1.聖書

2.人間の合理的なもの

3.使徒ヨハネ

4.理解を明るくされてはいるが貪欲な人間

5.屍のあるところには、鷲がいる

 

 

 

 

1.聖書

 

 

申命記32・10−11

 

主は荒れ野で彼を見いだし

獣のほえる不毛の地でこれを見つけ

これを囲い、いたわり

御自分のひとみのように守られた。

鷲が巣を揺り動かし

雛の上を飛びかけり

羽を広げて捕らえ

翼に乗せて運ぶように

 

 

 

 

詩篇103・1−5

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。

わたしの内にあるものはこぞって

聖なる御名をたたえよ。

わたしの魂よ、主をたたえよ。

主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。

主はお前の罪をことごとく赦し

病をすべて癒し

命を墓から贖い出してくださる。

長らえる限り良いものに満ち足らせ

鷲のような若さを新たにしてくださる。

 

 

イザヤ40・27−31

 

ヤコブよ、なぜ言うのか

イスラエルよ、なぜ断言するのか

わたしの道は主に隠されている、と

わたしの裁きは神に忘れられた、と。

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。

主はとこしえにいます神

地の果てに及ぶすべてのものの造り主。

倦むことなく、疲れることなく

その英知は究めがたい。

疲れた者に力を与え

勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが

主に望みをおく人は新たな力を得

鷲のように翼を張って上る

走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

 

 

 

 

 

 

 

2.人間の合理的なもの

 

天界の秘義3901

 

 教会の最後の状態が『死骸』または『身体』にともに集まった『わし』にたとえられている理由は、『わし』により人間の合理的なものが意味されており、それが善について述べられている時は、真の合理的なものであるが、しかし悪について述べられている時は、誤った合理的なものまたは理論であるということである。全般的に『鳥』は良いまた悪い両方の意義における人間の思考を意味しており(40、745、776、866、991、3219番)、各々の種類には特別の意義があるのである。わしは高く飛んで、視力が鋭いため、それは合理的な事柄を意味している。それが事実であることは聖書の多くの記事から認めることができるが、それを確認するためにわたしたちは以下の記事を引用してよいであろう。先ず、それが真の合理的な事柄を意味している記事を引用してみよう、モーセの書には―

 

 エホバは、その民を荒野の中に、空しさの中に、嘆き悲しむ中に見出された、かれはかれを導きまわられた、かれはかれを教えられた、かれはかれを目のひとみのように守られた、わしがその巣をふるいたたせ、そのひなの上に羽ばたきし、その翼をはり、それをとって、その翼の上にそれを乗せて行くように(申命記32・10、11)

 

 信仰の諸真理と諸善とを教えることがここに記されているものであって、そのことが『わし』にたとえられている。人間が合理的なものにまた霊的なものになるまでの経過そのものがこの記事とたとえの中に含まれているのである。聖言のたとえはすべて表意的なものにより行われ、かくてここでは合理的なものである『わし』により行われているのである。

 

 

天界の秘義3901[2]

 

 同書に、エホバはモーセに言われた―

 

 あなたたちはわたしがエジプト人に為したことを見ている、わたしはあなたたちをわたし自身のもとへ連れてくるために、あなたたちをわしの翼の上にのせた(出エジプト記19・3、4)。

 

 これも同じことを意味している。イザヤ書には―

 

 エホバに侍く者は力を新しくされ、わしのように強い翼をおってとび上がり、走っても、倦まず、歩いても、息切れはしない(イザヤ40・31)

 

『力を新しくされること』は、善を意志する方面で成長することであり、『わしのように強い翼でとび上ること』は真理を理解する方面で成長することである。その主題は他の所のように二つの表現により示されていて、その一つは意志のものである善を含んでおり、他の一つは理解のものである真理を含んでおり、そのことは『かれらは走るが、倦みはしない、歩くが、息切れはしない』という表現にも言われるのである。

 

 

啓示による黙示録解説244

 

「第四の動物は飛んでいるわしのようであった」は、知識の方面の、引いては理解の方面の聖言の神的真理を意味している。『わし』により色々な事柄が意味され、『飛んでいるわし』により理解が引き出されてくる(いくたの)知識が意味されるのは、わしは飛ぶとき、知りもし、見もするからである。なぜならわしは明らかに見るように鋭利な目をもち、『目』により理解が意味され(48、214番)、『飛んでいる』により、受けて、教え、訓すことが意味され、それが主に関係している最高の意義では、先見して、供えることを意味するからである。『わし』は聖言ではこうした意義をもっていることは以下の記事から明らかである―

 

 エホバを待ち望む者たちはその強さをあらたにし、わしのような翼をもって舞い上がるであろう(イザヤ40・31)。

 

『わしのような翼をもって舞い上がる』は真理と善とにかかわる知識の中へ高揚され、そこから理知の中へ高揚されることである―

 

 わしが自らをもたげて、その食物を探し出すのはあなたの理知により、またあなたの口に従っていますか。その目ははるか彼方も明らかに見ます(ヨブ記39・26、27、29)。

 

明らかに知り、理解し、見る能力は、ここでは『わし』により記され、この能力は人間自身の理知からは発していないことも記されている。

 

 エホバ、かれはあなたの口を善で満たされ、かくてあなたの青春はわしのようにあらたにされる(詩篇103・5)。

 

『善で口を満たす』ことは知識により理解を与えることであり、ここからわしと比較されている

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P153

 

