過越し

 

 

過越しの祭り護符

 

 

 

1.聖書

2.エホバはパロの心を固くされ

3.この度はわたしはわたしの災いをことごとく送ろう

4.わたしはエジプトの地の初児をすべて打とう

5.破壊する者

6.許すことにおける実情のいかようなものであるかは僅かな言葉では述べることはできない

7.あなたらの中には滅ぼす者に対する禍いはないであろう

8.その前にはこのようないなごはなく、その後もこのようなものはないであろう

9.イスラエルの子孫は低地に留められ地獄からとりつかれて悩まされていた者たちを表象した

10.人間には以下のことは永遠の真理であると知るのみで充分

 

 

 

 

1.聖書

 

 

出エジプト記12・1−11

 

エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。

 

 

 

 

出エジプト記12・12−14

 

その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。

 

 

 

出エジプト12・15−28

 

七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。最初の日に聖なる集会を開き、第七日にも聖なる集会を開かねばならない。この両日にはいかなる仕事もしてはならない。ただし、それぞれの食事の用意を除く。これだけは行ってもよい。あなたたちは除酵祭を守らねばならない。なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして守らねばならない。正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる。七日の間、家の中に酵母があってはならない。酵母の入ったものを食べる者は、寄留者であれその土地に生まれた者であれ、すべて、イスラエルの共同体から断たれる。酵母の入ったものは一切食べてはならない。あなたたちの住む所ではどこでも、酵母を入れないパンを食べねばならない。』」

 

 

 

出エジプト12・21−42

 

モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった。ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい。」エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ。イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした。イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった。彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである。イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった。四百三十年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。

 

 

 

出エジプト12・43−51

 

主はモーセとアロンに言われた。「過越祭の掟は次のとおりである。外国人はだれも過越の犠牲を食べることはできない。ただし、金で買った男奴隷の場合、割礼を施すならば、彼は食べることができる。滞在している者や雇い人は食べることができない。一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。

イスラエルの共同体全体がこれを祝わなければならない。もし、寄留者があなたのところに寄留し、主の過越祭を祝おうとするときは、男子は皆、割礼を受けた後にそれを祝うことが許される。彼はそうすれば、その土地に生まれた者と同様になる。しかし、無割礼の者は、だれもこれを食べることができない。この規定は、その土地に生まれた者にも、あなたたちの間に寄留している寄留者にも、同じように適用される。」イスラエルの人々はすべて、主がモーセとアロンに命じたとおりに行った。まさにこの日に、主はイスラエルの人々を部隊ごとにエジプトの国から導き出された。

 

 

 

 

2.エホバはパロの心を固くされ

 

 

天界の秘義7533

 

「エホバはパロの心を固くされ」。これは、彼らが心を定めた、を意味していることは、『心が固くなること』、『こわばること』、『酷になること』の意義から明白であり、それは頑迷である(7272、7300、7305番を参照)。『エホバはパロの心を固くされた』と言われていることは、その内意では、エホバではなく、彼ら自身がその心を固くしたことを、すなわち、彼らが決意したことを意味しているのである、なぜなら人間を神的なもの[神]に逆らって固くさせ、または決意させるものは人間の悪であり、悪は人間から発し、地獄から流れ入っていて、天界からは流れ入らないからである。善を除いては何ものも主から天界を通して流れ入ってはおらず、悪は善から発生する筈はなく、まして善そのものからは発生する筈はないのである。悪は悪自身の起原から、すなわち、神に対する愛と隣人に対する愛に反したものから発生しており、こうした起原は人間の中に存在して、神の中には全く存在していいないのである。このことから、聖言に『神は悪へ導き入れられる』と言われているとき、そのことは外観に従って言われていることが明白である(しかしそのことについては、前の2447、6991、6997番を参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義7632

 

エホバが『パロの心を頑にされた』と言われていることは、内意ではパロが自分自身の心を頑にしたことを意味しているのである。古代では単純な者たちのために、悪はすべてエホバに帰せられたが、これは起こるようになったものがエホバ以外の源泉からいかようにして起こることができるかを単純な者は知ることはできず、その大半の者は悟ることもできなかったためであり、またエホバが悪魔の一味が悪を作り出すのを許されることをいかように理解しなくてはならないかを、またエホバは凡ゆる力を持っておられるのに、なぜなそれを許されるかを悟ることもできなかったためである。単純な者はこれを悟ることはできず、理知的な者さえもまたこれを悟ることができなかったため、それで多くの者から信じられているように、悪でさえもエホバから発生したと言われたのである。これは聖言では普通のことであって、その文字の意義は単純な者の信仰に従っているのである。(聖言にエホバに帰せられている悪は人間から発していることについては、2447,6071、6991、6997、7533)

