塵(ちり)
麻布/
マタイ10・14−15
あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。
天界の秘義249
『その一生の日の間塵を食う』ことは彼らの感覚的な部分は身体と地に属したもの以外のいかようなものによっても生きることの出来ないようなものになったことを、即ち、それが奈落的なものになったことを意味していることもまた聖言の『塵』の意義から明白である、例えばミカ書には―
古の日のようにあなたの民を養いたまえ。諸々の国民は見て、その力の凡てを恥じるでしょう。彼らは蛇のように塵をなめ、地の這う物(蛇)のように、その囲みから振い出されるでしょう(ミカ7・14、16、17)。
『古の日』は最古代教会を意味し、諸々の国民は自分自身のものを信頼する者を意味しており、彼らについては『彼らは蛇のように塵をなめるであろう』と言われている。ダビデの書には―
未開の民は神の御前にかがみ、神の敵は塵をなめるであろう(詩篇72・9)。
『未開の民』と『敵』は地的な、世的なもののみを顧慮する者である。イザヤ書には―
塵は蛇のパンとなる(イザヤ65・25)。
『塵』は霊的な天的なものを顧みないで、単に形体的な地的なもののみを顧みる者を意味しているため、主は弟子たちに若し彼らの入る都または家が彼らに相応しくないならば、『足の塵を払い落とさなくてはならない』と命じられたのである(マタイ10・14)。(塵が罪に定められた奈落のものを意味することは更に19節に示されるであろう)。
天界の秘義4779[3]
エゼキエル書には―
かれらはおまえのために声を上げて泣き叫び、はげしく泣き叫び、その頭にちりをかぶらせ、灰の中にころげまわり、おまえのために髪をそり、麻布をまとうであろう(エゼキエル27・30、31)。
『塵を頭にかぶらせること』は悪のために地獄に堕ちたことを意味し(278番)、『灰の中にころげまわること』は誤謬のために地獄に堕ちたことを意味し、『髪をそること』は自然的な人が真理を持たなかったために嘆き悲しむことを意味し(3301番)、『麻布をまとうこと』は、それが善を持たなかったために嘆き悲しむことを意味している。
天界の秘義7418
「地の塵を打ちなさい」。これは、彼が自然的なものの中に在って罪に定められていたものを遠ざけなくてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『打つこと』の意義は遠ざけることであり、『塵』の意義は罪に定められたものであり(そのことについては以下に述べよう)、『地』、ここではエジプトの地の意義は自然的な心である(7409番)。『塵』は罪に定められたもの[地獄に堕ちたもの]を意味していることは、足のうらの下の側面に在って、悪霊のいる所は、地として現れており、事実耕してない、乾いた地として現れ、その下に或る種の地獄が存在しているためである。この地は『呪われた[罪に定められた]地』と呼ばれ、そこの塵は呪われた[罪に定められた]ものを意味しているのである。私は時折、悪霊らがたれかを罪に定めようとすると、自分の足からそこの塵を払い落とすのを見ることが出来たのである。そのことは右のやや前面の、魔法使いの地獄の方へ向った境界の中で見られたが、そこで世に生きていた頃信仰のことは知ってはいたものの、悪い生活を送った霊らはその地獄へ向って投げ込まれるのである。それでそのことから『塵』により呪われたもの[罪に定められたもの]が意味され、『塵を払い落とすこと』により呪うこと[罪に定めること]が意味されているのである。主は弟子たちに、もしその弟子たちが受け入れられないなら、その足から塵を払い落とすようにと命じられたのはこうした意味のためであったのである、例えばマタイ伝には―
あなたらを受け入れず、またあなたらの言葉を聞かない者はたれであっても、あなたらはその家または都から去るときは、足の塵を払い落としなさい。まことにわたしはあなたらに言っておく、審判の日には、その都よりもソドムとゴモラの地が堪えやすいでしょう(マタイ10・14、15、マルコ6・11、ルカ9・5、10、10−12)。
