味覚

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.サンダー・シング

 

 

 

 

天界の秘義1516

 

 わたしは味覚についてて霊たちと語ったが、かれらは自分たちはそれを持っていないが、しかし自分たちは味がいかようなものであるかを知る手段となる何かをもっていると言った、かれらはそれを匂りにたとえはしたが、しかしそれを描写することはできなかった。自分の食物を匂りでしらべ、そこからそれが自分に有益なものでありまた適しているか否かを知る動物からもまた明白であるように、味覚と嗅覚とが一種の第三の感覚の中に出会っていることをわたしは思い出したのである。

 

 

 

天界の秘義1880

 

 全般的に霊たちと天使たちについては―彼らはすべて身体の死後も生きている人間の霊魂であるが―私はここに以下のように言ってよいであろう、彼らは人間が持っている感覚よりもはるかに精妙な感覚を―即ち、視覚、聴覚、触覚を―持っているが、しかし味覚は持ってはいないのである。しかしながら霊たちは、まして天使たちは、彼ら自身の視覚によっては、即ち、霊の視覚によっては世にあるものを見ることは出来ないのである、なぜなら世または太陽の光は彼らには暗闇として存在しており、それは正しく人間が人間の視覚によっては、即ち、身体の視覚によっては、他生のものを何ら見ることが出来ないと同様であるからである。なぜなら天界の光または主の天界の光は人間には暗闇として存在しているからである。

 

 

天界の秘義1973

 

 なぜなら霊たちは味覚を持っておらず、それ代って知り、また学ぼうとする願望をまたは一種の食欲を持っているからである。これは(知り、学ぶことは)いわば彼らの食物であって、これにより彼らは養われるのである(1480番)。それでこの食物が取り去られるときの彼らの苦しみの性質は以下に記す例から認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義4792

 

 食物と栄養とは霊的な食物と栄養とに相応しているため、それで味覚はこの食物を認識することとその食物に対する情愛とに相応しているのである。霊的な食物は知識と理知と知恵である、なぜならこれらのものから霊たちと天使たちは生きていて、栄養を受けており、かれらは丁度飢えた者が食物を欲し、それに食欲を感じるように、それらのものを欲し、またそれらのものに食欲を感じているのである。ここから食欲はこの願望に相応しているのである。そして驚くべきことを言うが、かれらはこの食物から成熟するのである。なぜなら小さな子供たちは死ぬと他生では小さな子供としてしか現れないし、また理解の方面でもそのようなものではあるが、しかし理知と知恵が増し加わるにつれて、小さな子供としては現れないで、年が進んだ者として、ついには大人として現れるからである。

 

 

天界の秘義4793

 

 味覚は認識に、また知ることと理解することと賢くなることを求める情愛に相応しているため、また人間の生命はこの情愛の中に在るため、それでいかような霊も天使も人間の味覚へ流れ入ることは許されていない、なぜならそのことは人間に固有な生命の中に流れ入ることであるから。

 

 

 

天界の秘義4794

 

霊は、または死後の人間は、彼が世で持っていた凡ゆる知覚を、すなわち、視覚と聴覚と嗅覚と触覚を持っているが、味覚は持っておらず、それに代わって嗅覚に接合している類似のものを持っている。彼が味覚を持っていない理由は、彼が人間の味覚に入って、その内部を占めることが出来ないためであり、またこの知覚が知って賢くなることを求める願望から、かくて霊的な食欲から彼を迷い出させないためである。

 

 

 

天界の秘義4795

 

 この凡てから舌には二重の務めが、すなわち、言葉を助ける務めと栄養を助ける務めとが割り当てられている理由が明白である。なぜならそれが栄養を助けているかぎりでは、真理の方面で知り、理解し、賢くなることを求める情愛に相応しており、そうした理由からまた知恵(sapientia)と賢くなることは(sapere)、風味(sapore)

からそのように呼ばれているのであり、それが言葉を助けているかぎりでは、真理を考え、真理を生み出すことを求める情愛に相応しているからである。

 

 

