エホバの天使

1.モーセに現れた天使

2.アブラハムに現れた三人の天使

3.ロトに現れた二人の天使

4.ハガルに現れた天使

5.主が試練の状態の中におられたときはつねに主はエホバと他の者と語られるように語られた

6.ときとして天使は天使自身から語らないで、主から語っている

7.主が来られる以前は、エホバが天界を通り過ぎられる時は、エホバは天使として人間の形をとって現れ給うた

8.人間につかわされて、予言者たちを通して語った者は天使たちであった

9.そのことは人間の霊の視覚が開くことにより行われる

10.主は人類を救うために、人間的なものを現実に着けられた

11.神的な人間的なものの方面の主

 

1.モーセに現れた天使

 

真の基督教135

 

モーゼはエホバを顔と顔とを合わせて眺め、顔と顔とを合わせて彼と話しを交わしたと実際言われていますが、しかしこれはアブラハムやギデオンの場合と同じく、天使を通して見たのであります。さて、父なる神は彼自らにおいてはこの様な性質を持ち給う故、人間性を取り、この人間性によって人間を彼自らに受け入れ、かくして人間と語ることを欲し給いました。神の子と呼ばれ、調停し、執成し、宥め、償う所のものはこの人間性であります。

 

 

天界の秘義1925

 

「エホバの天使が彼女を見つけた。」これは内的な人の思考を、すなわち、主における内的な人の思考を意味していることは『エホバの天使』の表象と意義から認めることができよう。『エホバの天使』は聖言に時折記されていて、いたるところで、それが善い意義で用いられているときは、主における、また主から発した何か本質的なものを表象し、意味しているが、しかしその天使が表象し、意味しているものは(前後の)関連から認めることができよう。人間につかわされて、予言者たちを通して語った者は天使たちであったが、それでもかれらの語ったものは天使たちから発したものではなくて、天使たちを通して発したものである、なぜなら天使たちの状態は自分たちがエホバである、すなわち、主であるとしか考えないような状態ではあったが、しかしかれらは語りおわるとすぐに、かれらの以前の状態に帰って、かれら自身から語るものとして語ったからである。

 

 

天界の秘義1925[2]

 

これが主の聖言を語った天使たちの実情であり、そのことは他生における非常に類似した経験からわたしは知ることができたのであって、その経験については、主の神的慈悲の下に後に述べよう。このことが天使たちが時折『エホバ』と呼ばれた理由であって、そのことはやぶの中でモーセに現われた天使から極めて明白であり、かれについて、以下のように記されているのである―

 

  そしてエホバの天使は、やぶの真中から発した火の焔の中にモーセに現れた。エホバはかれが見ようとしてわきに身をむけるのを見られ、神はそのやぶの真中からかれに呼びかけられた。神はモーセに言われた、わたしは存在する者である[わたしは在る者である]。神はさらにモーセに言われた、このようにあなたはイスラエルの子孫に言わなくてはならない、すなわち、エホバが、あなたらの父祖たちの神が、わたしをあなたらにつかわされた、と(出エジプト記3・2、4、14、15)。

 

 このことからやぶ[しげみ]の中に焔としてモーセに現れたのは天使であり、かれは主がまたはエホバがかれを通して話されたため、エホバとして語ったことが明白である。

 

 

天界の秘義1925[3]

 

なぜならその話されることが発音された音声の言葉により、人間のもとに来て、究極的な自然の中にあるようにと、主は天使たちの任務[仕えること]を利用されて、かれらを神的なものをもって満たし、かれら自身のものであるものを静止されるため、かれらはそのとき自分たち自身がエホバであるとのみしか考えないからである。このようにして最高のものの中にあるところのエホバの神的なものは、自然の最低のものにまでも下降するのであって、その最低のものの中に人間の視覚と聴覚の方面のものが存在しているのである。ギデオンに語った天使もそうであり、かれについては士師記に以下のように言われている

 

  エホバの天使は、ギデオンに現われて、かれに言った、強い力のある人よ、エホバがあなたとともにおられます。ギデオンはかれに言った、わたしの主よ、わたしの中に。それではなぜこのことがすべてわたしにふりかかったのですか。エホバはかれを眺めて言われた、あなたの力のうちに行きなさい、と。またエホバはかれに言われた、たしかに[まことに]わたしはあなたとともにいます(6・12,14,16)。

 

 その後以下のように言われている―

 

  そしてギデオンはかれがエホバの天使であることを見た、ギデオンは言った、ああ、主エホビよ、わたしはエホバの天使を顔と顔とを合わせて見ましたからには。エホバはかれに言われた、平安があなたに在るように[心を安んじなさい]、恐れてはなりません(22、23節)。

 

 この場合でもまたそれは天使であったが、しかしかれはそのとき自分がエホバまたは主であるとのみしか考えないような状態にいたのである。

 

 

天界の秘義6280[4]

 

 主の神的な人間的なものは聖言の他の所にもまた『天使』と呼ばれている、例えば主がやぶの中でモーセに現れたもうたときそのように呼ばれているが、そのことについて出エジプト記に以下のように記されているのである―

 

 モーセが神の山、ホレブに来たとき、エホバの天使がやぶのなかから火の焔の中にかれに現れた。エホバはモーセが見ようとして身をわきに向けるのを見られた、それで神はやぶのなかからかれに呼ばれた。かれはさらに言われた、わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である(出エジプト記3・1、2、4、6)。

 

ここに『エホバの天使[エホバの使い]』と呼ばれているものは主の神的な人間的なものであり、それはエホバ御自身であったと明らかに言われているのである。エホバはそこに神的な人間的なものの中におられたことは、神的なもの[神性]それ自身は神的な人間的なものによらなくては現れることができなかったという事実から認めることができよう、そのことはヨハネ伝の主の御言葉に従っているのである、『たれ一人これまで神を見たものはない、父の胸の中におられる独り児の神のみがかれを示された』(ヨハネ1・18)。また他の所には『あなたらは父の御声をこれまで聞いたこともなく、その御姿を見たこともない(ヨハネ5・37)。

 

 

天界の秘義6831

 

「エホバの天使がかれから見られた」。これは神的な人間的なものの方面の主[主の神的人間性]である(6280番を参照)。神的な人間的なものが『エホバの天使』と呼ばれている理由は、主が来られる以前は、エホバが天界を通りすぎられるときは、エホバは天使として人間の形をとって現れたもうたということである。なぜなら天使の天界全体は巨大人と呼ばれている人間に関係しているからであり、この人間のことは多くの章の終りでとり扱ったところである。それで神的なものそれ自身[神性それ自体]が天使の天界を通り過ぎるときは、それはエホバがその者と共に話された者たちの前には天使として人間の形をもって現れたもうたのである。すなわちそれが主が来られる以前のエホバの神的な人間的なもの[神の人間性]であったのである。神的なものとなされたときの主の人間的なものも同じものである、なぜなら主は神的な人間的なものにおけるエホバ御自身であられるからである。主はその神的な人間的なものの方面で『天使』と呼ばれたもうていることは前に見ることができ(6280番)、それはまた主がわたしは『父からつかわされた』と言われておられる新約聖書の多くの記事からも明白である。『つかわされること』は発出することを意味しており、へブル語の『つかわされる』という言葉は『天使』と同一の語であるのである。(主は御自身を『つかわされた』ものとして語られていることについては、マタイ10・40、15・24、マルコ9・37、ルカ4・43、9・48、10・16、ヨハネ3・17、34、4・34、5・23、24、36−38、6・29、39、40、44、57、7・16、18、28、29、8・16、18、29、42、9・4、10・36、11・41、42、12・44、45、13・20、14・24、16・5、7、17・3、8、18、21、23、25を参照されたい)。

