父から遣わされた
天界の秘義2397[2]
ここに『エホバが私たちを遣わされた』と言われているように、聖言には主について主は『父より遣わされ給うた』と時々言われているが、しかし内意では、『遣わされる』ことにより出て行くことが凡ゆるところに意味されているのである、例えばヨハネ伝には―
彼らはわたしがあなたから出て来たものであるという真理を受け入れ、またそのことを知りました、彼らはあなたがわたしを遣わされたことを信じました(ヨハネ17・8)。
他の所にも同じことが言われており、例えば同書には―
神はその御子を世に遣わされたのは、世を審くためではなく、かれを通して世が救われるためである(ヨハネ3・17)。
天界の秘義4710
「さあ、わたしはおまえを彼らのもとへ遣わしましょう」。これはそれが神的な霊的な諸善を教えなくてはならないことを意味していることはヨセフの表象から明白であり、それは主の神的な霊的なものである(4669、4708番)。そのものが『遣わされる』と言われている時は、それは神的な霊的な諸善を教えることを意味するのである、なぜなら内意では『遣わされること』は発生し、発出することであり(2397番)、また同時に教えることであり、それでここではそれは主の神的な霊的なものから発出している神的な霊的な諸善を教えることであるから。神的な霊的な諸善は愛と仁慈のものである事柄であるが、しかし神的な霊的な諸真理はそこから発している信仰のものである事柄である。前のものを教える者はまた後のものも教えるのである、なぜなら後のものは前のものから発し、また前のもものに関わっているからである。内意では『遣わされること』が発出して、教えることであることは聖言の多くの記事から明白であり、例えば主について、主は父から『遣わされた』としばしば言われている所に明白であり―そのことによっては〔主が父から遣わされ給うたということによっては〕、彼から、即ち、神的な善から発出し給うたことが意味されており―また主について主は慰める者を、即ち、真理の霊を『遣わされる』と言われている所に明白であるが、そのことによって聖い真理は主から発出することが意味されているのである。予言者たちもまた『遣わされた』のであるが、そのことにより彼らは主から発出しているものを教えたことが意味されているのである。人各々これらの事を聖言から確認出来よう、そこにはそれらの事が再三記されているのである。
天界の秘義6831
「エホバの天使が彼から見られた」。これは神的な人間的なものの方面の主[主の神的人間性]である(6280番を参照)。神的な人間的なものが『エホバの天使』と呼ばれている理由は、主が来られる以前は、エホバが天界を通り過ぎられる時は、エホバは天使として人間の形をとって現れ給うたということである。なぜなら天使の天界全体は巨大人と呼ばれている人間に関係しているからであり、この人間のことは多くの章の終りで取り扱ったところである。それで神的なものそれ自身[神性それ自体]が天使の天界を通り過ぎる時は、それはエホバがその者と共に話された者たちの前には天使として人間の形をもって現れ給うたのである。すなわちそれが主が来られる以前のエホバの神的な人間的なもの[神の人間性]であったのである。神的なものとなされた時の主の人間的なものも同じものである、なぜなら主は神的な人間的なものにおけるエホバ御自身であられるからである。主はその神的な人間的なものの方面で『天使』と呼ばれ給うていることは前に見ることが出来(6280番)、それはまた主がわたしは『父から遣わされた』と言われておられる新約聖書の多くの記事からも明白である。『遣わされること』は発出することを意味しており、へブル語の『遣わされる』という言葉は『天使』と同一の語であるのである。(主は御自身を『遣わされた』ものとして語られていることについては、マタイ10・40、15・24、マルコ9・37、ルカ4・43、9・48、10・16、ヨハネ3・17、34、4・34、5・23、24、36−38、6・29、39、40、44、57、7・16、18、28、29、8・16、18、29、42、9・4、10・36、11・41、42、12・44、45、13・20、14・24、16・5、7、17・3、8、18、21、23、25を参照されたい)。
天界の秘義6864
「今、行きなさい、わたしはあなたをパロに遣わしましょう」。これは主の人間的なものから発出している聖いものを―それにより、取り憑いて悩ます幾多の誤謬が消散してしまうのであるが、その聖いものを―意味していることは以下から明白である、即ち、行かねばならず、また遣わされもしたモーセの表象は律法の神的なものの方面の主であり(6723、6752、6771、6827番を参照)、かくて人間的なものの方面の主である、なぜなら主は世におられた時、主は先ずその人間的なものを、律法の神的なものと同一である神的な真理とされ、その後その人間的なものを完全に栄化されて、それを神的な善とされたからである(神的な真理と神的な善との間には、太陽から発している光と太陽の中の火との間に在るような相違が在るのである)、『遣わされること』の意義は発出することであり(2397、4710、6831番)、ここでは聖い真理であり(聖いは真理について述べられることについては、6788番を参照)、パロの表象は誤謬である(6651、6679、6683、6692番)。取り憑かれて悩ます誤謬が消散させられる、即ち、主の人間的なものから発出している聖いものにより消散させられると附言されているのは、以下の記事で取扱われている主題は、イスラエルの子孫が、即ち、主の霊的な教会に属した者たちが誤謬から解放されることであり、彼らは誤謬からは主から発出している聖いものによらなくては決して解放されることは出来ないためである。なぜなら主から発出している聖いものは取り憑いて悩ます誤謬を消散させるのみでなく、凡ゆる物を、即ち、諸天界に在る物も、地獄に在る物も神的地球に復帰させ、諸天界を諸善とそこから派生している諸真理に従って極めて明確に区別させ、また諸々の地獄も諸々の悪とそこから派生している諸々の誤謬に従って明確に区別させ、同様に諸悪を諸善に対立させ、諸々の誤謬を諸々の真理に対立させ、かくて霊的な均衡が生れて、凡ゆる物が自由な状態に置かれるからである。
天界の秘義6870
『遣わされること』の意義は発出することであり(2379、4710、6831番)、かくて『神から遣わされること』は神的なものから発出することを意味し、また神的なものが神的なもの自身から発出することを意味している、なぜなら神的なものから発出している者は神的なものを受けて、それを更に進展させるからである。