これが今日における私の印

 

あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る(ヨエル3・1)

 

 

 

マタイ12・38−40

 

 すると、何人からの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いていた時代の者はしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」

 

 

 

マルコ8・11

 

ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P174

‘87・3・29

 

イエス、ああ イエス、「出現」という言葉をあざ笑う教会の人たちにどう答えていけばよいのでしょうか? 私たち(*)は無力で、この最も最近言われたことに対して、どう答えたらよいか分かりません。「出現? 真理を求めなさい、だが出現にではなく。」これが、仲間ビアトリスに、一人のカトリック司祭の言った言葉です。ビアトリスは、言葉が出ませんでしたが、私もそうだったでしょう。私たちは無力です 主よ!

 

 

 *ビアトリスと私

 

 

花よ、私は真理であると そしてみことば(*)は真理であるとあなたに保証する、しかし私自身の者たちの多くは みことばを忘れてしまった、心を頑なにし 暗やみの中を探し求めている、こう書かれてある(**) 私はすべての人に我が霊を注ぐ 私の子どもたちは再び預言し、多くの人は夢や幻を見る、最も貧しい者にいたるまで、天と地に予兆を示し あなた方に希望と勇気を与える、これが今日(***)における私の印だ! 赤子の口から 真理を聞くであろうと言った! であるから今日の我が神聖なわざを非とする者にはこのように言う: 

 

 

    聖書のこと  

    *ヨエル・1−4、使徒言行録2・17−20 

    **イエスは非常に怒っておいででした。叫ばれて! 神殿であの日、ファリサイ派の人たちに叫ばれた様子が思い出されました!

 

 

あなたは背教によって非とされる(*)! 信じないで私の庭園をみすぼらしくしたあなたたちは皆、来て悔い改めなさい!! ♡ 子よ 来なさい、愛している、平和を受けなさい、私から食べ、あなたの横にいる私に つかまっていなさい ♡

 

 

 *イエスは非常に怒っていらして、さらに大声で叫ばれました!

 

 

愛しております 主よ、主に讃美!

 

私の教えを保つように努力し それに従いなさい、私主はあなたを愛している ♡ あなたのいるところはどこにでも現存する だから私を見て微笑みかけなさい!・・・心の素朴な者は幸い 天の王国は彼らのもの ♡ 義が君臨し 私の家は無邪気な中に完全さをまとい 新にされるであろう、子よ 神聖なみことばをあなたのうちに刻むのを許してもらいたい、失望はさせない、私の心のうちに憩い あなたの主も その心のうちに憩わせなさい ♡♡

 

イエスよ、み旨を行う力と信仰と愛をお与え下さい。主に従い 自分を低くすることをお教え下さい、迫害する者を赦し 悪を愛で返すことをお教え下さい。 

 

教えているところだ ヴァッスーラ ♡ そう(*)、微笑みかけなさい。 私の現存を信じなさい、忠実であり 私の反射となりなさい ♡♡♡ そう ヴァッスーラ 私のからだは痛んでいる、この心の真っただ中に槍の刃先が突き刺さっている、

 

 

 *主に微笑んだのです。

 

 

どこに、主よ!

 

まさに聖所の中に そして基のある中心に、私の聖なる心は血を流している、苦しみのさ中 彼らに警告を与えたいと望んだ、立ち上がりなさい 娘よ! 教会はあなたを必要としている、 私の家は背教と罪によって暗やみの中にある そしてその罪により 私の群れは散らされた、十字架からどんなに叫ぶことか、 ああペトロよ(*)!! あなたのところに来た 忠実であったのを知っているから、ああ ペトロ(**)、私の心を見なさい・・・叫びを聞きなさい 愛する霊魂よ、主である私には愛が見当たらない、あのカインたちには神聖さが見当たらない、この人びとは数が多い、私の家を砂漠にしてしまった、その手のうちが空であれば 何によって仔羊たちを養えばよいのか? 私の礎を荒廃させてしまったから 仔羊たちに与えるものがない、祈りなさい ペトロよ、そうしたらこの荒涼とした荒れ地を上から 目で見ることができるようにあなたを引き上げ 私の心の傷の奥にまで入るのを許そう、

 

 

    ペトロは「ピーター」という長い叫びでした!!

