真空投げ

 

論理

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

4.マリア・ワルトルタ

5.ルイザ・ピッカレータ

6.グリニョン・ド・モンフォール

7.ヨゼファ・メネンデス

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ7・7−11

 

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1931

 

「かれは言った、サライの女中、ハガルよ」。これは知らせることを意味していることは(記事の)連続から明白である、なぜならハガルは天使から恰も天使が知らされなくてはならないかのように話しかけられているからである。エホバは事の以前にすべての事を、単に行われていることのみでなく、原因と目的をも知られ、かくて最小のことも最も内なることも知られてはいるけれど、エホバが人間に尋ねられて、人間がそれに答えることは、聖言では普通のこととされている。しかし人間はそのことを[エホバはすべてのことを知られていることを]知っていないで、自分が誰一人見ていない時に秘かに行うことはたれからも決して知られる筈はない、ましてや自分が考えていることは知られる筈はないと信じているため、それで事柄はその人間の信念に従って起きるのである。しかしそれでも普通の霊たちでさえも人間が考えていることはその人間自身よりも更に良く認めており、天使的な霊たちはその人間の思考の更に内的なものを認めており、天使たちはそれよりも更にに内的なものさえも、即ち、その人間にも殆ど知られていない原因と目的さえも認めているということは実際真のことである。私はこのことを多年に及んでいる多くのまた絶え間のない経験により知ることが出来たのである。霊たちと天使たちでさえこうしたことを認めているからには、ましてや無限な方であられ、すべての者に認識するその能力を与えられている主にあっては、またはエホバにあっては、何を認められないことがあろうか。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P145

 

 人間の霊においてもそうなら、まして、永遠の言葉が体を通してその神性を十分に表現することなど不可能である。主は人間の救いにとって可能な、必要な範囲においてのみ、ご自分を現されたのであり、その真の栄光は天界においてのみ完全に現されるのである。

 

三、ここで、「それを完全に見も知りもせずに、どうやって実在(リアリティー)を信じられるのか」との疑問も起こるかもしれない。ここで述べたいのは、実在を信じるのにそれについての完全な知識は必ずしも必要ではないとうことである。例えば、われわれの生命がこれほどまで頼っている身体の器官の多くは目で見ることはできない。自分の脳や心臓をみた者は誰もいないが、その存在を否定する者もまたいないであろう。われわれの生命がかくまで大きく頼っている脳や心臓がみることのできないものであれば、生命全体が頼りきっているその創造者をみることは、さらに不可能である。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P225

 

2.僅かな時間であったが、わたしはペテロ、ヤコブ、ヨハネを山上で聖なる交わりに導き入れたとき、わが栄光と、あまたの聖人の中からモーゼとエリヤのみを選んで彼らに姿を現わしめた。彼らはこの束の間の天の栄光に心奪われるあまり、三つの幕屋を建ててそこに一緒に住もうと願った。であれば、わたしとともに生き、数知れぬ聖徒、天使たちに連れられて憧れの天界に入り、喪失も影も変化も知らないわが完全なる栄光に与ることのできる者の歓びは、いかばかりであろう。祈りの人は決して孤独にはならない。彼は永遠にわたしとともに生き、わが聖なる者たちとともに生きる。

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P82

 

 カインは、罪なきとはいえその血は依然として原罪によって汚されていた人殺しの血のために地上をさまよい、のしるしが罰として彼の上にあった、その記憶に蘇る苦しみを彼から取り除いてくれる者を見出せず―そして彼は苦渋のうちに生み、苦渋のうちに生き、人生を知り、苦渋のうちに死んだ―のであれば、人類を救ったこの上なき無辜のを実際に殺し、今も熱望して殺している人類が、なぜ苦しまずにすむのか?

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P91

 

イエズスは言われる。

「(中略)

 モーセの時代からわたしは、わたしに対して赦しがたい罪を犯した人々をひどい病気によって罰した。モーセの姉マリアは、わたしのしもべモーセについて悪口を言ったので、その身体は癩に覆われた。彼らのについて悪口を言う人々が同じような、いやそれどころかもっと重い病気にかからぬはずがあろうか? 癩であれ、に対する、また、の感嘆すべき作品であるあなたたちに対するあなたたちの罪がますます広がったために、ますます伝播する。(後略)」

 

 

 

 

5.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P169

1902年3月10日

 

「我が娘よ、あなたが言う通りだ。安心しなさい。今私はあなたといっしょに居て、あなたから離れない。可哀想な娘よ、なんと苦しんだことか! 愛の苦悩は、地獄のそれよりもっとひどいものだ。何がそれ以上に、もっと苦しみを与えるだろうか? 地獄か、拒否を受ける愛か、または憎まれる愛か? 愛されている場合の愛は、地獄よりももっと霊魂を苦しませることができる。私が原因となってこの私の愛から暴力を加えられたあなたを見て、どれほど私が苦しむかをもしあなたが知ったなら! だから私をたくさん苦しませないためには、私の存在を取り去るとき、もっとあなたは静かにしていなければならない。あなたも想像してみなさい。もし私を愛さないだけでなう、私に侮辱を加える人たちが苦しむのを見ても私が非常に苦しむとしたら、私を愛してくれる人が苦しむのを見て、どれほど私が苦しい思いをするだろうか? と。」

 

 

 

 

6.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/27

 

旧約のモーセは、祈りの力で、イスラエル人への神の怒りの爆発を、未然にふせぐことができました。このうえなく偉大、かぎりなくあわれみ深い神は、モーセの強烈な祈りの攻勢にたじたじ。とうとうモーセに、「わたしをとめるな。このかたくなな民にむかって思うぞんぶん怒らせ、罰さしておくれ」(出エジプト記32・9)と言われたほどです。だとすると、いわんや謙遜なマリアの祈り、このうえなく偉大な神の御母の祈りは、天国と地上のあらゆる天使、あらゆる聖人の祈りと取り次ぎよりも、神のみまえに、どれほどいっそう力があるのでしょう。

 

 

 

(2)とりわけ、完徳にあこがれる人たちにとっては、どうしてもマリアが必要です。

 

43.マリアへの信心が、ただ単に救いをえるためにだけでも、すべての人にとって必要だとするなら、まして特別の完徳に召された人たちにとってはなおさらのこと、もっともっと必要になってくるのです。マリアとの親しい一致がなければ、またマリアの助けに完全にすがっていなければ、イエズス・キリストとの親しい一致に達することもできないし、また聖霊への完全な忠実を身につけることもできません。これはたしかです。

 

 

 

 

7.ヨゼファ・メネンデス

 

 

ヨゼファ・メネンデス/愛の招き/P270

 

みじめさ、無にすぎないおまえをこんなにも寵愛するならば、おまえよりずっと寛大な霊魂をどうして愛さずにいられよう