麻布
塵/
天界の秘義4779
「その腰に麻布をまとった」。これは破壊された善のために嘆き悲しむことを意味していることは、『腰に麻布をまとうこと』の意義から明白であり、それは破壊された善のために嘆き悲しむことを表象するものである。なぜなら『腰』は結婚愛を意味しており、そこから天的なまた霊的な愛をすべて意味されており(3021、3294、4277、4280、4575番)、それは相応から発しているからである。なぜなら―諸章の終りに示されたように―人間の身体の器官と部分と内臓はすべて巨大人に相応しているように、腰もまた巨大人または天界の中にいて純粋な結婚愛の中にいる者たちに相応しており、そして結婚愛は凡ての愛の中でも根源的なものであるため、『腰』により全般的に天的な霊的な愛の凡てが意味されているからである。ここからかれらが破壊された善のために嘆き悲しんだとき、腰に麻布をまとうという祭儀が起こったのである、なぜなら善はすべて愛のものであるからである。
天界の秘義4779[8]
麻布を着て、灰の中をころげまわることは悪と誤謬とのために嘆き悲しむことを表象したため、それはまた謙ることを表象し、同様に悔改めを表象したのである、なぜなら謙ること[卑下]における主要な事柄は自分は自分自身では悪と誤謬以外の何ものでもないことを承認することであるからである。そのことは悔改めることについても言われるのであり、それは専ら卑下を通して遂行され、卑下は自分は自分自身ではそうした性質のものであることを心から告白することを通して遂行されるのである。麻布を着ることは卑下のしるしであったことは列王記上21・27−29に見ることができ、それは悔改めのしるしであったことは、マタイ伝11・21、ルカ10・13に見ることができるが、しかしそれは表象するもの以外の何ものでもなく、かくて単に身体の外なる事柄にすぎないで、心の内なるものではなかったことは、イザヤ書から明らかである―
それは葦のように頭を垂れ、麻布と灰との中に臥すことであろうか、あなたはこれを断食と呼んで、エホバに受け入れられる日と呼ぼうとするのか。悪の戒めをとき、飢えた者にパンを裂き与えることがわたしの選ぶ断食ではないのか(イザヤ58・5−7)。