父
1.聖書
2.父
3.父を知ることは出来ないか?
4.父は我々に関与しない?
5.父から出てくる、父に行く
6.父なる神
7.私を父として知らせるために訪れた
8.善の方面の教会
マタイ23・9
また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
ヨハネ4・21−23
イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているがわたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
ヨハネ8・16
しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
2.父
黙示録講解852イ[3]
主が父と言われたとき、主は御自身の中の神的なものを意味され、かくて御自身を意味されたことは両聖書の中に多くの記事から認められることができるが、
天界の秘義2005
『父』はそれが主御自身から発するであろうということを意味していることは、今説明したばかりに『父』の意義から明白である、すなわち父と主とは一つのもの[一人の方]であったため、すべて父から発したものは主から発したのである。人間各々の内なるものは父から発しており、その外なるものは母から発している、またはそれと同一のことではあるが、霊魂自身は父から発しており、霊魂が身に着ける身体は母から発している。霊魂は身体と合して、二つのものではあるが、一つのものとなっている、なぜなら霊魂は身体のものであり、身体は霊魂のものであり、それでそれらは分離できないものとなっているからである。主の内なるものは父から発し、それで父御自身であったのである、ここから主は『父はわたしの中におられる』、また『わたしは父の中に、父はわたしの中におられる』、また『わたしを見る者は父を見るのである、わたしと父は一つのものである』と言われているのであり、このことは前に引用した記事の中に認めることができよう。旧約聖書の聖言にもまた主は『父』と呼ばれたもうている、例えばイザヤ書には―
わたしたちに一人の子供が生まれたもうた、わたしたちは一人の息子を与えられた、まつりごとはその御肩の上に在るであろう、その御名は驚異、勧告者、神、英雄、永遠の父、平安の君と呼ばれたもうであろう(9・6)。
わたしたちに生まれたもうた『子供』とわたしたちに与えられた『息子』とは主であり、主が『永遠の父』と呼ばれたもうていることはたれにも明白である。さらにイザヤ書には―
あなたはわたしたちの父であられる、アブラハムはわたしたちを知りません、イスラエルにはわたしたちを承認はしないからです。ああ、エホバよ、あなたはわたしたちの父、わたしたちのあがない主であられます。あなたの御名は永遠からあります(63・16)。
ここにもまた『わたしたちの父エホバ』と呼ばれたもうているのは主である、なぜなら主以外の『あがない主』はおられないからである。マラキ書には―
わたしたちは凡て一人の御父を持ってはいませんか。一人の神が私たちを創造られたのではありませんか(2・10)。
(第一部16、88、472番に示されたように)『創造る』ことは再生することを意味している。その他旧約聖書の聖言のあらゆるところに、『エホバ』により主が意味されたもうているが、それはその教会のあらゆるものは主を表象しており、内意では聖言のあらゆる事柄は主にかかわりをもっているからである。
天界の秘義3704
主の神的善は「父」と呼ばれ、その神的真理は「子」と呼ばれる。
しかし、主の神的なものは善以外の何ものでもなく、実に善それ自体であり、神的真理は天界に、すなわち天使たちの前に、そのように[神的真理として]現れている主の神的善である。
太陽それ自体は火、そこから見られる光は太陽の中には存在しないで、太陽から発している。
神的善は神的真理として現れているため、それで人間に把握されるために、主の神的なものは神的善と神的真理とに区別されており、神的善は「父」と呼ばれるものであり、神的真理は「子」と呼ばれるものである。
このことが主御自身がその父について自分とは明確に区別されるものとして恰も御自身とは別のものであるかのように再三語られつつも、他の所では父は御自身と一つのものであると主張されているという事実に隠れているアルカナである。
天界の秘義15
主御自身以下のように語られたように、かれと父とは一つであられるため、全天界の者はかれ以外の父を知ってはいない。
わたしは道であり、生命である。ピリポは言った。わたしたちに父を示してください。イエスはかれに言われる。ピリポよ、あなたはわたしを知りませんか、わたしを見た者は父を見たのである。それで、あなたはどうしてわたしたちに父を示してくださいと言いますか、わたしは父の中におり、父はわたしの中におられることをあなたは信じませんか。わたしは父の中に、父はわたしの中におられるというわたしの言葉を信じなさい(ヨハネ14・6、8−11)。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P76
(イエズス:)
よく考えてみよ。神がメシア、救い主とするために天使の一人を選ばなかったとすれば、まして人間をその役割りに選んだはずはない。
また人間性を取らない御子が、人間の想像を超える手段と力によってだけ救い主となることができただろうか?さらに神の御子は永遠なる者なのに、親がありえただろうか?
