高いところから下を見おろすように

 

 

樹海

 

 

 

 

天界の秘義1953

 

 合理的なものはこのことを考えることはできなかったが、しかし(前の1926番に語られた)内的なまたはさらに高い人がこれを考えることができたのである。なぜなら合理的なものはその合理的なもの自身についてはその特質について決して考えることはできないからである、なぜならいかようなものもそのもの自身をのぞきこむことはできないのであって、それについて考えるものはそれよりもさらに内なるまたはさらに高いものでなくてはならないからである、なぜならそのものがそれをのぞきこむことができるからである。

 

 

 

天界の秘義1954

 

「神よ、あなたは見られます」。これは流入を意味していることは今し方言われたことから明白である。高いものから低いものを、またはそれと同じく、内的なものから外的なものを心で観察することは流入と名づけられている、なぜならそれは流入により起るからである、それは丁度人間の内的な視覚に絶えず流入していないかぎり、この後のものはいかような対象も決して把握して識別することはできないのである、なぜなら眼が眺めるものを眼を通して把握しているものは内的な視覚であって、それは、たとえその目がそれを把握しているように見えても、決してその目ではないからである。このすべてからわたしたちはまた、眼が見えるのであると信じている人間はいかに感覚の迷妄[妄想]の中にあるかを認めることができるのであり、事実は、眼を通して眺めるものは、内的な視覚であるところのかれの霊の視覚なのである。

 

 

 

天界の秘義2572[]

 

原理から、または目的と原因から見ることは、天界から下に存在する凡ての物を、地上に存在する物をさえ見ることである。たとえを用いると、それは高い山の上に、監視所の塔の中にいて数哩にわたり下の物を見まわすことができる者に似ているが、一方下にいる者は、とくにもしその者が谷間や森にいるなら、殆ど数歩の辺りしか見ることができないのである。教義の善の中にいる者たちが教義の善から分離された教義の真理の中にいる者に比較された場合正しくそのようになるのである。たとえ後の者は自分たちは前の者よりも遠くを見ていると考えてはいるものの。それでもこれらの者は善の如何ようなものも見てはおらず、また真理も何一つ、ただその表面を極めて微かに見る以外には―しかもその見るものさえも誤謬のために汚されているのであるが―見はしないのである。

 

 

 

天界の秘義2654[7]

 

人間は内から、自分自身の中の低いところに在る物を眺めることができることは、認識の中にいる者に、また良心の中にいる者にさえ経験により知られている、なぜならかれらはその思いそのものをけん責するほどにそれを認めるからである。ここから再生した者は再生以前にかれらが持っていた合理的なものの性質がいかようなものであるかを認めることができるのである。人間の場合このような認識は主から発しているが、しかし主の認識は主御自身から発していたのである。

 

 

 

天界の秘義3882[2]

 

 このこともまたヤコブが夢で見た梯子により、すなわち、それは地の上に立って、その頂きが天に達し、その上に神の天使たちが登り降りしており、その上にはエホバまたは主が立たれたが、その梯子により意味された上昇である(そのことについては前章の12節を参照されたい)。ここからそうしたことが『生むことをやめること』の意義であることが明白である。ここに四度も言われた『みごもって生むこと』により外なるものから内なるものへ、または真理から善へ、すなわち、地から天へ進んで行くことが意味されていることは、前に見ることができよう(3860、3868、3874、3879番)。後に下降がつづいている、なぜなら人間は先ず昇ってしまわなくては、降ることはできないからである。下降は善から真理を眺めること以外の何ものでもなく、それは人間がその登った山から下に在る物を観察するようなものである。そのときかれは谷間に立っている者たちよりもさらに多く無数の物を一望の中に把握することができるのは明らかであり、それは善の中にいる者たちが、すなわち、主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者たちがたんに真理の中にいる者たちと、すなわち、信仰のみの中にいる者たちと比較される場合と正確に一致しているのである。

 

 

 

