照示

聖言による照示・啓示明るくされると心から喜ぶ

1.内なる照示、外なる照示

2.悪をそれらが罪であるために、またそれらが主に反し、主の神的律法に反しているために避けるかの人間が明るくされる

3.善の中にいる者たちは啓示を受ける

 

1.内なる照示、外なる照示

 

神の摂理168

 

主により教えられる人間の理解の照示(インライトメント)[明るくされること]に就いては大半の者は何ごとも知っていないので、それについて若干述べてみよう。人間が主から受ける内なる照示と外なる照示があり、また人間が自分自身で得る内なる照示と外なる照示がある。主から受けられる内なる照示は、人間が何ごとかが述べられるのを聞くと直ぐに、それが真であるか否かを直覚的に認識することにあり、外なる照示はこの認識から発して、彼の深慮の中にあるものである。人間が自分自身で得る内なる照示は自己の確信から生まれたものにすぎず、その外なる照示は彼の得た知識から発している。しかしこれらについてそれぞれ少しく語ってみよう。

 

「主から内なる照示を受ける合理的な人間は」多くの事柄が語られるのを聞くと直ぐに、例えば愛は信仰の生命であり、または信仰は愛から生きるということを聞くと直ぐに、それが真であるか、真でないかを認めるのである。人間はまた内なる照示から以下のことを認める、すなわち人間は何であれその愛するものを意志し、その意志するものを行い、従って愛することは行うことである、さらに何であれ、人は愛から信じるものを、また意志し、行い、従って信仰を持つことはまた行うことである、さらに不敬虔な人間は神を愛することはできず、それで神を信じることはできない[ということを認めるのである]。内なる照示を与えられている合理的な人間はまた以下の所説を聞くと直ぐに、その真理を認める―すなわち、神は一人であり、遍在し、善は凡て神から発し、凡ての物は善と真理とに関わっており、善は凡て善それ自身から来ており、真理は凡て真理それ自身から来ている。人間はこれらの事やまたそれに似た他の事を聞くと直ぐにそのことの真理を自分自身の中に内的に認めるのである。彼は合理的であり、合理性は天界の光により明るくされるため、彼はこの認識を持っている。

 

[外なる照示]は内なる照示から発する思考の照示であって、思考はその思考が内的な照示から得る認識の中に止まるに応じ、また真理と善との知識を持つに応じ、そのような照示を受けるのである、なぜなら思考はその知識から結論を支持する理由を集めるからである。この外なる照示から発する思考は問題の両側を見、すなわち一方の側では、それを支持する理由を見、他の側では、それに異議を唱える外観を見るが、後者を斥け、前者を集めるのである。

 

「人間が自分自身で得る内的な照示」はそれと全然相違しており、それにより彼は問題の片側のみを見て、他方の側を見ず、それを確認した時は、外観的には前述の光に似てはいるが、冬の光である光の中に、それを見るのである。例えば、賄賂または自分自身の利害に左右されて、不正な判決を下す裁判官は、一度それを法律と議論により支持すると、その中に何ら不正な物を見ないのである。彼らの中には、その不正を見るが、しかしそれを見たくないため、自分の眼をくらまし、自分自身を盲目にし、かくて最早見なくなる者もいるのである。友情、利己の利害、または血縁のつながりから偏った判決をする裁判官も同様である。このような人間は誰か勢力のある、または有名な人の口から聞いたり、または自分自身の理知から孵化した物を凡て同じように認めている。彼らは盲目の理論家である。なぜなら彼らの視覚は彼らの確認する誤謬から発しており、真理は眼を開くが、誤謬は眼を閉じるからである。こうした人間は真理の光の中にいかような真理も見ず、公正への愛から公正なものを何ら見ず、人を迷わす光の自己の信念の光の中にのみそれを見るのである。霊界では彼らは頭のない顔のように、または木の頭をくっつけた人間の顔のような顔をもって現れ、そして潜在的には合理性を持っているため、合理的な動物と呼ばれている。

「人間が自分自身で得る外なる照示」は、記憶に印刻された単なる知識から考え、語る者のもとにあり、彼らは何ごとも自分自身では殆ど認識することは出来ない。

 