傲慢な考えの者は、真理の国に接触するこのような質問に対して、ただ心が騒ぐばかりである。謙遜で信仰に満ちた心だけが、その返事を得ることができる。このような質問の前に立って、いかに傲慢な者であろうと、ひるまないではいられまい。
キリストはだれか?天使か?否、天使以上の者である。人間か?否、人間というより神である!しかも肉体を合わせた神性である。
人間の罪の償いを果たすには、肉体も必要であった。贖いは罪を犯した者によって行われねばならない。神は堕落した天使の罪を償うために、天使の一人を送ることもできたが、そうはなさらなかった。知っての通り、ルチフェル(サタン)も罪を犯したが、神はそれを贖うために、もう一人の天使を送ることはなさらなかった。堕落した天使は神の御子を礼拝しなかった。神はご自分の愛が生んだ“みことば”に反する罪はおゆるしにならない。しかし神は人間を愛された。
その人間を贖い、神と和睦させるために、唯一の完全な人間をこの世に送られた。“神である人間”だけが人間の贖いを行い、神の怒りを鎮めうる。これこそ理にかなったことである。
天界の秘義7091〔3〕
『父』と呼ばれているのは主であって、エホバでないことはヨハネ伝の主の御言葉から明白である―
たれ一人今まで神を見た者はない(ヨハネ1・18)。あなたらはその御声をこれまで聞いたこともなく、その御形を見たこともない(ヨハネ5・37)。
3.父を知ることは出来ないか?
マタイ7・7−12
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
マタイ11・25−27
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
マタイ5・8
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
ヨハネ4・21−26
イエスは言われた。
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
ヨハネ5・39−40
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
ヨハネ5・43
わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。
ヨハネ5・46
あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。
ヨハネ6・36−40
しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
ヨハネ6・46
父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
ヨハネ8・19
彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
ヨハネ10・30
私と父とは一つである。
ヨハネ14・7
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。
ヨハネ14・9
フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。
ヨハネ14・24
あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
ヨハネ16・25
わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。
ヨハネ17・3
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
ヨハネ17・26
わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。
4.父は我々に関与しない?
マタイ5・44−45
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
マタイ6・3−4
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
マタイ6・6
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
マタイ6・8−15
彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
マタイ6・18
それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
マタイ6・26
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
マタイ6・32−33
それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
マタイ7・11
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
ヨハネ3・16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネ14・21
わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。
ヨハネ14・23
わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
ヨハネ16・23
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
ヨハネ17・7
わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
ヨハネ12・46
わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
ヨハネ15・11
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
ヨハネ16・23,24
はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
ヨハネ16・27
父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。
ヨハネ16・33
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。
ヨハネ17・13
世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
ヨハネ17・23
こうして、あなたがわたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
マリア・ワルトルタ24・9/天使館P197
聖母がマリア・ワルトルタに:
子らよ、わたしの子の言葉で祈りなさい。あなたたちの敵のために祈り、『父よ、彼らを赦してください』と言いなさい。あなたたちの過ちに怒った父がご自分を隠されたら、『父よ、父よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?わたしは罪人です。でも、あなたがお見捨てになれば、わたしは滅びるのです。聖なる父よ、わたしが自分を救うためにお戻りください』と言いなさい。
あなたたちの霊を悪魔から無傷に守ることのできる唯一の御者に信頼して任せなさい。『父よ、み手にわたしの霊を委ねます』。おお!あなたが謙遜に、心からの愛を込めて、神に自分の霊を委ねるなら、小さな子を導く父親のように神はあなたたちの霊を導き、それに害が及ぶことは何一つ放置しておかれません。
イエズスはその数ある死の苦しみにおいて、祈ることをあなたたちに教えようとして祈られました。この受難節の日々に、わたしはそれをあなたたちに思い出させます。
5.父から出てくる、父に行く
ヨハネ16・28
わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く
天界の秘義3736
「わたしは安らかに[平安の仲に]父の家に帰る」(創世記28・21)。これは完全な結合にさえも、を意味していることは以下の事実から明白である。すなわち、『わたしの父の家』は、それが主についてのべられているときは、主がそのみごもられたもうたそのときそのものからその中におられたところの神的なものそれ自身であり、『その家へ帰る』ことは『父』とよばれている神的善そのものへ帰ることである。この善が父であることは前に見ることができ(3704番)、『その家へ帰る』ことは結合することであることは明白である。そのことは主がわたしは父から出て来て、世に来たのであり、再びわたしは父に行かなくてはならないと言われたとき主により意味されたところである。すなわち、『父から出て来ること』により神的なものそれ自身が人間的なものを取りたもうたことが意味され、『世に来ること』により主は人間として存在されたことが意味され、主が『再び父に行くこと』により主はその人間的な本質[人間の本質]を神的な本質[神の本質]に結合されるであろうということが意味されているのである。同じことがまたヨハネ伝の主の以下の御言葉により意味されたのである―
もしあなたたちが人の子がその前にいたところの昇るのをかりにも見るなら(6・62)
さらに―
イエスは父が凡ての物をかれの手に与えられたことを、またかれが神から出て来て、神に行くことを知られ、かれらに言われた、子供たちよ、尚しばらくの間わたしはあなたたちとともにいます、わたしが行く所にはあなたたちは来ることはできません(133,33)。
さらに―
今わたしはわたしをつかわされた方のもとへ行きます、あなたたちの中で一人としてわたしに、あなたは何処へ行かれますかとたずねはしません。わたしが去るのはあなたたちの益であります。なぜならもしわたしが去らないなら、慰め主はあなたたちのもとへは来ないからです。しかしわたしが行くなら、わたしはかれをあなたたちのもとへつかわしましょう。しばらくすると、あなたたちはわたしを見ないでしょう、またしばらくするとあなたたちはわたしを見るでしょう、わたしが父のもとへ行くからです(16・5,7,16,17)。
さらに―
わたしは父から出て来て、世に来ました、再びわたしは世を去って、父へ行きます(16・28)。
これらの記事の中で『父に行く』ことは人間的本質を神的本質に結合させることである。
5.父なる神
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P323
子供たちよ、神様は皆の父なのです。
6.私を父として知らせるために訪れた
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P15