 

 

 

 

3.この度はわたしはわたしの災いをことごとく送ろう

 

 

天界の秘義7541

 

「この度はわたしはわたしの災いをことごとく送ろう」(出エジプト記9・14)。これは、来るべき悪がことごとく彼らに殺到することが起こるようになるであろう、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『災い』の意義は悪であり、ここでは、来るべきいくたの悪であって、そのため彼らは全く地獄に投げ込まれさえもしてしまう、であり、そうした理由から、『凡ゆる災い』と言われており、『つかわすこと』の意義は殺到するからである、なぜなら他生では悪はその悪とともにその刑罰を伴っており、いわばその悪自身の中にそれを持っているからである(696、697、1857、6559番を参照)。ここから『わたしはわたしの災いをことごとくと送ろう』により悪は凡て彼らに殺到するであろうということが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義7541[2]

 

「災いが次々と他の災いに続き」、かくて悪い者は継続的に地獄に投げ込まれることは秩序に応じており、それでここにそれらは凡て共になって殺到することが起こるようになるであろうと言われているのである。教会の人間は死後の生命の状態について何らの知識も持っていないため、人間は身体の生命の後ではすぐに天界へ挙げられるか、または地獄へ投げ込まれるかすると信じているが、しかしそのことは、たとえ時間の点で、また状態の点で非常な相違はあるものの、徐々に起るのである。天界に挙げられる善良な者のもとでは、悪は徐々に分離されて、その善良な者は世で得た受け入れる能力に応じていくたの善を満たされるのである。そして地獄へ投げ込まれる悪い者のもとでは善は徐々に分離されて、その悪い者は、世で得た受け入れる能力に応じて悪を徐々に満たされるのである。

 

 

 

 

4.わたしはエジプトの地の初児をすべて打とう

 

 

天界の秘義7871

 

「わたしはエジプトの地の初児をすべて打とう」。これは仁慈から分離した信仰の中にいる者らの堕地獄の状態を意味していることは以下から明白である、すなわち、『打つこと』の意義は堕地獄であり―なぜなら打つことは殺す、または死なせることであり、『死』により、その霊的な意義では、堕地獄が意味されるからである(6119番)―『初児』の意義は、それが悪から誤謬の中にいる者らを表象しているエジプト人について述べられているときは、仁慈から分離した信仰である(3325、7039、7766、7778、7779番)。『初児』は、その純粋な意義では、霊的な教会について言われているときは、仁慈に属した信仰を意味しており(367、2435、3325、3494、6344、7035番を参照)、従ってその対立した意義では『初児』は仁慈のない信仰を意味している。

 

 

 

天界の秘義7926[2]

 

『エホバはエジプトに禍いを加えるために通り過ぎられる』と言われ、そのことにより神的なものの臨在[現存]が意味され、そこから仁慈から分離した信仰の中にいる教会の者が地獄に堕ちるため、いかようにしてこうしたことが起こるかを話さなくてはならない。エホバまたは主は地獄にいる者らのもとに(彼らを)地獄に落とそうとして御自身を現存させられはしないが、それでもそのことを生じさせるものは主の臨在である。なぜなら地獄そのものは絶えず善い者たちにとりついて、これを悩まそうと欲しており、また絶えず天界に昇って、そこにいる者たち(の心)を乱そうと努めてはいるが、しかし天界の最低の端にいる者たちのもとよりは高くへは押し入ることができないのである、なぜなら彼らの中には絶えず憎悪と暴行とを息づいている敵愾心が宿っているからである。しかし主は天界の最端にいる者たちが安全に、また穏やかに守られるように絶えず配慮されており[供えられており]、このことは主が彼らの間に現存[臨在]されることによって行われているのである。従って、奈落の者らが主が現存されている所に入り込むと、すなわち、主の臨在[現存]の中へ入り込むと、彼らは自らを剥奪のいくたの悪へ投げ込み、ついには堕地獄(の状態)へ投げ込むのである、なぜなら彼らがその中へ突入する主の臨在は、すでに色々な所で示したように、こうした結果を生み出すからである。このことから主は彼らに刑罰のいくたの悪を加えるために、彼らの間に現存されるのではなく、彼らが自らをその悪へ投げ込むことが明白である。この凡てから善以外には何ものも主からは発しないのであり、悪はすべて悪の中にいる者らから発しており、かくて悪い者らは自分自身を剥奪、堕地獄、地獄へ引き入れることが明白である。