 貴女はほとんどすべての熱心なカトリック信者がそうであるように、あまりにも決まり文句に囚われていた。わたしは貴女を自由にしてきた。わたしは貴女を放してやった。わたしは貴女の霊魂を、決まり文句で表明される限界の、信心、規則のけち臭さの大洋の外に、念祷の神秘の海の果てしない空間に放った。わたしは貴女をくるみ、吸い込み、拉致し、念祷の火の中での恩寵に浴させた。

 

 貴女は足枷をはめられた小さな一羽の雀だった。今、貴女は飛翔し、支配し、太陽を凝視し、それに強められ、それに向かって上昇する鷲だ。同心円を描いて飛翔する鷲のように、ますます上昇しなさい。永遠のわたしは、高みに在って、愛の認識のうちに貴女を官能の彼方に連れて行くために待っている。

 

 常に信頼と迅速さをもって呼び声に従順しなさい。愛の風に身を任せなさい。それは貴女を支え、貴女のじゃまはしない。それはわたしから出て貴女をわたしのもとに引き上げるために吹いているのだ。わたしの果てしない大洋の一滴よ、滅却するのだ。わたしの果てしない輝きの中の光の火花よ、滅却するのだ。貴女の花婿に所属するために入りなさい。貴女が所有するように、わたしの数々の財宝の扉を貴女に開く。

 あなたを愛している!

 

 

 

 

3.使徒ヨハネ

 

 

聖母から司祭へ/1989.5.6

 

大鷲とは神のみことばです。特にわたしの子イエズスの福音書に含まれているみことばです。

四福音書の中で鷲は聖ヨハネによる福音書を示しています。なぜなら、聖ヨハネは他の三人よりも高くとび、聖三位一体の真髄にまで入りこんで、みことばの神性と永遠性がおん父と同じ本性であることを示し、イエズス・キリストの神性を力づよく断言しているからです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P240

 聖母がマグダラのマリアに:

 

向こうにいるヨハネをごらんなさい。まだ本当に子供みたいです。それでも彼は鷲であり、すべての使徒の中でも一番力強いものです。それは、彼が豪毅、霊的形成の秘訣である愛に満ちた黙想、念祷を理解したからです。

 

 

 

霊界日記1656

 

 ヨハネ福音書に記されているように、益々内的なものになって行く。

 

 

 

サンダー・シング:P182(?)

 

「何故一番ヨハネ伝から引照するか」と問うと、

「それは単純でしかも深刻であるから。またこれは愛せられた弟子の著であって、キリストの性格に対する驚くべき洞察力をもつから」と答えた。

 

「聖ヨハネは、彼が本を読んだもの、または聞いたところを証すると云わず、『我らが見たるところの者』を世の救い主として証するのである。彼は主と三年間昼夜共に生活した。彼は他の人よりも主を愛し、主の愛を知って、彼のために証した。我らの幾人が我らが聞きまた目に見、我らの手以て触れし処の彼と云って主の為に証し得るか」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P75

 

 おお! 最後の時のわたしの聖人たちよ! 異教の迫害の只中で生きた最初の聖人たちの生涯が英雄的であったのなら、最後の時のわたしの聖人たちの生涯は、その三倍、七倍、その七倍、そのまた七倍も英雄的だろう。信仰のパンの柔らかな部分で養われた者たちのみが、あの責め苦に立ち向かうための獅子の心臓をもつことが出来るし、わたし太陽を凝視し、わたし真理へと飛翔する鷲の目と翼をもつことが出来るだろう。それに反して、闇は四方八方から彼らを凌駕するであろうし、は、自分を信ぜよ、自分を礼拝せよ、と彼らの説得に乗り出すだろう。

 

 

 

 

4.理解を明るくされてはいるが貪欲な人間

 

 

神の摂理20

 

悪と同時に真理にいる者は高く飛んではいるが、翼を奪われて落ちる鷲に譬えることが出来よう。それは真理を理解し、語り、教えるにしても、その生活の中に神を顧みない者が死後霊となるとき、その身に起こるところである。彼らはその理解により自らを高く上げ、時には天界へ入り、光の天使を装うが、真理が彼らから取り去られて斥けられると、地獄に沈んで行く。更に鷲はその理解を明るくされてはいるが貪欲な人間を意味し、翼は霊的真理を意味している。かくのごときが己が生活に神を何ら顧みなかった者である。生活に神を顧ることは、この悪またはかの悪は神に対する悪であると考え、そうした理由からそこから遠ざかることを意味するにすぎない。

 

 

 

 

5.屍のあるところには、鷲がいる

 

 

天界の秘義1667[]

 

彼らがそのとき服従して仕えている理由はその人間がまだ欲念と誤謬とのスフィアを自分自身に得ていないということである。なぜなら悪霊と魔鬼とは人間が自分の行為により自分自身のものとしてしまったもの以外のものに働きかけることは許されていないのであり、また遺伝から発しているものに働きかけることは許されていないのであり、それでその人間がそうしたスフィアを自分自身に取得しない中は悪霊は仕えているが、しかし彼がそのスフィアを取得するや否や、彼らは彼に彼ら自身を注ぎ込んで、支配しようと努めるからである、なぜなら彼らはそのとき彼のスフィアそのものの中にいて、そこに一種の歓喜を、または彼らの生命そのものを見出すからである。屍のあるところには、鷲がいるのである。