‘89・10・10
愛する者よ、我が聖心に忍び込めるように小さいままでいなさい ♡ 愛があなたを愛している。聴いて書くように: あなた方に平和 ♡ 私は平和、私は愛、限りない慈しみにより我が葡萄畑をあなた方の国にもひろげ その畑が死に行く民を養うに十分な収穫をあげるようにと あなたのくに民を訪れた。 我が神聖なわざは地上全体に広まった そして時に適ってどの必要にも応え すべてはよい ♡ 我が声に耳を澄ましなさい 敬虔な子たちよ 春の訪れとともに花が咲くように 花開きなさい、あなた方に燦燦と注がれた純粋な光によって花開きなさい。 くに民の暗やみを祝福で満たしている。 あなた方の哀れな霊魂を癒し、疲れ果てた霊魂を憩わせたい、そこで私の開かれた腕の中に飛び込んで来るがよい、あなた方に立ち帰るようにと呼びかける 私は救い主です。 昏睡の霊が多くのくに民を覆い 彼らは深い眠りに陥っている そして私は、この全てを上から 苦悶と痛みのうちに見護る ♡ 私、主は、あなた方の心を今日探し求めている 必要なのは愛、愛の立ち帰りだからです ・・・ 来なさい、単純な心で来なさい、安心して父親のもとに近寄る子どものように、弱さを見せ 問題を話しに、私のもとにやって来なさい、天の御父に聞いていただきなさい ・・・ 私は愛、愛の立ち帰りに渇く、私は愛の崇高な源、私の嘆願を拒まないように、あなたを取り囲んでいる誘惑を拒みなさい、我が子よ、サタンに足場を引き渡すのを拒みなさい ♡ 私(I Am)がどれほどあなたのそばにいて どれほど熱心に霊魂を我がもとに引き上げ まことの食物のために乳離れさせようとしているか分かったなら! 私を理解しようとしなさい、我が意思を悟ろうとしなさい、好奇心を満足させるためだけではなく、学ぶためにここにいなさい、私のためだけに心をひろげ、あなたのうちに住まわせてほしい。
不道徳、合理主義、自己中心や他の罪によって あなたのうちに住む我が霊を窒息させてしまわないように、私を窒息させてしまわないように、我が霊を自由にあなたのうちに息づかせなさい そして私が御父に祈っていたように 眼を天にあげて 沈黙のうちに祈りなさい、心をもって祈りなさい ・・・ そうするなら御父は声を聞いて下さる、愛を込めて祈りなさい ・・・ そうするなら拒まれることはない、信仰をもって祈るならあなたの嘆願を断わりはなさらない ・・・ 行う全ては、愛ゆえに愛をもって行うように ♡ そうするならあなたの嘆願にたいして沈黙していたり 心動かさなかったり応えないままではないない 私は慈悲に溢れ 優しさに溢れる者だからです ♡ 私は瓦礫の間から 我が仔羊や羊たちを探し求める善い牧者、与えようと我が心を手にして あなた方を探し求めている、乏しさのうちにいるあなたを探し求め あなたが孤児ではなく 皆私のものであると 再び思い出させにやって来た、御父の家にはあなたの部屋があるのです 我が子よ(*) ・・・ あなたのものである部屋が ・・・ それを思い出させにやって来た 私の霊魂はあなたに恋い焦がれている ・・・ 永遠に部屋が空いたままとなるたびに 言いようのない悲しみに打ち沈む ・・・ 私、主は、贈物として天国を携えて来た(**)、あなたに与えようとして、しかし敵はあなたがそれを受け取るのを妨げたいと願っている。そこで悪魔はたびたび哀れな霊魂たちを使って我が声を黙らせようとする、聖霊の恵みを非難し こうして神秘体を 見分けがつかないほど傷つけている、暗やみの雲の陰に隠れたこの霊魂たちは悪と虚栄に練達し、私のやり方を把握するのを拒む、 この者たちは私の心に重くのしかかっている、怖れなく私のもとにやっては来るが 虚しく手ぶらのままである。 彼らは約束を嘲笑い 右手に再び葦の棒をもたせ、私をからかっている、また手から棒を取り上げて私の頭を打つ、 そして教会外の人びとにはよく思われようとひざをつき私に敬意を表する ♡ これらの冒涜は私を日々十字架につけ、彼らはたび重ねて私をカルワリオに引いて行く、理由なく彼らは私を憎んで、ああ 我が子たちよ ・・・ この者たちが 私と御母の眼から涙が尽きないようにさせている、
十字架から叫ぶ私の声に耳を傾けなさい 無数の霊魂たちが間断なく永遠の滅びに落ちて行く、いのちをもたらす霊の呼びかけに耳を澄ましなさい。 あなた方のくに民は心が粗野となり 知識の泉から離れてしまった ♡ 私に眼を向けなさい! 頭を私のほうに上げなさい! 来て我が光を吸収しなさい、あなた方のくに民を覆う布を取り除かせなさい、私は愛の立ち帰りを懇願する あなたの霊魂と心の守護者。その愛は私欲のない愛です、あなたは自我に対して死に 霊に心を導かせるのを許しなさい そうするなら霊はあなたを真理へと導き 私を認めさせるでしょう、私の声、我が霊の声を聞きなさい。 祈りを増やし 聖なる生活を送りなさい、私は聖なる者であるから 聖となるように ♡
今日我が家が荒廃し 無神論が多くの心を支配している(***)とすれば それはあなた方の世代が心に私の場所をつくるのを拒んでいるからです、来てみると 愛も、信仰も希望(のぞみ)もなかった、我が家は荒廃し、合理主義、不従順と虚栄によって瓦礫と化し、我が聖所の中に入り込んだ大棄教のために、かつての栄光に輝く牧場は今や不毛の地である。 従順が見当たらない、再臨の時まで仔羊たちの道を案内するように 私は羊飼いの杖をすっかりペトロに任せてある、しかし彼らは邪悪で 私のではなく自分たちの利益のために 羊飼いの杖を半分に折り、次に砕いてしまった ・・・ 兄弟の絆は断たれ、忠誠は粉砕し、愛、平和と一致の泉、かつての泉の傍には、私の群れが山となって死にたえている、私はペトロに背を向けるこの羊飼いたちには 頭を下げて自身の誤りを認めるようにとだけ求める、彼らに備えられた安息の場に辿りついてもらいたい、次々と星のように落ちてほしくない。 今日霊の語っていることに彼らが耳を傾けさえするなら、棄教も 受けている傷も思い出させはしない ♡ この司祭たちのために祈りなさい、彼らを熱く愛おしんでいるが 今日私に与えている悲しみも大きい、彼らが屈んで 互いの足を謙遜と愛をもって洗い合うように ♡