 

 

天界の秘義9303

 

「見よ、わたしはあなたの前に天使を送る」。これは神的な人間的なものの方面の主を意味していることは以下から明白である、すなわち、『送ること』の意義は、それが主について言われているときは、発出することであり(6831番)、『天使』の意義は発出するものでる、なぜなら原語では『天使』は送られた者[つかわされた者]を意味し、送られた者はその語の派生語であり、『送られる[つかわされる]』により6831番の聖言から引用した記事から認めることができるように、発出することが意味されるからである。ここから『エホバの天使』により神的な人間的なものの方面の主[主の神的な人間的なもの]が意味されることは明白である、なぜならそれは父としてのエホバから発出するからである。父としてのエホバは存在そのものである神的愛の神的善を意味し(3704番)、父から発出するものはかの神的善から発した神的真理であり、かくて神的存在から発出した神的なものである。このことが『天使』によりここに意味されているのである。以下の記事でも同様に―

 

 その御顔の天使はかれらを救われた、かれはその愛とその憐れみの中にかれらをあがなわれた、かれは永遠の日の凡てかれらを取り上げられ、かれらを運ばれたイザヤ63・9)。

 見よ、あなたらのたずねる主は不意にその神殿へ来られるであろう、まことにあなたらが求める契約の天使は(不意にその神殿へ来られるであろう)(マラキ3・1)。

 

『主の神殿へ』は、主の人間的なものへ、を意味している。これが主の『神殿』であることを主御自身が教えられているのである(マタイ26・61、ヨハネ2・19、21、22)。

 

 

天界の秘義9303[2]

 

『父、子、聖霊』と呼ばれる三者から『一人の神』とも呼ばれている一人の神的なものが発生し、父から子が発出し、父から子を通して聖霊が発出すると教会に言われてはいるが、しかしこの発出すること、または発生することは何を意味しているかは未だ知られてはいない。この主題について天使たちの抱いている考えは、そのことについて考えている教会の人間のそれとは全く相違しているが、それは教会の人間の考えは三人の神に基礎づけられているが、天使たちのそれは一人の神に基礎づけられているという理由によっている。教会の人間の考えが三人の神に基礎づけられていることは、かれらは神は一人であると実際言うことはできるものの、三人の神がいて、それがかれらのいわゆる神秘的な結合により、一人の神となっているとしか全く考えることができないのである。このようにかれらは一つの神的なものが在ると実際考えることができようが、一人の神がおられるとは考えることはできないのである、なぜならかれらの考えでは父は神であり、子も神であり聖霊も神であるからである。一つの神的なものは同意により、引いては一致により一つの神的なものではあるが、しかし一人の神は絶対に一人である。

 

 

天界の秘義9303[3]〜[4]

三位一体/メモ参照

 

 

天界の秘義9303[5]

 

主の三一性について

 

このことは天界の天使たちについて抱かれている観念から考えることができるのである。天使はそこでは人間の形をとって現れているが、それでもかれの中には三つのものが在って、それが一つのものとなっているのである。眼前には現れていない内なるものが在り、実際現れている外なるものが在り、その天使から遠方までも注ぎ出されているところのその情愛と思考とのスフィアが在るのである(1048、1053、1316、1504−1519、1695、2489、4464、5179、6206、7454、8063、8630番を参照)。この三つのものが一人の天使を作っているのである。しかし天使たちは有限で、創造されたものであるに反し、主は無限で、創造されない方である。そして人間は、または天使でさえも、有限なものによらなくては無限な方を何ら考えることができないため、それで一人の神における三一性とはいかようなものであるかを、一人の神がおられ、その神は主であって、他の何ものでもないことを明らかにするため、こうした例を述べてもよいであろう。(この主題について9194、9199番に引用した記事の中に示されたことをさらに参照されたい。)

 

 

 

 

天界の秘義9315

 

『エホバの天使』の意義は神的な人間的なものの方面の主である(そのことについては、前の9303、9306番を参照)。神的な人間的なものの方面の主が『天使』により意味されていることは、主が世に来られる前に現れた多くの天使は人間の形をとった、すなわち、天使の形をとったエホバ御自身であったためである。このことは以下の事実から極めて明白である、すなわち、例えばアブラハムに現れて、『エホバ』と呼ばれた天使のように(創世記18・1、13、14、17、20、26、33)、またギデオンに現れた天使のように―この天使は士師記に記され、『エホバ』ともまた呼ばれている(6・12,14,16、22−24)―また他の記事の他の天使のように、現れた天使たちは『エホバ』と呼ばれたのである。人間の形をとられたエホバ御自身は、またはそれと同一のことではあるが、天使の形をとられたエホバ御自身は主であられたのである。

 

2.アブラハムに現れた三人の天使

 

啓示による黙示録解説36

 

10節。「わたしは主の日に霊の中にいるようになり」は、そのとき神的流入から霊的な状態にあったことを意味している。『わたしは霊の中にいるようになり』は、かれが霊界の物を見たとき、そのおかれていた霊的状態を意味しており、その状態が以下にとり扱われているのである。『主の日に』はそのとき主から発した流入を意味している、なぜならその日は聖い日であるため、その日に主は現存されるからである。予言者たちについて私たちはかれらは『霊の中に』、または『幻』の中にいたことを読み、また聖言がエホバからかれらに臨んだことを読んでいる。かれらが霊の中に、または幻の中にいたときは、かれらは身体の中にはいないで、霊の中にいたのであって、その状態の中で天界に存在する物を見たのであるが、しかし聖言がかれらに臨んだときは、身体の中にいて、エホバが話されるのを聞いたのである。予言者たちのこの二つの状態は注意して区別しなくてはならない。幻の状態ではかれらの霊の目が開かれて、その身体の目は閉じられたのであり、そのときかれらは天使たちの話したことを、またはエホバが天使たちを通して話されたことを聞き、また天界でかれらに表象された事物を見もしたのであり、そのときかれらは、身体はそおの場所に止まりつつも、時折彼方此方と連れて行かれるように彼ら自身には思われたのである。ヨハネが『黙示録』を書いたときは、この状態にいたのであり、ときどきまたエゼキエル、ゼカリヤ、ダニエルもこの状態にいたのであった。なぜならエゼキエルは以下のように言っているからである―

 

 霊はわたしをとり上げて、神の幻の中に、神の霊の中に、カルデヤの捕われていた者たちのもとへつれ帰った、かくてわたしの見た幻はわたしの上にのぼった(エゼキエル11・1、24)。

 霊はかれをとり上げて、かれは自分の後に地震などを聞いた、と言われている(エゼキエル3・12、24)また

 霊は地と天との間にかれを引き上げ、神の幻の中にエルサレムへ連れて行った、かれは忌まわしいものを見た(エゼキエル8・3以下)。

 

