天使の食物

 

味覚

 

 

テサロニケ2・3・10−12

 

実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。

ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。

 

 

 

結婚愛6

 

それで天界では、身体のための食物は各々にその者の遂行する用に従って与えられており、それは卓越した用にいる者には、ぜいを極めており、中庸の度の用にいる者には普通ではありますが、微妙な風味があり、低い用にいる者には単純なものでありますが、しかし怠け者には(食べ物は)少しも与えられはしないのです。

 

 

 

 

天界の秘義1460[] 

 

エゼキエル書にも同じく―

 

  そしてわたしはあなたらの上に飢饉を増し、あなたらのパンの支えを折るであろう、わたしはあなたらに飢饉と悪い野生の獣を送るであろう。それらはあなたのものを剥ぎ取るであろう、わたしはあなたの上に剣をもたらすであろう(5・16、17)

 

 『飢饉』は天的なものに関わる知識を、または善に関わる知識を、また善に関わる知識を剥奪されて、そこから誤謬と悪とが発生することを意味している。ダビデの書には―

 

  そしてかれは地に飢きんを呼びたまい、パンの支えをことごとく砕かれた(詩篇105・16)。

 

 『パンの支えを砕くこと』は天界の食物を剥奪されることを意味している、なぜなら善い霊たちと天使たちとの生命は善と真理に関わる知識以外の、また善と真理そのもの以外の食物によっては支えられないからであって、ここから『飢饉』と『パン』との内意が生まれているのである。さらに―

 

  かれは喘ぎ求める魂を満ち足らせ、飢えた魂に善いものを満たされた(107・9)。

 

 これは知識を求めている者たちを意味している。エレミヤ記には―

 

  凡ゆる街路の先に飢えて息も絶えようとしているあなたの幼い子供たちの魂のためにあなたの手を上げよ(哀歌2・19)。

 

 『飢え』は知識の欠如を意味し、『街路』は真理を意味している。

 

 

 

天界の秘義1480

 

天的な食物は主から発している愛と仁慈との凡ゆる善であり、霊的な食物は信仰の凡ゆる真理であり、これらの食物によって天使たちは生きており、そこから同じように天的なものであり、霊的なものであるが、しかし度がさらに低い天使的な食物が発していて、それにより天使的な霊たちが生きており、そこから再びそれよりもさらに低い天的な霊的な食物が発していて、それは理性の食物であり、引いては記憶知の食物であって、それにより善良な霊たちが生きており、最後に形体的な食物が来ていて、それは人間が身体の中で生きている間人間に固有なものとなっているのである。これらの食物は驚嘆すべき方法で互に他に相応しているのである。このことからまた記憶知は記憶知自身にとり何故またいかようにして極めて快いものであるかが明白である、なぜなら記憶知も食欲と味覚の場合と同一であって、それで人間の場合では、食べることは霊たちの世界における記憶知に相応しており、食欲と味覚そのものはこの知識を求める欲望[願望]に相応しているのであり、このことは経験から明白であるが、それについては主に神的慈悲の下に後に述べよう。

 

 

真の基督教735

 

帰途、天使はその一行に次のように教えた。「世と同様に天界にも、食物、飲物、祝宴、饗応があり、その内には心を楽しませ、爽やかにする美味しい物が含まれています。遊戯、演劇、声楽、音楽も亦あり、その凡ては最高の完全性を持っています。このような物は悦楽ではありますが、幸福ではありません。幸福は凡ゆる真の悦楽の中心に在り、それらを豊かにし、維持し、その腐敗を防ぎます。而して、この幸福は或る有用な業務から生じます。凡ゆる天使の意志にはその心を静め、満足させる所の或る業を成就しようとの秘やかな意向があります。このように静められた彼の心へ、主は用への愛を注ぎ込み、それと共に凡ゆる悦楽の生命そのものである幸福をもたらされます。天界の食物はその本質に於ては愛、智慧、用の結合意外の何物でもありません、即ち、愛から生まれ、智慧によって形成される用であります。この理由から食物が天界の凡ゆる者にその成就する用に従って与えられ、最も優れた食物は最高の用を成就する者達に与えられております。」

 

 

 

 

 

天界の秘義1516

 

 わたしは味覚についてて霊たちと語ったが、かれらは自分たちはそれを持っていないが、しかし自分たちは味がいかようなものであるかを知る手段となる何かをもっていると言った、かれらはそれを匂りにたとえはしたが、しかしそれを描写することはできなかった。自分の食物を匂りでしらべ、そこからそれが自分に有益なものでありまた適しているか否かを知る動物からもまた明白であるように、味覚と嗅覚とが一種の第三の感覚の中に出会っていることをわたしは思い出したのである。