天界の秘義4598[2]

 

内的なものに向って進んで行くことの性質の何であるかはこの世ではたれにも明らかではない、しかし他生ではそれは明らかに現れている、なぜならそこではそれは一種の霧から光の中へ進んで行くことであるから、なぜなら外的なもののみ中にいる者らは相対的には霧の中にいて、天使によってはそうしたものの中にいるように見られるに反し、内的なものの中にいる者たちは光の中にいて、従って知恵の中にいるからである、なぜならそこの光は知恵であるからである、そして驚くべきことには、霧の中にいる者らは光の中にいる者たちを光の中にいるものとして見ることはできないが、光の中にいる者たちは霧の中にいる者を霧の中にいるものとして見ることができるのである。ここにとり扱われている主題は主の神的なものが内的なものへ向って進んで行くことであるため、ヤコブはここでは『イスラエル』と呼ばれているが、しかし他の時には、本章の節と最後の節におけるように、『ヤコブ』と呼ばれているのである。

 

 

 

天界の秘義4599

 

『塔のかなたに』が内的なものに向って、を意味している理由は、内的なものは壮大なまた高い物により、かくて山や岡や塔や家の屋根といった物により表現されているということである。その理由は、世の自然的な物から外なる感覚を通してその観念[考え]を得ている者には内的なものは高いものとして現れるということである(2148番)。

 

 

 

天界の秘義4741[3]

 

 その同じ人物はまた、一度教義をそれがいかようなものであっても受け入れて、それを色々な事柄により確認し、また色々な理論により確認し、また色々な理論によってそれを真理のように見せることができる者らが他の凡ての者よりも賢明なものであると信じるのである。しかし何一つそれ以上に賢人の務めでないものはないのである。それは多少器用な人間ならたれでも為すことができるものであって、悪い人間は正しい人間よりも巧妙にやってのけることができるのである。なぜならそうしたことをすることは、合理的な人間の本分ではないからである、なぜなら合理的な人間は、確認された事柄が真であるか、誤っているかを、上から認めることができるようにも認めることができるからであり、これをかれは認めるため、誤謬を確認することを下らないこととして考え、そうした確認はかれにとっては、他の者がいかほどそれが知恵そのものの学派から取ってこられたものだと信じるにしても、ただ愚にもつかない、空しいものに見えるのである。や苦言すると、誤謬を確認することができることほど賢人の務めでないものはないのであり、否、それほど不合理なものはないのである、なぜなら先ず物事が真であることを認めて、次にそれを確認することが賢人の務めであって、またそれが合理的なことであるからである。事実真のものを見ることは、主から発している天界の光から見ることであるが、誤ったものを真のものとして見ることは、地獄から発している妄想の光から見ることである。

 

 

 

天界の秘義5096

 

 「牢屋にしばられているところの」。これは誤謬の間に在ったところの、を意味していることは、『牢屋にしばられていること』の意義から明白であり、それは誤謬の間に在ることであり(4958,5037,5038,5085番を参照)。誤謬の中にいる者は、まして悪の中にいる者は『しばられている』、『牢』にいると言われているが、それはかれらがなわをかけられているということではなくて、かれらが自由ではないという理由によっているのである、なぜなら自由でない者たちは内的にはしばられているからである。なぜなら誤謬を確認した者らは真理をえらんで、それを受け入れる自由の中にはもはや全くいないのであり、それを甚だしく確認した者らは真理をみとめる自由の中にすらもいないのであり、ましてやそれを承認して、信じる自由の中にはいないからである、なぜならかれらは誤謬は真理であり、真理は誤謬であると確信しているからである。こうした確信は他のことを何か考える自由をことごとくうばい去り、従って思考そのものになわをかけて、いわば牢にとじこめてしまうといったものである。このことは誤謬を己が中に確認することを通して確信してしまっている他生の者らとの多くの経験からわたしに明白となったのである。

 

 

 

天界の秘義5096[2]