同様にかれはケルビムである四匹の動物を見たときも、神の幻の中に、または霊の中にいたのであり(1章と10章)、同じくまた新しい地と新しい神殿を、それらを測っている天使を見たときもまたその状態にいたのであり(40章から48章まで)、かれは神の幻の中におり(40・2)、霊がかれを上へ連れて行ったと言われている(43・5)。ゼカリアがてんにんかの木の間に馬に乗っている人間を見たさい、そのもとに一人の天使がいたが、その場合も同じであった(1・8以下)、またかれが四つの角とその後に手に測りなわをもった一人の人を見たときも(2・1、5以下)、大祭司のヨシュアを見たときも(3・1以下)、燭台と二本のオリーブの木を見たときも(4・1以下)、飛ぶ巻物とエパを見たときも(5・1、6)、二つの山の間から出て来る四台の戦車と馬とを見たときも(6・1以下)同じであった。ダニエルも同じような状態にいたのである。(後略)

 

 

啓示による黙示録解説36

 

ヨハネも同じであった。(中略)ヨハネはこれらの物を『霊の中に』、『幻の中に』見たことをかれ自身が言っており(黙示録1・10、4・2、9・17、21・10)このこともまた『わたしは見た』により、その言葉が言われている所ではつねに意味されているのである。これらの事柄から『霊の中に』いることは『幻の中に』いることであることが明白であって、そのことは人間の霊の視覚が開くことにより行われるのであり、それが開かれると、霊界に存在する物は自然界に存在する物が身体の目の前に現れると同じ明白さをもって現れるのである。わたしはそれがそうであることを多年の経験から証することができる。弟子たちが主をその復活の後に眺めたときも、かれらはその状態にいたのである。それで『かれらの目が開かれた』と言われている(ルカ24・30、31)。アブラハムも、かれが三人の天使たちを見て、これと話したときも同じ状態にいたのである。ハガルや、ギデオンや、ヨシュアや、その他の者たちがエホバの天使たちを見たときもそうだったのであり、同じくエリシャの若者が山が戦車と火の馬とで満ちてエリシャをとり巻いているのを見たときもそうだったのである。なぜなら―

 

 エリシャは祈って、言った、エホバよ、ねがわくは、かれの目を開いて、見させてください、と。するとエホバはその若者の目を開かれた、かれは見た(列王記下6・17)。

 

しかし聖言については、それは霊の状態の中では、または幻の中には啓示されなかったのであり、予言者たちに主により生きた声で口授されたのである、それでかれらはそれを聖霊から話したとは何処にも言われておらず、エホバから話したと言われている。「主にかかわる新しいエルサレムの教義」(53番)を参照。

 

 

天界の秘義2149

 

「見よ、三人の者がかれの前に立っていた」。これは神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出している聖いものとを意味していることは、説明なしに認めることができよう、なぜなら三一性が存在していて、この三一性は一人であることはたれにでも知られているからである。それは一つのものであることは、本章に、すなわち、三節に明白であって、そこには『かれは言った、わが主よ、もしわたしが、ねがわくは、あなたの目の中に恵みを得ましたならば、ねがわくは通りすぎないでください』と言われていて、この言葉は三人の者に語られているのである。さらに十節には、『かれは言われた、わたしは帰って、あなたのもとへ帰りましょう』。十三節には『エホバはアブラハムに言われた』。十五節には、『かれは言われた、いな、あなたはほんとうに笑った』。十七節には『エホバは言われた、わたしが為すことをわたしはアブラハムから隠そうか』。十九節には『わたしはかれを知ったからである』。(中略)

 

三十三節には『エホバ』はアブラハムと語り終えられると去られた」。このすべてから、アブラハムに現れた三人の者により神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出している聖いものとが意味されていて、この三一性はそれ自身においては一つのものであることを見ることができよう。内意ではここにとり扱われている主題は、エホバが主に現れたまい、主がこれを認識されたことであるが、しかしそれはアブラハムにエホバが現れたもうたように現れたもうたことによったのではないのである、なぜなら三人の者がアブラハムから見られたことは歴史的には真であるが、しかしこれは神的な認識を表象しており、または主が人間的なものの中におられたとき、主がもたれたところの神的なものから発した認識を表象しているからであって、この認識が以下にとり扱われているのである。

 

 

天界の秘義2156

 

「わが主よ」。これは一つのものにおける[一つのものとなっている]三一性を意味していることは、すなわち、神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出している聖いものとを意味し、その三一性のものが一つのものの中に存在していることを意味していることは、それがここに単数で『主』と言われていることから明白である。27節、31節でもまたそのように言われているのである。『ごらんください[見よ]ねがわくは、わたしはわが主に敢えて申し上げます』また同じく30、32節にも、『ねがわくは、わが主が怒られませぬように』。三人の者もまた『エホバ』と呼ばれており、すなわち、13節には『エホバはアブラハムに言われた』、14節には『エホバには奇しいものがあろうか』、22節には『アブラハムは尚もエホバの前に立っていた』。23節には『エホバはアブラハムに語り終えると去られた』。ここから三人のものであるが(すなわち、神的なものそれ自身と神的なものと発出している神的なものが)主と同一のものであり、主はエホバと同一のものであることが明白である。

 

 

天界の秘義2162

 

「あなたらの足を洗い」。これは、主がそのときその中におられた状態においてさらに良く認識されることができるように、(神的なものが)自然的なものを着けなくてはならないことを意味していることは、『足』の意義が自然的なものであることから認めることができよう、また同じく連続している事柄からも認めることができよう。アルカナがここに隠れていることは、アブラハムはその三人の者に水を少しく取って、足を洗い、木の下に身を横たえるように求めはしたが、それでもかれはそれがエホバであられることを知っていたという事実からある程度認めることができようし、またもしそうでなかったならば、このような事は記されなかったであろうという事実からも認めることができよう。

 

天界の秘義2193

 

「生命の今頃わたしは帰ってあなたのもとへ帰りましょう」。これは神的なものが人間的なものと連結することを意味していることはエホバがアブラハムのもとへ来られたことは神的な認識を表象したという事実から明白である、なぜならこの認識を受けるために主は御自身を準備されたのであって、従ってそれは、前に言ったように、連結を表象したのであり、かくて『かれが帰ってかれのもとへ帰られること』により、それに似たことがすなわち、神的なものが人間的なものと連結することが意味されるのである。『生命の今頃』は、次の年の同じ時に、を意味している。

 

 

天界の秘義2198

 

「アブラハムとサラとは年をとっていた」。これは主における人間的なものを、すなわち、それが脱ぎすてられねばならなかったことを意味していることは、アブラハムとサラとの表象から明白であり、また同じく『年をとる[老いる]』と『老年』の意義からも明白である。この章にくり返し言われているように、ここのアブラハムは合理的な善の方面の主[主の合理的な善]を表象し、サラは合理的な真理の方面の主[主の合理的な真理]を表象しており、かくて各々はここでは、前に言ったように、以下の理由から主における人間的なものを表象しているのである、すなわち、エホバは今や臨在されて、アブラハムと語られたのであるが、エホバは主の神的なものそれ自身であって、主からは分離されてはいなかったのである―たとえ歴史的に表象されているものの中では分離しているものとして示されてはいるが。なぜなら歴史的なものによってはそれはそのようにしか表象されることができないからである。しかし『アブラハムとサラとは年をとっていた』と言われていることがかの人間的なものが脱ぎ去られねばならないことを意味していることについては―『老年』は最後のとき以外の何ものをも意味していないのである。『老年』は聖言に色々な所に記されており、同じくまた人々は『死んだ』とも記されているが、しかし内意では、身体の老年または死といったものは決して認められてはいないで、その事柄の連続から明白になっている他の事柄が認められているのである、なぜなら他生では老年と死とは知られていないからである。ここに意味されていることは前に言われたように、事柄の連続から明白であり、すなわち主は人間的なものを脱ぎ棄てられねばならなかったことが意味されているのである。