黙示録講解427イ

 

顔全体は―そこには視覚、臭覚、聴覚、味覚の器官がおかれているが、それは―全般的に情愛とそこから発する思考とに相応しており、目は理解に、鼻は認識に、耳は聞き、従うことに、味覚は知って賢明になろうとする願望に相応しているが、しかし額は、凡てこうしたものが発してくる愛の善に相応しているのである、なぜならそれは顔の最高の部分を形作り、直接的には、人間の知性の居所である頭脳の前面の主要部分を包みこんでいるからである。そのことが主は天使たちの額を眺められ、天使たちは目を通して主を注視する理由であり、これがそのようになっているのは額は愛に相応し、愛から主は天使たちを眺められ、目は天使たちが主を注視する源泉である理解に相応しているためである、なぜなら主は御自身を天使たちの理解の中へ注がれる愛の流入を通して見られるようにさせておられるからである。(このことについては「天界と地獄」、145、151番を参照、天界全体はその全総合体においては一人の人間に相応し、そこから天界の凡ゆる物は人間の凡ゆる物に相応している、87−102番。)このことは『額に封印をされること』の意義を明らかにしており、すなわち、主から主に対する愛の全の中におり、そのことによりそうした愛の中にはいない者らから区別され、引き離されることである、なぜなら主はそうした者たちの額を眺められて、愛の善をかれらに満たされ、そこからかれらは情愛から発する思考により主を注視するからである。他の者らは主から額を眺められることはできない、なぜならかれらは主に顔をそむけ、自らを対立した愛に向け、その愛によりかれらは満たされもし、引きつけられもするからである。(霊界における各々の者は、また人間も同じくその霊については、その顔をその者を支配している愛に向けていることについては、「天界と地獄」を参照されたい、17、123、142−144、153、552番)。

 

 

(2)『封印されること』は封印されることを意味しないで、その性質が認められ、かくて同じような状態にいる者らと連結し、類似してはいない状態の中にいる者らからは分離してしまうような状態の中へ入れられることを意味している。(後略)

 

 

 

天界と地獄462

 

しかし天使たちの他の感覚は視覚と聴覚ほど精妙ではない。なぜなら視覚と聴覚とは彼らの理知と知恵とに役立ってはいるが、他の感覚はそれに役立たないからであって、もしその他の感覚も同じように精妙であるなら、それは彼らの知恵の光と喜びとを奪い去って、色々な欲望と身体の快楽を楽しませるようにさせ、それが支配するに応じて、理解はそのために弱まるのである―このことは世の人間にも見られ、彼らは味覚に溺れ、触覚の誘いに応じるに応じて霊的な真理に対しては粗雑で愚鈍になっている。

 

 

 

2.サンダー・シング

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P423

 

わたしは、ヒマラヤ山中で、洞窟の中で裸で暮らしている野人と出会ったことがある。彼は砂糖をみたことも味わったこともなく、それを表現する言葉も知らなかった。わが友人が砂糖を手渡したところ、彼は初めのうち疑わしそうにこれを眺めていただ、一度味わうや喜びの表情を顔いっぱいに表した。食べる前には、砂糖があってもなくても彼には同じことだった。彼は実際、甘味について知り体験する前から、砂糖の甘みを味わう味覚をもっていたのだ。

 同じように、人間は「実在」の感覚をもっている。実在は人間とは別個の存在ではあるが、それを感じとる力は人間の中にある。

人は罪のためにこの感覚が死に、神の存在まで否定する場合がある。それでも悔い改め、純真な心で神を求めれば、実在者は必ずや自らを現わし、人は祝福を受けることだろう。その甘美な体験を言葉に表わすことができずとも、人の生き方と行ないがその実在を証明し続ける。

このような実在を体験した人が、経験ある霊的人物の著作や話の中に自分の秘めてきた思いを発見するときには常に、「これこそ自分が人に伝えたかったことだ!」と喜びの声を上げる。こうして真理を愛する者はみな一つとなって、神と交わった個人的体験から世界にキリスト教を証言するのである。