 

かれらは真理を全く容認しないで、それをはねかえすか、または打ち返してしまうかするやからであり、しかもそれをその確信の度に応じて、とくに誤謬が悪から発しているときには、または悪が誤謬を説得させてしまっているときには頑強に行われるのである。これらの者がマタイ伝の主の譬の中に意味されている者らである―

 

ある種は固い道に落ちたが、鳥が来て、それをくいつくした(マタイ13・4)

 

『種』は神的真理であり、『固い岩』は確信であり、『鳥』は誤謬の原理である。このような者は自分がしばられていることを、または牢にいることを知りさえもしないのである、なぜならかれらはかれら自身の誤謬に感動していて、それをそれが発生して来る源泉である悪のために愛しており、そこからかれらは自分たちは自由であると考えているからである、なぜなら何であれ情愛または愛にぞくしているものはことごとく自由に思われるからである。しかし確認された誤謬の中にいない者たちは、すなわち、誤謬を確信していない者たちは容易に真理を容認し、それを認め、えらび、それに感動し、後には誤謬をいわばかれら自身の下に認め、また誤謬を確信している者らがいかにしばられているかを認めるのである。これらの者は観察と思考とにおいていわば全天界を跋渉して無数の真理にまでも達することができるほどの自由の中にいるが、しかし何人も善の中にいないかぎり、この自由のなかにいることはできないのである。なぜなら善から人間は天界におり、天界では真理は善から現れるからである。

 

 

 

天界の秘義9274[4]

 

これらの状態は互いに他から区別されていることはモーセの書の以下の言葉の中にも含まれている―

 

あなたは新しい家を作るときは、屋根に垣を作らなくてはならない。あなたはぶどう畠に、また畠にも、種の入りまじったものをまいてはならない。あなたは雄牛とろばとをくみ合わせて耕してはならない。あなたは羊毛とリンネルとが入りまじった上着を着てはならない(申命記22・8−11、レビ記19・19)。

 

これらの言葉により、真理の状態の中に、すなわち、最初の状態の中にいる者は善の状態の中に、すなわち、第二の状態の中にいることはできないし、またその逆に、善の状態にいる者は真理の状態にいることはできないことが意味されているのである。その理由はその一方の状態は他方の状態の反転したものであるということである、なぜなら最初の状態ではその人間は世から天界を見つめるが、しかし第二の状態では天界から世を見つめるからである、それは最初の状態では真理が世から知性を通して意志へ入ってそこで愛のものとなるため、善となるが、第二の状態では善が天界から意志を通して知性へ入り、そこで信仰の形をとって現れるためである。救うものはこの信仰である、それはその信仰が愛の善から発しており、すなわち、主から愛の善を通して発しているためである、なぜならこの信仰は形をとった仁慈に属しているからである。

 

 

 

真の基督教177

 

しかし我が友よ、聖言の神に行き、それから聖言そのものに行き、戸によって羊の檻に入られよ、然すれば諸君は照示せられ、かくて諸君は山から下を見下ろすように、如何に多くの人達が誤っているかを見、また如何に諸君自らが以前山の麓の小暗い森の中を彷徨っていたかに気づかれるであろう。

 

 

 

真の基督教352

 

(3)「信仰は、諸真理の数とその組織ある排列に応じて完全にされる。」

これは上述したところから推論され、また、その主題を合理的に考え、而して幾多の連続が組織的に排列されるときに、如何なる働きをするかを観察する者各々に明らかであるに相違ない。何故ならその時一つの連続は他の連続を強め、確実にし、全体は一つのものとして活動する形を以て排列されるからである。信仰はその本質に於て真理である故に、真理の数と関連性に応じて益々霊的に完全となり、従って益々非感覚的、非自然的なものとなる。何故なら、それはかくして心の更に高い領域へ高められ、そこからその下なる自然界の中に自らを確認する幾多の事実を見るからである。真の信仰はこのような組織的に排列された幾多の真理により益々透明に、合理的に、分明になり、また仁慈の善と結合し、悪を駆逐することが更に可能となり、かくして眼の誘惑と肉の欲から益々遠ざかり、それ故に益々幸福になる。特にそれは悪と虚偽とに対して更に力強いものとなり、かくして益々生ける、救の信仰となる。