 

 

天界の秘義2206

 

「エホバはアブラハムに言われた」。これは主が神的なものから認識されたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『言うこと』の意義は認識することであり、(このことは前の1898、1919、2080番に説明した)『エホバは言われた』という言葉は神的なものから認識することである、なぜならすでにしばしば示されたように、主の内なるものそれ自身はエホバであられたからである。

 

 

天界の秘義2218

 

「その人たちは立ち上がった」。これはかの認識が終わったことを意味していることは『立ち上がること』の意義が立ち去ることであることから、また前に記した『人々』の意義からも明白である。アブラハムのもとにその三人の人が、またはエホバが来られたことにより、前に示したように主の神的な認識が表象されたのである。そのとき主が、神的なものから認識されたものは先ず、神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出しているものであるところの神的三一性にかかわるものであったのである。

 

 

天界の秘義2221

 

「アブラハムはかれらとともに行った」。これは、主は依然認識の中にかれらとともに止まられたが、しかしそれは人類にかかわるものであったことを意味していることは事柄の連続の内意から明白である、なぜなら『三人とともに行く』ことは、(すなわち、エホバとともに行くことは)依然認識の中にあることであるから。

 

 

天界の秘義2245

 

この章全体にわたってときにはその人たちと言われ、またときにはその人たちに代わって『エホバ』と言われているが、『その人たち』と言われているときは、三一性が、すなわち、神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出しているものとが意味されているのである。主がこの神的なものから考えられたことが『その人たちはそこから前の方を眺めた』により意味されているのである。その考えは神的なものに連結した人間的なものから発していたのであって、その連結は本章の始めにとり扱われたのであるが、しかしその考えが起った源泉である認識は神的なものから発していたのであり、それで今この同じ節の中に『エホバ』と言われているのである―『アブラハムはエホバの前に立っていた』―そして人間的なものが神的なものに連結したとき、発出しているものもまたそれらのものとともにあったのである。

 

 

天界の秘義2288

 

「アブラハムはその所にかえった」。これは、主がこれらのものを認められる以前に、その中におられた状態に帰られたことを意味していることは、以下から明白である、すなわち、本章のアブラハムの表象は人間的な状態における主であり、『所』の意義は(前の第一部1273、1378番に示されたように)状態であり、かくて『かれの所へかえる』ことはその内意では、ここでは主がその中に前におられた状態にかえることを意味しているのである。主はこの世に生きておられた間に二つの状態を、すなわち、卑下の状態と栄化の状態とを持たれたことは、前に言いもし、また示しもした。主の卑下の状態は、主が遺伝により母から取得された人間的なものの中に主がおられたときであり、その栄化の状態は主がその父エホバから得られた神的なものの中に主がおられたときであった。主が世を去って、主がその中に永遠から存在されたところの神的なものそのものへ(ヨハネ7・5)神的なものとされた人間的なものをもって帰られたときは主は前の状態を、すなわち、母から来ていた人間的なものの状態を全く脱ぎ棄てられて、神的な人間的なものを着けられたのであり、その二つのものから[神的なものそれ自体と神的な人間的なものから]全天界を満たしている聖いものが発しているのである。かくて主は、神的なものそれ自身と神的な人間的なものとから、その発出している聖いものにより、宇宙を統べ治められているのである。

 

 

天界の秘義6876[2]

 

 古代教会のものであった神的なものは神的な人間的なものの方面の主であり、古代教会はそのことを最古代教会から得たのであり、またエホバは彼らから人間の形の中に見られ給うたという事実から得たのである。それで彼らはエホバを考えた時は、普遍的な実在を考えないで―そうした実在を彼らは全く考えることは出来なかったのである―神的な人間的なものを考え、そこに彼らの思考を限定することが出来たのである、なぜならこのようにして彼らはエホバを考えもし、また愛によりエホバと連結することも出来たからである。古代教会に属した者たちは、特に最古代教会の者たちは我々の時代の人間よりはるかに賢明であったものの、エホバを、その人間的なものは神的なものである人間としてしか考えることは出来なかったのであり、またその時は、自然的な人から、その弱さと悪から得られた醜い考えも一つとしてかれらの心へ流れ入りはしなかったのであり、主について流れ入ったものはことごとく聖いものであったのである。天使たち自身も、知恵では人間にはるかに優ってはいるものの、神的なものをそれ以外のものとして考えることは出来ないのである、なぜなら彼らは神的な人間的なものの中に主を見ているからである。彼らは、天使が―そのもとでは凡ゆる物は有限であるため―有限なものに似たものによらなくては、無限なものを何ら考えることが出来ないことを知っているのである。

 

 

天界の秘義6876[3]

 

 古代では彼らはエホバを人間的な神的なものの下に崇拝したことは、アブラハムにより、またその後ではロトにより、同じくヨシュアにより、ギデオンにより、マノアにより人間の形の中に見られた天使たちから非常に明白であり、その天使たちは『エホバ』と呼ばれて、宇宙の神として崇拝されたのである。現今もしエホバが人間として万が一にも教会内に現れたもうとするなら、人間は躓いて、かれは人間として見られるから、決して宇宙の創造者、主では有り得ないと考え、さらにかれを普通の人間としてしか考えようとはしないであろう。そうしたことで彼らは自分たちは古代人よりも賢明であると信じて、そうしたことで彼らは知恵から全く遠ざけられていることを知りはしないのである。なぜなら思考の観念が全く把握することの出来ない普遍的な実在に向けられる時、その観念は無に落ち込んで、全く消滅してしまい、代って自然の観念が現れて、それに一切の物が帰せられてしまうからである。そこから自然崇拝が現今とくに基督教世界に甚だしく行われているのである。

 

 

 

3.ロトに現れた二人の天使

 

天界の秘義2317

 

1節「そしてその二人の天使は夕にソドムに来た、ロトはソドムの入口に坐っていた、ロトは見て立ち上がって、かれらを迎えた、かれは身をかがめて、顔を地につけた」。『二人の天使が夕にソドムに来た』は審判に先行している巡視[尋問]を意味し、その『二人の天使』は、主の神的な人間的なものと発出している聖いものを意味しており―それに審判がぞくしている―、『ソドム』は悪い者を、とくに教会の中の悪い者らを意味し、『夕』は巡視[尋問]のときであり、『ロトはソドムの門に坐っていた』は仁慈の善の中にはいるが、しかし外なる礼拝の中にいる者たちを、ここではロトである者を意味しており、これらの者は悪い者の間にいるが、しかしかれらからは分離していて、そのことが『ソドムの門に坐っている』ことであり、『ロトは見た』はかれらの良心を意味し、『立ち上がって[起きて]かれらを迎えた』は承認と仁慈の気質とを意味し、『身をかがめて顔を地につけた』は卑下を意味している。

 

 

天界の秘義2320

 

