砂糖

 

 

味覚

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P422

 

砂糖の甘味は砂糖のためにあるのではなく、甘味のわかる人間のためにある。同じように、神は神のためばかりか、神との交わりを願う人のために存在する。多くの宗教的、哲学的作品に「実在(リアリティー)」についての記述がみえるが、神との交わりを楽しむ道は人間自身の中にある。神は神と交わりを保てるよう人を造られ、そのために、実在感と神を楽しむ能力をも人に与えているからである。

 

 このような霊的感覚が人間に与えられているという事実は、人間が神との交わりを楽しむことを意図されている証拠である。真偽、正邪の弁別をする試金石が人の中にあるのもそのためである。この良心は、人生の中で真偽を識別するために神がお与えになった試金石だが、罪によって感覚を奪われ働かなくなる場合もある。

 

 だが、神の御恵みよって覚醒すれば、決して欺かれることはない。そして、人が自分の中に実在の現存を実感するとき、その人が生きた力であることは日々の経験が証明する。彼が実在を経験しているという証拠をわたしたち自身が内に確かめていれば、何千という本が彼の霊的経験に反論し、この世の哲学とロジックの最たるものをもって攻撃してこようとも、その証拠を崩すことはできない。実在の知識はわれわれ自身の内的自己の中にあり、哲学的議論の中にはないからである。砂糖の甘味を識別する力は本の中にはなく、人間自身の舌の中にある。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P423

 

わたしは、ヒマラヤ山中で、洞窟の中で裸で暮らしている野人と出会ったことがある。彼は砂糖をみたことも味わったこともなく、それを表現する言葉も知らなかった。わが友人が砂糖を手渡したところ、彼は初めのうち疑わしそうにこれを眺めていただ、一度味わうや喜びの表情を顔いっぱいに表した。食べる前には、砂糖があってもなくても彼には同じことだった。彼は実際、甘味について知り体験する前から、砂糖の甘みを味わう味覚をもっていたのだ。

 同じように、人間は「実在」の感覚をもっている。実在は人間とは別個の存在ではあるが、それを感じとる力は人間の中にある。

人は罪のためにこの感覚が死に、神の存在まで否定する場合がある。それでも悔い改め、純真な心で神を求めれば、実在者は必ずや自らを現わし、人は祝福を受けることだろう。その甘美な体験を言葉に表わすことができずとも、人の生き方と行ないがその実在を証明し続ける。

このような実在を体験した人が、経験ある霊的人物の著作や話の中に自分の秘めてきた思いを発見するときには常に、「これこそ自分が人に伝えたかったことだ!」と喜びの声を上げる。こうして真理を愛する者はみな一つとなって、神と交わった個人的体験から世界にキリスト教を証言するのである。