 

 

 

 

5.破壊する者

 

 

天界の秘義7877[3]

 

エホバが『わたしは見よう』と言われることにより、かくてそれを御自身について言われることにより、堕地獄[の刑]を加える者らから、すなわち、奈落の者らから気づかれることが意味されている理由は前に示したことから認めることができよう、すなわち、悪は何一つ主から発しないで、地獄から発してはいるけれど、それがエホバ、または主に帰せられているということから認めることができよう(2447、6071、6991、6997、7533、7632、7643番)。悪が許されることは、それを許す者がそれを取り去る力を持たれているからには、その者から発しているかのように思われ、かくて現在の場合、エジプトの初児が死に渡されたことはエホバに帰せられているのである、なぜなら『わたしはその夜エジプトの地を通り過ぎて、エジプトの地の初児をことごとく打とう、かくてエホバはエジプトの地の初児をすべて、王座に着こうとしているパロの初児から坑の家にいる囚人の初児までも打たれた』(12、29節)と言われているからである。が、それでもこの節ではこのことを為す者が『破壊する者』と呼ばれているのである、すなわち、『血はあなたらにあなたらのいる家の上でしるしとなるであろう、わたしはその血を見、あなたらを過ぎ越そう、かくて滅ぼす者に対する禍いはあなたらの中に無いであろう』。

 

 

 

天界の秘義7877[4]

 

他生で悪い者が(善と真理を)剥奪されて、罪に定められ、地獄へ投げ込まれることも―そのことは内意では『禍い』により、初児の死により、スフ海に沈められることにより意味されているが―それに似ているのである。エホバ、または主は、何人も剥奪されはしないし、まして罪に定められはしないし、地獄へ投げ込まれはしないのであり、そのことを自分自身に為すものはその悪霊自身であり、その者の中にある悪である。それで『わたしはその血を見るであろう』により堕地獄[の刑]を加える者らにより気づかれることが意味されていることがそのことから発しているのである。

 

 

 

 

6.許すことにおける実情のいかようなものであるかは僅かな言葉では述べることは出来ない

 

 

天界の秘義7877[5]

 

許すことにおける実情のいかようなものであるかは僅かな言葉では述べることは出来ない、それには非常に多くのアルカナが含まれているからである。邪悪な者が地獄に落ちて、苦しめられることは主がそれを望む者のように許されるのではなくて、望まれはしないが、全人類の救いという目的から押し出されて、止むに止まれず、救済策をもたらすことが出来ない者のように許されるのである。もし主が仮にも救済策をもたらされるとするなら、それは神的なものに反して悪を為すことになるのである。しかしこの主題については主の神的慈悲の下に他の所でさらに多くのことを述べることにしよう。

 

 

 

 

7.あなたらの中には滅ぼす者に対する禍いはないであろう

 

 

天界の秘義7879

 

「あなたらの中には滅ぼす者に対する禍いはないであろう」。これは地獄から発する堕地獄は流れ入りはしないことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『禍い』の意義は堕地獄を意味していることについては7778番を参照―『滅ぼす者』の意義は堕地獄(の刑)を加える地獄である。地獄が堕地獄(の刑)を加えるというこのことについては、実情は以下の如くである。他生で悪い者が(善と真理を)剥奪され、また罪に定められ、同じく地獄に投げ込まれることは悪の中にいる霊から直接には来ないで、いくたの地獄から来ているのである。なぜならそこに存在しているいくたの悪はすべていくたの地獄から発している流入を通して起っていて、何一つそこから発している流入がなくては起ってはおらず、剥奪されて、地獄に堕ちつつある霊らの悪の状態に従って起こり、悪の状態は善と真理とを剥奪されるに従って起るからである。この状態に従って地獄との交流が生まれ、地獄は悪を加えようとやっきになっているのである、なぜなら悪を加えることが彼らの生命の歓喜そのものであるからである。地獄はこうした性格を持っているため、それは主から閉じ込められているのである。なぜなら地獄は絶えず凡ゆる者の破滅を息づいているため、もしそれが開かれるなら、人類全体は滅んでしまうからである。ダビデが民の数を数えたために七万人の人間が疫病のために死滅したことは(サムエル記後24章)、アッシリアの陣営に一夜の中に十八万五千人が殺されたことは(列王記下19・35)地獄により行われたのである、なぜなら地獄はそのとき開かれたからである。今日でもそれに似た結果が、もしそれが仮にも開かれるなら、起るであろう、それでそれは主により固く閉じられているのである。(主により善と真理の中に守られている者たちのもとには地獄から堕地獄の状態は流れ入ることができないこと、またこのことは『あなたたちの中には滅ぼす者の求める禍いはないであろう』により意味されていることについては、すぐ前の7878番を参照されたい)。