アブラハムのもとには三人の人間がいたのに、ここにはたんに二人の天使しかいない理由は僅かな言葉では明らかにすることできないアルカナである。それは本章では審判が、すなわち、忠実な者の救いと不忠実な者の定罪[断罪]がとり扱われているという事実から或る程度認めることができよう。審判は主の神的な人間的なものと発出している聖いものとに属していることは聖言から明白である。それは神的な人間的なものにぞくしていることについてはヨハネ伝を参照されたい、すなわち、『父はたれをも審判かれない、審判はことごとく子に与えられた』(ヨハネ5・22)。『子』により神的な人間的なものが意味されているのである(2159番を参照)。審判は主の神的な人間的なものから発出している聖いものにぞくしていることについてもまたヨハネ伝を参照されたい、すなわち、『わたしがもし去るなら、わたしはあなたたちに慰め主[慰める者]をつかわそう、かれはくると、かれは罪について、義について、審判について世を責めるであろう』(ヨハネ16・7、8)。聖いものは主から発出していることについては、同書を参照されたい、すなわち、『かれはかれ自身から話さないで、わたしのものを取り、それを明らかに示すであろう』(ヨハネ16・13、15)。そしてこのことはその人間的なものが神的なものになったとき、すなわち、主が栄光されたもうたときに行われることについても同書を参照されたい、すなわち、『イエスは未だ栄化されたまわなかった[栄光を受けられなかった]ため、聖霊は未だ存在していなかった』。

 

 

天界の秘義2321

 

 審判は主の神的な人間的なものと発出している聖いものにぞくしているという事実については実情は以下のようである、すなわち、主が世に来られて、その神的な本質をその人間的な本質に結合されなかったならば、もはや人類は救われることができなかったのである、なぜなら主の人間的なものが神的なものになされなかったなら、救いはもはや人間に到達することはできなかったからである(1990、2016、2034、2035番)。主の人間的なものから発出している聖いものそれ自身は悪い者を善い者から分離するものである、なぜなら悪い者は主の聖いものには近づくことはできないので、各々自分の中にある冒瀆性に応じて、そこから自分の地獄へ逃げ去って行くほどにも、それを恐れ、またそれにふるえ上がっているからである。

 

 

天界の秘義2325

 

 「ロトは見た」。これは良心を、すなわち、仁慈の善の中にはいるが、しかし外なる礼拝の中にいる者たちの良心を意味していることは、『見る』ことの意義から認めることができよう。『見る』ことは、聖言では、理解することを意味しているが、(897、1584、1806、1807、2150番)、しかし内意ではそれは信仰を持つことを意味しており、その意義については、わたしたちが29章の32節に来るとき、主の神的慈悲の下に述べよう。ここの『見る』ことは良心を意味していることは、信仰を持っている者はまた良心を持っているためである。信仰は良心とは不可分離であり、信仰というも、良心というも、それは同じことである程にも不可分離である。信仰により、仁慈が存在する手段であり、また仁慈が存在する源泉であり、かくて仁慈そのものである信仰が意味されている、なぜなら信仰は仁慈がなくては信仰ではなく、信仰は仁慈がなくてはありえないように、良心もまた仁慈がなくてはありえないからである。

 

 

天界の秘義2326

 

「かれは起き上がって、かれらを迎えた」。これは承認を意味し、同じくまた仁慈の気質を意味していることは、かれらが来たさい、ロトはすぐさまかれらが天使であることを承認したが、ソドムの人々はそのことを承認しなかったという事実から認めることができるのであり、ソドムの人々については以下のように言われているのである、『かれらはロトに向って叫んで、言った、今夜おまえのもとに来た者らは何処にいるのか。かれらを連れ出せ、わたしらはかれらを知ることができよう』(5節)。内意ではこの言葉は教会の内にいて仁慈の善の中にいる者たちは、(『二人の天使』により意味されているところの)主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを承認はするが、しかし仁慈の善の中にいない者はそれを承認はしないことを意味しているのである。その同じ言葉は同じく仁慈の気質を意味していることはまた、仁慈の善の中にいる者たちを、いな、仁慈の善そのものを表象しているロトがかれらをかれの家へ招き入れたという事実からも明白である。

 

 

天界の秘義2327

 

「かれは身をかがめて、顔を地につけた」(創世記19・1)。これは卑下を意味していることは、その意義を明らかにしなくとも認めることができよう。前の時代に、とくに表象的な教会の中では、かれらが顔を地につけるほどにも身をかがめた理由は、顔は人間の内部を意味したためであり(358、1999番)、かれらが顔を地につけた理由は、地の塵は汚れた、罪に定められたものを意味したということであり(278番)、従ってかれらはそのようにして、自分は自分自身では汚れて罪に定められたものであることを表象したのである。その同じ理由からかれらは平伏して、顔を地面に押しつけ、塵と灰の中にころげまわりさえもし、また頭に塵と灰とをふりかけさえもしたのである(このことは哀歌2・10、エゼキエル27・30、ミカ1・10、ヨシュア7・6、黙示録18・19、その他から認めることができよう。)

 

 

天界の秘義2327[2]

 

このすべてによりかれらは真の卑下の状態を表象したのであるが、それはかれらが自分は自分自身では汚れた、罪に定められたものであることを承認しないかぎり、かくて自分は自分自身では、そのもとには神的な聖いもの以外のものは何一つ存在していない主を見上げることはできないものであることを承認しない限り、たれにもありえないのであり、そうした理由から人間は自己を承認するに比例して、真の卑下の中におり、礼拝を捧げているときは、崇拝の中にもいるのである。なぜならあらゆる礼拝の中には卑下がなくてはならないのであり、もしそれがそこから分離しているなら、崇拝は何一つなく、かくて礼拝も何一つないからである。

 

 

天界の秘義2327[3]

 

卑下の状態は礼拝の本質的な状態そのものであることは、心が卑下するに比例して、自己愛とそこから生まれるあらゆる悪は止んでしまい、それが止むに比例して、善と真理とが、すなわち、仁慈と信仰とが主から流れ入ってくるという事実から生まれている、なぜならそれらのものを受容する上に妨げとなるものは主として自己愛であり、自己愛には自己に比較して他の者を軽蔑する思いがあり、もし自己が名誉をもって扱われないなら、憎悪と復しゅうとがあり、また無慈悲と残酷とがあり、かくてあるゆるものの中でも最悪の悪があって、これらの悪の中へ善と真理とは決して導き入れられることはできないからである、なぜならそれらは対立したものであるからである。

 

 

4.ハガルに現れた天使

天界の秘義1925

 

「エホバの天使が彼女を見つけた。」これは内的な人の思考を、すなわち、主における内的な人の思考を意味していることは『エホバの天使』の表象と意義から認めることができよう。『エホバの天使』は聖言に時折記されていて、いたるところで、それが善い意義で用いられているときは、主における、また主から発した何か本質的なものを表象し、意味しているが、しかしその天使が表象し、意味しているものは(前後の)関連から認めることができよう。人間につかわされて、予言者たちを通して語った者は天使たちであったが、それでもかれらの語ったものは天使たちから発したものではなくて、天使たちを通して発したものである、なぜなら天使たちの状態は自分たちがエホバである、すなわち、主であるとしか考えないような状態ではあったが、しかしかれらは語りおわるとすぐに、かれらの以前の状態に帰って、かれら自身から語るものとして語ったからである。