 

 

2.悪をそれらが罪であるために、またそれらが主に反し、主の神的律法に反しているために避けるかの人間が明るくされる

 

スウェーデンボルグ/主の聖言/28

 

たれでも真理に対する霊的な情愛の中にいる者は、すなわち真理そのものを、それが真理であるために愛している者はことごとく聖言を読むとき、主により明るくされはするが、しかし、知ろうとする願望[欲望]と呼ばれているところの、真理に対する単なる自然的な情愛からそれを読む者は明るくされはしないのである。後の者はその者の愛に一致しているものを除いては、また彼自身で採用したか、または他の者から聞いたり読んだりして取得したか、その何れかの原理に一致しているものを除いてはいかようなものも認めはしないのである。いくたの悪をそれらが罪であるために、またそれらが主に反し、主の神的律法に反しているために避けるかの人間が明るくされるのである。他の者ではなく、ただこの人間のもとにのみ、霊的な心は開かれるのであり、それが開かれるに応じ、天界の光が入り、その光から聖言における凡ゆる照示が発しているのである。なぜなら人間はそのとき善に対する意志を持ち、この意志はそれがその用へ決定づけられるとき、理解の中で先ず真理の情愛[真理に対する情愛]となり、次に真理の認識となり、まもなく合理的な光により真理の思考[真理を考えること]となり、かくて決定と結論となり、それはそこから記憶の中へ入って行くにつれ、また生命[生活]の中へも入り、そのようにして止まるからである。このことが聖言においてすべて明るくされることの道であり、また人間の改良と再生の道である。しかし先ず記憶が必ず霊的なもののみでなく、自然的なものにかかわる知識を得なくてはならない。なぜならこの知識はその中へ主が天界の光を手段として働きかけたもう倉庫[資源]であり、その倉庫が豊かであり、確認された誤謬から自由に解放されているに応じて、与えられる認識は益々明るくされており、その結論も益々澄明になるからである。なぜなら、神の働きは空しくうつろな人間の中には落ち込みはしないからである。

 

 

 

3.善の中にいる者たちは啓示を受ける

 

天界の秘義8694〔2〕

 

『啓示』により、聖言が読まれている時明るくされ、その時認識することが意味されているのである、なぜなら善の中にいて、真理を渇望している者たちはそうした方法で教えられるが、しかし善の中にいない者らは聖言から教えられることは出来ないで、真理であれ、誤謬であれい、幼児時代から教えられている物を単に確認することが出来るに過ぎないのである。善の中にいる者たちは啓示を受けるが、悪の中にいる者らは啓示を受けはしない理由は、聖言の一切の事柄はその内意では主とその王国を取り扱っていて、人間のもとにいる天使たちは聖言をその内意に従って認めているということである。これが善の中にいて、聖言を読み、情愛から真理を渇望している人間に伝達され、そのことにより彼は明るくされて、認識するのである。なぜなら善の中にいて、そこから真理に対する情愛の中にいる者たちのもとでは、人の心の知的な部分は天界に向かって開かれており、彼らの霊魂は、即ち、彼らの内なる人は天使たちと交わっているが、しかし善の中にいないで、かくて善に対する情愛から真理を渇望していない者らにあっては異なっており、これらの者には天界が閉じられているのである。

 

 

 

天界の秘義8694〔3〕

 

 しかし善の中にいて、そこから真理を求める情愛の中にいる者たちにおける啓示の性質は記すことは出来ない。それは明らかではないが、全く隠れているわけでもなく、何かが真理であることに内部から同意し、またそれに好感を持つことであって、もしそれが真理でないなら好感を持たないのである。好感が持たれると、心は休まって、穏やかになり、この状態の中では信仰に属した承認があるのである。それがそうであることの原因は主から発している天界の流入から来ているのである、なぜなら主から天界を通して光が発しており、それが内なる視覚の目である知性を取り巻き、それを明るくしているからである。その時その光の中で見られるものは真理である、なぜならこの光そのものは主から発出している神的真理であるからである。この神的真理は天界の光であることは再三示したところである。