民
国民/
天界の秘義1259
さらに、国民が礼拝における善と悪とを意味していることについては、実情は以下のごとくである。最古の時代には、前に述べたように、人間は国民、氏族、家族に区別されて生活したが、それは地上の教会が主の王国を表象するためであり、主の王国では凡ゆる者はいくたの社会に区別され、このいくたの社会はさらに大きな社会へ区別され、このさらに大きな社会は再びそれよりもさらに大きな社会へ区別されており、しかもそれは全般的に、また個別的に、愛のいくたの相違と信仰とに従っているのである、そのことについては684、685番を参照。かくてそれらのものも同様にいわば家族と氏族と国民に区別されているのである。ここから聖言には『家と氏族と国民』は愛の善とそこから派生する信仰の善とを意味しており、そこには『国民』と『民[民族]』とは正確に区別されているのである。『国民』は善または悪を意味し、『民[民族]』は真理または誤謬を意味しており、しかもそれが、以下の記事から認めることができるように、決して変更はしないほどにも一定して守られているのである。
[2]イザヤ書には―
かの日エッセの根が在って、いくたの民の旗として立つであろう、いくたの国民はそれを求めてその中に入るであろう、そしてかれの休息は栄光となるであろう。かの日主はふたたびさらにその御手にその民の残りの者を得させられるであろう、かれら[その民の残りの者]はアッシリアから、エジプトから、パトロスから、エラムから、シナルから、ハマテから、海の島々から残されるであろう。かくてかれはもろもろの国民のために旗を立ててイスラエルの追いやられた者たちを集わせ、ユダの散らされた者たちをともに集められるであろう(11・10−12)。
ここには『民』は教会の真理を、『国民』は教会の善を意味しており、それらは明らかに区別されているのである。とり扱われている主題は主の王国と教会であり、普遍的な意義では再生した人間の各々である。それらの名の意義は前に述べたようなものであり、『イスラエル』により教会の霊的な事柄が、『ユダ』によりその天的な事柄が意味されているのである。さらに―
暗黒の中を歩いた民は大いなる光を見た、あなたは国民を増し加えられた、あなたはそのために喜びを増大された(イザヤ9・2、3)。
ここの『民』は真理を意味しており、それで『暗黒の中を歩む』、『光を見る』と言われており、『国民』は善を意味している。
[3]さらに―
国民の使いの者に何と答えようか。エホバはシオンの基礎を築かれた、その民の哀れな者たちはそれにより頼むであろう、と(イザヤ14・32)
ここにも同じく『国民』は善を、『民』は真理を意味している。(後略)
[4](前略)
これは主の王国について言われており、『民』は真理を、『国民』は善を意味している。教会の中では仁慈の善を与えられている者たちは『国民』であり、信仰の諸真理を与えられている者達は『民』である、なぜなら善と真理とはそれらのものを中に宿している主体に従って述べられているからでる。さらに―
諸々の国民はあなたの光のもとへ歩き、諸々の王はあなたが立ち上がられる輝きのもとへ歩くでしょう。そのときあなたは見て、ともに流れ、あなたの心は驚き、大きくされるでしょう。それは海のおびただしい者があなたに回心し、諸々の国民の軍勢があなたのもとへ来るためであります(イザヤ60・3,5)
[6]
(前略)仁慈の善の中にいた者たちは『国民』と呼ばれて―これに嗣業[相続財産]が与えられたのである―そこから派生した信仰の諸真理の中にいた者たちは『人の子』と呼ばれ、後には、『民』と呼ばれたのである。
[7]仁慈の中にいる者たちが『諸国民』と呼ばれ、信仰の中にいる者たちが『諸民』と呼ばれているため主の祭司性は、善である天的なもののために、国民について述べられ、主の王者性は、真理である霊的なもののために、民について述べられている。このこともまたユダヤ教会の中に表象されたのであり、そこではかれらが王をもたなかったときは、かれらは国民であったが、しかし王を受け入れた後は民となったのである。
聖書86
こうした理由から主の霊的王国の者たちは『民族』と呼ばれ、その天的王国の者たちは『国民』と呼ばれている、なぜなら霊的王国では凡ての者は真理の中におり、従って知恵の中におり、天的王国では凡ての者は善の中におり、従って愛の中にいるからである。