 

 

天界の秘義1925[2]

 

これが主の聖言を語った天使たちの実情であり、そのことは他生における非常に類似した経験からわたしは知ることができたのであって、その経験については、主の神的慈悲の下に後に述べよう。このことが天使たちが時折『エホバ』と呼ばれた理由であって、そのことはやぶの中でモーセに現われた天使から極めて明白であり、かれについて、以下のように記されているのである―

 

  そしてエホバの天使は、やぶの真中から発した火の焔の中にモーセに現れた。エホバはかれが見ようとしてわきに身をむけるのを見られ、神はそのやぶの真中からかれに呼びかけられた。神はモーセに言われた、わたしは存在する者である[わたしは在る者である]。神はさらにモーセに言われた、このようにあなたはイスラエルの子孫に言わなくてはならない、すなわち、エホバが、あなたらの父祖たちの神が、わたしをあなたらにつかわされた、と(出エジプト記3・2、4、14、15)。

 

 このことからやぶ[しげみ]の中に焔としてモーセに現れたのは天使であり、かれは主がまたはエホバがかれを通して話されたため、エホバとして語ったことが明白である。

 

 

天界の秘義1925[3]

 

なぜならその話されることが発音された音声の言葉により、人間のもとに来て、究極的な自然の中にあるようにと、主は天使たちの任務[仕えること]を利用されて、かれらを神的なものをもって満たし、かれら自身のものであるものを静止されるため、かれらはそのとき自分たち自身がエホバであるとのみしか考えないからである。このようにして最高のものの中にあるところのエホバの神的なものは、自然の最低のものにまでも下降するのであって、その最低のものの中に人間の視覚と聴覚の方面のものが存在しているのである。ギデオンに語った天使もそうであり、かれについては士師記に以下のように言われている

 

  エホバの天使は、ギデオンに現われて、かれに言った、強い力のある人よ、エホバがあなたとともにおられます。ギデオンはかれに言った、わたしの主よ、わたしの中に。それではなぜこのことがすべてわたしにふりかかったのですか。エホバはかれを眺めて言われた、あなたの力のうちに行きなさい、と。またエホバはかれに言われた、たしかに[まことに]わたしはあなたとともにいます(6・12,14,16)。

 

 その後以下のように言われている―

 

  そしてギデオンはかれがエホバの天使であることを見た、ギデオンは言った、ああ、主エホビよ、わたしはエホバの天使を顔と顔とを合わせて見ましたからには。エホバはかれに言われた、平安があなたに在るように[心を安んじなさい]、恐れてはなりません(22、23節)。

 

 この場合でもまたそれは天使であったが、しかしかれはそのとき自分がエホバまたは主であるとのみしか考えないような状態にいたのである。

 

 

天界の秘義1925[4]

 

士師記の他のところでも同様に―

 

  エホバの天使はギルガルからボヒムに上って行った、かれは言った、わたしはあなたらをエジプトから上らせた、わたしはわたしがあなたらの父祖たちに誓った地にあなたらをつれてきた、わたしは言った、わたしはわたしとあなたらとの契約を永遠に空しくはしない、と(2・1)。

 

ここにも同じように天使はエホバの御名において語って、自分がかれらをエジプトの地から導き出したのであると言ってはいるが、事実はその天使がかれらを連れ出したのではなくて、それはエホバであられ、そのことは他のところでいくども言明されているのである。このすべてからわたしたちはいかように天使たちが予言者を通して語ったかを認めることができよう、すなわち、エホバ御自身が語られたのであるが、しかしそれは天使たちを通して語られたのであって、天使たちは天使たち自身からは何一つ語りはしなかったのである。聖言は主から発していることは多くの記事から明白である、例えばマタイ伝には―

 

  主によりその予言者を通して語られたことが成就するためであった、主は言われた、見よ、処女がみごもって、息子を生むであろう(1・22、23)。

 

 その他いくたの記事がある。主が人間と話されるとき、主は天使たちを通して話されるため、それで聖言には時々主もまた『天使』と呼ばれたもうており、そのときは、すでに言われたように、『天使』により、主における、また主から発した何か本質的なものが意味されており、例えば、現在の場合、主の内的な思考が意味されているのである、それでまた天使は本章の13節におけるように、『エホバ』ともまた『神』とも呼ばれている、すなわち、『そしてハガルは彼女に話されていたエホバの御名を、神よ、あなたは見たまいます、と言った』。

 

 

天界の秘義1925[5]

 

他のところにも同じく主の何かの特殊な属性が『天使』により意味されているのである。例えばヨハネの書には―

 

  九つの星は七つの教会の天使である(1・20)。

 

教会の天使は一人もいないのであって、『天使』により教会のものであるものが意味され、かくて諸教会に関連して主のものであるものが意味されているのである。さらに―

 

  わたしは十二の門がある、大きな、高いエルサレムの壁を見た、その門の上には十二人の天使がおり、イスラエルの子孫の十二の種族の名が記されていた(黙示録21・12)。

 

ここに『十二人の天使』により『十二の種族』により意味されていることと同一のことが、すなわち、信仰のあらゆる事柄が意味され、かくて信仰と信仰にぞくしたすべてのものが発してくる源泉であられる主が意味されているのである。さらに―

 

  そしてわたしは他の一人の天使が、永遠の福音を携えて、天の真中を飛んで行くのを見た(黙示録14・6)。

 

ここに『天使』により、主のみのものである福音が意味されているのである。

 

 

天界の秘義1925[6]

 

イザヤ書には―

 

  主の聖顔の天使がかれらを救った、主はその愛と憐れみをもってかれらをあがなわれた、かれは永遠の凡ての日かれらを負い、つれて行かれた(63・9)。

 

ここに『主の御顔の天使』により、全人類をあがなわれた、全人類に対する主の慈悲が意味されている。ヤコブがヨセフの息子たちを祝福したとき、かれによってもまたそのように言われたのである―

 

  わたしを凡ての悪からあがなわれた天使がこの若者たちを祝福されますように(創世記48・16)。

 

ここにもまた主のものであるあがないが『天使』により意味されているのである。マラキ書には―

 

  あなたらが探し求めている主は、まことにあなたらが求めている契約の天使は不意にその神殿に来られるであろう(3・1)。

 

主はその降臨のために『契約の天使』と呼ばれたもうているからには、『天使』により主が意味されていることはここに明白である。そして出エジプト記の『天使』により主が意味されていることは実にさらに明白に現われているのである―

 

  見よ、わたしはあなたの前に天使をつかわして、あなたを道で守り、わたしが備えた所にあなたをつれてこよう。かれはあなたらの咎をしのばないであろう、わたしの名がかれの中にあるからである(23・20、21)。

 

 ここから今や聖言の『天使』により主が意味されていることは明白であるが、しかし主のいかようなものが意味されているかは内意における連続と関連から現われている。

 

 

 

 

 

天界の秘義2692

 

