を意味している。ヨハネは『聖い都、新しいエルサレムが神から天界を経て降ってくるのを見た』と言われ、ここでは彼はその都が『夫のために(身を)飾った花嫁のように備えしている』のを見たと言われており、そこからも『エルサレム』により教会が意味されていることが明白であり、また彼はそれを最初は都として、後には花嫁の処女として、(即ち)表象的には都として、霊的には花嫁の処女として見、かくて一方の観念[考え]が他の一方の観念[考え]の中にある、またはその上方に在るところの、二重の観念[考え]の中に見たことが明白である―彼がこの二重の観念[考え]の中にそれを見たことは天使たちの場合と全く同じであり、彼らは聖言の中で『都』について見たり、または聞いたりするときは、低い思考の観念の中では都を認めるが、高い思考の観念の中では教義の方面の教会を認め、しかもこの後のものを、もし彼らがそれを望んで、主に祈るなら、その教会の性質に従った美しさを持ち、またそれに従った衣装をまとうた処女として見るのである。私もまた教会をそのように見ることを許されたのである。『備えをする』によりその婚約のために衣装をつけることが意味されるが、教会はその婚約のためには、後には連結または結婚のためには、聖言以外の衣装をつけることは出来ない、なぜなら聖言は主から発し、主にかかわり、かくて主であるため、聖言が連結または結婚の唯一の手段であるからであり、そうした理由からそれは『契約』と呼ばれ、『契約』は霊的連結を意味し、聖言はまたその目的のために与えられたのである。『夫』により主が意味されていることは本章の9節と10節から明らかであり、そこにはエルサレムは『花嫁、子羊の妻』と呼ばれている。主は『花婿』『夫』と呼ばれ、教会は『花嫁』、『妻』と呼ばれ、この結婚は善と真理との結婚に似ており、聖言を通して行われることは、前に見ることが出来よう(797番)。これらの事柄から『夫のために飾った花嫁のように備えをしたエルサレム』により聖言を通して主と連結したかの教会が意味されていることが明らかとなるであろう。