国民

 

 

 

 

 

天界の秘義1159

『国民』は二つのものを(意見と公正とを)全般的に意味しており、『各々その国民については、その舌[言葉]に応じ、その氏族に応じ』は、各々の人間、氏族、国民の資質に従って、を意味しており、その者たちに礼拝が古代教会から派生していたのである。

 

 

天界の秘義1258

 

 「これらの者から地にいくたの国民がひろがった」。これは、それらのものからその教会の凡ゆる礼拝のいくたの善といくたの悪との方面が発生したことを意味しており、そのいくたの善といくたの悪とが『いくたの国民』により意味されていることは『いくたの国民』の意義から明白である。国民により、前に説明したように、多くの氏族が共になっていることが意味されている。最古代教会と古代教会では一人の父[父祖]を承認した氏族の多くが一つの国民[国家]を構成したのである。しかし『諸国民』がその内意で教会の礼拝を意味しており、それもその礼拝におけるいくたの善といくたの悪の方面とを意味していることについては、実情は以下のごとくである。氏族と国民とは天使たちから観察されるときは、天使たちは国民を考えはしないで、その国民における礼拝のみを考えるのである、なぜならかれらは凡ゆるものをその特質そのものから、すなわち、それらが現にあるものから[現にある状態から]考察するからである。人間は天界ではその人間の特質または性格から考察されているが、その特質または性格とはその者の仁慈と信仰である。このことはたれでももしかれが以下のことを考察するなら明らかに把握することができよう、すなわち、かれが人間を、または氏族を、または国民を眺めるときは、かれらはいかような性質のものであるかを、大半考えるのである、すなわち、たれでもそのとき自分自身を支配しているものから考えるのである。かれらの特質はいかようなものであるかという考えがすぐにかれに浮かんできて、かれはかれ自身の中にそこからかれらを評価するのである。このことは主に対してはさらに言われ、主から天使たちに言われるのであり、天使たちは人間を、氏族を、国民を、仁慈と信仰との方面ののかれらの性質から考察しないわけにはいかないのである。ここから『国民』によりその内意では教会の礼拝以外には何ごとも意味されてはいないのであって、それもその礼拝の性質の方面が意味されており、その性質とは仁慈の善とそこから派生してくる信仰の真理である。『国民』という言葉が聖言に現れると、天使たちはその文字の歴史的な意義に従って、些かも国民の観念[考え]の中にはとどまってはいないで、その名前をあげられている国民における善と真理との観念の中にとどまるのである。

 

 

天界の秘義1259

 

 さらに、国民が礼拝における善と悪とを意味していることについては、実情は以下のごとくである。最古の時代には、前に述べたように、人間は国民、氏族、家族に区別されて生活したが、それは地上の教会が主の王国を表象するためであり、主の王国では凡ゆる者はいくたの社会に区別され、このいくたの社会はさらに大きな社会へ区別され、このさらに大きな社会は再びそれよりもさらに大きな社会へ区別されており、しかもそれは全般的に、また個別的に、愛のいくたの相違と信仰とに従っているのである、そのことについては684、685番を参照。かくてそれらのものも同様にいわば家族と氏族と国民に区別されているのである。ここから聖言には『家と氏族と国民』は愛の善とそこから派生する信仰の善とを意味しており、そこには『国民』と『民[民族]』とは正確に区別されているのである。『国民』は善または悪を意味し、『民[民族]』は真理または誤謬を意味しており、しかもそれが、以下の記事から認めることができるように、決して変更はしないほどにも一定して守られているのである。

 

[2]イザヤ書には―

 

  かの日エッセの根が在って、いくたの民の旗として立つであろう、いくたの国民はそれを求めてその中に入るであろう、そしてかれの休息は栄光となるであろう。かの日主はふたたびさらにその御手にその民の残りの者を得させられるであろう、かれら[その民の残りの者]はアッシリアから、エジプトから、パトロスから、エラムから、シナルから、ハマテから、海の島々から残されるであろう。かくてかれはもろもろの国民のために旗を立ててイスラエルの追いやられた者たちを集わせ、ユダの散らされた者たちをともに集められるであろう(11・10−12)。

 

 ここには『民』は教会の真理を、『国民』は教会の善を意味しており、それらは明らかに区別されているのである。とり扱われている主題は主の王国と教会であり、普遍的な意義では再生した人間の各々である。それらの名の意義は前に述べたようなものであり、『イスラエル』により教会の霊的な事柄が、『ユダ』によりその天的な事柄が意味されているのである。さらに―

 

  暗黒の中を歩いた民は大いなる光を見た、あなたは国民を増し加えられた、あなたはそのために喜びを増大された(イザヤ9・2、3)。

 

 ここの『民』は真理を意味しており、それで『暗黒の中を歩む』、『光を見る』と言われており、『国民』は善を意味している。

 

[3]さらに―

 

 国民の使いの者に何と答えようか。エホバはシオンの基礎を築かれた、その民の哀れな者たちはそれにより頼むであろう、と(イザヤ14・32)

 

ここにも同じく『国民』は善を、『民』は真理を意味している。(後略)

 

 

[4](前略)

 

これは主の王国について言われており、『民』は真理を、『国民』は善を意味している。教会の中では仁慈の善を与えられている者たちは『国民』であり、信仰の諸真理を与えられている者達は『民』である、なぜなら善と真理とはそれらのものを中に宿している主体に従って述べられているからでる。さらに―

 

  諸々の国民はあなたの光のもとへ歩き、諸々の王はあなたが立ち上がられる輝きのもとへ歩くでしょう。そのときあなたは見て、ともに流れ、あなたの心は驚き、大きくされるでしょう。それは海のおびただしい者があなたに回心し、諸々の国民の軍勢があなたのもとへ来るためであります(イザヤ60・3,5)

 

 

 

天界の秘義1672

 

『民』により真理が、『国民』により善が意味されているのである。『王』は民について述べられているが、国民についてはさほど述べられてはいない。イスラエルの子孫は、王を求めなかったうちは国民であり、善または天的な、ものを表象したが、しかし王を欲して、王を受け入れた後は、民となり、善または天的なものを表象しないで、真理または霊的なものを表象したのであり、それがこのことがかれらに過失として帰せられた理由であったのである(サムエル記前8・7−22参照、この主題にちては主の神的慈悲の下に他のところに述べよう)。

 

 

 

天界の秘義2699

 

「わたしはかれを大いなる国民となるからである」。これは霊的な教会を意味していることは、『大いなる国民』の意義から明白であり、それは信仰の善を受ける霊的な教会である(前の2669番参照)。『大いなる国民』と言われているのは、霊的な王国は主の第二の王国であるためである(これもまた同じ番号の中に述べたところである。

 

 

 

 

 

聖書86

 

こうした理由から主の霊的王国の者たちは『民族』と呼ばれ、その天的王国の者たちは『国民』と呼ばれている、なぜなら霊的王国では凡ての者は真理の中におり、従って知恵の中におり、天的王国では凡ての者は善の中におり、従って愛の中にいるからである。