単純に聖言を信じている者たちは

こうしたすべてのことを知る必要はない

単純

 

1.単純に聖言を信じている者たちはこうしたすべてのことを知る必要はない

2.霊的善に到達した者は他のものから来ている教義をもはや必要とはしない

3.それはまるで聖書を全部読んでしまったかのよう!

4.聖言の他の言葉から教えられるならば、彼はそれに同意して、心から喜ぶ

 

 

 

1.単純に聖言を信じている者たちはこうしたすべてのことを知る必要はない

 

天界の秘義2094

 

 即ち、単純にこれがそのようなものであることを信じている者たちはそれがいかようにして行われたかを知る必要はないのである、なぜならそれがいかようにして遂行されたかを知ることは単にその者たちがそれはそのようなものであることを信じるという目的のためにのみあるからである。

 

 

天界の秘義2094[]

 

しかし現今ではそれがそのようなものであることを理論から知らない限り何ごとをも信じはしない者が多くいるのであって、そのことは、唇をもって主を告白はしているものの―それは信仰の教義に従っているからであるが―主を信じている者は僅かしかいないという事実から明らかに認めることが出来よう。それでも彼らはもし自分たちがそれがそのようなもので有り得ることを知るならば自分たちは信じるであろうと彼ら自身に言いもし、また互にそのように言い合っているのである。彼らがそのことを信じてはいないのに、しかもそのことを言っている理由は、主は他の人間のように生まれ、その外なる形では他の者のようであられたということである。これらの人物は、それがいかようにしてそのようなもので有り得るかをある程度先ず把握しない限り、いかような信仰も決して受けることが出来ないのであって、そのことがこうした事柄が説明された理由である。単純に聖言を信じている者たちはこうしたすべてのことを知る必要はない、なぜなら彼らは、今し方記した他の者たちがこうした事柄に対する知識によらなくては到達することが出来ない目的の中に既にいるからである。

 

 

 

2.霊的善に到達した者は他のものから来ている教義を最早必要とはしない

 

天界の秘義5997

 

霊的な善は教義以上のものであって、教義はこの善から発しており、それで霊的善に到達した者は他のものから来ている教義を最早必要とはしないのである。なぜなら彼はその目指していた目的の中にいて、最早それに到達する手段の中にはおらず、そして教義的なものは目的としての善に到達する手段以外の何ものでもないからである。

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P215

 

 真理を見つけるためには理性を、愛に合わせて、そして物ごとを知恵者の目をもってだけではなく、よい目をもって見るべきである。なぜなら、善良さは知恵に勝るからである。愛する人は、いつでも真理への小道を見つける。

 

3.それはまるで聖書を全部読んでしまったかのよう!

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P192

 

だが、まことに言っておく、私を進んで受け入れた者は誰であろうと、私が話している今も、祝福されている、あまりに不思議な仕方で、知識と知恵を私より受けているゆえ、それはまるで聖書を全部読んでしまったかのよう! その人自身 恵みを通して得られる聖なる霊感を自らのうちに携え 声高に話す書物となる。 こうして、我が娘よ、その人は聖書を読むとき、その字づらだけではなく、むしろ、ヴァッスーラ、あなたも経験したように、霊的な目で 内容の深い意味が見えてくる ♡

 

そこで、預言的任務を持ち、声高に話す書物のような我が使者たちには 反対しないように、私がこの者たちを遣わした。 聖書に含まれる以上のものは啓示しないが、あなた方にとっては 道案内。 私のうちなる真のいのちを生きるよう 新しい生き方を手引きする ♡ 人生をよりよくし 希望と慰めを与えて。私は誰であっても 悲惨な存在からカテドラルへと変えられる。

 

裁いてはならない そうするなら私が訪れて 我が言葉を実現しよう。 聖書は、あなたの神なる、私の肖り、だから見くびってはならない そして私を知るに遠く及ばないあなたが 聖書を知っているとは言わないように。私のヴィジョンが見えるように掟を守り、そこに述べたことを果しなさい。 我が言葉を行う霊魂は 私を知るようになろう。 そのとき、そしてそのとき初めて、あなたは決まりによってではなく 私に与って神となる。

 

 

 

4.聖言の他の言葉から教えられるならば、彼はそれに同意して、心から喜ぶ

 

天界の秘義589

 

 これらの、また他の多くの記事から聖言は人間における外観に応じて語られたことが明らかである。それ故聖言がそれに従って語られている外観により誤った原理を確認しようとする者はたれでも無数の記事によりそうしたことを行うことが出来るのである。しかし聖言により誤った原理を確認することと聖言にあることを単純に信じることは相違している。誤った原理を確認する者は先ず何かの原理を取り上げ、そこから些かも後退しようとはしないし、また些かも譲歩しようともしないし、そのことを確認させるものを、出来ることならどこからでも、引いてはまた聖言からさえも、かき集め、積み重ねて、遂には最早真理を認めることが出来ないほどにも強固にそれを確信してしまうのである。

 

 しかし単純に、または単純な心から信じる者は最初から原理を取り上げはしないのであった、主がそのように言われたから、それは真理であると考えるのであり、それを如何ように理解しなくてはならないかを聖言の他の言葉から教えられるならば、彼はそれに同意して、心から喜ぶのである。主は怒られる、罰しられる、悔いられる、悲しまれると、単純に信じ、そのように信じて悪を恐れ、善を行う者は、何の害も受けないのである。なぜならこの信仰は主は凡てを見ておられると彼にまた信じさせるのであり、彼はこのような信仰にいるため、後になって、他生以前でないならば、他生において、信仰の他の事柄を明らかにされるからである。自己を求め、または世を求める汚れた愛に応じて、自分が既に取り上げてしまっている原理から派生した何らかの事柄を信じるように自分自身に説きつける者らの場合は非常に異なっている。