 

 

 

 

8.その前にはこのようないなごはなく、その後もこのようなものはないであろう

 

 

天界の秘義7686

 

「その前にはこのようないなごはなく、その後もこのようなものはないであろう」。これは、こうした誤謬は教会の最初の時からなかったのであり、またこの後もないであろうということを意味していることは、『いなご』の意義から明白であり、それは究極的なものにおける誤謬である(7643番を参照)、(こうした誤謬はこれまでになかったし、この後もないであろということについては、また前の7649番を参照)。この間の実情のいかようなものであるかを述べよう。内意では、主が来られる前に低地にいて、主が世に来られて、人間的なもの[人間性]をとられ、それを神的なものになされない中は天界へ挙げられることのできなかった者たちが特にとり扱われているのである(6854、6914番)。その間[主が来られない間は]彼らは、同じく教会に属して、信仰の諸真理を告白はしたものの、悪い生活を送った者らにとりつかれて悩まされたのである。主が来られる前に教会に属して、生命[生活]の方面では悪の中にいた者らは、前にはなく、今後もないような誤謬の中に陥っていたのである。その理由は、『ネフリム』と呼ばれ、また『アナキム』、『レパイム』とも呼ばれて、最古代教会の最後の裔に属していた者らは、未だ地獄に閉じ込められはしないで、ぶらつきまわって、何処であれ凄惨な、致死的な確信を注ぎ入れることができる所にはそれを注ぎ入れ、かくてまた教会内の悪い者らの中へそれを注ぎ入れたということであった。これがこのような誤謬の源泉であったのである。(これらの『ネフリム』とその凄惨な確信については、310、560、562、563、570、581、585、607、660、805、808、1034、1120、1265−1272、1673番を参照)。主が世におられたとき、これらの者は左のやや前面にある彼らの地獄へ主により投げ込まれたのである。もしそのことが為されなかったなら、非常に僅かな者しか救われることができなかったのである、なぜなら彼らが注ぎ入れた誤謬は恐るべき説得力を持っていて、それ以前には決してなく、また決して再び在り得ないほどの、致死的なものであったからである。主が来られる以前に霊的な教会に属した者たちにとりついて悩ました者らはこうした誤謬に染み込んでいたのである。これが右記の言葉の内意に意味されているものである。これらの者が特に取扱われている者であるが、しかし全般的には、教会に属して、他生で正しい者にとりついてこれを悩ます者すべてが意味されており、現今ではこうした者は非常に多いのである。

 

 

 

 

9.イスラエルの子孫は低地に留められ地獄からとりつかれて悩まされていた者たちを表象した

 

 

天界の秘義7932

 

なぜならイスラエルの子孫は、霊的な教会に属して、主が来られる前に世におり、主によらなくては救われることができず、それで低地に守られ、留められていたものの、その間その周囲に在る地獄からとりつかれて悩まされていた者たちを表象したからである。それで主は世に来られて、御自身の中の人間的なものを神的なものとされたとき、かくて、復活されたとき、守られて、留められていた者たちを解放されたのであり、彼らが試練を受けた後は、彼らを天界へ挙げられたのである。これらの事が出エジプト記というモーセの第二の書の内意に含まれている事柄である、すなわち、エジプト人により、とりついて悩ました者らが意味され、そこから連れ出されたことにより解放が意味され、荒野の四十年の生活により試練が意味され、カナンの地へ導き入れられることにより天界へ挙げられたことが意味されているのである(前の6854、6914、7091、7828番に言われたことを参照)。

 

 

 

 

10.人間には以下のことは永遠の真理であると知るのみで充分

 

 

天界の秘義1676[3]

 

それで人間には以下のことは永遠の真理であると知るのみで充分であり、またそれは永遠の真理であるために、そのことを信じるのみで充分なのである、すなわち、主が世に来られて、主御自身に許容された幾多の試練により地獄を征服されなかったならば、人類は滅んでしまったであろうし、またそうでなかったならば、最古代教会のときからさえもこの地上にいた者たちは決して救われることが出来なかったのである。