 **これは苦しみによる呻きに近いお声でした。

 

 

槍の突き刺さった刃先を見させる、それを見たなら あなたの心は痛みで叫ぶであろう。 ペトロよ それを引き抜くに必要な力と勇気を与える ♡

 

イエスは非常に大きな苦しみのうちにおられました。前ページの終わりで、もう、今日のメッセージは終わったと思い立ち上がりました。けれど、数分後にこの、促しがある時に感じるある特別な感じを受けました。心の中に神の苦しみを感じはじめ、それは主からのものでした。その苦しみが全身を走り、鏡のように私の上に映し出されたものでしたから。主の叫び声を聞き、ほとんど涙で見えないまま、急いで戻って来ました。イエスは苦しみ、痛みの中におられ、これを言うのも書くのも主にとっては非常にお辛いのでした。

 

 

 

 

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか・現代の預言者ヴァッスーラに聞く/天使館/P102

 

 安請け合いはまったくできませんけれど、私が知る限りでは、主がある者を見捨て、ある者だけに心をお配りになるとは思えません。その人たちは神が恩寵をお与えになっても、拒絶したのでしょう。不平をこぼす人によく会います。でもいつも主をほめ讃えなければなりません。私たちがこうしているのもすでに、天の恵みだからです。恩寵です。家に帰れば、頭の上には屋根があり、冷蔵庫があって、開けば滋養豊かな食料品がたくさん入っています。でも、それらのすべてを与えてくださった主を讃美するのに、これで十分ということは決してないのです。神はヨブにしたように、一切合財を取り上げて、すっ裸にし、病気にしてほったらかしておくこともおできになるのですが、そうなさいません。それは、あなたがたを愛しておいでだからです。神は存在しないと言っている、あなたや私の友人たちは、見ようとせず、印しを受け取らない人たちです。なぜ目を開いて、自分のもっているすべて、生きていること、健康であることがすでに神の印しだということを見ないのでしょう。神を見つけることができないのだとしたら、自分に問いかけなければなりません。主は私たちにこうおっしゃっています。「清らかな心で、飾らない心で、敬虔な心で、悪を愛に変え、虐げられている人々を助け、正義を求めながら、私を見出しなさい。

 

 

 

 

天界の秘義6870

 

『しるし』の意義は真理を確認することであり、そこからそれがそうであることを知ること

 

 

 

天界の秘義7012

 

「それをもってしるしを行わなくてはならない」。これは、その結果諸真理を明らかにして、確認することを意味していることは、『しるし』の意義から明白であり、それは真理を確認することであり(6870番を参照)、それがまた明らかにすることを意味しているのは、真理を確認することは人間が真理を知ろうとする目的から聖言を学ぶ時主から明るくされることによって行われるためである。明るくされて、その結果諸真理を確認することについては以下のことを知られたい、即ち、(ユダヤ民族やイスラエル民族のように)内なるものの無い外なるものの中にいる者らは明るくされることは出来ないし、かくてまた真理を確認することも出来ないが、それに反し外なるものの中にいると同時に内なるものの中にいる者たちは聖言を読む時は、明るくされて、その明るくされた状態の中で諸真理を認め、その後その諸真理を益々確認し、そして驚くべきことを言うのではあるが、各々の者はその真理に対する情愛に応じて明るくされ、またその生命の善の性質に応じて真理に対する情愛を持つのである。ここからまた真理のために真理を愛する情愛を持たないで、自分自身の利益のために真理を求める情愛を持っている者は、聖言を読む時も全く明るくされはしないで、単に教義的なものを、それがいかような種類のものであれ、確認するに過ぎないのである、なぜなら彼らは主の王国を求めないで、世を求め、信仰を求めないで、名声を求め、かくて天界の富を求めないで、ただ地の富を求めているに過ぎず、例えたまたま聖言から真理を知ろうとする願望に捕えられるにしても、真理に代って幾多の誤謬が現れてきて、遂には凡ゆる物が否定されてしまうからである。こうした事柄を言ったのは、明るくされることとは何であるか、その結果真理を認識することとは何であるかを明らかにするためである。

 

 

 

 

天界の秘義7064

 

「民の目の前にそのしるしを行った」。これは把握出来るまでも確認させたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『しるし』の意義は真理を確認させることであり、かくて知識であり(6870番を参照)、『目』の意義は、内なる視覚または理解に属した事柄であり(2701、3820、4403−4421、4523−4534番)、かくて『目の前に』は、理解または把握出来るまでも、を意味している。