真理の濫用

 

論理

 

 

 

1.真理の濫用

2.自分自身のために利得、名誉、名声を求める欲念は他を説得する凡ゆる手段を吸引し

3.善で、真で、公正で、公平なものは、また尊いものは、(人の)心を、たとえ悪い者の心であっても、それをひきつける強い、隠れた力を持っていることを知っている

 

 

 

 

1.真理の濫用

 

 

天界の秘義7332

 

悪い者らは真理を手段として主権を得る方法を知っている。なぜなら真理には、それに反抗することができない力があるからである(3091、6344、6423、6948)。かくてかれらは真理を濫用する。

 

 

 

天界の秘義7337

 

主から発出している神的真理はその中に凡ゆる力を持っており、かくて秩序の究極的なものにおける真理の中にすら力が在り、それで悪い者は真理によって力を得、他の者を支配するのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/続 最後の審判61/(静思社/最後の審判とバビロンの滅亡P127)

 

 人間はその両親から植えつけられた悪を、または遺伝的な悪を持っていることは知られているが、しかしそれは何から成っているかを知る者は少ない。それは支配を求める愛から成り、これに自由が許されるに従って、それはほとばしり出て、ついには凡ての者を支配し、しまいには神として祈られ、拝まれようとする欲念で燃え上がりさえするものである。この愛がエバとアダムとを欺いた蛇である。なぜならそれは女に次のようなことを言ったからである。

 

あなた方がその木の実を食う日には、あなた方の眼は開いて、あなた方は神のようになることを神は知っておられる(創世記3・4,5)。

 

それゆえ人間が手綱をゆるめられてこの愛に突入するに従って、彼は神に背を向けて、彼自身に向き、無神論者となる。そのとき聖言にぞくする神的真理は手段として仕えるかもしれないが、支配が目的であるゆえ、その手段はたんに彼に役立つためにその心に在るにすぎない。これが支配愛の中間度と究極度に在る者が凡て地獄にいる理由であり、地獄にはこのような性質を持っていて、人が神について語るのを聞くにがまんのできない者がいるのである。

 

 

 

 

2.自分自身のために利得、名誉、名声を求める欲念は他を説得する凡ゆる手段を吸引し

 

 

天界の秘義5464

 

自分自身の利益のためにのみ教会の諸真理の中にいる者らも、他の者とひとしく、真理の実情はいかようになっているかを言明することができるのである、例えば、真理は内的な人と連結しないかぎり、たれにも所有されない、いな、真理は善によらなくては内的な人と連結することはできない、それが為されない中は、真理には生命はないと言明することができるのである。こうした、またそれに類した事柄をかれらは時折他の者と同じく良く認め、時には他の者よりも明白に認めはするが、しかしこれはただ彼らがそれらのことについて語っている時のみのことである。が、彼らは彼ら自身に、かくて彼らの内的な人に語っていると(即ち、彼らが考えていると)、その時は単に自分自身の利益のためにのみ教会の諸真理の中にいる者らはその反対のことを認めるのであり、彼らはその反対のことを認め、心では真理を否定はするものの、それが事実であると他の者に説きつけ、しかも彼ら自身がこうした真理の中にいるのであるとさえ説きつけることが出来るのである。自分自身のために利得、名誉、名声を求める欲念は他を説得する凡ゆる手段を吸引し、それ自身において真理であるようなものは何ものにもまさって迅速に吸引するのである。なぜならこうした真理は人心を捕える隠れた力をその中に持っているからである。いかようなものであれ、人間は凡て、非常な愚物でない限り、知的な部分により改良されて、再生することが出来るようにとの目的から、事柄が真であるか、否かを理解する能力を与えられているのである。しかし彼が邪しまな道に外れてしまって、教会の信仰の幾多の事柄を完全に斥けてしまうと、そのときは彼は真理を理解するその同じ能力を実際持ってはいるが、その真理を聞くや否や、それに反感をもってもはやその真理を理解しようとは欲しないのである。

 

 

 

 

3.善で、真で、公正で、公平なものは、また尊いものは、(人の)心を、たとえ悪い者の心であっても、それをひきつける強い、隠れた力を持っていることを知っている

 

 

天界の秘義6655

 

「さあ、わたしたちはそれを慎重に取り扱おう」(出エジプト記1・10)

 

これは狡猾を意味していることは、「慎重」の意義から明白であり、それは真理と善から遠ざかっている悪い者について言われているときは、狡猾である。なぜなら悪い者がその狡猾から、また詐欺から行うものをかれらは慎重(なこと)と呼んでいるからである。「慎重(なこと)」により意味されている狡猾について、ここに若干述べて良いであろう。悪にいる者は凡て狡猾を「慎重」と呼び、理知と知恵をそれ以外のものから成立させはしないのである。世でこうした性格を持った者らは他生ではさらに悪くなり、そこで善い真のものに反したことを狡猾から絶えず行い、真理を誤謬によって、いかような技巧を、またはいかような邪悪な議論を弄してでも、無価値なものとし、破壊できるように自分自身に思われる者らは、彼らの間では理知があって、賢明な者であると認められているのである。このことから教会の内で慎重を狡猾から成立させる折のその人間の性質のいかようなものであるかを認めることができよう。即ち、彼らは(そのとき)地獄と交流しているのである。真の教会の人間である者たちは狡猾を嫌悪するほどにもそこから遠ざかっており、彼らの中で天使のような者である者たちは得べくば自分の心が開かれて、その思うことが何人にも明らかになるように願っているのである。なぜなら彼らはその隣人に対しては善以外には何ごとも願ってはいないし、もしたれかの中に悪を見ても、それを赦すからである。悪にいる者らはそうではない。彼らはその考え、欲することが何であれ明らかになりはしないかと恐れているのである。なぜなら彼らは隣人に対しては悪以外には何事とも意図してはいないし、たとえ善を意図しても、それは自己のためであり、何か良いことを行っても、それはただうわべのみのことであって、利得と名誉を得るために善い者として見られるためである。なぜなら彼らは、善で、真で、公正で、公平なものは、また尊いものは、(人の)心を、たとえ悪い者の心であっても、それをひきつける強い、隠れた力を持っていることを知っているからである。