「神の天使は天からハガルに呼びかけた」。これは慰安を意味していることは、『天から呼びかけること』の、また『ハガル』のみでなく、『神の天使』の意義からも明白である。『天から呼びかける』ことは流入を意味し、『神の天使』は主を意味し(1925、2319番)、『ハガル』は真理のいくたの知識の情愛を意味している(2691番)。真理の情愛が剥奪の理由から最も深い悲哀の中にいるとき、その情愛へ注がれる主の流入は慰安である。主から人間のもとへ流れ入ってくるものは、天界を通ってきており、天界で明らかに認められているため、『天から呼び出される』と言われる。しかし人間の認識と思考の中ではそれは明確なものではなくなって、それ自身をたんに人間の情愛の状態の変化によって明らかに示すのみであり、例えばここではそれが慰安を受けることにより示されているのである。

 

 

5.主が試練の状態の中におられたときはつねに主はエホバと他の者と語られるように語られた

 

天界の秘義1745[2]

 

主が試練の状態の中におられたときはつねに主はエホバと他の者と語られるように語られたが、しかし主の人間的な本質が主の神的な本質に結合されていたときはつねに、エホバとは自分自身と話されるように話されたのであり、このことは福音書の多くの記事から明白であり、同じくまた予言者の書と詩篇の多くの記事からも明白である。その原因は母から来ている遺伝[母から受けついだもの]について前に言ったことから明らかに明白である。そうしたものが止まっている限り、主はエホバからはいわば不在であられたが、しかしそれが根絶されたかぎり、主は現存されて、エホバ御自身であられたのである。

 

 

6.ときとして天使は天使自身から語らないで、主から語っている

 

天界の秘義1745[3]

 

このことは主と天使たちの連結により説明することができよう。ときとして天使は天使自身から語らないで、主から語っているが、そのときかれは自分が主であるとのみしか考えていないのであって、そのときはかれの外なるものは静止しているのである。かれの外なるものが活動しているときはそうではない。その理由は天使たちの内なる人は主から所有されているということであり、それで天使たち自身のものの側で妨害しないかぎり、それは主のものであり、また主でありさえするのである。しかし主にあっては、完全な連結がまたはエホバとの永遠の結合が行なわれたのであって、それで主の人間的な本質そのものもまたエホバである。

 

 

7.主が来られる以前は、エホバが天界を通り過ぎられる時は、エホバは天使として人間の形をとって現れ給うた

 

天界の秘義6831

 

「エホバの天使が彼から見られた」。これは神的な人間的なものの方面の主[主の神的人間性]である(6280番を参照)。神的な人間的なものが『エホバの天使』と呼ばれている理由は、主が来られる以前は、エホバが天界を通り過ぎられる時は、エホバは天使として人間の形をとって現れ給うたということである。なぜなら天使の天界全体は巨大人と呼ばれている人間に関係しているからであり、この人間のことは多くの章の終りで取り扱ったところである。それで神的なものそれ自身[神性それ自体]が天使の天界を通り過ぎる時は、それはエホバがその者と共に話された者たちの前には天使として人間の形をもって現れ給うたのである。すなわちそれが主が来られる以前のエホバの神的な人間的なもの[神の人間性]であったのである。神的なものとなされた時の主の人間的なものも同じものである、なぜなら主は神的な人間的なものにおけるエホバ御自身であられるからである。主はその神的な人間的なものの方面で『天使』と呼ばれ給うていることは前に見ることが出来(6280番)、それはまた主がわたしは『父から遣わされた』と言われておられる新約聖書の多くの記事からも明白である。『遣わされること』は発出することを意味しており、へブル語の『遣わされる』という言葉は『天使』と同一の語であるのである。(主は御自身を『遣わされた』ものとして語られていることについては、マタイ10・40、15・24、マルコ9・37、ルカ4・43、9・48、10・16、ヨハネ3・17、34、4・34、5・23、24、36−38、6・29、39、40、44、57、7・16、18、28、29、8・16、18、29、42、9・4、10・36、11・41、42、12・44、45、13・20、14・24、16・5、7、17・3、8、18、21、23、25を参照されたい)。

 

 

8.人間に遣わされて、予言者たちを通して語った者は天使たちであった

 

天界の秘義1925

 

「エホバの天使が彼女を見つけた。」これは内的な人の思考を、すなわち、主における内的な人の思考を意味していることは『エホバの天使』の表象と意義から認めることができよう。『エホバの天使』は聖言に時折記されていて、いたるところで、それが善い意義で用いられているときは、主における、また主から発した何か本質的なものを表象し、意味しているが、しかしその天使が表象し、意味しているものは(前後の)関連から認めることができよう。人間に遣わされて、予言者たちを通して語った者は天使たちであったが、それでもかれらの語ったものは天使たちから発したものではなくて、天使たちを通して発したものである、なぜなら天使たちの状態は自分たちがエホバである、すなわち、主であるとしか考えないような状態ではあったが、しかし彼らは語り終わるとすぐに、彼らの以前の状態に帰って、彼ら自身から語るものとして語ったからである。

 

 

9.そのことは人間の霊の視覚が開くことにより行われる

 

啓示による黙示録解説36

 

ヨハネも同じであった。(中略)ヨハネはこれらの物を『霊の中に』、『幻の中に』見たことを彼自身が言っており(黙示録1・10、4・2、9・17、21・10)このこともまた『わたしは見た』により、その言葉が言われている所ではつねに意味されているのである。これらの事柄から『霊の中に』いることは『幻の中に』いることであることが明白であって、そのことは人間の霊の視覚が開くことにより行われるのであり、それが開かれると、霊界に存在する物は自然界に存在する物が身体の目の前に現れると同じ明白さをもって現れるのである。わたしはそれがそうであることを多年の経験から証することができる。弟子たちが主をその復活の後に眺めたときも、かれらはその状態にいたのである。それで『かれらの目が開かれた』と言われている(ルカ24・30、31)。アブラハムも、彼が三人の天使たちを見て、これと話した時も同じ状態にいたのである。ハガルや、ギデオンや、ヨシュアや、その他の者たちがエホバの天使たちを見たときもそうだったのであり、同じくエリシャの若者が山が戦車と火の馬とで満ちてエリシャをとり巻いているのを見たときもそうだったのである。なぜなら―

 

 エリシャは祈って、言った、エホバよ、ねがわくは、かれの目を開いて、見させてください、と。するとエホバはその若者の目を開かれた、かれは見た(列王記下6・17)。

 

しかし聖言については、それは霊の状態の中では、または幻の中には啓示されなかったのであり、予言者たちに主により生きた声で口授されたのである、それでかれらはそれを聖霊から話したとは何処にも言われておらず、エホバから話したと言われている。「主にかかわる新しいエルサレムの教義」(53番)を参照。

 

 

10.主は人類を救うために、人間的なものを現実に着けられた

 

 

天界の秘義2841

 

「エホバの天使は天から再びアブラハムに呼びかけた」。これは主のさらに大きな慰めを意味していることは以下から明白である、すなわち、『天から呼ぶこと』の意義は慰めることであり、『エホバの天使』の意義は主の神的なものそれ自身である(前の2821番を参照、そこには同じ言葉が記されている)。このことが『再び[二度も]』言われているのは、さらに大きな慰めがあるためである。最初の慰めは12、13、14節に含まれていて、そこの主題は人類から来ていて霊的な者と呼ばれている者たちが子として取り上げられるという主の摂理であり。さらに大きな第二の慰めは、以下に記されている節(17、18など、終りまで)に含まれている、すなわち、それは霊的な者は天の星のように、海岸の砂のように増大し、たんに彼らのみが救われるのみではなく、善の中にいるすべての者も救われるにちがいないということである。これらは主の愛の事柄であったのであり、それで主はかれらから慰めを得られたのである。たれ一人その者の愛のものである事柄によらなくては慰めを得ないのである。