私、主イエス・キリストは、あなた方の額に 重ねて愛の溜息を吹きかけ 熱い思いを込めて一人ひとりを祝福する 聖三位が唯一 同じであるように、あなた方も一致し 我が聖なる名のもとに一つとなるように。
*イエスは感動を込めてこう仰いました。 **霊的直感によってイエスが非常に輝いている円球を手に持っておられるのを見ました、大天使ミカエルの輝きを思い出させるような。 ***イエスはこれをとても残念だと仰っています。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P245
‘02・9・8
私は復活。 だから もう迷わないで 目を開き 私に向って走って来なさい。 遠くに離れているのはもうやめなさい。 愛の至上の行為とは 我が十字架を受け入れることだと 誰かに教わったであろうか? 我が十字架とは、あなたを覆う道具 だが言い換えるならそれは いのち与える木。 この贖いもたらす道具を用いて あなたの足は死の谷から 至福のヴィジョンへと渡る。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P70
‘00・2・12
私は我が聖霊によって、あなた方の死者を甦らせ 私を父として知らせるために訪れた、そして聖霊によってのみ 神の知識は得られ 私どもが選んだ者たちに明かされる、彼らには助言者 教育係として 聖霊ご自身がついておられるゆえ。 こうして人間の知力にはよらず聖霊を通して 彼ら(*)はその知性に恵みを授けられ 三位一体の神を把握し 神と語り合える。
*預言者たち。
7.善の方面の教会
天界の秘義5581
ここでは『父』であるイスラエルの表象は教会である(『イスラエル』は内なる霊的な教会であり、『ヤコブ』は外なる霊的な教会であることは前の4286、4292、4570番に見ることができよう)。かれが『父』と呼ばれているのは、聖言の『父』によりまた教会が意味され、それが同じく『母』によっても意味されているためであるが、しかし『母』により真理の方面の教会が意味され、『父』により善の方面の教会が意味されているのである。このことの理由は、教会は父としての善と母としての真理から発している霊的な結婚であるということである。
天界の秘義8328
「あなたが住まわれる場所」。これは主がおられる所を意味していることは以下から明白である、即ち『場所』の意義は状態であり(そのことについては、すぐ前の8325番を参照)、ここでは天界が意味されているため、神的なものから発している善の状態であり、『エホバの住居』または『あなたが住まわれる場所』の意義は、主がおられる所である(『住むこと』が善について述べられることについては、2712、3613番を参照、『エホバの住居』は善を意味し、従って天界を意味していることについては、8269、8309番を参照、主は聖言の『エホバ』であることについては、前の8261番を参照)。『天にいます御父』と再三言われているが、そのときには天界における神的なものが意味されており、かくて天界の存在の源泉である善が意味しているのである。神的なものはそれ自体において観察されるなら、諸天界の上に存在されているが、しかし諸天界における神的なものは神的なものから発出している真理の中に存在している善である。それが『諸天界における御父』により意味されているのである、例えばマタイ伝には―
あなたたちが天にいます御父の子となるためである、天にいますあなたらの御父が完全であられるように、あなたたちも完全になるためである(マタイ5・45、48、6・1)。
天にいますわたしたちの御父よ、あなたの御名が崇められますように(マタイ6・9)
天にいます御父の意志を行う者(マタイ7・21)(またマタイ10・32、16・17、18・10、14、19)
諸天界の中に存在する神的なものは主から発出している神的真理の中に存在している善であるが、諸天界の上に存在する神的なものは神的善それ自体〔神そのもの〕である。『あなたが住まわれる場所』により主から発出している神的真理が存在している天界が意味されているのである。なぜならそれが天界を作っているからである。主から発出している神的真理の実情のいかようなものであるか、それは天界の中では善であることは、太陽と太陽から発している光とに比較することにより説明することが出来よう。太陽の中には火が在るが、しかし太陽からは光が発出しており、その光はそれ自身の中に熱を持っており、その熱から庭園は芽を出し、楽園のようになるのである。太陽の熱そのものが地球に到達しているのではなく(なぜならそうした時はそれは凡ゆる物を燃え上がらせ、焼き尽くしてしまうからである)、太陽の火から発している熱を内に持った光が到達しているのである。霊的な意義ではこの光が神的真理であり、熱は神的善から発した真理における善であり、そこから生まれてくる楽園が天界である。