ここの『弟子たち』により弟子たちが意味されてはいないで、教会の凡ゆるものが意味され(2089、2129、2130、3354、3858、3913、6397番)、『受け入れなくて、聞かないこと』により信仰の諸真理と仁慈の諸善を斥けることが意味され、『足の塵を払い落とすこと』により罪に定めること[呪うこと]が意味されているのである。『その都よりはソドムとゴモラがさらに堪えやすいでしょう』は、『ソドムとゴモラ』により、生命の悪の中にはいるが、主と聖言については何ごとも知っておらず、かくて受け入れることが出来なかった者らが意味されているためである。ここから、その弟子たちを受け入れようとはしない家または都が意味されているのではなく、教会の中にいるものの、信仰の生活を送らない者が意味されていることを認めることが出来よう。たれでも、一つの都全体がその弟子たちを受け入れず、またその宣べ伝えた新しい教義を直ぐには承認しなかったために罪に定められる筈はないことは認めることは出来よう。
天界の秘義7418[3]
前に、悲しんだり、悔改めたりするとき、頭にかぶった『ちり』によってもまた、以下の記事のように、罪に定められたもの[呪われたもの]が意味されているのである―
シオンの娘の長老たちは地に座り、口をつぐむ、かれらは頭にちりをかぶっている、かれらは麻布をおびとしている、エルサレムの処女たちは地にその頭をつけた(哀歌2・10)。
かれらはいたいたしく叫び、ちりをその頭にかぶり、灰の中をころげまわるであろう(エゼキエル27・30)。
アフラの家の中で嘆きに嘆き、ちりの中にころげまわれよ(ミカ1・10)。
かれらはその頭にちりを投げつけ、嘆き、泣き、叫んだ(黙示録18・19)。
また聖言に歴史的な部分にも遍くそのことが意味されているのである。頭のちり、また身体と頭を地につけ、そこのちりの中をころげまわることにより卑下が表象されたのであり、それは、それが純粋なものであるときは、その人間は自分自身が呪われたもの[罪に定められたもの]であることを承認もし、認めもするが、しかし主により呪われた状態[罪に定められた状態]から受け入れられることを認めるといったものである(2327、3994、4347、5420、5957番)。
天界の秘義7418[4]
かれらが荒野で作った金の子牛を打ち、すりつぶして作った『ちり』によってもまた呪われたものが意味されており、そのことについてはモーセの書に以下のようなことが記されているのである―
わたしはあなたらの罪(すなわち)あなたらが作った子牛をとり、それを火でやき、打ち、実にちりになるまでもいたくすりつぶし、そのちりを山から流れ下ってくる小川の中へ投げすてた(申命記9・21)。
『ちり』によりまた以下の記事では呪われたもの[罪に定められたもの]が意味されているのである―
神エホバはその蛇に言われた、おまえは腹ばいになって歩まねばならない、おまえは一生の日の凡ての間ちりをたべなくてはならない(創世記3・14)。
永遠の日におけるようにあなたの民を養えよ、もろもろの国民は見かれらの凡ての力に顔を赤らめ、蛇のようにちりをなめるであろう(ミカ7・14、16,17)。
ちりは蛇の食物となるであろう(イザヤ65・25)。
降りて来て、ちりの中に座れよ、ああ、バベルの処女よ、娘よ(イザヤ47・1)。
わたしたちの魂はかがめられてちりにつき、腹は地に密着した(詩篇44・25)。
わたしの魂はちりに密着する、わたしを生かしたまえ(詩篇119・25)。
聖言の『ちり』はまた墓を意味し、同じくまた卑しいものを、また数多いものを意味している。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P307
そうです。サタンはあなたたちをより分けるために、罠をしかけるに違いない。私も、あなたたちを救うために、ふるいにかけます。争うものは二人です。サタンと私。その真ん中に、あなたたち。愛と憎しみ、知恵と無知、善と悪との間の決闘が、あなたたちの目前で行われます。あなたたちに対しての邪悪な打撃をかわすためには、私だけで足ります。あなたたちを愛しているから、私が代りに傷つけられるのを引き受け、サタンの武器の前に立ちはだかります。
そうはいっても、あなたたちの中の打撃は、あなたたちの自由意志で私の方へ走り寄り、真理と命である私の道によって、自分でかわすべきです。天を望まない人は天国を得られません。キリストの弟子となるにふさわしくない人は、世間の風が吹き飛ばしていく軽い塵みたいなものです。