 

 

 

真の基督教601

 

宗教のみが人間を新たになし、再生させる。何故なら、宗教は人間の心の最も高い位置を占め、その下に民事的なこの世の事柄を見るから。それはまた丁度純粋な液汁が木の頂きにも滲み入るように浸透し、上から自然的なものを、丁度高い塔または山の上の人間が下の平地を観察するように観察するのである。

 

 

 

真の基督教603

 

 再生しない人間は自然的と呼ばれ、再生した者は霊的と呼ばれるのはこの理由による。それ故、再生した人間の心は霊的な領域に挙げられ、そこから、低い即ち自然的な心のうちにおこるものを、高い位置から観察するように観察することは明白である。

 

 

 

神の摂理311

 

彼らは他の者よりも単純にまた誠実に語り、知恵を生命に置いて、言葉には置かない。彼らは小羊、羊、のようなものであるが、自分自身の深慮に依存する者は狼と狐のようなものである。彼らは家に住んで、窓越しに天を見る者に似ているが、自分自身の深慮を信じる者は、地下室に住んで窓ごしに地面の下に在る物を見るに過ぎない者に似ている。彼らは山上に立って、自分自身の深慮を信じる者が谷や森の中をさまよっている人間のようなものであることを見る者に似ている。

 

 

 

天界と地獄532

 

意図は―そこから人間の内なる視覚または思考が決定づけられるが―その意志である。なぜなら人間は、その意志する[欲する]ものを意図し、その意図するものを考えるからである。それゆえもし彼の意図が天界へ向いているならば、そこに彼の思考は決定づけられ、それとともに彼の心全体もそこに決定づけられ、かくしてその全心は天界に宿り、そのとき天界から彼は屋根から下を見下ろしている者のように、己が下に世の物を見るのである。従ってその心の内部を開かれている人間は、自分のもとにある悪と誤謬とを見ることができる、なぜならこれらは霊的な心の下にあるから。一方その内部の開かれていない人間は、その者自身の悪と誤謬との中にいて、その上にいないため、それを認めることはできない。これらの事柄から我々は何処から知恵を得、何処から狂気を得るか、また人間は死後その内部に従って、意志し、考え、また行動し、話す自由を与えられるときは、いかようなものになるかを結論することができよう。こうしたことを再び言ったのは、人間は外面ではいかほど他の者に似ているように見えようとも、内面ではいかようなものであるかを明らかにするためである。

 

 

 

神の愛と知恵7

 

霊的な観念[考え]は空間からは何物をも得ないで、その凡てを状態から得ている。状態は愛、生命、知恵、そこから発する觀念について述べられ、全般的には、善と真理について述べられる。これらのものについての、真に霊的な觀念(アイディア)は、空間とは何物も共有していない。それは更に高いものであり、天が地を見下ろすように、その下に在る空間の諸々の觀念を見下ろしている。

 

 

 

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・21・5

 

けれどもまったく世を軽んじ、とうとい規律に従って神のために生きようと務める人は、真にこの世を捨てた者に約束されている神からの楽しさをよく知り、それだけにまた、世の人がいかにひどく迷っているか、いかにいろいろさまざまにあざむかれているかということを、明らかに見るのであります。

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P269

 

詩篇記者はいみじくもこういった。「愚か者は、心の中で“神はいない”と言っている」。愚者はこういうことによって、神の不在を証明するより自分自身の霊的不在、神を知ることのできない無能を露呈する。彼が自分に納得のゆく理由を持ち出すなら、太陽の存在しないことを議論だけで証明しようとする虫けらにも等しい。