 

 

天界の秘義9315

 

『エホバの天使』の意義は神的な人間的なものの方面の主である(そのことについては、前の9303、9306番を参照)。神的な人間的なものの方面の主が『天使』により意味されていることは、主が世に来られる前に現れた多くの天使は人間の形をとった、すなわち、天使の形をとったエホバ御自身であったためである。このことは以下の事実から極めて明白である、すなわち、例えばアブラハムに現れて、『エホバ』と呼ばれた天使のように(創世記18・1、13、14、17、20、26、33)、またギデオンに現れた天使のように―この天使は士師記に記され、『エホバ』ともまた呼ばれている(6・12,14,16、22−24)―また他の記事の他の天使のように、現れた天使たちは『エホバ』と呼ばれたのである。人間の形をとられたエホバ御自身は、またはそれと同一のことではあるが、天使の形をとられたエホバ御自身は主であられたのである。

 

 

天界の秘義9315[2]

 

当時その神的な人間的なものは天使として現れたのであり、そのことについては主御自身がヨハネ伝に話されているのである―

 

 イエスは言われた、アブラハムはわたしの日を見て楽しんだ、かれはそれを見て喜んだ。まことに、まことに、わたしはあなたらに言います、アブラハムがいる前からわたしはいるのです(ヨハネ8・56、58)。

 

父よ、世が存在しない中にわたしがあなたとともに持った栄光をもって、あなた御自身の自己をもってわたしを栄化してください(ヨハネ17・5)

 

エホバにはそれ以外の方法をもって現れたもうことが不可能であったことはヨハネ伝の主の御言葉からもまた明白である―

 

あなたらはいかような時にも父の御声を聞いたことはなく、その御形も見たことはない(5・37)。

たれかが父を見たということではない、ただ父と共にいる者、その者が父を見ているのである(6・46)。

 

これらの事実から永遠から存在される主により意味されていることを知ることができよう。

 

 

天界の秘義9315[3]

 

主が人間として生まれることをよしとされた理由は、主は人類を救うために、人間的なものを現実に着けられて、それを神的なものとするためであった。それゆえ主は人間の形をとられたエホバ御自身であられ、または父であられることを知られたい、このことをまた主御自身ヨハネ伝に教えておられるのである―

 

わたしと父とは一つである(10・30)。

 

 イエスは言われた、これから後は、あなたらは父を知り、また見ている、わたしを見た者は父を見たのである。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしの信じなさい(14・7、9,11)。

 

わたしのものであるものはことごとくあなたのものであり、あなたのものはことごとくわたしのものであります(17・10)。

 

 

 

 

 

天界の秘義2821

 

「エホバの天使はかれを天から呼んだ」。これはそのときにおける神的なものそれ自身から発した慰めを意味していることは『天から呼ぶこと』の意義が慰めることであることから明白であり、同じくまた直ぐ前に記されていることと次に記されていることからも明らかであり、また『エホバの天使』の意義からも明白である(聖言に天使が記されているとき、それにより主における何らかのものが意味されており、主の「いかようなもの」が意味されているかはその記事の連続から明らかになっていることは、前の1925番に見ることができよう)。同じように主について、主がゲッセマネで最も痛ましい試練を受けられたとき、天界から天使が主を力づけているのが主から見られたと記されているのである(ルカ22・43)。ここの『天から天使』によりまたその内意では主の中に存在した神的なものが意味されているのである。

 

 

 

 

天界の秘義6280[4]

 

 主の神的な人間的なものは聖言の他の所にもまた『天使』と呼ばれている、例えば主がやぶの中でモーセに現れたもうたときそのように呼ばれているが、そのことについて出エジプト記に以下のように記されているのである―

 

 モーセが神の山、ホレブに来たとき、エホバの天使がやぶのなかから火の焔の中にかれに現れた。エホバはモーセが見ようとして身をわきに向けるのを見られた、それで神はやぶのなかからかれに呼ばれた。かれはさらに言われた、わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である(出エジプト記3・1、2、4、6)。

 

ここに『エホバの天使[エホバの使い]』と呼ばれているものは主の神的な人間的なものであり、それはエホバ御自身であったと明らかに言われているのである。エホバはそこに神的な人間的なものの中におられたことは、神的なもの[神性]それ自身は神的な人間的なものによらなくては現れることができなかったという事実から認めることができよう、そのことはヨハネ伝の主の御言葉に従っているのである、『たれ一人これまで神を見たものはない、父の胸の中におられる独り児の神のみがかれを示された』(ヨハネ1・18)。また他の所には『あなたらは父の御声をこれまで聞いたこともなく、その御姿を見たこともない(ヨハネ5・37)。

 

 

天界の秘義6280[5]

 

 さらに主の神的な人間的なものが民をカナンの地へ導くことをとり扱っている所では、それは『天使[使い]』と呼ばれており、そのことについては出エジプト記に以下のように記されているのである―

 

 見よ、わたしはあなたの前に一人の使い[天使]をつかわし、あなたを道で守り[あなたに道を進ませ]、わたしの備えた所にあなたをつれてきましょう。あなたはその者の顔を注意して見なさい、かれはあなたのとがをしのびはしない、わたしの名がその者の中にあるからである(出エジプト記23・20、21、23)。

 

この記事の『天使[使い]』が神的な人間的なものであることは、『わたしの名はその者のうちに在るからである』すなわち、エホバ御自身がおられる、と言われているという事実から明白である。『わたしの名』により神的な人間的なものの中に存在するエホバの御性質が意味されているのである(主の神的な人間的なものは『エホバの名』であることは前に2628番に見ることができよう、『神の名』は神の性質であり、同じくまた神を拝する手段となる凡ゆるものの総合体である、2724、3006番)。

 

 

天界の秘義6280[5]

 

 イザヤ書には―

 

 かれらが苦しんだときにはつねにかれも苦しまれた、かれの御顔の天使[使い]はかれらを救い出されるのである、かれはその愛の中に、またそのおおらかさの中にかれらをあがなわれ、かれらをとられ、永遠の日の凡てかれらをはこばれた(イザヤ63・9)。

 

『エホバの御顔の天使[使い]』は神的な人間的なものの方面の主であることは明らかである、なぜなら『かれはかれらをあがなわれた』と言われているからである。

 

 

11.神的な人間的なものの方面の主

 

天界の秘義6887〔3〕

 

 モーセの書には―

 

 見よ、わたしはあなたの前に一人の天使を遣わして、あなたをその道で守り、わたしの備えた所へあなたを連れて来よう。その顔に注意し、その声に聞きなさい、かれはあなたの咎を忍びはしないからである。わたしの名はかれの真中に在るからである(出エジプト記23・20、21)。

 

『エホバの天使』によりここでは神的な人間的なものの方面の主が意味されていることについては6831番を参照されたい。神的な人間的なものは神的なものそれ自身の性質であるため、それで『エホバの名はかれの真中にある』と言われているのである。主の祈りの中でもまた、

 

天にいます私たちの父よ、あなたの御名が崇められますように、

 

により神的な人間的なものの方面の主が意味され、また主を拝する手段である凡てのものの一つの総合体が意味されているのである。